目覚めの悪い、夢を見ていたという記憶があった。覚醒へと意識を引きずり上げられながら尚、この片足
を現との狭間に踏み入れたままであるかのような・・・。
待ったなしに襲いかかる発作に安眠を奪われるようになってから、もう何日が経過したものか・・・。ようや
く訪れた、転寝程度の浅い眠りであったというのに、それさえもこんな後味の悪い目覚めを強いられなけれ
ばならないのは業腹だった。
心の臓が激しく煽り、俄かには身じろぐ気にもなれない。それでも夢も現も判別のつかないようなもやもや
とした曖昧さには我慢がならず、秀策は口惜しい思いで重い瞼を持ち上げた。
開かれた視野一杯に迫ってくるのは、見なれた天井の木目だった。夏の日差しが避けられる様配置を考
慮された寝床の中では目に眩しいという事はなかったが・・・病人の退屈を紛らわすかのように適度に障子
が開け放され、景観の解放された中庭からさし込んでくる光量に、今が日中である事を改めて得心する。
こんな風に臥せってしまうと、日にちの感覚も鈍りがちになると聞いた事があったが・・・他に何もできる事
もなくなると、気がつけばそんな事ばかり思いを巡らせていた。わざわざ暦で確認などしなくとも、日数の流
れははっきりとわかる。
それと共に、思い返したくもない現実にまで追想をつなげてしまい、思わず憮然とした響きの嘆息が落ちた。
あと何日・・・そんな風に考えるのも、もう精神が疲れはじめている。
死ぬものか、死んでたまるものかとまじないか何かの様に心で唱えつづけ、昇る朝の陽光を指折り数えた。
自分にはけして容易くついえる訳にいかない所以があり、また胆力の根源である生への執着を、自分は手
放した訳ではけしてなかったけれど・・・
例えば、白昼のふとした折などに・・・この熱気と、どれほど補給しても水分の摂取が追いつかない脱水症
状に、不意をついて意識を保てなくなる刹那が日を追うごとに増えてきていた。
ここで死ぬわけにはいかないと思えば、どれほどきつい闘病生活だとて自分は耐えぬく覚悟があったけれ
ど・・・それでも、そんな折には出し抜けに、どうしようもなく気弱になってしまう事がある。
臓腑の全てを吐き出すのではないかと思うほどの激しい嘔吐の発作も、消化機能の著しい低下に伴う弊害
も・・・その身体的苦痛もさる事ながら、とうに成人も果たした身上にはこの自尊の念を根こそぎむしり取られ、
それを地に叩きつけられているかのような恥辱の連続だった。吐く度に、また介添人の世話にならねばなら
ない度毎に、奥底から込み上げてくる様々な負の情動で、眼前が赤く染まったような心地になる。
そして・・・何よりも堪えるのは、もはや治癒を目的としたためではなく、体内から失われた水分を補給する
ためだけに、既に効能も見こめない薬湯を機械的に流し込まなければならない事だった。
飲めば吐く。吐けば脱水の症状が重くなってしまうから、また薬湯を喉奥に流し込む。生きるためというより
は、穴のあいた『器』に耐えず水を満たしておくためのその繰り返しは、砂で作られた時計のように自分の中
から確実に胆力を奪いつづけていた。
こうでもしなければ、この刹那さえも生き抜けない事は解っている。死ねない事由があるのであれば、どれ
ほどの惨めさにも自分は耐えて、明日へと命をつないでいかなければならなかった。
だけれども・・・ふと意識を取り戻した刹那に、生理的な涙を流しながら、今飲み下したばかりの薬湯を吐き
戻した刹那に、それらの全てがどうでもよくなってしまう事がある。
死ねない・・・自分は死ねない。
そう考えた次の刹那には、もう早く楽になってしまいたいと考えている自分の存在に気づく。
あまりにも極限に根付いたその二律背反が、ことある毎にこの身上を責め苛んできた。
こんなやりきれなさを背負ったまま・・・この身はいつまで耐えうることができるのか・・・
「・・・・・・埒もない・・・」
ともすれば際限なく深みにまで陥りそうになる後ろ暗い思考を・・・秀策は軽く頭をうち振ることで脳裏から振
り払った。
こんな逡巡を巡らせてみたところで、この余命が一刻だとて引き伸ばされる訳ではない。むしろ、自ら気力を
失うような事にばかり思いを馳せていては、無駄に命を縮めるだけだ。
もはやここまできてしまった以上・・・自分にできる事は、一刻でも長く、この命を紡ぐこと・・・
・・・と、そこまで思いを巡らせて、秀策はこの長考の一端を担う存在へと意識を傾けた。
常であれば、どれほど気を使うなと言っても側近くに控えてあれこれと心を砕く、馴染みの魂魄の呼び声が今
はない。
自分が寝入ったのを確かめて、珍しく外の様子でも見に出かけたのだろうか・・・
「・・・佐為?」
刹那・・・
これまで手持ち無沙汰に眺めていた天井から何気なく視線を泳がせた秀策は、巡らせた先に思いもかけない
光景を見咎めてその双眸を大円に見開いた。
俄かには、声がでない。
そこには・・・自分の傍らに付き添ったまま寝入ってしまったと思しき青年の外観を形取る霊魂が、さながら生あ
るものであるかのように、枕元に座った体勢で瞑目している姿があった。
どこか茫としたよすがのまま、どれほどの時間を同じ体勢で佇んでいたものだろうか・・・。
障子を開け放したままだった事で、中庭から吹き込んでくる夏の熱気を残した風に頬をなでられ、秀策は
自失から立ち返った。
実際にはよりかかるべくもないその霊魂の身を、傍目には障子にもたせるようにして瞑目している彼の存
在を眼前に、思わずこぼれてしまった笑みを納めることができない。
白日堂々と、転寝する様を人目に曝す霊魂など前代未聞だった。そもそも、消耗するべき肉体を持たない
存在に、心身の休息を目的とした睡眠が必要であるのか。長時間の活動には肢体が疲れ、長考には精神
が磨耗し・・・そういった人の摂理に、今生を辞したといえどもその身は適合するものなのだろうか。
だとすれば、眼前で船を漕ぐこの得難い魂魄は、現世に生きる自分の有り様と、何処が違うというのだろう。
そこまで考えて・・・秀策は、後ろ暗いもの思いに沈みかける己に首を振った。
・・・そうだ。現世に身を置くこの身上と、佐為のもつそれは何も変わるところなどありはしない。同じように
感情を持ち『生き者』としての欲を持ち・・・情動が高ぶれば泣きもするし笑いもする、彼は自分にとって等身
大の存在だった。
昨夜は明け方まで嘔吐の発作に襲われ、一睡もすることができなかった。例え実体を持たずとも、そんな
自分を案じて一晩中付き添っていてくれた佐為だとて恐らくは相当に疲弊を覚えているのだろう。
不意を突かれるようにして発作にみまわれ、まんじりともできずに込み上げる嘔吐感と戦いながら、障子を
通して室内にうっすらと差し込んで来る、最初の陽光の訪れを知る・・・そんな夜を、もう幾晩過ごしてきただろ
うか・・・。そんな風に夜明けの刹那を向かえる度、刻一刻と梳られて行くこの生の終焉を、自分は眼前に突き
つけられているような心地になった。
・・・解っている。自分はもう、けして助かることはない。それはもう誰に言われるでもなく、この身の衰えが何
よりも雄弁に物語っていた。
けして解消されるという事のない漠としたもの思いは、いつでも同じ懸念へと辿りつく。
いつまで・・・自分は生きられるのだろう・・・
江戸に大流行した「水あたり」・・・俗にころり病と称された流行り病は、その症状が軽ければ投薬により命を
取り留める事もある。相次いで罹患した本因坊の家人達も、幸い軽症であったために全てことなきを得ていた。
だが・・・一端発病した後、薬や療養で命を存えることが叶うのは、一握りの罹患者に限られていた。風邪や
水疱瘡のように明らかに全快を見込める病であれば、人は誰もそれを流行り病などとは呼ばないだろう。
病状が一端効薬の範疇を超えてしまえば、あとはもう日1日を引き伸ばす延命療法を施す程度しか処置はな
い。それだとて当代の医術では限りがあった。
潜伏期間での予防、早期治療が望めたのであればともかく・・・三日で回復の兆しが現れなければこの病か
らの快気はほぼ絶望的であるといわれている。発症から今日で五日になる自分の容態に、医師が匙を投げて
いることは想像に難くなかった。
回復が見込めなければ、三日で死に至るとさえ言われる脅威の病魔だ。この余命がいつまで続くものか、そ
の程度も推して知れる。
掛け布の上に無造作に投げ出された二本の腕は、壮年の男が持つものでは既にない。慢性的な脱水症状
にかさつき節くれだったこの手を見て、それが三十路の男のものだとは誰も思わないだろう。
枕を上げることも正直堪えるので、水鏡のようなものですら自分の顔を映して確かめることはなかったが・・・
この調子では、きっと酷い容色をしていることだろう。
こんなにやつれて、恐らくは見るものが目を背ける程のみすぼらしい姿になって・・・それでも浅ましくこの生に
しがみ付いている自分の業が、いっそ恐ろしくさえあったが・・・。
それでも・・・自分は死ねなかった。そう容易くに、この身上を手放してしまう訳にはいかなかった。
この現には・・・この身一つを今生への唯一の足がかりとしてその抱く宿願を果たさんと、懸命に当代を渡ろう
としている共存者がいる。
佐為・・・遠く平安の世に生き、数百年と言う時を経て尚、自身の切望を捨て去ることのなかった、稀有な魂。
共存とも、共鳴とも、憑依とも・・・自分達の相関を、世界がなんと呼び習わすのかは解らなかった。それは一
語で言い表すには余りにも複雑な互いの立ち位置であったし・・・結局のところ、どう穿ってみたところで当事者
である自分達以外に、この相関を理解できるものなどいはしない。佐為のよりしろとなれるのはこの身だけなの
だと、幼いころから肝に刻んできたのだし、またそれこそが自分に内在する自負の揺るぎ無い核となる部分で
もあったから、秀策にはむしろこういったどこか閉鎖的な相関が、反って喜ばしくすら思えていたのだ。
だが・・・それもこれも、この身上が現世に存えていればこそ。
佐為・・・・・・初めて相対したあの子供の日から、自分は人型をしたこの得難い魂魄に、自分の存在意義を見
出してきた。三十四年というけして長くはないこの半生の中で、自分はこれほどにすがしい存在に出会ったこと
がなかった。
誰よりも、何よりも・・・この執着を引き寄せて手放すことのなかった、白き守護神。この存在の為にこそ、自分
は自分の生涯さえをも捧げるに吝かではなかった。
彼が相手であったからこそ、それはなり立った相関。彼と相対するからこそ、それは腹のそこから沸きあがっ
てきた切望だった。
人として、自分が対外に誇れる生き様を貫けたのかと問われれば、それに即答することは容易くなかった。そ
して感情を持った生き者である以上、常に何かを先に立て、生涯の何もかもを理知的にとらえた上での言動を貫
くことはとても難しい。
だが・・・自分をそんな気持ちにさせた相手は、この短い生涯にただの一人だった。
そんな、ただ一人の得難い存在を、自分は自分の命運から置き去りにするのか・・・
・・・花は、まだいいかもしれない。幼い頃よりこの本因坊の門下で共に育ち、気性も嗜好も互いに知り尽くし
た恋女房がこの死を嘆かないとは思わないが・・・それでも、ときがたてば必ずや立ち直り、自身の第二の生を
歩んでくれるだろう。情に深くありながら、花とはそう言った芯のある女性だった。
連れ合いを失っても、実家である本因坊の碁界における権勢は強い。この先どう言った生き方を選ぼうとも、
後ろ盾も確かな彼女はいかようにも生きられるだろう。腹の子も・・・父親の顔を知らずに育って行くのは哀れだ
が、本因坊の後押しと花の手により育てられることを思えば、きっと実のある子になってくれるだろうと、未練が
尾を引くのはいた仕方がないにしろ、最後には安堵することもできる。
だが・・・時世の理と言うものに、何ら影響を受けることのない存在にとっては、本因坊の力も財も、何の役に
も立ちはしないのだ。
今生において、佐為のよりしろとなり得たのは自分だけだった。
その自分が死んだら・・・彼の魂はこの先どうなってしまうのだろう・・・
妻が、まがりなりにも佐為の姿を認識し、対話さえ叶う事は知っている。だがそれは、彼女が人よりも霊的な
感性を持ち合わせていたというだけのことだ。同調はできても共存が成り立っている訳ではないのだから、そう
して見境なく接触を繰り返せば必ず弊害が出る。事実、それが原因となって花は半月ほど伏せっていたことが
あった。
仮に媒体としての波長があったとしても・・・これでは到底、共存など望めない。また、情にも深い花のほうはど
うあれ、自分の連れ添いだった彼女までもその宿望に巻き込むことを、他ならぬ佐為が是とは言わないだろう。
結果として、佐為は自らの居場所を失ってしまう。誰からも省みられることがなく、またその思いに誰一人報い
ることがないのであれば、それは現世に存在しているとは言えなかった。
神の一手を極め、また生前に自らが被った汚辱の全てを注ぐこと・・・世紀を渡りつづけたその宿願の叶わない
限り、その魂魄が成仏を果たす日は永劫に訪れはしないだろう。諦観し、生半可な妥協で彼岸へと渡ろうとすれ
ば、その魂は現世に地縛するばかりの存在となってしまう。
その切なる望みのほどを知り、幼い頃よりその宿望と共に向きあってきたのは自分だ。その自分が・・・誰より
も側近くで生きてきた彼の人を、そんな救いようのない存在に貶めてしまうのか・・・
不覚にも気が緩みそうになり、秀策は奥歯を食い絞める様にして込み上げてくるものを喉元で押し殺した。
佐為・・・何者にも比類のない、高雅ですがしい、ただ一人の守護神。
どうすればいい・・・自分は彼の人を、現世におきざる事しかできない。この魂魄と袂を分かたれて、自分は涅槃
へ旅立つことしかできはしない。
取り残される者の痛みが、おきざる者の肝に刻み付けられるそれよりも軽く救いがあるなどと、誰がどうして言え
るだろう。むしろ、けしてそのあり様を変える事を世界から許されない彼の存在の方が、どれほど哀れであることか
・・・。
そんな、如何ともしがたいやりきれなさを・・・媒体となった自分以上に、佐為は感じているはずだった。刻々と迫
り来るこの終焉のときを目の当たりにし、その肝を冷やしていないはずがない。暗澹とした、思いに駆られていない
筈がない。
だが・・・それでも彼の人は、ただ笑って見せるのだ。
発症したばかりの頃は、きっと大丈夫ですよと言って笑った。この家に暮らす人達は全員命を取り留めたのです
から、同じ薬湯を処方されているのですから、貴方もきっと大丈夫ですよと笑っていた。
回復への境界線と言われている三日が過ぎても、その笑顔は変わらなかった。最も胆力に溢れた、男盛りでは
ありませんか。体力のないお年寄りや女性子供まで助かったのですから、貴方の熱が下がらないはずがありませ
んよと笑っていた。
そして、病に倒れてより今日で五日・・・発作に耐え、眠れない夜を明かす自分を前に、彼はそれでも笑って見せ
るのだ。他に何を言うでもなく、ただ大丈夫ですよと言って笑うのだ。
・・・何が、大丈夫であるというのか。
誰の目にも終わりのときが明らかであろうこの身を前に、それでも病は必ず治ると気休めを繰り返すのか。
後に残されるもののことは心配いらないと、この身の後顧の憂いを絶とうというのか。
それとも・・・自分の死後、その身の振り方を懸念せずにはおれない彼の人の身上をこそ、案ずるなと言って彼は
笑うのか・・・。
それは余りにも漠とした希望的憶測を出ない物言いであり、彼が底意からそんな風に告げる訳ではない事に・・・
世間に誇れるほど聡い訳ではなく、むしろ朴念仁呼ばわりされることの方が多いであろう自分だとて容易く気づ
かないわけにはいかなかった。
それが・・・どうしようもなく、やりきれない。
生あるものならば、その死を恐れるのは本能のようなものだ。こうして入滅の時を目前にしてもなお、達観するど
ころかすぐ背後まで迫り来た暗い死の顎を、これ以上ないほど恐ろしく疎ましく思う。
だが・・・心の臓をわしづかまれるかのようなこの後ろ暗い情動よりも、自分が残して行かなければならない彼の
人の、自分に向ける笑顔の方が何倍も痛くしのび難かった。
解っている。これは如何ともし難い命運に引きずられるよりない自分に対し、最後に向けられた彼の人の厚情だ
った。その身上を案じていては自分が涅槃に旅立つことなど叶いはしないことを見ぬいているからこその、それは
労りにも似た偽りの言葉。
助からない命であることは、共に痛いほどに承知の上。ならば、せめてこの終焉の時を、僅かでも心穏やかに迎
えられる様にとの、余りにもやるせない思いの形がそこにはあった。
解っていた。だけれども・・・どうしようもなく、それが痛い。
志も半ばにして倒れることは、誰だとて辛く耐えがたい未練だった。こうして息果てようとする今になって、それが
はっきりと解る。
だけれども・・・それは、彼の存在だとて同じことなのではないのか・・・
彼の人もまた・・・媒体となるこの身が潰えれば、現世に『存在』する術を失ってしまうのだ。気の遠くなるほどの
時を待ち望み耐え忍んで巡り来たこの出会いに、どれほの執着を以って彼は縋っていたことか・・・
この生がこれほどに短く呆気ないものだとは、自分だとて彼だとて思ってもみなかった。どれほどの無念と未練で、
彼はこの宿業に向きあっていることだろう。
あるいは、この身の保持者である自分よりも尚、その抱く辛苦は重い。だというのに何故・・・それほどの思いを
味わいながら尚、彼はこの身に向けて笑いかけて見せるのか・・・
この理不尽に憤り、いっそ泣き喚きたいのは貴方の方こそだろうに・・・
共存する命運を承知していながら、感染することへの配慮も打ち捨てて罹患者の看病に走った時・・・彼は、自
分に対する非難めいたことは何一つ口にしなかった。健常者であればそう容易く感染、発症したりはしないからと、
そういって我侭を貫きとおした自分を前に、そうですねと言って笑った。その心意気はとても尊いことだと言って笑
っていた。
・・・・・・そうして我侭を通した挙句が・・・このザマか・・・!
「・・・っ」
刹那・・・胸襟を押しつぶす様にして奥底から込み上げてくる情動を、ついに秀策はこらえることを止めた。
良い夢を、見ているという訳ではないのだろう・・・わずかに柳眉を寄せるようにして瞑目する眼前の霊魂を見上
げる視野が、打ち消しきることのできなかった思いの発露に出し抜けに滲んでいった。それを、例えここに意識が
ないと解っていても彼の人の前に曝す事はどうしても耐えがたくて、体に障ることも構わずに寝返りを打つ。
その体勢のまま・・・嗚咽する不様だけはけして自分に許すまいと、秀策はきつく歯を食いしばって泣いた。
妻の身上も気にかかる。その腹で育つ、顔を見ることの叶わないであろう我が子の行く末を思うと未練に後ろ髪
を引かれる心地になる。本因坊の身代だとて、やはり自分は気がかりで・・・
だが・・・だけれども・・・
・・・佐為・・・他の何よりも誰よりも、やはり貴方の行く末が気にかかる・・・
どれほど浅ましいとそしられてもいい。余人が思わずその目を背けるような、惨めにやつれ果てた姿のままで
も構わない。
どんな姿でもいいから・・・後一日でも二日でも、自分は現世を行き抜きたい。この身上のみを頼みとする、あ
まりにも哀れなこの魂魄に・・・ほんの僅かの猶予であれ、この現への繋がりを残してやりたい。
これが、何の意味もなさない愚かな未練であることは解っている。どれほどあがいてみたところで、自分と彼
の袂が分かたれる日は避けようもなく訪れるのだ。僅かばかりその刹那を先送りにできたとて、後に残される
痛痒に何の違いがあるというのだろう。
解っている。解っていた。だが・・・それでも・・・
この未練をどう宥めればいいのか、この執着を、どうすれば祓うことができると言うのか・・・。
佐為・・・佐為・・・貴方を置き去りに、一人死に行くことなどできない・・・!
どれほどの時間を、そうやって過ごしていたのだろうか・・・
開け放たれた障子の向こう、一杯に景観を広げる手入れの行き届いた中庭の一角で、風物詩を思わせる
蝉の声が耳やかましく響き始めたことで、秀策は束の間のもの思いから現実へと意識を引き上げられた。
ゆっくりとした所作で再び寝返りを打ち、向き直る形となったその見なれた景色に視線を投げる。程なくして、
それは傍らに控えたまま寝入っている青年の姿の上へと移された。
・・・そういえば・・・この中庭は、佐為の意向を含んだ上で慎ましく改装を重ねてきた場所でもあった。
門下を指導し、格式にのっとった公な対局もまま行われる道場も兼ねた母屋のほうではそういう訳にもいか
ないが・・・この離れは自分と花が所帯を構える目的で開放されていたから、割合好き勝手に手を加えること
もできたのだ。
なんでも、彼の人が生前の生活範疇としていた平安の御所の、日がな指導碁を打っていた『大君』の部屋
から見えた、御所の庭園の一角がそのような様相であったのだという。
改装といってもけして贅沢なものではなく、庭石の配置を直したり庭木のニ、三本も増やしてみたり・・・元来
瀟洒な作りをした場所であったから、大掛かりなことは何一つしなかったのだが・・・それでも、こんな悪戯めい
た事に彼の人は手を打って喜んでくれるから・・・つい過ぎてしまったと言う所はあったかもしれない。
余人に佐為の姿が見えない以上そこにそんな裏事情があったとは誰も知る由もなく、当然この庭は自分と、
妻である花の意匠であることになっていた。離れを個人的に訪れた客人などからその様相を趣味がいいとそ
やされる事もときにはあり、そういった賞賛は自然とー何しろ自分にそういった才覚がからきしである事は周
知の事実であったのだからー花の方に向けられた。そんな折は、花も、また後から話に聞いた佐為も、それ
ぞれの理由で苦笑を漏らしたものだった。
「・・・っ」
そんな、らちもない追想に束の間浸りかけて・・・ふと、自らの口元が思いだし笑いに撓んだ気配を、病に
伏した体は驚きを以って迎え入れた。
手厚い看護を続けてくれる医師や家人、そして何よりもこの身を媒体とするよりない彼の人の気持ちを煩わ
せまいと、自然身についてしまった取り繕いのためではない、底意からの笑い・・・
・・・驚いた。こうして今日か明日かと終焉の刹那に怯える身上でなお、自分は笑うことができるのか・・・
そうだ・・・先刻目覚めたときも、確かこんな感じではなかったか。
それは恐らく、自分自身の力ではあるまいと・・・その自覚の思いには、不思議なほどに気負いを感じるこ
とがなかった。
幼いころより、誰よりも側近くに存在した魂・・・考えるだに、それは不可思議な相関だった。
この青年と共にあると、自分はいつまでも自らの後ろ暗い情動に浸らせてはもらえない。けして無理強い
をする訳でもないのに、彼の存在が自分に見せる何気ない言動が、自分の中にしこったものを徐々に徐々
にとかしていく。
人は自分のことを穏やかな人柄と評してくれるが、佐為の存在がなければこの身がそのように解釈され
る事などなかったかもしれない。
長い付き合いでありながら・・・本当に、不思議な得難い、稀有な魂だった。
胸襟でざわついていた情動が次第に収まりを見せる気配に、呆れ半分衒い半分の嘆息が落ちる。これほ
どの清涼剤を、自分は他に知らなかった。
ああ・・・そうなのだろう。きっと、そうなのだ。
自分の中のそういった一面を知ればこそ、彼はいつでも自分に向けて笑いかけて見せるのだ。まじないか
何かの様に、ただ大丈夫だと繰り返して見せるのだ。
例えそれが空言に過ぎずとも・・・自分の中にある鬱積を確かに癒す効果もそこにはあるのだと、彼自身が
知っているから。
そこまで考えるにいたり、秀策は再びこみあげてきた苦笑を凪いだ思いで受け流した。
なんとも・・・できすぎた、そして自分に都合のいい相関もあったものだと思う。彼の存在に対する謝意や面
映さで、これでは素面で向きあう事すら気恥ずかしい。
と、その刹那・・・どういった弾みであったのか、先刻までやかましく鳴き立てていた蝉が一匹、乾いた音を
立てて室内に飛び込んできたのを秀策は見咎めた。
そのうち逃げ出すだろうと一端は関心を移しかけたが、ふと埒もない悪戯気が芽をもたげてしまう。
ゆっくりと腕を伸ばすと、すぐそこまで迫っていた件の獲物はジジ・・・と抗議の鳴声を上げた。それに頓着
することなく、手にしたものを体に障らないよう慎重に上体を起こしざま、片割れの魂魄の耳元へと近づける。
余りにも頃合よく、蝉が激しく抗議の訴えを見せた。
刹那・・・
「・・・うわっっっ!!!」
出し抜けに飛び込んできた奇怪な物音に跳ね起きた佐為の悲鳴と、ときを同じくして起こった秀策の爆笑
が、室内にそれまで絶ちこめていた静寂を切り裂いた。
何が起こったのか得心できず、泡を食ったように辺りを見回している青年の姿に、更なる笑いをさそわれる。
「・・・秀策〜」
幾許かの間をおいて、ようやくことの次第を飲み込めたらしい。取り繕う様に咳払いを一つすると、佐為は
この一件の仕掛け人に抗議するべく表向きは憤然と立ち上がった。
・・・と、その双眸に、一瞬遅れて意外の色が浮かぶ。
畳を叩き、笑いすぎて咳き込みながら、それでも涙さえ流して笑い続ける自らのよりしろの姿を・・・佐為は
珍しいものでも見るかのように頭の先から眺めやった。
ほどなくして、その容色がゆっくりと和む。
「全く・・・こういうところは、虎次郎のままなんですから」
幾つになっても変わりませんね、いい年をして・・・いいながら軽くにらんだ二つの虹彩は、しかし機嫌よく笑
っている。続く言葉には、むしろ相手の子供じみた悪戯を心底喜んでいる響きさえあった。
「これなら・・・こんな事をして喜べるくらいなら、心配なんかいりませんね」
貴方はきっと、百までだってこんな馬鹿をやって喜んでるんですよ。
・・・それは埒のないかけあいに過ぎなかった。この身上が今日明日を知れないことなど、もはや誰の目に
も明らかな事。きっと目前に迫った将来に、この命は事切れる。
だが・・・それでも何故なのだろう。眼前の青年が口にするだけで、それが真実であるかのように感じてしま
うのは。
本当に・・・なんと言う不可思議な、それは魂であった事か・・・
彼の口にする、他愛のないその一言一言が・・・自分にとっては、何ものにも変えがたい言霊となった。
空言であるとわかっている。子供だましであるとも思う。
だけれども・・・ただそれだけの事で、そんな錯覚を覚えたくなってしまうこの胸襟の容易い事といったらどう
だろう。
「佐為・・・」
ようやく笑いを収め、名残の雫を拭いながら、秀策は改めて眼前の存在に向き直った。改まったものを感じ、
佐為も再びその場に腰を下ろして居住まいを正す。
見慣れすぎるほどに見慣れた、その端正な面立ちを前に・・・自然と向けられたのは、事態を取り繕うためだ
けの実のない笑みではなかった。
幾許かの沈黙。
「・・・・・・大丈夫だな」
先に静寂を破ったのは、深みのある穏やかな、壮年の粋に達した男の持つ静かな声音。
「秀策・・・?」
一瞬言葉の意味を考えあぐねる素振りを見せた佐為は、しかし次の刹那には自身も同じようにてらいなく笑
んで見せた。
そして・・・
「・・・ええ。大丈夫ですとも」
何が、とも誰が、とも・・・相手の底意を問う言葉は一言も発されはしなかった。それでも、相手がその真意を
確かに汲んでいるのだという事を、二人は向き合った互いから確かに感じ取る。
人の姿をした人外が形取って見せた清雅な所得顔は・・・常と寸分変わる事のない、昔から馴染んだものだっ
た。
・・・ああ、解っている。解っているとも。この身上は、もう本当に幾許もなく事切れる。自分達が交わしている
のは、意味をなさない空言ばかりだった。
それでも・・・彼の存在から向けられた笑みに、言葉に、この身に巣食うしこりが溶かされていく爽とした感覚
を、自分は否めない・・・。
生きられる。生きていける。近い将来必ず訪れるその刹那を、自分はきっと真っ向から迎え入れることができ
るだろう。
そのためにこそ・・・この刹那を存えるために払わなければならない人としての恥辱をも、自分は明日の陽光
を向かえるために、最後まで凌ぐことができるはずだった。
自分が潰えれば、共同体である佐為だとて、もはや現世に存在することは叶わない。確実に終焉が迫り始
めた今、それはどうにも避けようのない事実であったけれど・・・
ほかに何をしてやることも叶わないのなら・・・せめて、彼の前では少しでも多く笑っていようと思う。取り繕う
ためのものではない、底意からの所得顔で、彼と向きあっていたいと思う。
残された余命があと一日であるなら一日分、二日であるなら二日分・・・この内に巣食う情動を緩やかに浄
化してくれる、彼の人に返せる最後の謝辞として・・・
おそらく、ただ人に過ぎない自分では、この命の最後の刹那を、きっと取り乱さずにはおられないから・・・
せめて彼の人の中に・・・あの男はいつでも笑っていた、ときに子供のような馬鹿をやっては笑っていたと、
そんな風に穏やかな追憶を残せる様に・・・
笑って逝くことはできなくとも・・・そんな自分の思いだけでも、彼の人に残せるものならばそうしたいから・・・
笑っていよう。少しでも長く、自分は彼に向かって笑って見せてやろう。
自分が屈託すれば、誰よりもすがしいこの魂は、同じ痛みに苦鳴を上げるその胸襟を押し伏せて、自分を
癒すためだけの空言を繰り返して笑うから。自分のためにだけ笑うから。
だから・・・そんな得難い共鳴者を癒してやれる様に、今度は自分が笑っていてやろう。
本因坊秀策は、自分が共存したからこそ、けして長くはなくとも幸甚に満ちた生涯を得たのだと・・・百年先、
二百年先、再び彼が現世に触れることが叶ったとき、彼の中でまじないの様に、その記憶を持たせてやれる様
に・・・
・・・だから・・・自分が、笑っていよう。
文久二年、八月十日・・・当代きっての碁の名手であり、心映えの穏やかな人格者としてその名を知られた
本因坊秀策は、当時江戸の世に大流行した流行り病に罹患し、発病から七日の闘病生活を経て、その若す
ぎる生涯を閉じた。
その生前の忘我の献身により流行り病から一命をとりとめた者達や、その人柄を慕う関係者達からの愛惜
の声は高く・・・彼の身柄はしめやかに・・・そして手厚く葬られたとつたえられている。