案内の兵に連れられてアイクが足を運んだ野営地の一角では、ティバーン隊のサポート要員として行軍を共にして
いた白鷺の青年が、護衛役であろう鷹の民数名を従えて、神将の到着を待ち構えていた。
待ち人の到着に、とたんに相好を崩したリュシオンの肢体は、しかしあちこちが泥や草で薄汚れている。平時であ
れば、純白という言葉がもっともしっくりくるであろう鷺のその乱れた様相は、彼がここにたどり着くまでの間に突き当
たった障害の苛烈さを、言葉以上に雄弁に物語っていた。
「……ああ、アイク。休息中に呼び出してすまなかったな」
「いや、俺の方こそ待たせて悪かった。……先触れという話だったが、ティバーン達ももうこの辺りまで来ているの
か?」
ああ、と短く応えながら、リュシオンはそれまで片脇に抱えていた書類入れと思しき封筒を、改まった仕草でアイク
の前へと差し出した。
「とりあえず、これをお前にと預かっている。ティバーンとエリンシア姫の協議によってまとめられたこれまでの戦況
報告と、そこから導き出された今後の展望だ。他にも、私達の隊が道々で仕入れた、重要と思われる情報がまと
められている。この先の、作戦立案に多少なりとも役立つだろう。あの軍師にお前から渡してやってくれ」
「解った。急がせてしまったようで悪かったな」
「いや。空を飛べる私達にとっては、ここまで最短距離で来られただけありがたい。ティバーン達本隊も、もう一刻ほ
どで到着する予定だ。その先触れと、急を要する書面だけでも先に届けたほうがいいだろうというティバーンの意
向で、私達だけ先に入営させてもらった」
「なんて、本当はこの近距離まで来てそんなまどろっこしい真似をする必要もなかったんだけどな。部隊長権限を駆
使した王の、独断専行ってやつだ。ここに来る直前に、とにかく長時間の消耗戦を余儀なくされてね。白の王子の
体力も、さすがに限界……」
「ヤナフ」
先触れとしての使命を果たすべく、威儀を正して経緯を述べる傍から茶々を入れられ、リュシオンの鋭い目線が鷹王
の「目」を自称する護衛役を嗜める。
温和な気性で知られる鷺の民には珍しい、眼光で人を射抜くようなその双眸から受ける印象はそのままだったが、
言われてみれば、確かに鷺王子の容色には疲弊の色が濃く浮かんでいた。
ヤナフの冗談めかした口調から察するに、ティバーン隊がこれまでたどってきた行程は、体力のない鷺にとって、気
構えだけでは乗り切れない局面の連続だったのだろう。後見役として、常にその様子を気に掛けてはいても、自らの
足で歩けなくさせるような甘やかし方をけしてしないティバーンが判断を下したのなら、リュシオンの体力は、もう前線
に留まることが危ぶまれるほど限界に達しているということだ。
わずかな護衛役に守られながら、不承不承にティバーンのもとを離れたのであろうリュシオンにとって、結果として部
隊の行軍から落伍したという事実が、面白いものであるはずがない。釈然としない思いと、自らへの不甲斐無さで内
心ささくれ立っているであろう白鷺の王子を前に、アイクは、やはり今の彼とタナス公を引き合わせることは避けるべ
きだと、その認識を新たにした。
「どうやらそっちも、相当な強行軍を強いられたようだな。ほかの隊の連中は、もう野営の準備に入っている。早番
の者達はぼちぼち夕飯をあてがわれるが、あんたはまず体を休めたほうがいいな。食事は天幕まで運ばせるか
ら、時間は気にせずゆっくり休め」
アイクの内心で渦巻く物思いの交々に、長い間負の気に晒されて疲弊しきったリュシオンは気づかなかったようだ。
それでも、ティバーンの厚情で先触れの名目を与えられての入営早々、あからさまな特別扱いを受けた彼の機嫌は
ますます降下したらしい。
「ティバーンもお前も、私に余計な気を回し過ぎた。私も過去の戦いから色々と学んでいるんだ。自分が倒れると
解っているのに、敢えて無謀な真似をしたりはしない。自分の限界は、自分でちゃんと把握できる。なのにお前
達はいつでも、私が「転ぶ」前に手を貸そうとする。」
「いや、それは……」
あんたの場合、かなりの確率で感情が理性を上回るからな―――喉元まで出かかった本音を、危ういところでア
イクは喉奥まで引き戻した。
リュシオンは、自らを卑下しない代わりに、過大評価もしない。等身大の自分を理解し、常にそんな自らと向き合
う努力を続けている彼の自己評定は、実に正確で公平だ。
だが、それも平時に限ってのことだ。ひとたび理性の箍が外れたが最後、彼は激情に身を任せた暴走鳥と化す。
そんな彼を鎮静化できる存在が稀であるとなれば、日頃からその「暴走」に備えて彼の手綱を取っておきたいと考
えるのは、至極自然な成り行きだった。
「……まあ、なんだ。とにかくあんたも休め。明日には塔の内部へと踏み込むんだ。あんたの能力はこの先の行
軍にも不可欠なんだから、今夜のうちに、十分体を休めておいてもらわないと困る」
「アイク……今、何か言いかけてやめただろう」
お茶を濁されたようで不快に思ったのか、アイクを眺めやるリュシオンの目線に不穏な色が宿る。
正常な気に満たされた聖地を離れた鷺に読心の力は使えないが、たとえ戦地であっても、彼らの生来の勘の良
さまで失われるわけではないのだ。
さて、どう納得させて、この鷺王子にお引き取り願おうか……無表情に悩むアイクの元に、転機は思わぬところか
ら訪れた。
……否。それは転機などという好意的な言葉で言い表すには、あまりにも作為的なものを感じさせるものではあっ
たけれど。
「リュシオン、あのな……」
「おお、おお、ラフィエル、そのように急いでは」
「いえ、ですから私は大丈夫ですから……」
とにかくこの場を収めようと、アイクが意味のない呼ばわりの言葉を発したのと、背後から既視感を刺激するやり
取りが聞こえてきたのは、ほとんど同時だった。
「……っ」
弾かれたように振り返ったアイクの視線の先で、自称美の守護者が性懲りもなく、己の「運命の相手」を追いか
けまわしている。
リュシオンとの鉢合せを避けるため、ここに来る前にタナス公には適当な用事を頼んできた。予定通りに事が進
めば、彼は指定された天幕からあと一刻は動けないはずであったのだ。
予定を立てた数だけ、規模の大小にかかわらず、番狂わせが生じる可能性は付いてまわる。曲がりなりにも一
軍を率いる立場にある以上、その程度のことは誰から教えられるでもなく、アイクにも解っていた。だが……
だが……これはいくらなんでも、酷すぎる。
あまりの間の悪さに、口の中でらしくもなく呪いじみた言葉を呟いたアイクの傍らで―――釣られて声のした方
向を振り返ったリュシオンは、次の刹那、文字通り生ける彫像と化していた。
その時……その場に居合わせた者の中で、言葉を失ったのは、なにもリュシオンだけではなかった。
三年前、リュシオンを己の手元に軟禁し、自らの手で飼いならす事を望んだオリヴァーは、寵愛する鷺との思い
もかけなかった再会に息を飲み、衝動にその全身を戦慄かせるのみだった。
数ヵ月振りに弟と再会したラフィエルもまた、その場に瞬間的に膨れ上がったただならぬ気配を機敏に察し、
彼に向けようとした挨拶の言葉さえ噤んでしまう。
結果として、辺りは水を打ったように静まり返った。
静止画と化したような重苦しい静寂が、野営地の一角を支配していたのは、果してどれ程の時間であったのか。
「……タナス公…」
垂れ込めた沈黙の帳を、最初に破ったのは白鷺の第三王子が発した、怨嗟のような呼ばわりの声だった。
「タナス公……何故、ここに……」
「おお、おお……!そなたはいつぞやの、麗しい小鳥ではないか!よくぞ無事であってくれた…どれほどその
身を案じていたことか……っ」
「何故貴様がここにいる!!」
オリヴァーの追従を切り捨てるように激昂した、リュシオンの続く行動は素早かった。泡を食った周囲が彼を取り
押さえようとするのより早く、数歩の距離を一息に飛翔する。
目標の眼前に舞い降りた彼は、翼を納めるのももどかしい様子でその恰幅のいい姿態に向かい、憤然と詰め
寄った。
「リュシオン!」
「……っ」
今にも相手の顔面に向って拳を振り上げようとしていたリュシオンと、オリヴァーの間に寸でのところで割って入っ
たのは、弟の思いもかけなかった暴挙に仰天したラフィエルだった。
生来お世辞にも敏捷な性質であるとは言えず、翼を傷めて以来、見る者の目になおのこと儚い風情を訴えるよ
うになったラフィエルに、それこそ体全体で制止されては、幼い時分彼に育てられたようなものであるリュシオンに
異を唱えることなどできようはずもない。
対象に向かい駆け寄った勢いを完全には押し殺せずに、止め立てに入った長身の肩に半ばぶつかりながら、そ
れでも不承不承に腕を下ろしたリュシオンを見据え、ラフィエルはいつになく激しい語調で弟を叱責した。
「……なんという短慮ですかリュシオン。相手の話も聞かずいきなり力に訴えるなど、和を重んじる鷺の民にあっ
てはならない暴挙ですよ。私たち鷺が相手の感情と同調できる特性を持っているのは、いったい何の為ですか」
「兄上……」
「余計な諍いを避けるべく天より恩恵を受けた存在でありながら、自ら諍いを望むとは何事です。それでなくとも
私たちは、もうこの身内の四人しか、同族と呼べる存在を持たないのですよ。世にただ四体の種族であるとい
う事実を、ほかならぬ私たち自身が軽んじてどうするのです」
もの言いたげなリュシオンが口を挟むのを許さず、厳しく弟の行状を咎めるラフィエルの姿を、周囲はあり得ない
ものでも見るような目で遠巻きに眺めやった。
この場で最も発言力があり、ラフィエルに対しても相応の影響力を持つアイクは先ほどから一言も発せず、静観
の姿勢を貫く構えである。そうなると、ラフィエルに対してそれ以上の効力を持ち得ない他の者たちは、固唾を飲ん
で事態の落着を待つよりほかなかったのである。
「とにかく、オリヴァー殿に今の非礼をお詫びなさい。オリヴァー殿はこの軍に籍を置かれた、言わば同胞です。
同胞と諍いを起こすなど、軍規に照らし合わせた処罰を受けても仕方のないところですよ」
ラフィエルとしても、突然これほどの暴挙に出たからには、弟の側にも相応の理由があるだろうことは察しが付
いていたのだろう。鷺としては異質の気性を持つリュシオンの気は身内であるラフィエルにもリアーネにも同調が
難しかったが、それでもこうして、触れることをためらうほどの負の情動を、理由もなくリュシオンが放つとは思え
なかった。
それでも、いまや四体を残すのみとなったセリノスの白鷺の長兄であり、公的な放棄の宣言を果たすまでは次
期鷺王の重責を担ったままであるラフィエルにとって、種の存続を見越した言動を心がけることは、もはや自らの
血肉と一体化するほどに身に沁みついた責務であり習性であったから……今一人の鷺王子である弟が種族の
理念にまっこうから相反するのを、公然と認めるわけにはいかなかったのである。
ともあれ、衆目のある場で敢えて弟を叱責して見せたのだから、あとは弟の謝罪を以て、この一件は手打ちに
できる。そう考えて、弟に向けた語調を幾分和らげたラフィエルと、その場に居合わせたものの止め立てのきっか
けを掴めず、これまで事態を静観していた神将アイクは、どうやら同じ感想を抱いたらしい。
そろそろ頃合と、ラフィエルの知りえない、オリヴァーとリュシオンの間の確執をそれとなく引き合いに出すこと
で、この諍いを将軍権限で不問に処そうとしたアイクの、しかし機先を制したのは、当事者であるリュシオンの血
を吐くような叫びだった。
「同胞!?この下種が我々の同胞だと!?」
「リュシオン、ですからそういう物言いは……」
「三年前、欲に目のくらんだこのニンゲンが何をしたかご存じの上で、兄上は庇い立てなさるのですか!?」
それまで堪えに堪えた鬱積の全てを吐き出そうとしているかのようなリュシオンの剣幕に、今度はラフィエルが
言葉を失う番だった。
「この者は!……この痴れ者は、三年前の戦いの折、戦時の混乱に乗じて私を監禁したのです。私を常に側
近くに置いて愛でるのだと言って、物のように私の身柄を買い取って!!」
「リュシ……」
「私を騙してこの下種に売り渡した男には、相応の代償を支払わせました。その折の誠意ある対応を見聞きし
たからこそ、『彼』とは今でも決裂することなく昔馴染みの関係を続けていられます。……ですがこの男は違
う!!」
絶句する兄王子を、その背後に庇われたままのタナス公ごと睨み据えながら、激するあまり戦慄かせた口角
からそれでも続けられた糾弾者の叫びは、苛烈の一語につきた。
その穢れない造形美は神の寵を一身に受けた証である―――そんな流言を、一部の界隈にまことしやかに流
布させた原因となった白鷺が、怒髪天をつく勢いで激する姿には、周囲の存在に有無を言わせず畏敬の念を抱
かせるだけの高潔さと、それ以上に他者を威圧する荘厳さがある。
結果として、咳音一つ憚られるほどに静まり返った野営地の一角に、厳しく相手を断罪する白鷺の叫びだけが
響き渡った。
「生まれ育った故郷を追われ、いまだに土に還るべき地を持たずとも、セリノスの民である誇りを私は失っては
いません。その誇りを蹂躙し、物扱いされる屈辱を強いたこのニンゲンを、何事もなかったかのように迎え入
れられるわけがないでしょう!」
刹那―――白鷺王子が糾弾の言葉を噤んだことで、その怒気による支配からようやく逃れた者達の取った行
動は、幾通りかに分かれた。
これ以上逆鱗のとばっちりを受けてはかなわないと、極力気配を殺してその場を後にした、事なかれ主義の者。
本来限りなく正の存在に近い生物であるはずの鷺の怒気にあてられて、負の気の瞬間的な増大に体調を崩
した、強い感受性を有する者。
両者のどちらにも属さない程度には、精神力も責任感も兼ね備えていたものの、軍の最高権力者である神将
が事態を静観している以上彼を差し置く真似はできず、結局彼に倣って部外者の括りに身を置くしかない者。
そして、そのどれにも属さなかったのが、この諍いの当事者の一方であるタナス公オリヴァーだった。
「……おお…おお…そのように興奮して、自分を追い詰めてはならんぞ。麗しの小鳥よ」
それまでただの一言も発さずに、気押されるようにリュシオンの恫喝を受け止めていたオリヴァーは、しかし周
囲が想像するのとは別種の事情で、口を噤んでいたらしい。
「そなたはまだ、私の愛情を理解してはくれぬのだのう……私はただ、麗しいそなた達を手元に置いて守りた
いだけなのじゃ」
「……っ」
「ああ、よいよい。今は理解できずともよいのじゃ。ただ、これ以上気を高ぶらせるのはやめておくれ。そなた達
は繊細で儚い生き物なのだ。そなたまでラフィエルのように、悲しみで翼を傷めたらと思うと……私は気が気
ではないのだから」
それは、オリヴァーにしてみれば彼ら鷺の特性を慮った、他意のない労わりの言葉にすぎなかったのだろう。だ
が、鷺にとっては……殊に、生き別れて暮らすうちに兄の翼が動かなくなっていたことを知った衝撃から立ち直り
きれてはいなかったリュシオンにとって、それは地雷以外の何物でもない暴言だった。
「……貴様が…っ貴様が!!私達に向かって、それを言うのか!!」
「リュシオン!」
それまで仲裁のために二人の間に立ちはだかっていたラフィエルを押しのけるようにして、怒り心頭に達したリュ
シオンがタナス公の胸倉を乱暴につかみ寄せる。震えながら握られた拳は、その粉砕と引き換えにしてでも相手
を殴りのめしたいという断固とした意志の強さを物語っていた。
すわ、今度こそ流血沙汰かと、居合わせた者達は一斉に息を呑んだ。
と、刹那―――
「リュシオン、そこまでだ」
「……っ」
周囲が待ち望んでいた止め立ての言葉を発したのは、それまで事態の静観を貫いていたアイクだった。
遠巻きに事態の行方を見守っていた兵士達が、声を上げた神将の為に左右に道を開いていく。その間を悠然
と通り抜けながら、アイクはもう一度、リュシオンを制止した。
「これだけ吐き出せば、少しは溜飲が下がっただろう。一度自分の天幕に戻って休め。あんたも少し、頭を冷や
したほうがいい」
「アイク、だが……」
「不本意だろうがお互い同じ軍に籍を置いているからと言って、なあなあで済ませるつもりはない。俺に与えら
れた権限で、この一件には必ずあんたの納得のいく決着をつけさせる。だから、ここはひとまず俺に預けてく
れないか」
アイクの出した妥協案は、リュシオンの意に沿うものであるとは到底言い難かった。
リュシオンにしてみれば、オリヴァーは、鷺という種族そのものを穢した卑劣漢だ。用途に耐えうるだけの爪と
牙があれば八つ裂きにしたいと望んだほどの衝動を、将軍命令の一声であっさりと抑えることなどできない。
「……お前は、私の気持ちを理解してくれると思ったんだがな……」
語調こそ抑えられていたが、言外に見込み違いを揶揄した、辛辣な反駁。
耐性のないものならそれだけで身を竦ませるであろう、射抜くような視線にねめつけられて、それでもアイクは
平静を崩さなかった。
「リュシオン、俺はあんたの四角四面な所も気に入っている。はっきりいって全然鷺らしくはないが、事なかれ
主義を嫌ってなんでも白黒つけようとするあんたの性格は、見ていて気持ちがいい。俺が口を出すようなこと
じゃないが、できればそのままのあんたでいて欲しいと思っている。この軍に身を置くことで、あんたのそうい
う部分が捻じ曲げられたり押しつぶされたりしなければいいとも思っている。それは本当だ」
だがな―――言って、改めて白鷺を見やったアイクの双眸に、気心の知れた同志に向けたものと言い切るに
は、いささか含むものを感じさせる色がよぎった。
「だが、俺はあんたの同胞であると同時に、この部隊を任された将でもある。だから、感情ではあんたに同調し
ても、俺の権限までそれに引きずられるわけにはいかない。常に戦局を見越した判断を、俺は将として下さ
なければならない」
「……っ」
「ティバーンやエリンシアの部隊と合流したら、すぐにあの塔へと突入する。あんたにとっては酷に聞こえるだ
ろうが、戦力を削るとわかっていながら、大局のかかった決戦前に内部での諍いを認める訳にはいかない
んだ」
刹那……それまで曲がりなりにも自身の所属する部隊の神将を立てて、その言に聞き入っていたリュシオン
の、白磁を思わせる頬が、膨れ上がる激情を物語るかのように朱を刷いた。
先刻までの牙向くような猛々しさとは違う、どこか泣きそうな風情でリュシオンは反駁した。
「それは……それは、このニンゲンの戦力を失うわけにはいかないから今は引けと、そういうことなのか……っ」
「この男の戦力も、失うわけにはいかないという意味だ。むしろ鷺の特殊能力で俺達をサポートしてくれるあん
たが欠けたら、軍にとってどれだけの痛手になるか解らない。……自分でも、それは解っているだろう」
だから今は引け―――そう繰り返し告げられて、ようやくリュシオンは押し黙った。それを了承の印と受け取っ
たアイクがこの一件を預かる旨を改めて公言し、周囲の荒んだ空気が、その場に居合わせた者達の吐き出した
安堵の吐息によって中和していく。
「……じゃあひとまず、これで一時解散だ。……あんたもいいな?」
さながら付け足しのように続けられた言葉と視線を受けて、ようやく当事者の一人として水を向けられたオリ
ヴァーが、いつもの調子で不必要な美辞麗句で飾られた賛同の言葉を「演説」する。それを五月蠅そうに手を振っ
て強引に打ち切ると、アイクはリュシオンを彼らに与えられた天幕へと促しながら、振り返りしな今一人の鷺王
子に声をかけた。
「ラフィエル……まだ、話していないのか?」
「アイク殿?」
かけられた言葉の意味をとっさには掴み切れず、ラフィエルの応えも自然歯切れの悪いものとなる。
竹を割った様な気性を自他共に認めるアイクは、常日頃から回りくどい物言いを嫌う。主語も目的語も省いた
謎かけのような問いかけは、全く以て彼らしくなかった。
軍の大隊を任された将軍職に就いている以上、軍事上のしがらみで簡単に口に出せない話題もあるだろう。
だがそういった軍勢の進退に関わるような話題を、そもそも初めからこんな大衆の目のある場所で、彼が口にす
るとも思えない。
ならば、らしくもないやりようで彼が慮ったのは、話題そのものではなく、それを向けた相手の方であるとも考
えられたが……
「……っ」
そこまで考えて、ラフィエルの中でようやく一つの合点が行った。
この状況下でアイクが話題を慮った相手は、十中八九、リュシオンだろう。自分達鷺の民が、負の感情の渦
巻く戦場において、著しく他者との同調能力が低下する事を承知の上で、アイクの感情を読み取れないリュシ
オンの耳に入れにくいと判断した話題を、敢えて向けてきたのだ。
そこまでして彼が口にしようとした問いかけなら、その目的とするところは一つしかない。
そこに住まう多くの同胞ごと、セリノスの森が焼かれた、あの悪夢の日……絶望の中で、否応なしに知ってし
まった残酷な真実。この身に突きつけられたニンゲンの裏切りによって、自分の中に初めて芽吹いた、負の情
動。そのどろどろとした怨嗟を胸の内に飼い続けながら、これまでを生き抜いてきた自分の半生。
それらは、この合流地点へと向かう少し前、再び過去の遺恨と向き合うこととなった自分を気遣ったアイクに
向かい、ラフィエル自身が語ったことだ。
あんな思いを味わわされたのは、自分だけだと思っていた。「憎しみ」に支配されるあまり、ややもすれば心
の目が曇り、同じ苦汁を嘗めさせられた者の痛手に鈍感になってしまう。
身の内から湧き上がる「憎しみ」に捕らわれるのではなく、どうにか共存することが可能になった頃……だから
こそ、いつか故郷の地で、生き残った同胞と再会することが叶った時、この憎しみの記憶を彼らにはけして語る
まいと、自分は心に誓ったのだ。
この身を縛る負の情動に、同胞達を引きずらせてはならない。この不毛な物思いは、自分という鷺一体限りで
終わりにするのだと。
だが……蓋を開けてみれば、何よりも身近な存在が、同じ苦汁の味に喘いでいた。
自分の思いの何がわかると、言外にラフィエルをも詰問してみせた弟。まさかの事態を想定することもできず、
身を寄せたフェニキスで心安く生きてくれたのだろうと思い込んでいた、自らの楽観が呪わしかった。
もっと早くに。再会を果たしてすぐにでも、自分達は話し合うべきだった。互いの過ごした半生を、酸いも甘いも
隠さずに、曝け出すべきだったのだ。
事態の根本的な解決にはならずとも、そうすればきっと……同じ思いを味わったのは自分だけではないと解っ
ただけでも、「憎しみ」に凝り固まった弟を、ここまで追い詰めてしまうことにはならなかった。
そんな自分の葛藤を察した上での、リュシオンの手前言葉面をぼかしたアイクの問いかけだったのだろう。
嘘をつくことのできない鷺の性質までもを考慮に入れた青年の気遣いに、ラフィエルは深く感謝した。
「……はい。まだ……」
「俺達の手は、必要か?」
言外に仲立ちを申し出た青年の言葉に、しかしラフィエルははっきりと首を振った。
こればかりは、自分の手で成し遂げなければ意味のないことだ。
「……いいえ。いつか自分の口で伝えます。私自身の言葉で」
諾とも否とも、アイクは口にしなかった。ただ一言、そうかと答えるとリュシオンを先に立たせて踵を返す。
話題の中心に置かれたリュシオンは自身の葛藤と向き合うのに手いっぱいで、兄と青年との会話に注意を
払う余裕はなかったようだ。結果として、喧騒の気配は「何事もなく」沈静化した。
アイクに連れられて与えられた天幕へと向かう弟の背中を見送りながら、ラフィエルはそれまで我知らず胸郭
にため込んでいた呼気を、深く吐き出した。
ただならぬ剣幕を引きずったままのリュシオンの事は気がかりだったが、ここは身内である自分よりも、第三
者的立場と同胞としての立場、双方の視点から彼に相対することのできるアイクのほうが、付き添いには適役
だろう。血を分けた肉親相手ではないからこそ、リュシオンにも吐き出せる思いはあるはずだ。
それになにより、弟のしでかした不始末の尻拭いとして、長兄である自分にはこの場を収めなくてはならない
責がある。
リュシオンの怒気を真っ向から浴びながら、それでも立ち去っていく弟の後ろ姿を気遣わしげに見送るオリヴァー
に向き直り、ラフィエルは深く頭を垂れた。
「―――オリヴァー殿。弟になり替わり、ただいまの無礼を深くお詫びいたします。弟にも弟なりの事情があっ
ての振舞いなのです。御腹立ちはごもっともと存じますが、どうかお目こぼしください」
「おお、おお、ラフィエル、顔をあげておくれ。そなたがそのような顔をすることはない。神の祝福を一身に受け
た麗しのかんばせを、心痛で曇らせてはならぬぞ」
「オリヴァー殿……」
対して、オリヴァーは気を害した様子もなく、むしろこの一件が鷺の兄弟に与えた禍根のほどを懸念する素振
りを見せる。
緻密な細工物をわずかでも傷つけてはいないかと……相も変わらずの、そんな調子で的外れな慰めの言葉を
かけられて、それまで困惑の色濃く自らの自称庇護者と向き合っていたラフィエルの容色に、それまでとは別種
の情動がよぎった。
「……オリヴァー殿…」
自分達鷺の民に異常なまでの執着を示すタナス公に、自身の美意識を満足させる目的以外の、俗欲めいた
他意はない。彼は本心から鷺という存在を愛しみ慈しんでいたし、ある種敬虔とさえ呼べるかもしれないその行
き過ぎた思慕の念は、反って彼自身へと向けられる自制となって、自分達と彼との間に程よい規模の垣根を作っ
た。
まるで信仰にも似たその思慕を鷺の能力で感じ取れている間は、オリヴァーは実に安全な「庇護者」たり得る
のかもしれない。種の存続の拠り所となる後援はいくらあってもありすぎるということはないのだから、彼は本来、
これ以上ないほどにありがたい存在なのだ。
だが……それだけの深い愛情を惜しみなく示しながら、ただ一つ、タナス公が気づいていないことがある。その
差異を理解できない限り、今日の弟の激情の意味にもまた、彼は気づくことができないのだ。
「オリヴァー殿……この乱世に戦闘能力すら持たず、それでも故国の再興を使命とする我々にとって、貴方は
得難い理解者であり庇護者です。その他意のないお心尽くしを、心の底から感謝申し上げております。です
が……」
それまで聞く者の耳に淀みを感じさせなかった陳情の言葉が、ふつりと途切れた。どこかつらそうに容色を歪
めさせた語り部の双眸が、それでもまっすぐに眼前の「庇護者」へと向けられる。
これは自分の負うべき咎だと、ラフィエルは胸の底で自らに言い聞かせていた。
自分に向けられるタナス公の思念の意味するところを、始めから自分は気づいていた。まるで透明な幕を通し
た先に自分の姿を見ているかのような、こちらを神格視さえする彼の強すぎる思い込みが、いつかこんな軋轢を
生むのではないかと……短い付き合いの間柄ながら、自分は気にかかっていたのだ。
頭の中で警鐘を鳴らしていたその懸念を、諍いを回避するという建前で、敢えて見過ごしてきたのは自分の落
ち度だ。
だからこそ……この身に惜しげもなく支援の手を伸ばす彼に対し、自分こそが、彼の築き上げた理想像と自分
達の間に穿たれた溝の深さを指摘しなければならない。
「……ですが……非力な鷺の身で傲慢なと思われるかもしれませんが、私達にも自我があります。自らの意思
で立ち上がり、歩き出すことを、私達はけして忘れる訳にはいかないのです」
「ラフィエル……?」
続く言葉を口にしようとした時には、さすがに足が震えた。だが、この一言から逃げていては、自分と弟の真意
は、きっと一生、この「庇護者」には伝わらない。
鷺という生物に心酔し、その姿形に敬虔たる思いを抱く「崇拝者」でなくとも、見る者の目を引き付けて離さない
吸引力を有する白鷺の容色。その端正な面差しを臆することなく上げて、ラフィエルはそれまでずっと飲み込み続
けてきた腹の底からの言葉を、自分と相対する「庇護者」へとぶつけた。
「―――私達は、観賞用に屋内に飾って楽しむ美術品でもなければ、傍に置いて愛でる為の愛玩動物でもあり
ません。それぞれに独自の自我と矜持を持った、ラグズを名乗る種の一つなのです」
「ラフィ……」
「私達もまた、ラグズなのです。オリヴァー殿」
TO
BE CONTINUED...
お気に召しましたら、こちらを一押ししてやってくださいv創作の励みになりますv
FE蒼炎の軌跡&暁の女神部屋へ