千年の木


 彼岸と此岸の波長が最もその形を同じくするという、丑三の時。
 日頃から立ち入る者も稀な、古びた納戸の中で・・・佐為は、床上に座したまま瞑目していた。

 宿主であるヒカルが就寝してからここまでやってきたから・・・もう一刻以上は、ここにこうしている
ことになるのだろうか。
 それが無意味なことであるのだと知りながら、しかしそれでも佐為はその場を辞することができず
にいた。

 座したその正面に据えられているのは、年代物と一目でわかるふるめかしい碁盤・・・これに自身
の魂魄を封じることで、自分は千年という歳月を渡ってきた。
 「・・・ヒカル」
 この納戸に座してから、何度目になるのかもわからない長息が、辺りの静寂に浸透する。それに伴
う、これで何度目になるのかわからない追想に再び沈んでいく己を、佐為は苦々しい思いで知覚した。


 ことの起こりは、今日の昼時。
 新初段シリーズという、現世に生きる碁打ちにとって、その碁打ち人生の先行きを決めると言っても
過言ではない、その登竜門に、進藤ヒカルが挑戦する日が近づいていた。
 プロ棋士の第一歩を踏み出したヒカルにとって、その披露目とも言える一局がどれほどの意味を持っ
ているのか、佐為だとて重々承知している。
 だが、その対局相手を知った刹那・・・自分の中で、ヒカルに対する気遣いも霊魂に過ぎない自身の
身上も何もかも、吹き飛んでしまっていた。

 塔矢・・・現代囲碁界に於いて、世界に名人と呼ばせしめた碁の名手。一度斜め見ることの叶った対
局の中で・・・彼の一手は自分の宿望である神の一手への、確かな軌跡を感じさせた。
 この男と相対してみたいと、そう思いつづけて早二年になる。その間、自分と共に自らの碁の世界を
深めていったヒカルもまた、確実にその身上を高めていった。
 そのヒカルと・・・塔矢が対局する・・・

 身勝手は、承知の上だった。この一局がその行く末を左右すると言っても過言ではない大事な舞台を
前に、自分の我侭が通るとも思えなかった。
 それでも、思いは身勝手に募り膨らみ・・・
 結果として、待っていたのはヒカルとの避けようのない決裂だった。
 
 追憶するうちにその刹那の痛みさえよみがえり、きつく唇をかみ締める。
 ・・・ああ言えば、ヒカルとの間に埋め様のない溝を造ることは覚悟の上だった。だが・・・それでもどうし
ても譲れなかったこの切望を、あの子はつまらない不安の一言で打ち捨ててしまった。

 そう・・・ここが現世であり、その身上が進藤ヒカル自身のものである以上、ヒカルの言葉は全て正しい
のだ。それは誰に言われるでもなく、自分自身が一番よくわかっている。
 だが・・・自分だとて、ここに確かに存在しているのだ。実体を亡くした身上だからといって、喜びも怒り
も悲しみも、感じない訳ではない。
 自分の願うことは、それほどに大それた大望なのか・・・霊魂の身も弁えず、なんと愚かな宿望に縛ら
れた亡霊よと、人はこの身を笑うのだろうか・・・
 自分はただ・・・神の一手を・・・。そのためにもあの男と相対し、確かな軌跡を築きたいだけなのに・・・。
 ヒカルを蔑ろにするつもりなど、自分には毛頭ない。この一局を・・・自分は、ただこの一局を・・・。
 それをすら・・・この身には叶うべくもないことだというのか・・・

 このままでは、自分の存在を受け入れてくれた得難い存在であるあの子供をまで、自分は恨み妬ん
でしまいそうだった。生ある者の当然の言い分にそんな風にしか感じることのできない自らのさもしさが、
眼前に突き付けられている心地がする。

 再度、室内に嘆息が落ちた。

 このままでは・・・自分の碁が打てる日など、永劫に訪れないのかもしれない。そうなれば、自分は何
のためにこの現世にしがみ付いているのか、その理由さえ失ってしまう。
 そして・・・逡巡の要因は、なにもヒカルとの悶着だけには留まらなかった。


 平安の時代、姦計に負け自ら命を絶ってしまった自分と当代の人間との出会いは、なにも進藤ヒカル
だけにとどまらない。今上よりも遠く百四十年の昔にも、霊魂である自分を見とめ、受け入れてくれた少
年がいた。
 桑原虎次郎・・・のちに本因坊秀策と名乗り、世にその名を残した当代きっての碁打ち。
 彼は・・・その入滅の直前まで、対外との一局一局の全てを、この身の思うが侭に打たせてくれた。

 生あるものにとって、自己顕示は自らの生涯を渡り抜くための当然の本能だった。そのものに、世間
から賞賛されるべき才覚が備わっているのであればそれはなおのことだ。
 碁打ちとしての名声は、その身に憑依した自分がもたらしたものだったかもしれない。だが・・・秀策
には、生来その道で名を立てるに足るだけの才が内在していたのだ。それは、幾度となく彼と対局し
た自分が誰よりも承知していたこと。

 才に足り、充分過ぎる舞台が整えられていた以上、自らの力量で舞台に望みたいと考えるのは人と
して当然の心の動きだろう。
 それでも尚・・・秀策は、自分が打つのだとは一度として訴えたことがなかった。
 打ちたくないかと、そう聞いたことも確かにあった。だが、彼の青年はただ笑って否と答えるばかりで・・・。

 今日、ヒカルと意見が衝突して・・・それが人としてどれほど不自然であり、忍耐を強いられるもの
であったのかを、佐為は初めて思い知らされたような気がしていた。

 優しい青年だった。子供の頃からずっと。
 だがそれでも・・・その底意の部分では、彼が自らの登板を望まなかったはずがない。

 そんなことにも気づかずに・・・彼が生涯つきつづけてくれた嘘に、甘えとおしてしまった自分は・・・
 そして、それを思い知らされて尚、浅ましくも自らの宿望を捨てられない自分は・・・
 

 追憶から立ち返って眼前に目をやれば、そこには自分と因縁浅からぬ、古びた基盤が座している。
 この盤に無念を宿して・・・自分は時を渡ってきた。逆を返せば、この碁盤に再び自らを封じれば、少
なくとも当代の人間をそうして思い煩わせることもなくなるのだ。

 どの道・・・この現状を見る限り、ヒカルが自分に対局を任せることなどありえないだろう。それはこの
先、彼が涅槃に旅立つ日まで続くことであるかもしれない。そうなれば・・・自分の存在意義は、なくなっ
てしまうのだ。
 ・・・・・・ならばいっそのこと、自らの手で、自分に引導を渡してやるべきではないのか・・・

 それは、心残りを抱いたままの佐為にとって、最も苦しい二者択一だった。
 ヒカルの気持ちも解る。彼が正しいことも解る。それでもどうしても、この思いを捨ててしまうのは忍び
なくて・・・


 それほどの時間をそうやって碁盤の前で過ごしていたのだろう。
 出し抜けに背後に感じた人の気配に、佐為はつと我に返った。

 「・・・ヒカル?」
 自分の背後に立つ存在を、何故そう思ったのかはわからない。だが、もしも彼が自分の不在に気づい
てここまで足を運んでくれたのだとしたら、それはまだ親権者の被保護下にある少年にとっては軽々しい
行動ではなかったはずだから・・・。
 せめて少年の、余計な気を煩わせることはないようにと・・・取り繕った笑顔で振り向いた佐為は、しか
し次の刹那その双眸を驚愕に見開いていた。


 「・・・あ・・・なたは・・・」
 『・・・久方ぶりだな、佐為』

 以外のあまりに、続く言葉がでてこない。
 「・・・秀策・・・」
 そこには・・・今の今まで自分が思いを馳せていた、今は亡い在りし日の青年の姿があった。

 
 高窓から差し込むだけの、月明かりに照らし出された納戸の空気が、研ぎ澄まされた刃のように張り
詰める。その緊迫を作り出しているのは自分なのだと知りながらも、佐為は畏縮する己を感じない訳に
はいかなかった。
 一目で意識体なのだと知れる、その半透明な立ち姿。
 自分の大望に、その生涯を捧げてくれた得難い魂。彼の人が現世を去ってからは、どんな形でもいい
から今一度見えたいと、切望してきた青年だった。
 だが、その死を追うように碁盤に自身を封じてしまった魂魄に、彼岸での再会などのぞむべく無くて・・・

 そうしてもとめてきた相手が、今目の前にいるというのに・・・懐かしく、いとおしくてならないというのに
・・・自身の消し去りようのない咎を思い知ったばかりの身上には、こうして向きあうことすら、空恐ろしい
ものであるかのように総身が震えてしまう。


 「・・・秀策・・・何故、貴方が・・・」
 そんな佐為のよすがを・・・青年の姿をした思念体は、何処か物悲しそうに見やっていた。
 
 『貴方も御承知のように、こうして私達が向きあうのは此岸の摂理も彼岸の摂理も無視することだ。だ
  が貴方があまりに嘆かれるので・・・矢も盾も堪らなくなってしまった』
 幸い、この身上はそれなりの自由が効くものだから・・・どこか軽口めいて続けられた言の葉は、相手
のあまりの緊迫をほぐそうとしてのものだったのだろう。
 だが・・・百四十年の時を超えて再会の叶った青年を前に、佐為も面持ちは強張りをますばかりだった。

 『佐為?』
 「私は・・・貴方に」
 『佐為・・・』
 「貴方の人生と知りながら・・・私は貴方に甘えて・・・」

 それは・・・さながら自らの具現した罪の形を、眼前に突き付けられる苦痛に似ていたかもしれない。
 謝辞も、陳謝も・・・伝えたいことは山のようにあるのに、佐為はそれを上手く言葉にすることができな
かった。
 初めて目の当たりにした、そんな相手のよすがに、珍入者はわずかにその眉宇を曇らせる。

 『貴方をそうまで思い煩わせているのは、あの少年との確執なのだろう?・・・それぞれに自我を
  持った者同士が、行き違ってしまっただけのことだ。貴方一人が、気に病むことではない』
 刹那・・・現世への未練無念のあまり地縛した存在となってしまった青年は、その相貌を痛ましそ
うに歪めて見せた。
 「御存知なのですか、あの一件を」
 諾とも、否とも、応えは返らなかった。それでも自身の憶測を疑わない佐為の独白めいた言の葉
は、自嘲じみた響きを伴いながら中空に浸透する。

 「・・・ならば、御覧になっていたはずです。私はまた、私の中の衝動を押さえきれずに・・・」
 『佐為』
 「解っているのです、ヒカルの言葉が全て正しいのだと。こうして私がしこりを残すこと自体が、霊
  魂の身も弁えない浅ましく身勝手な強欲であるのだということは」
 ですが・・・言って、その情動の程を物語るかのように眼前の存在を見上げた面が、次の刹那に
は力なく伏せられる。
 続く言葉は・・・この宿業を自らに強いた万象に対しての怨嗟と言うにはあまりにも繊弱に、とは
いえ全てを諦観した者の得心の言葉と呼ぶにはあまりにも生々しい未練の響きを以って、辺りの
空気を震わせた。

 「それなのに・・・この身は今になって尚、神の一手を諦めることができずにいるのです・・・私の
  実体は千年の昔に朽ちている・・・ここに残るのは現世への執着にしがみついた浅ましいばか
  りの怨念に過ぎないと言うのに・・・」
 『佐為』
 「明日の対局は、あの子にとってもこの道で生きていくための登竜門。前途ある者の歩みを人
  外である私が押しとどめることなど、この世界の理がけして許しはしない・・・解っています。だ
  というのに私は・・・秀策・・・江戸の世に生きた貴方の人生をねじまげ、今生で出会ったヒカル
  の行く末にこうして水を差し・・・それでも望みを諦められずに・・・っ」

 それきり絶句してしまった佐為の独白を、息詰まるような静寂があとを引き継いだ。
 かつてその身上に、自らのよりしろも同様の生き様を強いてしまった青年の思念体が沈黙を守っ
ているのを、他のどんな讒謗の言葉よりも恐ろしい思いで佐為は受けとめる。
 互いの間に帳を下ろした森閑とした空気に・・・先に耐えきれなくなったのは語り部となった青年
の方だった。

 「・・・今日、ヒカルにはっきりとした言葉で突き付けられるまで・・・私はそのことにさえ気づきもし
  なかった・・・いいえ、気づかない振りをしていた・・・・・・考えてみれば、私は生ある者の前途を
  平気で奪うような所業に及んでいながら、その謝辞も陳謝も改めた言葉で伝えたことがなかっ
  た・・・貴方に対してもです秀策・・・!」
 『佐為・・・』
 「なんという・・・私はなんという浅ましい・・・っ」

 一端口火を切ってしまうと、激しい吐露はどうにも止まらなかった。自らの頭髪をさし入れた指先
で掻き毟りながら、うめく様にして今となっては謝辞にも陳謝にもならない言葉を口にする。
 「許してください・・・解っているのです、ここは私の生きる世界ではなく、ここに私の生きる場所は
  ない。解っていながら・・・それでもどうしても、私はこの未練を手放せないのです・・・・・・桑原秀
  策とは貴方の名。進藤ヒカルとはあの子の名。早々にこの身上を見切り、貴方がたの生涯をあ
  るべきようにお返しせねばと解っているのに・・・・・・解っていたのに・・・!」

 ・・・それは、血を吐くような叫びだった。言葉の端々から漏れ出る荒い呼気が宛ら慟哭であるかの
ように静寂を破り、語り部の激した思いを言葉以上に雄弁に物語る。

 その激しい自虐の吐露を押し留めたのは、それまで聞き手に徹していた珍入者の静かな呼びかけ
の声だった。
 『佐為・・・貴方がそれを言ってはいけない』
 かけられた言葉に総身を震わせて過敏な反応を示した語り部の情操をこれ以上刺激しないよう・・・
極力起伏を押さえた声音が、ことさらにゆっくりと、続く言の葉を紡ぐ。
 そんなことを言わせたい訳ではないのだと・・・頭を左右に巡らせたよすがはどこか痛ましそうですら
あった。

 『貴方だとて・・・辛くなかったはずがないだろう』


 自ら命を絶つことは、人の世の摂理に反した重科だ。生あるものが自らその行く末を閉ざすことを、
現世を構築する万象の全てはその存在の意義にかけてけして許さない。
 今生を捨て去ろうとする程の忍び難い悲痛を味わった心は、その抱く無念のあまりの重さに死し
て尚、自らが負った痛手から解放されることがない。未練に思うから、その背負うものから自身が
少しでも遠ざかれはしないことを思い知らされてしまうから、今生より解き放たれたはずの魂魄は
彼岸にも此岸にも渡ることが叶わないのだ。

 今生にある限り・・・けして世界から許されることのない、自刃の咎。
 生あるものが何を置いてでも最後まで執着する、自身の命脈をもなげうった・・・それは、極地に
までおいやられた者達が最後に縋った救済の手立てであったはずなのに・・・。

 文字通り、死をも厭わぬ覚悟で踏み出した、それは最後の打開をかけた決意であったはずだった。
 それなのに・・・
 今生にその身を置く者の・・・誰が気づくだろう。断腸の思いで現世を捨て去って尚、未練が無念
が報われる刹那を、故人の魂が望むべくもない事など。
 死して尚・・・否。現世の住人ではいられなくなってしまったからこそ、はじめて眼前に突き付けら
れた、あまりにも救いがたいその摂理。そんなものをただ一人、永劫にも近い時間を背負いつづけ
てこなければならなかった魂魄が・・・人外へと落とされたその身上が・・・

 『貴方にとって・・・その身上が、何の痛みも与えなかったはずがないだろう』
 「秀策・・・」
 『ただ一人、この現世に留まらなければならなかった貴方の魂が・・・病に倒れた私のこの身上
 よりも気安く幸に満ちていたなどと、どうして言えるだろう』

 刹那・・・意図するものを含んだ呼びかけの声が、当時を知る二人の意識を仕組まれた追想の中
へと引き入れた。

 江戸の時代、文明の開花する足音を、もうそのすぐ背中まで迫り聞いていた時代・・・
 財政難対策と、それまで貫かれてきた平穏の世に、いつしか上層階級である士族をも脅かしかね
なくなっていた一部の下級層の羽振りに対する敬遠を狙い、幾度となく触れの出された諸改革策。
 平民階級層に生きる者達の中から様々な娯楽が消え、相次いだ群発地震に大勢は怯え、同時に
開国の刹那すらも見通すことの叶うような・・・本因坊秀策が生きたのは、そんな幕末の時代だった。

 時世の流れに背中を押され、それでもただひたすらに、眼前の一局を打って打って・・・・・・
 そして・・・江戸の世に二度に渡って大流行した「水あたり」に罹患し、彼は三十四という若さで現
世を去ることとなったのだ。

 『江戸に蔓延したあの死病にとりつかれた私の晩年は、筆舌に尽くせぬ痛痒に満ちたものだっ
  た。幸いにも貴方のもたらしてくれた碁打ちとしての私の名は当代不動のもの・・・何時この身
  が潰えようとも身代が傾く危惧だけは抱かずにすみ、後顧の憂いもなかったが・・・それでも病
  の重きには耐えがたく、わずかばかりの延命を見こした闘病生活にはやりきれなさばかりが
  先に立った。医師や家人の手厚い看護も、平癒の見こめないこの身にはただただ厭わしく思
  えて・・・』
 互いの追想を邪魔立てすることのない穏やかな声容が、ただ訥々と自らの当時の思いを物語る。
これまで彼の人の口から語られることのなかった昔日の底意に、佐為もただ口を噤んで聞き役に
回るよりなかった。
 『どの道先の知れた余生ならばと、艱難に耐えかねて自ら幕引きをしてしまおかと、幾度となく
  考えた。ことに及ぼうと衝動にかられたこともある。・・・だが、結局は私は自らの天寿の途切れ
  るに身を任せた。・・・それが何故だか、貴方にならば解るだろう?』

 刹那・・・ろうたけた青年の面差しが、えもいわれぬ様相に和んだ。

 『佐為・・・貴方がいたからだ』
 「・・・っ」
 『妻の身上も気がかりだった。本因坊のこの先を思うとやはり思い煩うところはあった。だが、
  なにより・・・私がこのまま潰えたら・・・他に心を通わせる者も望めない貴方の行く末がどうなっ
  てしまうのか・・・・・・そのことばかりが、私の未練を離さなかった』
 だからと言って、私は貴方を楔と思って余生を存えた訳ではない・・・言って、かつて本因坊秀策
の名で一世を風靡した男は衣擦れの音一つ立てることもなく一歩を踏み出した。
 その場に片膝を落とし、静かに伸ばされた指先が、紙一重の僅差にまで肉迫して佐為の両頬を
包みこむ。
 現世においてけしてありうるはずのない・・・人肌のぬくもりを、感じたような気がした。

 『・・・いつぞや、貴方が教えてくれたな。自刃の咎は重いのだと。この世で最も重い宿業を、この
 身で以って受けとめ、贖わねばならない・・・だからどれほどの痛痒に見舞われようとも、いっそ
  彼岸でこの艱難から免れたいとどれほど思っても・・・自ら命を絶つことだけは、けしてするなと』
 「秀策・・・ですが私は・・・」
 『貴方のあの言葉のおかげで、私は天より定められた私自身の命運をまっとうできた。あの日貴
  方がぶつけてくれた真摯な思いがあればこそ、私は迷うことなく彼岸への道を辿れた。貴方なし
  には、叶わなかった事だ』

 頬に寄せられた手が、愛おしさを物語るかのように、けして触れ合うことの叶わない存在の輪郭
をゆるゆると辿る。既に彼岸の住人であるが故に触感の伝わることのない、それでも確かなぬくも
りを持ったその差し出し手に・・・自身の奥底からわきあがってくる情動を、佐為は押し殺すことが
できなかった。

 「秀策・・・どうか私をこれ以上甘やかさないで下さい。どのような言葉を以ってしても、私が貴方
  の生を踏み台にしてしまったことに変わりはないのですから・・・」
 あまりにも温かな癒しの手に縋りつきそうになる己に、最後の自制で首を振る。当代のよりしろと
なってくれた彼の少年との悶着もおさまらないこんな不甲斐ない状況で、この上自分にその身上を
ささげさせてしまった相手からの情けなど、あまりにも立つ瀬もなくて甘えられるものではなかった。
 だが・・・青年もまた、それこそが縋り手であったのだと知りながらも、相手の言葉に諾とは返さな
かった。

 『佐為・・・貴方がどう思おうとも、私の生涯は貴方との出会いによってこそ栄え覇気溢れ、貴方の
  言葉があってこそ、こうして死後の安寧までも私は与えられている・・・全て貴方のおかげだ。そ
  れを犠牲などとはどうか言って下さるな』
 言って、秀策は今一度、その面を情動の全てを物語るかのような所得顔に和ませた。
 『私は言葉を知らない無骨者だ。今でも褪せることなく残されたこの胸襟を、他のどのような言葉
  で貴方に伝えればいいのか解らない・・・しかしこれをこそ私の偽りのない思いなのだから、別
  れの時に貴方に残した言葉を今一度、貴方に伝えたい・・・許してもらえるだろうか』

 続く言葉は、聞き役となった霊魂の応えを待つことなく静かな声音で紡がれた。
 『・・・“貴方という得難い魂に出会い、束の間であれその望みに叶うために共に生きることの叶っ
  たこの生と身上を・・・私は貴方に、いつまでも深く感謝する。その本懐を遂げるために私を選んで
  くれた貴方のことを、何よりも得難く愛しく思う”』
 聞く者の胸襟にまで深く染み渡るような・・・ただひたすらな謝意の込められた、穏やかな声音。
 止めだ手を許さないその静かな独白を、佐為はただ黙してその全てを受けとめた。聞き入るほどに、
自分達の昔日の相関の様々が思い起こされ、不可思議な既視感に、こみ上げてくるもので月明かり
に照らし出された視野が白銀に滲む。

 『“貴方に出会えたことは、私にとってもこの上ない幸甚だった。貴方のおかげで、私はここまで生
  きることが叶った。・・・この生を今一度やりなおせるのだとしても、私は貴方と再び出会うことを望
  むだろう”』
 記憶に残ったままの、深みのある声音。自分の中で珠玉の様に失われることのなかった、一語一
句違わない燐と張り詰めた彼の人の語勢。
 ・・・そうだ。記憶の中に残る在りし日の彼は、その最後の最後の刹那まで自分に向かってその謝
辞を表す言葉を紡ぎ続けて・・・そして・・・

 『“・・・ありがとう、佐為。貴方に出会えて良かった・・・”』
 「・・・っ」
 刹那・・・ついにこらえ切れなかった情動が、雫となって佐為のすべらかな頬桁を伝い落ちていった。

 記憶に刻み込まれた彼の人の、一言一句違うことのない何よりも愛しい言葉。他のなによりも、この
後ろ髪を引いてやまなかった彼の人の思い。
 百四十年という歳月を経て尚、糸一筋程の差異すら感じさせない在りし日の彼そのままの声音に・・・
弾けた情動は、どうにも堪える事ができなかった。

 「秀策・・・秀策・・・っ」
 その身上の違いから、けして触れ合うことの叶わない高貴な人の魂を・・・せめて抱き留めようとでも
するかのように、佐為はその両の腕を差し出してかの存在を求めた。
 全てを得心しているとでも言いた気に・・・伝わることのない触感が、それでも眼前の魂が包み込むよ
うに自分を覆うのを余すところなく佐為に教えてくる。

 この手に縋ってはならない。この上、この優しい人の現世に残す未練の一端に、ほかならぬ自分が
なるわけにはいかない。自分の望みに殉じた彼に、それは自分にできる唯一の返礼であるはずだった。
 縋らずに、頼らずに、甘えずに・・・この愛しい存在から、自分はこの手を離さなければならない。安穏
とした彼岸で来世を待つ彼の、自分が後ろ髪引くような事があってはならなかった。
 だが・・・それでも・・・

 「秀策・・・秀策許してください・・・私は・・・っ」
 言ってはならない。けして望んではならない。これ以上の業は、自分のみならず眼前の高貴な魂をも
まき込んで地に落とす。それは自らが無明の地獄へ堕ちるよりも、よほど辛く耐え難いこと。
 だから・・・だけれども・・・

 「貴方が・・・貴方と・・・・・・私は・・・っ!」
 その先は、明確な言葉にはならなかった。口にすることの叶わない禁忌と知ればこそ、告げる言葉な
ど持てるはずがなかった。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・貴方と、この現世を渡ることが叶ったのなら・・・・!

 最後の自制となったものは、果たして何だったのか・・・。相手の魂と魄を穢すことへの畏怖の思いと、
藤原の名を背負って当代を生きた自らの自負と、そして・・・その互いに残すしこりはどうあれ、あるいは
この現世のよりしろとなってくれた少年の身上を慮っての、そこには負い目もあったのか・・・。
 皆まで口にすることも叶わず中途でその面を伏せてしまった佐為を・・・共に晩生までを生きぬいた青
年の思念はただ黙したまま見つめていた。

 ・・・どれほどの時間を、そうして過ごしていたのだろうか。
 『・・・佐為』
 けして不快を感じさせるものではない・・・しかし当事者の器量を以ってしなければおいそれとは乱すこ
との叶わなかった静寂を、先に破ったのは今となっては佐為よりも尚、現世ばなれした存在となってしまっ
た青年のほうだった。

 『いつでも、貴方の行く末を見つめている』
 聞く者の胸襟にひたひたと侵食する、類なれなきその声容・・・そんな声で自分に話しかける存在を、
千年の時流に身を置きながら、佐為はただ一人しか知らなかった。
 そして・・・

 『・・・入滅の際、私は天地の理に誓ってしまった。その柵に縛られた私は、思うに任せて貴方の前に
  姿を現すことができない。・・・だが、なればこそ・・・私はいつでも、貴方のそばにいる。貴方の喜び
  も苦しみも痛みも、全て見つめている。そのためにこそ、誓い科せられた柵だ・・・貴方が何処にあろ
  うとも何を思おうとも、この身は常に貴方と共にある。何が起ころうとも・・・貴方を一人にはさせない』
 「・・・・・・秀策・・・!」
 『佐為・・・これは、まごうかたなき私の望みだ』

 だから、貴方が何を気に病むことはないのだと・・・言って清雅な笑みを見せた語り部に、至上の誓約
を捧げられたはずの青年は返す言葉も持てずに絶句する。
 現世に地縛した存在となり、いつまでも今生に未練を残すのは、一端当代を辞した存在にとって歓迎
されるべき事態ではなかった。いつまでも後ろ髪を引かれるその心残しこそが、現世を実直に生きた者
に当然与えられるべき来世への道をも閉ざしてしまう。
 その権化たる存在が、いつまでも碁盤に魂魄を残して浅ましく現世にしがみついた自分の姿なのだ。
そんな存在にかかずらわっていては・・・元来何の落ち度もない青年の魂までが、自分の道ずれとなっ
て輪廻の習いより外れてしまう。

 「秀策・・・秀策いけません・・・そのような誓約は、貴方の魂を縛ってしまう・・・・・・」
 だからこそ・・・それを肝に命じているからこそ、これまでけして口に出すことのなかった願いであり我
侭であったのだ。けして実現させてはならない、それは相関なのだ。
 でなければ・・・そうでなければこの得難い魂は・・・

 「・・・破棄を・・・どうか破棄を、秀策」
 刹那・・・佐為の胸中に、相反する様々な情動が乱舞した。
 秀策のこの差し出し手を、彼の来世のために拒めるのは他ならぬ自分自身だった。その行く末を思う
なら、この手を自分が取る事はあってはならない。
 彼の人の幸甚に満ちた来世。類まれなき魂の、きっと祝福に満ちる中辿るのであろう輪廻の道。
 閉ざしてはならない・・・阻んではならない・・・
 だが・・・だが、それを解っていながら尚・・・

 ああ・・・なんという浅ましい魂。死したるこの身上も省みない、なんと言う浅ましい強欲・・・。
 禁忌である自らの後ろ暗い望みをすら、容易く諾と応えてしまう彼の人の差し出し手が・・・この上な
く、どうしようもなく・・・この総身が震えるほどに嬉しくて・・・

 「秀策・・・どうか・・・私は・・・今の私では尚の事・・・貴方の思いに報いることも叶わないのです・・・
  だから・・・」
 『佐為』
 「秀策・・・っ」
 新たな雫が視野を揺らがすのを・・・どうしようもなく混乱した思いで佐為は知覚していた。それでも溢
れかえる情動を押し留めることも叶わず、青年に対するそれ以上の言葉も持てず、ただこれ以上の痴
態を自分に許すまいと持ち上げた掌で半顔を覆う。
 常世の住人となって尚、自分に変わることなく向けられる彼の人の厚情が、これ以上ないほどに嬉し
くて・・・だが、それがどれほどの禁忌であるのかを知りながら彼の人に否と言い切ることのできない自
らの疚しさが厭わしくて情けなくて・・・何がその要因になっているのかも解らないまま、せめてもの意
地で嗚咽を飲み込みながら、佐為はただ泣いた。

 『佐為・・・』
 外界への盾であるかのように半顔を覆ったままの掌に、穏やかな所作で今少し大振りな手が虚空を
挟んで重ねられる。
 『これが・・・私の望みだ。貴方のためではない。貴方の責でもない。・・・ただ、私自身が、貴方がこ
  の先辿って行くゆく末を、この目で見通したかっただけなのだ』
 「・・・しゅう・・・」
 『どうか、私の願いも聞きとどけてくれ』

 弾かれたように面を上げた、千年の時流にその身を縛られた魂魄に・・・向けられたすがしい笑みに、
含むところは感じられなかった。
 そんな、生前と少しも違わない穏やかなよすがのまま、深い声音が念押しのように続く言の葉を紡ぐ。
 『佐為・・・私は、貴方の穢れのなさが好きだった。ただ一心に、一手を極めようとするその厳しさが
  好きだった。それでいて、時にはほんの子供だった私よりもよほど子供っぽくなってしまう、その衒
  いのなさが好きだった。・・・そんな貴方の行く末を、私は見ていたい』
 ス・・・と、その指先が空を凪ぐような動きをして見せたのは、その眦から留まることなく溢れつづける
思いの発露を拭いとろうとしたものか・・・
 その体勢のまま・・・秀策の俗名を持った魂の具現は、ただ静かに笑って見せた。
 『凌げないと思ったときには、憤っても詰っても・・・自分を癒す為になら涙を流してでも構わない。貴
  方には貴方らしくいて欲しいと思う。そして、貴方が幸と感じる刹那に出会えたときには・・・そのた
  びごとに、貴方には笑っていて欲しい。私と共にあったあのころの様に・・・快活に、悪びれたりせず、
  ときには子供のように衒いなく・・・そんな貴方を、私はずっと見つめている』
 「秀策・・・」
 『貴方は気づいていたかわからないが・・・あの江戸の時代、本因坊秀策にはこんな噂がまことしや
  かに流れていた。私は人であってその実、誰よりも人外じみた存在だと・・・知っていたか?』

 意図も気負いもなく、ただ思うままに首を振って否と応えた佐為の双眸に・・・刹那、なんとも形容し
がたい情動が踊った。
 『その根拠はこうだ。“本因坊秀策には、白き守護神がついている”』
 「・・・っ」
 『佐為・・・私のまごうかたなき守護神・・・貴方のことだ』
 気負いのないその声容が、その相貌が・・・言葉以上に雄弁に、青年の底意を物語る。
 『それが貴方だ、佐為。貴方は昔も今も、少しも変わらない・・・どうかそのままに、貴方は貴方の思
  いを貫いて欲しい』

 だからどうか、自らの身上を卑下してはくれるなと・・・再び伸ばされたその差し出し手を、佐為は取る
事ができなかった。
 総身を沸き立たせるこの震えが、歓喜によるものなのか哀切によるものであるのかすら、俄かには判
じられなかった。思いを巡らせるその側から、芯からこみ上げてくるものにただただ体が震えて・・・

 それでも・・・形あるものとして知覚できるのは、自らの中に浅ましいまでにしこった宿望を、八百万の
事象に許しを請う卑小な自らの姿だけだった。

 自刃の廉は、あの平安の宮中に巻き起こった覇権争いにまき込まれてもの。あの場で自ら身を引か
なければ藤原の家にまで及んだ咎は必至であり、自分は自分の潔白を示し家人を守るためにも、入水
という手立てを選ぶより他はなかった。
 それでも自らを殺める咎が、けして清算を果たしはないことは承知の上。承知していたからこそ・・・自
分はこの現世に半端な立場で居残りながらも罪の救済を求めようとはしなかった。
 だというのに・・・自分に惜しみなく向けられた、この揺るぎ無い親愛の証憑は・・・

 「・・・・・・秀策・・・」
 ああ・・・望んでしまう・・・縋ってしまう・・・この上向けられた癒しの手を取れば、彼の人はますます常
世から外れた存在となってしまうのに・・・
 解っている・・・解っていることなのに・・・
 「秀策、私は・・・」

 桑原虎次郎・・・彼の人の幼き日の姿。いまだ数え十にもならないそんな時分から、彼は自分に対し、
生涯変わることのない厚情を寄せつづけてくれた。
 「・・・私は・・・ここに・・・存在していても、いいですか・・・」
 適齢になって、世の中というものを知って・・・少しずつ少しずつ、その相関は形を変えていったけれど・・・
 「ヒカルと共に・・・神の一手を目指しても、いいですか・・・」
 どうしようもなく埋めがたい溝を、互いの間に感じたこともあった。自分の『成仏』を巡り、もはやこれま
でという言葉を彼の人の口から叩き付けられたこともある。それでも・・・そんな諍いを味わって尚、その思
いの根幹を変えることのなかった、得難い魂・・・。
 新たな雫が頬を伝い落ちるのを・・・もはや佐為は、隠そうとは思わなかった。
 「・・・・・・・貴方の心を側近くに感じながら・・・私は、貴方の思いに触れながら・・・ここに『生きて』いても、
  いいですか・・・?」

 秀策・・・秀策・・・私にとっては、貴方こそが神だった・・・


 『・・・佐為』
 諾とも否とも・・・応えは返らなかった。それでも、虚空を挟んで頬に触れた指先が・・・彼の存在から向
けられた凪いだ思惟が、その言外に為された辺報を佐為に教えていた。

 と、その刹那・・・
 「・・・秀策?」
 眼前に膝をつく青年の輪郭が出し抜けにぼやけて暈けていくのを、人ならぬ霊感を持った魂魄ははっき
りと気取った。だが、弾かれたように立ち寄ろうとする佐為を押し留めるかのように、次第にその存在を淡
くしていく思念体は、苦笑さえ浮かべながら静かに首を振る。
 『そろそろ・・・限界のようだ。もうこの身を視覚化できない・・・』
 「秀策!!」
 『忘れないでくれ、佐為。貴方は貴方の心のままに・・・そんな貴方を、私はずっと見守っている・・・』

 どこまでも穏やかな、凪いだ風貌がゆるゆると虚空に溶けこんでゆく。咄嗟に手を伸ばしかけた佐為の
制止に、笑みに和んだ眼差しが名残惜しみをするかのように自らの想い人を凝視した。
 『あの少年も、まだ貴方との相関を掴みあぐねているだけなのだろう・・・焦らずに時を待てば、きっと貴
  方の想いに報いてくれる・・・』
 「しゅ・・・」
 『佐為・・・貴方は貴方の、心のままに・・・』


 ・・・それは、一瞬の間の出来事だった。辛うじて視覚化の叶っていた思念体は束の間淡く発光し・・・
次の刹那には、堪らずに差し出した佐為の指先で、音も立てずに中空に霧散する。
 あとには・・・茫と自ら両の掌を見つめる、千年の時を渡った魂魄だけが残された。

 「・・・秀策・・・」
 頬を、自身の掌を、ただ思いのままに溢れ出る発露に濡らしながら、佐為は自らを支配する筆舌に尽
くしがたい情動を困惑の態で知覚した。
 死して尚・・・自分と共にあると誓約を残していった、心優しい想い人。彼の身上、行く末を思えば、自
分は頑としてその厚情に否と答えるべきだった。
 それでも、そうすることのできなかった自分は・・・

 「私は・・・・・・秀策、私は・・・」
 自身の情に負け、彼の思いを退けることの叶わなかった以上・・・自分はこの先、自らの宿望を果たす
まで、なんとしても彼岸に渡る訳にはいかなくなった。彼の人の運気までも自分に引きずられてしまう以
上、自分は安易な脱落をけして許されなくなった。その事実は、この先時として、事態に窮した自分を追
い詰める枷となるのかもしれない。
 だが・・・ある意味では情け知らずともいえるそのやりようが、秀策が自分に残した最後の荒療治なの
だということにもまた、佐為は知覚しないわけにはいかなかった。

 神の一手を極め、生前の自身が被った汚辱の全てを雪ぐこと・・・それこそが自分の望みであり、その
願いを果たさぬことにはこの魂魄が浄土へ渡れるはずもない事を、他の誰よりも彼の人は理解していた
はずだから・・・。
 自らの身上をもなげうった・・・それはこの現世で最も尊い思いの形。

 「・・・・・・っ」
 刹那・・・自身の奥底から湧きあがった禁忌にも似た思いを、長い間自らを孤独と信じて止まなかった
魂は滂沱たる涙と共に受けとめた。
 ああ・・・これほどに・・・
 「・・・う・・・・ぁ・・・っ」
 激情を堪えるかのようにきつく握り締めた拳の上に、情動の雫が後から後から降り注ぐ。最後の自制
で上体を床面に突っ伏し、せめてもの意地で見るものとていない外界の目から覆い隠したその発露が、
自ら纏う狩り衣の袖を濡らすばかりになった時・・・ついに佐為は嗚咽をこらえることを止めた。

 「・・・っく・・・・・・・ぅ・・・っ」
 秀策・・・秀策・・・私の神・・・
 これほどに深く、真摯に・・・この身が誰かの情愛を受け止めることがあろうとは、思わなかった・・・

 「・・・しゅ・・・・さく・・・っ」
 ああ・・・この現世に、当代のよりしろとなってくれた進藤ヒカルの側に、自分は在り続けるとも・・・
 それこそが自身の宿望と見ぬいていた彼の人の思いを知ればこそ・・・自分はこの未練を正当化せず
にはいられないだろう。それを見越してこその彼の人の言葉を・・・自分は畏怖と謝意を以って受けとめな
い訳にはいかなかった。

 はっきりとした言葉で自分の存在を否定した、ヒカルとの間に穿たれた溝は、そう容易くは埋めるとこが
叶わないかもしれない。あるいはここで現世に見切りをつけることこそが、自分にとってもっとも利口で安
寧に満ちた末路であるのかもしれなかった。
 世に生きる者達は、そうして有限の命を紡ぎ、没していくのだ。輪廻の習いに外れた自分ばかりが、い
つまでもこの強欲を貫き通していいはずがない。

 だが・・・この身上は、この『命』は、彼の人が与えてくれたもの。彼の人と、命脈を共にするもの。
 自らの心弱さで、おいそれと手放すわけにはいかなかった。

 ・・・・・・ああ、『生きる』とも。存えて見せるとも。
 自分の中の、ただ一人の神がそう望みもたらしたものならば・・・この身は既に、自分一人のものではな
いのだから・・・
 生前の彼の人が、この身上をも背負って当代を生きぬいてくれたように・・・今度は自分が、その身上をな
げうってくれた彼の人の命脈を、背負いながら『生きる』番だ。
 この先、どのような衝突がヒカルや、彼を通した現世との間に起ころうとも・・・自分はけして、『死』を選び
はしない。

 今よりも、これまでよりも、より強く剛く・・・
 そんな風に『生きる』ことが、彼の人の思いをも報いるものであるのなら・・・
 自分はきっと・・・この本懐を果たすまで、この仮初の生を『生きて』いける・・・

 『佐為・・・私のまごうかたなき守護神・・・貴方のことだ』
 居住まいを正して上体を起こした、その耳に・・・つと、青年の残した言の葉がよみがえったような気がした。

 明日は、ヒカルと塔矢の対局する日。この一局を堺に、自分達の相関がどのように変わっていくのかは先
見の力を持たない自分にはわからない。
 それでも・・・ただ後悔におぼれるような結末には、けして辿りついたりしない。
 だから・・・



 千年の昔、自身が哀切のあまりその魂魄を宿した碁盤の前に、万感の思いで向き直る。
 自分と、自分のよりしろである少年の目にしか知覚できない、愛しい想い人の残した血痕を前に・・・自らも
誓約を捧げた魂は、他に訪れるものとてない納戸の中で、亡き人を思う新たな涙を流した。





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