ガドゥス公ルカンという男に、この戦局に至るまで、リュシオンは直接に相対
したことがなかった。
自分達鷺の民を陥れた元老院の企て。神使暗殺を隠蔽するための彼らの詐
術に煽られたベグニオンの民によって、セリノスの森は焼き払われ、祖国は滅
亡した。
全ては、後になって聞いたことだ。そして自分がその真実を知ったころには、
もう自分の生きる世界は、あの美しかった故郷の森ではなくなっていた。
あの大虐殺によって祖国を離れ、フェニキスに身を寄せてからの二十有余年、
虐殺に対する怒りは当然消えることはなかったが、「今」を生き延びなければ
ならなかった自分には、激情に身を任せるよりも先に、あの鷹の国で大過なく
命をつなぐ術を身につけることを考えなければならなかった。
そうして夢中になって一年一年を重ねていくうちに、いつしか、自分の中にあっ
た自分の生きる目標は、セリノスを離れた当初とはその形を違えていた。
元老院に対する怒りは納めようがない。だが、セリノス王家の生き残りとして
ラグズ社会に容認された自分には、復讐よりも先に、セリノスの復興が何より
の優先課題だった。
セリノス王家筆頭である父王と、その長子である兄王子を盛りたてて、王国
復興の土台を固める。そしていつか、兄王子と同じようにどこかに生き延びて
いるはずの同胞を探し出し、新たなセリノスの血筋を残すのだ。
そうして種族繁栄の礎を築き、祖国再興を目指す方が、我が身を擲って「仇」
に挑み、互いに無為に命を削り合うことよりもよほど有用で建設的な手立てで
あるように、いつしかリュシオンは考えるようになっていた。
元老院の……ひいてはベグニオンの贖罪と祖国復興への助力は譲れなくと
も、「仇」全ての命を、亡き同胞達への手向けにしようとは思わない。仕掛け人
である元老院だけならまだしも、それを実行したベグニオンの民や、その子孫
にいたるまでまで報復の刃を向けるなら、あの大国を丸ごと滅ぼさなければな
らなくなる。
そんな事をしても、きっと彼らは喜ばないだろう。
こうして生まれ故郷を離れて生きてきた、異端の鷺としての年月は、自分の
中に蟠る怨恨を、少しずつ時間をかけながら鎮静化させてくれたのだと思って
いた。図らずも数多くのベオクと接触したことで、ラグズのみならずベオクの中
にもセリノスの協賛者を得た今となっては、尚のこと、端的なくくりで敵味方の
線引きをしたくないものだと思う。
だから……ベグニオンの神使であるあの少女の謝罪を受け入れることができ
たように、ただ「仇」だからという理由だけで、自分でも止めようがないほどの破
壊衝動に駆られることは、もうないと思った。もう自分はその境地にたどり着い
たのだと思っていた。
だが……
「……っ」
初めて目の当たりにした、元老院の中核を担う男の姿。ざわめき立つユンヌ
軍の面々を一瞥し、蔑み切った表情のまま歪んだ笑みを浮かべたルカンの容
色に……リュシオンは、全身の毛が逆立つような衝動を覚えた。
かつて自分の隷属を強要し、この塔に突入する直前にさえ激しい悶着を起こ
し、けしてこの男に心を許せる日は来ないだろうと確信めいた思いまで抱いて
いた、あのタナス公オリヴァーにさえ抱いたことのなかった、叫びだしたくなる
ほどの憎悪と嫌悪。
この男を、生かしたままこの場をやり過ごすことなど到底出来そうもなかった。
まだ自分の中にこれほどの憎悪が残っていたのかという衝撃と、それを払拭
しかねないほどの怒りの感情に、男を見遣ったリュシオンは愕然となる。
そんなリュシオンの、含みを持った視線に気づいているのかいないのか―――
周囲を睥睨したルカンは、次の瞬間哄笑した。
「……女神に選ばれし私は万能だ!」
叫びとともに、振り上げた手によって間髪いれずに切られた、馴染みのない
印の形。続く詠唱。
何の意味があるのかと、考える間もなかった。
刹那―――塔の内部を、不自然な静寂が支配した。
否。その状況静寂と呼んでしまうには、語弊があるかもしれない。激戦区と
化していたはずの周囲一帯は、迎え撃つ正の使徒達の声を除いて、静まり
返ったのだ。
これはどういうことだと、居合わせたユンヌ軍の誰もが疑念の声を上げかけ
て……そして、続く刹那、自らの異変を悟った者たちは、近場のものと互いの
顔を見合わせ、そして、互いの置かれた状況を悟った。
―――声が、出ない。
ルカンの唱えた謎の詠唱。その内容に精通するものはユンヌ軍に存在しなかっ
たが……効力から考えて、それが敵対する勢力全体に範囲を広げて発動した
全体魔法、サイレスであることに間違いなかった。
沈黙の魔法、サイレスは、対象から一切の言葉を奪うある種の禁呪だ。一定
以上の魔力を有し、専用の杖を用いれば使い手を選ぶ魔法ではないが、好ん
で用いるものはあまり存在しないだろう。
術の発動を助ける杖が非常に高価で希少だということもあるが……有体に言っ
て、述そのものの心象が悪いからだ。
サイレスの効力には限りがあり、一定時間言葉を発することができなくとも、
剣や槍といった武器の使い手にとっては然程の事態ではない。だが、魔法の
詠唱を前提とする魔法系の使い手達にとっては、話は別だ。
声を失い、魔力を開放するための詠唱ができなければ、それのみを武器とし
て戦う魔導の使い手は丸腰同然となる。ましてや、体力的に、他の戦士達の
ように己の肉体を盾として窮地を乗り切ることも厳しい彼らにとって、戦場でこ
の術中に陥ることは、自身の死をも意味した。
だからこそ、戦士の誇りを蹂躙するにも等しいこの禁呪を、好んで用いるもの
はユンヌ軍には存在しなかった。
その禁呪が今、この戦場に展開する全員にむけて発動している。
「……っ…っ」
全軍が陥ったこの窮地に、真っ先に反応したのが、竜鱗族のイナだった。せ
めて一部なりとも軍の機能を回復させようと、周囲に居合わせていた者達に
向けて、種族の特性である波動を発動させる。
ほの赤い燐光に包まれ、声を取り戻した僅かな魔道士達が、それぞれに
杖をふるって同胞の窮地を回避する。ラグズであり、呪歌謳いという能力の特
異さから、魔法の制約下でも歌を封じられることのないリュシオンも、めまぐる
しく辺りを飛び回っては「快癒」の呪歌を奏でた。
だが、どれほど急いでそこまで動いても、軍全体にかけられたサイレスの効
力から味方全てを開放することは容易ではなかった。
せめて魔導の使い手、それから指揮権をもつ者だけでもと彼らが支援に回
る間にも、正の使徒達の援軍はひっきりなしに湧いてくる。杖などの回復手段
をもつ者達が一時的にせよ攻撃を放棄せざるを得なかったことで、戦況は、一
気に悪化した。
辺りが完全な混戦状態になったのを満足げに見届けると、再び人好きのし
ない笑みを浮かべたルカンは、先刻のものとは別種の詠唱とともにその場か
らかき消えた。
リワープの禁呪で戦場を自在に移動するルカンを野放しにすれば戦況が厳
しくなることは必至で、転移に気づいた数名が咄嗟にその後を追おうと動く。
だが……動揺にせかされるように動かされたその布陣は、結果として、正
の使徒達とギリギリの戦力差で戦っていたユンヌ軍の戦列を乱した。
束の間であれ、統制の崩れたユンヌ軍はその余裕を失い―――堅固な戦
線をしいて臨んだはずの戦局は、千路に乱れた。
ルカンのしかけた「特攻」から、果たしてどれ程の時間が経過していたのか。
乱された戦列から、護衛役を買って出た槍使いの少女に伴われて一時的
に前線付近から退いたリュシオンは、しかし、そこで再び繰り広げられた正の
使徒達との攻防に巻き込まれ、単身塔の深部に追いやられていた。
時間としては、ネフェニーとはぐれてからいくらも経ってはいないようだったが、
前線からだいぶ離されてしまったことが気にかかる。時折聞こえてくる、敵味
方まじりあった怒声の程から判断するに、ここと前線とは、単身引き返すには
二の足を踏むほどに、距離が開いてしまっていた。
今、周囲に敵の気配は感じられないが、この状況で正の使徒と遭遇すれば、
戦闘能力を持たない自分は殺されるか、虜囚の身に甘んじるしかない。いず
れにしても、志願して従軍した以上、同胞達の満足な支援もできず、そんな形
で落伍することは自分に許せなかった。
とにかく慎重に、しかしできる限り迅速に、厳しい戦局を強いられた同胞達
の元に戻らなければならない。
少しでも目立たぬようにと化身を解き、神経を研ぎ澄まして塔の壁沿いに中
心部を目指す。そうやって、一歩の距離を慎重に踏みしめながら、どれほどの
時間を費やしたころだろうか。
「…っ」
ふと、リュシオンは、ここから十数歩ほどを隔てられた塔の一角に、見知っ
た人影を認めた。
聖者と呼ばれる存在であることを示す、特殊な意匠を施されたローブに包
まれた、お世辞にも痩身とは呼びがたい体。常であれば見苦しいと一蹴した
であろうふくよかな体躯はしかし、戦場においては見る者に安心を覚えさせ
るある種の貫禄のようにすら感じられた。
けして好意を抱いてはいない人物に、意外な印象を覚えた自分がリュシオ
ンは面白くなかったが、とにかく、彼が自分と行軍をともにする見方である事
に違いはない。
ここはひとまず、平時の禍根は忘れすべきだと気安く声をかけ掛けて……
しかし、その寸前で、リュシオンは呼ばわりの声を飲みこんだ。
こちらに背を向けているオリヴァーは前述のとおり、到底痩身であるとは言
えず、結果として幅広く視野を阻んだ体躯のその先に、また別の人影が見え
たのだ。
敵味方の区別もつかないほどに微かなその人影を見改めようと、更に数歩
の距離を近づき……リュシオンは、今度は驚愕によって反射的に喉を突いて
しまった声を、再び飲み込まねばならなかった。
「ル……っ」
塔の片隅で、オリヴァーと単身向き合っていた不明瞭な人影。その面差し
を、リュシオンも事細かに記憶していた。なにしろ、つい今いましがた、不意
打ちのように現れて戦場を攪乱した男だ。
曰くを含んだ笑みを浮かべながら、こちらに背を向けたオリヴァーと何事か
を話していたのは……ガドゥス公、ルカンだった。
リュシオンは、咄嗟に物陰に身を潜めた。
オリヴァー自身に対しての、身の危険を案じての事ではなかった。
オリヴァーが対峙している男は、彼がかつて元老院というベオクの組織に
与していた当時の、同胞に当たる存在だ。オリヴァーが元老院を離れ、今で
はにわか同胞の関係になったとはいえ、オリヴァーという人間を心底から信
用していないリュシオンにとって、眼前の光景は彼の猜疑心を掻き立てるの
に十分なものだった。
そもそもオリヴァーは、ユンヌ軍が敵対する正の女神アスタルテの使徒
として表世界に復帰した男だ。その彼が何故ユンヌ軍に肩入れすることに
なったのか、経緯は兄のラフィエルから聞かされてはいたが、兄を見初め
て寝返ったという理由が理由なだけに、その軽薄とも呼べる信条を信用す
る気持ちには、到底なれなかった。
今この瞬間にも、かつての同胞との接触を果たしたオリヴァーはユンヌ軍
から離反するかもしれない。こちらに背を向けたオリヴァーからその意志を
感じ取ることができなくとも、負の気が充満した戦場において、鷺の読心能
力などあてになりはしないのだ。
もしも再びアスタルテの使徒として表返ることがあれば―――一度は軍
門に下った存在として、オリヴァーはしかるべき評定のもと制裁を受けなけ
ればならない。一蓮托生を前提に成り立つ組織に与する以上、離反の咎
は死を以てしても贖い切れない重罪だ。
緊縛した空気に満たされた塔内部の一角で、向き合う二人の男を、リュ
シオンは固唾を飲んで見据え続けた。
ここでオリヴァー離反と言う事態にでもなれば、その身を捕縛して制裁を
与えることとなる軍部の判断基準となるのは、唯一この場に居合せた自分
の証言一つということになる。
種族的性質から虚偽の証言はできなくとも、私見という建前の元に思わ
せぶりな申告をして、これ以上なく疎ましい存在であるオリヴァーを身辺か
ら遠ざることは可能であった。
だが、それを実行に移した時点で、鷺というラグズの威信は地に落ちる。
それはセリノス王家を断絶させること以上に、今は亡き同胞達に顔向けの
できない裏切りだった。
どのように事態が転がるにせよ、自分にはこの場で交わされた会話の一
言一句を、過たず見定めて記憶する義務がある。
現状を過たず把握するために費やされた時間は、然程でもなかったのだ
ろう。転機は、すぐに訪れた。
気安い様子で対峙するルカンに名を呼ばれたオリヴァーが、しかし、不必
要なまでに飾り立てた言い回しを好んで用いる平時の彼とは似つかわしく
ない語調で、にべもなく否やを唱えたのだ。
「断る。私はもはや元老院を離れたところに、私の生きるべき場を見出し
たのでな。いまさらそなたらと与して、与えられた居場所にしがみつこう
とは思わぬ」
「…っ」
この場に初めから居合わせたわけではないリュシオンには、憶測の域を出
ない事ではあったが……やはり、オリヴァーはルカンから、正の使徒として
の立場に立ち戻るよう「説得」されていたらしい。
それは、選ばれた神の使徒としての自負の塊のようであったルカンの気性
を想像するだに解せない展開であるように思えたが、自分達ユンヌ軍がここ
まで迫ったことで、彼らももはや形振りに構っていられなくなったということな
のだろう。
意外の思いを抱きながら、それでも後々の為にこの光景をつぶさに見届け
なければと気を取り直したリュシオンの視界の端で……にべもなく誘い手を
振り払われた、ルカンが激昂した。
「タナス公!貴様呆けたか!!」
リュシオン自身にこれまで面識はなかったが、かつてのオリヴァーを見知っ
たものとして、彼が身を置いていた元老院という組織の存在を、彼らがどれ
ほどの誉としていたのか、おぼろげに予想がつく。
ルカンもまた、元老院に籍を置いていた。のみならず、選ばれた使徒という
肩書にくすぐられ膨れ上がったであろう自尊心の高さは、想像に難くなかった。
「何が生きるべき場所か!女神の御意思にも沿わず、一人脱却したような
顔をして、それで私よりも優位に立ったつもりか!今になって僅かばかり
の信条が芽生えたとて、そのようなものが貴様の過去の清算になるもの
か!」
予想にたがわず、満面に朱を刷いて憤りをあらわにするルカンを前に、それ
でも、オリヴァーの語勢は乱れない。
だが―――変わらず淡々と紡がれた続く言葉に、それを隠れ聞いていたリュ
シオンの双眸が、次の瞬間大円に身開かれた。
「清算など、元よりできるはずもなかろう。それでも、私はあの白鷺達を髪先
一つでも損ないたくはないのでな。そなたらが害をなすというなら、それを
挫くまでの事」
咄嗟に飲み下せなかった驚愕の呼気は、リュシオンとルカンの、果たしてど
ちらからなされたものだったのか。
虚を突かれた態で二人の問答を見遣るリュシオンの前で、ルカンは束の間
自失し、そんな自分を奮い立たせるかのように笑い、そして最後に激昂した。
「タナス公オリヴァー!!」
口角から泡を飛ばさんばかりに怒声を張り上げるルカンに対し、煽られるこ
となく状勢を窺うオリヴァーの平静さが、高揚し続ける戦場の空気に不釣り合
いだとぼんやり思う。埒もないことだと思い直しながら、それでも、先刻のオリ
ヴァーの言葉に動揺を抑えきれないリュシオンの耳朶に、再びルカンの激昂
が飛び込んできた。
そして……
「貴様、この時勢にまだそんな戯けたことをほざいておるのか!女神アスタ
ルテの名の元、これより世界は再生されようとしているのだ。あの白鷺を
貴様と競り合ったこともあったが、今は個人的な欲得にかかずらわってい
る時ではないわ!それを、今なお己の蒐集癖にしがみつくとは、なんとい
う浅ましさか!」
そして……続く問答は、これまでの経緯からリュシオンが無意識に想像を
働かせた方向とは、全くの別方向へと展開した。
「口を慎めガドゥス公!」
「…っ」
「浅ましいのはそなたの方ぞ!そなたにはまだ、あれらが己の意のまま陳
列される美術品に見えるのか!」
それまでの取り付く島もない印象を一転させ、今度はオリヴァーが張り上げ
た怒声で一括する。
束の間鼻じろんだルカンを前に、彼は、それまでの鬱積を晴らすかのように、
更に声を荒げた。
「私が女神ユンヌの御許にあるのは、あの痛ましいラグズ達をこれ以上戦い
の道具になどさせぬためだ!あのように儚く愛おしい存在が、これ以上戦
場に立つことがないよう、一日でも早くこの戦いを終わらせるためだ!」
読心の術に長けるリュシオンの力を以てしても、僅かな歪みも感じさせない
真摯な語調。
その語勢を緩めぬまま、対峙したかつての同胞に向かい、オリヴァーは憤然
と続く言葉を言い放った。
「ガドゥス公、そなたは何故アスタルテの使徒として戦っておるのだ?己こ
そが神に選ばれたという、根拠もない選民意識を満足させるためか?虚
栄のためか?いずれこの戦いが終結し、そなたらの奉じる女神の統べる
世が訪れたのちは、また白鷺を狩りだして側近くに「飾る」のか?」
「タナス公!貴様……っ」
「……そのような世界を、あの愛おしい者たちに残せぬわ!」
TO
BE CONTINUED...
お気に召しましたらこちらを一押ししてやってください。創作の励みになります
FE蒼炎の軌跡&暁の女神部屋へ