信仰告白・6


 隣合わせて腰を下ろした寝台のスプリングが、二人分の体重を受けて大きく軋
んだ。

 街道沿いに門戸を開いた、長期の利用客に手頃そうな簡易な木賃宿の一室。
狭い国土の中にしつらえられた施設とはいえ、お互い初めて間口をくぐったその
宿は、思うよりも余程小奇麗で機能的だった。
 とはいえ、泊り客二人の目的が旅の疲れを癒すためでも、ましてや内部施設の
利用でもない以上、この宿に対する評価を何とつけたのかは微妙なところだったが。


 用意された部屋に落ちつき、上着を片隅の椅子の背にかけたところで、泊り客二
人の動きは一度止まる。備え付けの燭台が照らし出す頼りない光源の中、彼らは
互いに押し黙ったままだった。

 静寂の気まずさに、耐えられなくなったのはどちらが先だったのか…
 腰を下ろした寝台の上、先に身じろいだのはセレストのほうだった。

 「…あ、スイ君は……」
 「はい?」
 「大丈夫なんですか?あのまま一人にしておいて」

 これから秘め事に及ぼうとする人間の言葉とはとても思えない、至極常識的な意
見に、同じく押し黙っていた白鳳も僅か苦笑する。
 「……ええ。あの子もその辺りは心得たもので…こちらから向かえに行くまでの間
  は、預かっていただいた場所から動きません。もちろん、何か悪さを働く輩がいよ
  うものなら、それなりに手痛い思いはしていただけるように呪を施してありますが
  ね。…どちらにせよ、寂しいとも訴えないあの子に甘えていることは確かですが」

 そんなことを話す為に、ここにきたわけではないでしょう?―――揶揄するように
続けられた言葉には、それでもやはり隠しきれない自嘲の色が滲んでいて…互い
の矜持を守るために、セレストもまた、それ以上の問いかけを止める。
 それきり……室内に、色気のない会話は途絶えた。




 どちらからともなく重ねた唇の、先に歯列を割ったのはセレストの方だった。いつ
かの、酒場で共にすごした夜の報復ででもあるかのように、口腔で捉えた舌を執
拗に絡め取られる。
 「ん……っ」
 仕掛ける相手の動きに同様の仕草で答えながら、それでも後手に回りかねない
自らのいつにない消極さに…息苦しさによるものだけでなく白鳳はその眉宇を顰め
た。

 これが、平時のような、行きずりの戯れであるならどれほど相手に主導を取られ
ようと構いはしない。同性を相手にする以上は互いに譲れない男としての自意識
があったから、時にはその優位をかけた閨の「賭け」に興じてみることもあったけれ
ど……所詮はその場限りの児戯だと承知の上なら、負けた負けたと笑って相手に
「降伏」することも容易かった。
 だが……今、自分とこうして関係に及んでいる男は、そういった割りきった戯れ
を目的として、この場に存在している訳ではない。
 これは―――表向きの倫理はどうあれ、互いの矜持をかけた紛れもない我の張
り合いだった。おいそれと、こちらから弱みは晒せない。

 「…っ」
 たっぷり百は数え終わるかと思う頃、ようやく口腔を蹂躪するものから解放され
た。呼気にそれなりの制約を受けていた吸道を無意識に開こうとする体の欲求に、
白鳳の息が僅か上がる。
 その喉元へと降りてきた青年の唇が、今度は首筋を中心に掠めるような口付け
を落していく。隙を縫うようにして纏う長衣の襟元を緩め、露にされた鎖骨にまで
愛撫の手が及ぶ頃には、与えられる口付けは深く熱いものになっていった。
 時折、戯れのように薄い皮膚に歯を立てられて、僅か反らされた喉奥から押し
殺した呼気が漏れる。

 そんな白鳳のよすがに、一端身を離したセレストが薄く笑った。昼日中に陽光の
元で向き合えば他意の存在など考えもしないだろうその様相も、薄明かり一つ
を光源とする夜陰の中では酷く含みを持って見えると、白鳳はぼんやり考える。





 それからの青年の愛撫は―――酷く性急だった。
 器用な指先にはだけられた、着衣の下に隠されていた白磁の肌のそこここに、
青年の残した口付けの跡が花弁のように浮かび上がる。くどいほどのその動き
に僅か身をよじると、それが面白くなかったのか再び唇を塞がれた。
 「…ん…ぅ……っ」

 指し入れられた舌に上顎の裏を舐め上げられて、背筋にぞくりと衝動が走る。
倦怠とも刺激とも名状しがたい感覚に総毛立つ自身を知覚させられ、咄嗟に相
手を押しのけてしまいたい衝動に駆られた。
 もちろん仕掛け人にその辺りの抜かりがあろうはずもなく、逆に回された手で
後頭部を押さえられて身じろぎを封じられる。結果として気を散らすこともできず
に、白鳳は自らを苛む青年の舌の感触を、嫌というほど味わわされる羽目になっ
た。
 と、刹那―――意識を一点に奪われ、無防備に晒された胸の頂に、かさつい
た指先が出し抜けに触れる。
 「……っ」
 前触れのない動きで性感帯の一つを捉えられ、反射的に総身が跳ねあがった。
不意を突かれた形になったとはいえ、初心な未通娘ではあるまいにと、我に返っ
た頬に血の気が上る。合わせられたままの唇を通して、青年が僅か笑ったよう
な気配が伝わってくるのが、尚のこと羞恥に拍車をかけた。

 だが……こういった秘め事を、趣味と公言して憚らない独自の倫理にしたがっ
た暗躍を繰り返してきたからこそ、この身は受ける感触に過敏だった。神経の
通う場所である以上、研ぎ澄まされる度にその感覚は鋭利になる。下世話な
言葉で言い表すならば……実益を兼ねた打開の手立ての一つとして暗躍を
重ね、開発された体には、受け入れるあらゆる感触に対しての緩衝材となる
ものがなかった。
 一枚の板を叩けば衝撃の全てが板全体に伝導するように…与えられる愛
撫の全てが、率直な刺激となって総身に跳ね返ってくる。それはこれまでに
指折り数えることも億劫に思えるほど重ねてきた関係の中で、全く珍しい感
触ではないはずなのに…今夜に限って我に返ってしまう自らの不心得に、白
鳳は内心臍を噛んだ。

 そして…互いの矜持をかけた我の張り合いだと初めから得心している青年
は、愛撫の手を緩めなかった。
 「…っ……う…ん…っ」
 胸飾りの片方を、探り当てた指先で摘み上げられ、塞がれた唇を割るよう
にしてくぐもった喘ぎがもれる。耐え切れなくなった息苦しさと、せりあがって
くるものを逃がそうにも身動きの取れない不自由に焦れて、伸ばした手で相
手の背を何度も叩いた。
 ようやく首を固定していた掌から解放され、同時に離された唇に大きく息を
ついた刹那…同じように自由になった青年の手と口の感触が、それまで放置
されていたもう一つの頂へと伸びる。
 あまりにも予想通りのその流れに…それでも、白鳳は堪らず身を竦ませた。

 「ふ…っく…」
 濡れた感触に胸飾りを舐めあげられ、空いた手で薄明かりに晒された肌の
上を撫でられる。受け流せずに、軽く身を捩った途端に含まれた胸飾りを咎め
るように甘噛みされ、逃げを打つ総身が跳ねあがった。
 それまでまがりなりにも押し殺してきた官能に、灯が点される感触―――
 悪戯に這いまわる荒れた手のひらに、脇腹を撫で上げられた刹那…それは、
一足飛びに体内で膨れ上がった。

 「…ぅあ…っ!」
 反射的に喉を突いた、悲鳴のような嬌声を知覚できた時には、もう手遅れだっ
た。
 あからさまな反応は、自分を苛む相手に的確な弱点を言葉ほど明確に教え
てしまう。それと知って、執拗に同じ場所ばかりに愛撫の手を伸ばす青年の
腕の下で、白鳳は身も世もなく身悶えさせられた。

 「は…ぁ……っ」
 「白鳳さん…」
 「……ぁ…く…ぅ…っ」

 一端点された官能の灯は、与えられる感触に一層煽られて総身へと広がっ
ていく。どうにかして逃れようと身を捩れば、それを許さない愛撫の手が何度と
なく同じ動きを繰り返した。

 これは、悦楽を共有する為の遊技ではないから…主導を取られ、意のままに
扱われる訳にはいかなかった。それでどうこうと言う明文化された取り決めを交
わしたわけではないが、我の張りあいを互いに得心している以上、先に根を上
げてしまったほうの負けだ。
 媚びても、拒んでも…それは自らを、相手の下位にすえることを認めるのと同
義だった。どのような顛末であれ、宿を離れればこのまま互いに拘束されること
なく各々の道行きを進むだけなのだと解ってはいても、どうしても自分から参っ
たとは言えない。

 それでも、総身に蟠る悦楽の火種は意志の力では如何ともしがたく…無意
識にこみ上げてくるものが薄幕となって視野を覆うのを、白鳳は首を打ち振る
ようにして何度も振り払わなければならなかった。
 呼応するように、体の一部に血が集まっていく、気も狂うほどの情動―――

 組みしいた体がどのような変化を起こしているか、同性である青年が気付か
ないはずもないのに…その手は、執拗に力の抜けてしまった上肢ばかりを開
発していった。いつのまにか、ゆるく開かれた足の間に青年の体をはさみこむ
ような体制を取らされている状況下で、殊更に直接の刺激を無視され続けるの
は拷問にも等しいものがある。
 言葉にして先を促す訳にはどうしてもいかなくて…それでもややもすると、焦
らされた体を青年へと押しつけそうになる自身の直情さに血が上る。追い上げ
られていく感覚に、さして触れ合ってもいないうちから総身を吹き出た汗が辿っ
ていくよすがを青年の眼前に晒している事も、また居たたまれなかった。

 そんな白鳳の痴態に、再びセレストが薄く笑う。
 「我慢強いんですね……正直、意外でした」
 「…な…っ」
 「いきたいですか?」

 互いの吐息がかかりそうなほどの距離から覗き込まれながら、思ってもみ
なかった言葉を告げられて…身を焼く衝動も忘れて、束の間白鳳は自失する。
 
 男盛りの只中にある、自分より二つ年若の青年だ。人生の最も精力的な時
期にある存在に対して、自分だとてそれが聖人君子であるかのような都合の
いい妄執を抱いていた訳ではなかったが…
 今眼前で自分を組み敷く相手は、自分の知る平時の彼とはあまりに印象が
かけ離れていて…底意の部分では、軽い動揺を覚えてしまったことも確かだっ
た。
 そんな思いが口ほどに顔に出たのか、視線を受けたセレストの笑みが、含む
ものに深くなる。

 「俺も、木石ではないので……いつでも貴方にからかわれてばかりはいませ
  んよ」

 それが、自分達が接触した記憶の何を指し示しているのかは、仕掛けた自
分が身に染みて解っている。記憶に残る、途方にくれたような青年の顔と、今、
汗で額に貼りついた前髪をかきあげながらこちらをのぞきこんでくる相手との
落差に、我知らず白鳳は戦慄した。
 その衝動が…押さえに押さえられた男の性に、より一層の灯を煽る。

 ぶるりと総身を震わせる腕の中の存在に、セレストはその変化の根幹にある
ものを労せず読み取ったようだった。
 「……白鳳さん」
 呼掛けと同時に青年が喉を鳴らした音が、酷く生々しい響きを以って室内の
空気に浸透する。
 「……っ!」

 次の刹那…情欲の証を出し抜けに伸ばされた手のひらに握りこまれ、白鳳
は声もなく総身を仰け反らせた。






 「…っ…あ…ぁ…っ」
 含まれた熱い口腔に、何度目かの情欲を飲み下されて…吐精の衝動に、
白鳳は寝台に沈みこむように脱力した。

 手で口で、いいようにあしらわれる不様が許せなくて隙を縫っては反撃の
手を伸ばそうと試みたものの、一度主導を握られてしまうと完全に形成を覆
すことはできなかった。
 むしろ、それさえもどこかでこの相関の言い訳にしているかのように、状況
に甘んじている自分が腹立たしくて…幾度となく挑んでくる相手に、意地の
ように応えてしまう。
 その繰り返しの中、いつしか完全に余裕を失った体は抵抗の術を失い、
青年の為すがままに嬌声を上げつづけた喉は、既に枯れかけている。

 それでもなお―――いまだに直接の交わりに及んでいないが為に体内に
悦楽の核は残り、こうして数度の逐情に至った今も、身を焼く衝動が消え去
ることはない。
 前戯の最中、気紛れのように手を伸ばされては執拗に慣らされた内部は、
決定的な刺激を求めて既に息づいている。それと知りながら、セレストは白
鳳を追い上げることをやめようとはしなかった。

 「……っ」
 吐精の余韻もさめやらない内から、再び飲み込まされた指を蠢かされ、
流した汗に濡れた背が跳ねる。恐らくは二度目の逐情の際に見破られて
しまった一点を的確に煽られ、反らされた喉奥からあられもない声が上がっ
た。
 「白鳳さん…」
 「あ…ぅ……んぁ…っ」
 「白鳳さん…辛い、ですか?」
 「…っひ……!」

 呼掛けと共に、深く抉られて悲鳴にもにた呼気が漏れる。逃げを打つよう
にずり上がろうとする腰を押さえこみながら、セレストは同じ言葉を繰り返し
た。
 「辛ければ……そう言ってください」
 「…ぁ…セレ…スト…?」
 「貴方の口から…『助けてくれ』と」

 それは、睦言と呼ぶにはあまりにも似つかわしくない響きを根幹に感じさ
せる呼ばわりだった。向けられる言葉に含むものを感じた白鳳の双眸が、
緩慢な動きで自分を組み敷く相手へとひたすえられる。
 責め苦にも似た悦楽を自分に強要する青年の目線が、思いのほか和ん
だものであることが、腹立たしさを通り越して不可思議だと思った。

 そして…
 「あの時の…あのダンジョンで、貴方が俺に、言ってくれたように」
 どこか焦点のぼやけた緋の虹彩が…続く言葉に、つかの間大円に見開か
れた。
 「…っ」
 「あの言葉が…貴方の、紛れもない本音でしょう?」


 自らはいまだ一度も欲をみたしていない、その押し殺せない情動に僅か
掠れた声音で…それでも、告げられた言の葉は酷く優しい響きを以って、
白鳳の胸襟を穿つ。
 青年が何を以って、自分に救済の言葉を求めるのか…追憶の糸を手繰り
寄せるまでもなく、その心当たりは一つしかなかった。

 堕ちたる八翼のエンジェルナイトの一人、フォンテーヌ。迷宮の奥底に封じ
られた彼女の解放に助力することで弟の解呪の足がかりを作ろうとした自
分と、人質の白羽の矢を立てられた眼前の青年との間で、けして交わるこ
とのない平行線を穿ちつづけた、あの石壁のダンジョンでの押し問答の記憶。
 あの時…激情に駆られた自分は、確かにこの青年から差し出された宥恕
の手を、一度はこの手に取りかけた。

 ―――私達を…助けてくれるんでしょう…!?

 意識を傾ければ、今尚この耳朶によみがえる、石壁に反響した自らの叫
びの声。


 あの時……確かに一度はこの情動に流されかけた。自らにその資格が
ない事を承知の上で、臆面もなく彼の人の厚情に縋ろうとした。
 だが…だけれども……


 「…っ」
 「……白鳳さん…?」
 それまで、極まる毎に流しては顔を濡らした生理的な涙によるものでは
なく…胸襟をせりあがってくるもので、つと視野が揺らいだ。




 あの、自身の命運をもかけた大博打の後…自動的に敗者の名を糾弾さ
れるべき立場になった自分は、この身を案じた従者に引きずられるように
して、結末を見届けることもできずにあの場を遁走した。
 頑として我を譲ろうとしなかった自分に焦れたオーディンに施された荒療
治によって、半ば朦朧とした意識を辛うじて保ちながら…追っ手を、危惧を
割ける為に地下道を遠回りした時間は果たしてどのくらいだったのだろう。
 ようやく白濁とした意識と焦点が明確な像を結べるようになった時…まず
この視野に飛びこんできたものは、計略の足がかりのために自分が犠牲
にした、古付き合いの人外だった。

 セレスト強奪の際、そのパートナーである少年を一定の時間足止めする
必要があったために、結果を知りながら人身御供として少年の前に差し出
した、和装姿の弓使い。
 足止めに居残らせたダンジョンの一角で、別れた時の装束そのままに…
神風は、冷たい石床の上に、物のように転がっていた。
 最期までいいつけを守った事を、言葉以上に雄弁に物語る従者の姿が、
明確な意識を取り戻した胸襟に、最初の衝動となって突きつけられて…
 亡骸なりともつれ帰ってやろうと、自分を抱えてここまで走ったオーディ
ンに命じ、いまだ震えを帯びる足で数歩の距離を歩いた。
 横たわる人外の体を抱き起こすべく手を伸ばし……そして…

 そして…自分は知ったのだ。
 殿に残した神風が、あの魔法戦士の少年を相手にしながら尚、事切れ
てはいなかったことを。


 咄嗟には現状を把握できなくて…混乱する意識を懸命に掻き集めた自
分の前で、その目をあけた神風は静かに事の経緯を語って聞かせた。

 あの後…足止めに徹するべく神風から仕掛けた戦闘を―――先に致
命傷を決めたカナンは、その引導を渡すことなく幕引きとしたのだと言う。
そしてのみならず、一度はそのまま立ち去りかけた少年は一瞬の逡巡
の後立ち戻り、虫の息であった神風に回復効力のある白魔法を施して
から迷宮を後にしたのだと言う。
 いまだ困憊状態にある神風のよすがから判断するに、王子が施して
いったのは、辛うじて致命傷を回避する程度の最低限の回復魔法であっ
たのだろう。情けをかけておきながら、後顧の憂いも同時に絶つそんな
少年のやり口が、ひどく彼らしいと思った記憶がある。

 うちの従者が、こんな捨て身の護衛を覚えるはめになったら非常に
困る。人のパーティーに悪影響を与えないように、よく躾直しておけと
主人に言っておけ―――それが、去り際に残した少年の捨て台詞だっ
たという。
 そして…律儀にそこまでを伝えると、自分の施した回復魔法によう
やく身動きが取れるようになったらしい神風は、酷く畏まった仕草で
自分に頭を垂れたのだ。
 命を果たすことができずに、本当に面目次第もございませんでした、と。


 『……我が君?』

 石壁に吸い込まれていった、怪訝そうな弓使いの呼掛けの声を覚え
ている。
 抱きしめる以外に…自分に何が、できただろう……

 急場であることも、感傷を晒す自身の不様も胸襟の奥底に飲み下し…
ただ、泣いた。

 この腕の中に抱きしめた存在は、人の心を持たない人外だ。主の命に
は本能的な服従を誓う、そのようにこの手でしつけた、ハンターである自
分の従者だ。
 解っている。理性では解っていた。
 それでも……

 それでも……死ねと命じたも同然の自分を、それでもけして裏切ること
のない無償の忠意が…極限まで打ちひしがれた心に、どうしようもなく切
なかった。

 『我が君…?』
 『…すまない……何でもないんだ…すまない…』
 『我が君、いかがなさったのですか?』
 『神風……すまない…っ』


 あの時…けして裏切らない、けして裏切れない存在と、弟以外にも自分
が出会っていたことを……自分はようやく、知ったのだ。





 「……っ」

 追憶に触発された情動が、雫となって眦を伝いおちていく。
 怪訝そうな青年の双眸に、あの時の従者の眼差しを重ねてしまいそうで
…こらえきれずに、目を伏せる。
 例えば閨での決まり事であるかのように、その情動の名残を唇で拭うよう
な真似はせずに、幾分狼狽の色を見せながら、ただこちらが落ちつくのを待
とうとする青年のよすがに、新たな雫が溢れた。
 
 それはあまりにも、自分の知り得たセレストの言動そのもので…この国で
気紛れのように出会ったこの青年が、自分にとってどれほど得難いもので
あったのかを、改めて思い知らされた心地になる。
 ―――この青年を……自分は一度、裏切ったのだ。

 今更のように胸襟を焼く悔恨が、意気地もなく後から後から頬を濡らす。
それ以上はどうしても堪えきれずに、持ち上げた両の手で自らの半顔を覆っ
た。

 「白鳳さん?」
 「……無理です…」

 賭け値のない懸念を自分に向ける、青年の穏やかな声音が耳朶を打ち据
える。何故この男が、自分の予測をことごとく覆した形で自分を抱くのか…そ
の理由さえも、否応なく思い知らされる呼ばわりだった。

 助けてくれと…あの時、口走りかけた自分の叫びを、彼は今一度引き出そ
うとしたのだろう。閨の睦言だと思えば自らを縛る負い目にもなるまいと、恐
らくはそんな風に考えて…
 だが…だけれども……

 「…無理です、セレスト……私は…」
 「白鳳さん…」
 「私は…もうこれ以上、背負えない……」

 それは、聞くものの耳には、端的な諦観の言葉と受けとめられるものであっ
たかもしれなかった。あるいは、背負う重荷を肩代わりしてほしいと言外に訴
える、それこそが救済を求める叫びであるのだとも。
 だが…白鳳の言葉が、そのどちらを意味するものでもないことを―――セレ
ストは過たず受けとめていた。

 「……何故ですか、白鳳さん」
 「私は…私は、貴方を……」

 息が上がる。込み上げてくるもので、自分をのぞき込む青年の様相がわか
らない。
 それでも尚…不規則な嗚咽に歪む声で、白鳳は言の葉を紡いだ。

 「これ以上……私は、貴方を、裏切れない……」



 ―――それは、さながらこれまでの互いの相関に対する、贖罪の言葉である
かのようだった。自らのおかした罪科に怯える咎人が、その大過を自身の思い
人に懺悔しているように、余人の目には映ったかもしれない。
 だが…表向きは相手の許しを請う言葉のようでありながら…その実、そこに込
められていたのは相手に対する遠まわしの拒絶だった。


 言葉尻からそれと悟り、こちらを見据える双眸に剣呑な光が宿ったのを感じな
がら…それでも白鳳は、自身の言葉を取り消すことができなかった。

 自分が自分である以上、この先も、自分は胸襟に抱いた後ろ暗い大望を果た
すべく、暗躍の限りを尽くしながら生きるだろう。それはセレストが指摘した通り、
成就の先の生を考えに入れないが故に成り立つ将来設計だ。
 ここで自分が彼の差し出し手に縋ったが最後…それでも生き方を代えられな
い自分が、この身に無償の厚意を捧げる青年を再び裏切る刹那は、いつか必ず
訪れるだろう。

 超常的な広がりを有す器を兼ね備えた彼は、自分の裏切りを再び許すのかも
しれない。彼がその命に代えても守り従うべき主の少年を、自分がこの手にか
けない限りは、きっと何度でも。
 だが…

 だが……自分は解ってしまった。あのダンジョンで、彼という人間の底意に触
れたと感じた時に。遁走する自分の前に現れた、あの無欲な従者を見た時に。


 いつか、再び裏切りに走ることがあれば―――その時は、自分こそがその重
圧に耐えられないだろうと。

 弟の解呪が為され、自分達をこの命運に導いた存在に対する報復を終えるま
で、自分の旅路は終わらない。その刹那を向かえるまで、この身が潰えること
があってはけしてならないのだから…
 だから……もう自分は、自分の中にこれ以上、裏切りを許されない存在は作
れない。
 だからこそ、自分は……



 刹那―――
 「白鳳さん…」
 「…ひぅ…っ」

 それまで沈静を保っていた青年に、呼ばわりと同時に出し抜けに愛撫の手を
再開され、意表を突かれた総身が弾かれたように痙攣する。
 苦鳴にもにた呼気が無防備な喉を突いても…セレストは攻め立てを止めようと
はしなかった。

 「…っ…ぁあ……っ」
 「やっぱり……貴方は、解っていませんよ」
 「…っひ……セレ…っ…セレスト…っ…?」
 「解っては……もらえないんですか…?」
 「は…っ…や…なに…っ」

 独白にも似た呼ばわりは酷く不明瞭で、与えられる衝動に乱される白鳳には、
青年の声を意味を持った言葉として知覚することはできなかった。
 それでも懸命に聞き返そうとする切れ切れの訴えに頓着するよすがも見せず、
逃げを打つ体を押さえ込むようにして、大剣をも泰然と扱って見せる骨太の手が、
明確な意志をもって細身の腰を掴み寄せる。

 刹那―――押し隠す余地すら与えられなかった白鳳の、甲高い悲鳴が室内の
静寂に浸透した。







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