変遷〜lifelong companion







  「悟飯ちゃん悟飯ちゃん!!」

 その日―――日頃から、娘時代と変わらず若々しく、そして姦しい
と定評のある母が自室へと飛び込んできたのは、そろそろお八つ時
を迎え、当家の男家族が揃ってひだるさを主張し始める頃合いだっ
た。
 
 忙しない日常の中、ようやく時間の都合をつけて帰省した生家で、
目的を定めないのんびりとした時間を楽しんでいた悟飯は、突然室
内に飛び込んできた母親の姿に、多少の困惑顔を見せる。それでも、
他に生活拠点を持ち、生家を離れた身分として帰省中の「居候」が、
あまり大っぴらに迷惑顔もできず、とにかく、勢い込んでここまでやっ
てきたその用向きを聞こうと、それまで日光浴代わりとばかりに窓際
で佇んでいた体を、椅子ごと母親に向き直った。

 なんですかと、改めて水を向ける必要もない。子供の時分から、母
は、自らの申し立てに強引にでも、孫家男子をつきあわせる性格だっ
た。
 果たして―――母は、入室してきた勢いのまま、それはそれは嬉し
そうに、傍らに抱えていた「もの」を、悟飯の眼前へと突きつけて見せ
た。

 「これだこれ!ついさっき、先方の世話人さんが、わざわざ届けに来
  てくれただよ!」
 「はあ……あの、これは……」

 それこそ伝家の宝刀でも振りかざすような勢いで、母が見せつけて
いるのは、ノート大の薄い冊子だ。厚い表紙と、やたらと豪勢な装丁
に彩られ、恐らくは、中の容量はほとんど期待できないだろう。せい
ぜいが、格式ばった書類が一、二枚収まる程度のものだ。
 この手の無意味とも思える過剰装丁は、自分が籍を置くスクール
でも、重要な典礼などの際に用いられることがあるが、こうして、日
常生活の中に持ち込まれるとなると……

 深く思い巡らせるまでもなく、何とはなしに、一つの事例が脳裏を
過る。理屈づけて説明できるほどはっきりとした情動ではなかった
が、それは悟飯にとって、多少の不快感を誘発させるものだった。
 そして―――自分自身で歓迎できなかった悟飯の予想は、的を射
ていた。

 閉じられていた豪勢な冊子が、眼前で大仰に開かれる。姿を現した
のは、悟飯にとっては馴染のない、見知らぬ女性の写真だった。

 「見合いだ見合い!悟飯ちゃんに、お見合いの話が来ただぞ!」

 よく見てみろと言わんばかりに悟飯に写真を突きつけながら、チチ
が満面の笑みで宣言する。
 その所笑顔と声音に気圧されながら――――悟飯には、渇いた愛
想笑いを浮かべた口元を、僅かに引き攣らせる事しかできなかった。

  



 エイジ781―――順調に進学したグラジュエートスクールにて博士
課程を学び、目下、二つ目の博士号を取得したという報知で一部「業
界」の注目を集める存在となった悟飯は、市井においても、一躍、時
の人として扱われていた。
 在学中の博士号取得が可能なスクールに籍を置いてはいても、オー
バードクターですらない「掛け出し」の若輩が、立て続けに博士号を取
得する事例は珍しい。その特異さは、門外来の市井の人間にとっても、
目を引くに十分なものだった。

 所謂、「先物取引」とでも呼ぶべき感覚なのだろうか。若く、将来性の
ある「学者の卵」の存在は、当人の望むと望まざるとに関わらず、引く
手数多の状態だった。
 つまりは―――長い「下積み」の末、ようやく望む稼業への道が開け
始めた悟飯の下に、先行投資とばかりに、これまで縁もゆかりもなかっ
た「見合い話」が、突然持ち込まれるようになったのである。

 この春、悟飯は24歳になった。両親や、身近な先達の例を考えれば、
そうした話が舞い込んでくることに、年齢的にもなんら不思議はない。
そこに世論が太鼓判を押したも同然の、学者としての将来性が加われ
ば、売り出しに掛けられた際のプレミアもいや増すというものだろう。

 辺境の山奥出身であり、人中での立ち回りに不慣れな、質朴とした気
風の青年―――これまで、いい方向に穿ってみても、自分に対する世
間の評価は、せいぜいがその程度のものだったはずだ。
 それが先冬の終わり、博士課程の本審査会を経て学位を授与され、
二つ目の「タイトルホルダー」となる事が本決まりとなった頃から、悟飯
の身辺は、にわかに騒がしくなった。

 複数の博士号を保持しているという事実だけでも、この先、学者として
の「売り込み」を敢行する際の強みになる。この稼業を一生の生業にし
ようと考えるなら、それは自分の将来を盤石にするための、れっきとし
た武器となった。

 だから、グラジュエートスクールの卒院も近づいてきた今、「業界」の
注意が少なからず自分に向けられている事は、面映ゆくもありがたい
と思う。人中で器用に立ち回る事が不得手な自分にとって、諸刃の剣
となるリスクを抱えていようとも、「箔」がつくことは、大きな助けとなっ
てくれるはずだった。

 だが、それはあくまでも、「仕事」として捉えた場合の話だ。切り札とし
ての複合効果を狙える肩書は、公の場に出た時に確かに強みとなる
だろうが、その事と、孫悟飯個人としての為人には直接の繋がりはな
いはずだった。
 殊に、慣れ親しんだ生家のある、この人里離れた山奥での生活には。

 見合い話というからには、仲立ちをした世話役が必ず存在する。彼
らは、そしてそもそも、当の見合い相手は、自分という人間のどこに
当て込んで、この話に乗ろうと考えたのだろう。

 見知らぬ者同士を引きあわせ、あわよくばそこに縁を結ばせようとい
うのが、「見合う」という事だ。間にはいる世話役も、仲立ちをするとい
う責任感から、自分の信用のおけない人間を、相手に引き合わせよう
とは考えないだろう。自分を紹介された、相手の紹介を受けたというだ
けで、自分はそれなりに信用のおける「まっとう」な人間であるのだと、
相手からお墨付きをもらったようなものだった。

 母があれほどにご満悦で飛び込んできたのも、見合い相手が云々
以前に、息子が世間からいっぱしの扱いを受けたという事が、それほ
どに嬉しかったという事なのだろう。それを思えば、自分も、駆け出し
に過ぎないこの身上を評価してくれる世間の目に、感謝すべきなの
かもしれなかった。
 だが……おそらくは、今の彼らにとって、見合いたいと望む「もの」
は、孫悟飯という一人の人間ではない。業界から与えられ、冠するこ
とを許された博士という名のブランドだ。

 それまで出会う機会のなかった二人を引きあわせ、縁づかせる事
が見合いのそもそもの目的だ。よく知りもしない自分との接触を望む
先方の意向は、知らないからこそ周囲がお膳立てするのだいう、見
合いの席の趣旨に適っている。
 それでも―――母の喜びようをこの目で見ても、こういった「席」の
名分を理解できても、悟飯には、じゃあ話に乗ってみるかと、気軽に
考える事は出来なかった。

 将来を約束した相手、あるいはそれに準ずるような付き合いの相
手が存在しない以上、適齢をむかえた人間には、多かれ少なかれ、
こういった話題が舞い込むものだ。誰もが自身の運や行動力で、自
分に似合わしい相手と出会える訳ではないのだから、そうした人為
的な采配は、きっと必要な事なのだろう。

 だが……・いざそれが現実のものとして我が身に降りかかってき
た時、悟飯が自覚したのは、社会から一人前の扱いを受けたという
誇らしさでも面映ゆさでもなかった。多少穿った見方をすれば、自分
の伴侶を見つけるのに世話焼きが必要だと周囲から判断されたの
かと奮起する局面であるのかもしれなかったが、そういう心境にも至
らない。
 あるのはただ、自分に見合い話が持ち込まれたという事実に対す
る過剰なまでの抵抗感と、得体のしれない恐怖だった。

 将来自分の伴侶になるかもしれない相手と、互いの為人や社会的
な立ち位置や柵、生活環境などを知りあうために、対面する。ただそ
れだけの事が、想像を巡らせただけで背筋に冷たいものを覚える程、
恐ろしい。

 断って下さい―――喜び勇んで段取りを推し進めようとする母にそ
う告げたのと、自分が口にした言葉を知覚できたのは、ほぼ同時だっ
た。
 正式に持ち込まれた話を、相手に会いもしない内から反故にするに
は、それなりの理由も埋め合わせも必要になる。自分が対象とされる
事は初めてでも、その程度の想像はついた。
 だが、それでも……

 それまでのはしゃぎようから一転、不審感も露わに自分を凝視する
母の視線を受けながら、悟飯は、頑なに同じ言葉を繰り返すことしか
できなかった。






 それから、半月が過ぎた。

 本審査会の承認を受けた事で二つ目の学位取得が実現し、スクー
ル在籍中に掲げていた目標の大筋を果たした悟飯の日常は、卒院
後の根回しに精力的に動き回りながらも、それなりに時間の自由が
利くものになっていた。
 スキップを繰り返したユニバーシティー時代から鑑みても、これ程
「追い立てられない」時間を過ごす機会は、なかったかもしれない。
その位、純然たる自分の時間に浸れる事は、この数年珍しかった。

 そして―――自分の時間が取れるようになった分だけ、考えなけ
ればいけない案件も増える。

 前触れもなく持ち込まれた見合い話を断ってから、半月。たったそ
れだけの短い期間に、孫家には更に2つ、別口の見合い話が持ち
込まれてきた。
 それぞれまったく別個の世話人が動いているというのに、どういっ
た符合によるものなのか……世論がこれ以上騒ぎ出す前にと狙っ
ての采配か、彼らの機動力には驚き入るものがあった。

 今はまだ世論が先走っているだけで、学者として身を立てたわけ
でもない自分が、身を固める気持ちは持てないから―――最初に
話が持ち込まれた時と同様の断り口上を並べながら、とにかく誰が
相手だから断るという事ではないのだと、言葉を尽くして母に拝辞
の意志を伝える。それでも納得のいかなそうな彼女に、「断ったば
かりで他の話になびいても体裁が悪い」等、彼女が抵抗を覚えそう
な言葉を選んで話の雲行きを誘導した。

 二つ目の案件に対しては、それで何とか押し通した。だが……さす
がに三件目となると、母も簡単には、首を縦に振ってはくれなかった。

 世間の思惑はどうあれ、これだけ話が集中するからには、今が、お
前にとっては縁が深い時期なのだ。生涯誰ともけして娶わないという
不動の決意でもない限りは、信頼できる筋からの「縁」にはのってみ
るべきだ―――そう真正面から自分を諭しにかかる母に対抗するに
は、相当の気概を要した。  

 母が言う「決意」が今の自分にあるのかと言われれば、それは自分
でも解らない。そもそも自分はこの手の機微にはあまりにも疎すぎて、
こうまで強く諭された母の言葉を退けてまで、拝辞の意志を貫く自ら
の正当性を、言葉にして立証することもできなかった。

 いっそ、母の言うなりに、形ばかりでも先方との対面を済ませれば、
誰の顔も潰すことなく、八方丸く収まるのかもしれない。見合ったから
と言って必ずしもその相手と縁づく訳ではないのだから、その後「縁
がなかった」という結果になったとしても、どちらにも気に病む必要は
ないのだ。
 だが……それが解っていても尚、自分が生涯娶う事になるかもしれ
ない存在と見合うという事が、どうしようもなく物恐ろしい。それはこれ
まで味わったこともないような類の衝動であり、悟飯には、それを言
葉に置き換える事が出来なかった。

 結果として悟飯がとった行動は、母からも周囲からも、「やはりまだ
半人前の子供なのだ」と呆れられても致し方ないものだった。即ち、
とにかくこの話はもう勘弁してくれと一方的に話を打ち切ると、その
場を逃げ出したのだ。
 まだ話は終わっていないという、母の怒声が背中を追いかけてくる
のを振り払う。相手の気を辿ってこの星の外にまで追跡が可能な家
族が存在する以上、どこに逃げても無駄な抵抗であることは解りきっ
ていたが、このまま母の「説得」を拝聴し続けるのは、あまりにも居
たたまれなかった。

 そして―――地上最強の追跡機能を常備した父親の存在がある
とはいえ、母からどこに行くのだとも聞かれなかったことが、尚の事
悟飯の居たたまれなさを募らせた。
 今頃彼女は、聞き分けの悪い息子の行状に愚痴の一つ二つもこ
ぼしながら、それでも、自分の行先を突き止めようとはしないのだろ
う。
 父が自分の気を辿れば、容易く引き戻せるのだという「保険」も理
由の一つではあるだろうが……なによりも、彼女にとって、こういっ
た局面での自分の行方など、「探すまでもなく解る」からだ。

 とうに成人も果たしたいい年の男が、なんとも情けない話だとは思
う。こんな様だからこそ、母もああまで強引に、自分の自立を介添え
してくれるのであろう、見合い話を推し進めてくるのかもしれなかった。
 だが……

 物理的にも経済的にも、今の自分ならば、この世界のどこへでも
赴くことができる。大人の助けなしには行動範囲が限られていた子
供時代とは違い、自分の避難場所は、この世界のどこにでも存在
した。
 だが、それでも……どれ程行動範囲が広がろうと、結局はこんな
時、自分が頼る場所は一つしかない。 

 情けないと思う。自分の身の振り方ひとつ自分で始末をつけられ
ないのかと、憤懣やるかたない心地になる。それでも、進退窮まっ
た際に顔を出すこの逃げ癖を、悟飯はどうしても、改める事ができ
なかった。





 「―――お見合い、ですか」


 かくして―――移動に然程の時間を費やすでもなく、悟飯は天上
の神殿に、「いつものように」身を寄せていた。

 例によって、下界での厄介事からの避難である事が、初めから透
けて見えていたのだろう。神殿の主であるデンデは悟飯を温かく迎
え、ミスター・ポポが用意した心尽くしの茶席でもてなしながら、さり
気ない水向けで把握したのであろう悟飯の現状を、「地球の風習は
趣深いですね」と労った。

 「でも、自分の一生の伴侶を決めるための引き合わせ、なんですよ
  ね?一生の問題を、二度や三度相手と会うだけで決めるのは、
  ちょっと性急なような気もしますが……」

 言葉を選ぶようにしながら、それでも言外に、得心がいかないと物
語っているかのように続けられた、歯切れの悪い相槌。意見を仰ぐ
ように傍らのピッコロを仰ぎ見たデンデもまた、自分を気遣う意味合
いだけではなく、この「地球の風習」に多少なりとも抵抗を覚えてい
るのだと、悟飯にも伝わってきた。

 この一件に関して権限のある相手ではなくとも、自分の意に染ま
ない「外部圧力」に対する疑問の声を聞くと、何とはなしに心強い
気持ちになる。そうだよねと頷きながら、旧友と同じようにピッコロ
へと視線を流した悟飯の胸の内で、師父の反応を期待したい気持
ちが広がった。

 多数決、という訳ではないが、ピッコロにも、この因習について、
難色を示してくれる事を期待してしまう。そうして師父の口から、
「それはおかしい」と言われれば、自分は自分の中に生まれたこの
得体のしれない衝動に、そう感じて当たり前なのだという、理由を
付けられるような気がした。

 「そうだな……」

 悟飯とデンデ、二人の視線を受ける形となったピッコロが、平時
と変わることない無愛想顔のまま、思案するようにその顎に指をか
ける。
 そして、彼は束の間宙に泳がせた視線を、いつものように、真っ
直ぐに悟飯へと戻した。

 「方法の良し悪しについては、俺にもなんとも言えんが……その
  タイミングで結論を迫られて、揺るぎない選択ができるのかは
  疑問が残るところだな。因習というからには、多くの人間がそ
  うやって生涯の伴侶を得てきたという事なんだろうが……まあ、
  免疫のないお前が辟易して、ここに逃げ込みたくなる気持ちも
  解る」
 「ピッコロさん……」

 歯に衣着せないあけすけな物言いは、流石は自分の慣れ親しん
だ師父のもので、自分を優しく宥める類のものではなかったが……
それでも、「逃げたくなっても無理はない」と言われたことが、悟飯の
ささくれ立った気持ちを慰める。
 この手の問題に師父や旧友の助力を求める訳にはいかず、それ
を承知していながら、ただの愚痴溢しに押しかけている自分の身勝
手を申し訳ないと思いながら、悟飯は、やはりここに「避難」してきて
良かったと思った。

 だが……一連の事案について、端的に解析して見せた師父の言
葉には、まだ、続きがあった。

 「いずれにしても、お前自身の将来だ。お前が自分で決めるしか
  ないが……そうまで執拗に求められる話なら、お前の母親の言
  うとおり、今が、お前にとってそぐわしい時期という事なのかもし
  れないな」
 「ピッコロさん?」
 「安易に勧めるわけではないし、あくまでも決めるのはお前だがな。
  チチの言う、「乗ってみる」というのも、一つの選択肢ではあると
  思う」

 決めるのはお前だという言葉の通り、ピッコロは、悟飯の抱える案
件に関して、「こうするべきだ」とは言わなかった。地球の因習に馴染
まない異星人の師父にとって、それはある意味当然の成り行きであ
ると言えたし、そんな門外来の立場からそれでも助言をしてくれたの
は、自分に対する最大の厚意なのだろうと思う。
 
 だが……それが師父の誠意の込められた言葉だと解っていながら、
悟飯は、それまでとは意味合いの異なる衝動が胸の内に育っていく
のを、感ぜずにはいられなかった。

 デンデと、そしてピッコロの唱えた「異論」を盾に、自分の逃避行動
に建前を作ろうとした自分の小狡さを、見透かされたような居心地の
悪さ。自分の将来も自分の意志で選べないのかと言外に咎められて
いるかのような、気ぜわしさ。
 そしてなにより……あくまでも選択権は自分にあるとはいえ、「話に
乗ってみる」という選択肢を、ピッコロの口から消極的に容認されたと
いう事実が、自分でも説明のできない思いとなって、悟飯の胸中を
ざわつかせた。

 師父は何も、自分に見合いをすることを勧めているわけではない。  
再三その口から告げられたように、この話に乗るも降りるも、自分の
胸一つで決めればいい事だ。そして自分自身の問題である以上、
その選択は、責任転嫁の甘えが残される形で成されるべきではない、
と思う。様々な方面から鑑みても、自分の自主性を重んじた、師父の
「公平さ」は正しいのだ。

 だが、それでも……

  
 「―――まあ、お前の一生を視野に入れての選択だ。周りが何と言っ
  てこようが、お前自身が納得できるまで、時間をかけて答えを出せ
  ばいい。選択の後押しになるような助力はしても、それを強要する
  権利は、お前の親にすらないんだ」
 「ピッコロさん……」
 「下界の騒ぎが煩わしいなら、少しここに身を隠してやり過ごせばい
  い。お前自身も、考えをまとめる時間が必要だろう。好きなだけ、ゆっ
  くりしていけ」 

 それでも……他の誰が耳にしても正しいと頷くであろう、師父のそん
な公平さが、しこりのように胸奥にわだかまる。一度知覚したその衝動
は、気の持ちようでやり過ごせないほどの重みでもって、悟飯の胸中
を圧迫した。

 師父は自分を、一人の自立した人間として扱ってくれている。だから
こそ、この選択の答えを自分で出すようにと、第三者の立場から自分
を促してくれたのだ。
 だが……それが解っていても尚、そうして一歩離れた場所から自分
の選考を静観しようとしているピッコロとの距離感が、この時初めて、
悟飯は悲しいと思った。




 自分の都合に合わせた滞在を許可されたとはいえ、神殿に住まう
面々にも、それぞれの責務や用向きがある。

 定刻の神事に合わせ、即席の茶会の席を外したデンデと時をほぼ
同じくして、ピッコロも補佐役の職分を果たすため、ゆっくりしていけ
と悟飯に言い置いてその場を後にした。
 後に一人残された形となり、勝手知ったる神殿で意識することは滅
多にない所在なさが、改めて悟飯の胸中を支配する。

 おそらく、師父も旧友も、自身の抱える用向きにかこつけて、自分
に気持ちの整理をつける時間を与えるために、この場に自分を放置
したのだろう。それが彼らの厚意であると解ってはいたが、今は正直、
降って湧いたこの時間が煩わしかった。

 一人であれこそ考えを巡らせていると、悪戯に深みに嵌っていく心
地がする。そして一度嵌まり込んでしまったら、自分はそこから容易
には抜け出せないだろうという、根拠もない確信があった。


 勝手な理由で駆け込んでおきながら不調法極まりないが、ここは
早々にこの場を辞去して、別の「避難場所」を探すべきだろうか―――
だが、場所を変えたところで、一旦胸の内に顔をのぞかせてしまっ
た屈託を、払拭できるとは思えなかった。

 こんな状態では、気を落ち着けるために瞑想を行ったところで、内
に内にと自分を閉じ込め、追い詰めてしまうだけだ。今は「仕切り直
し」の意味でも、一旦気持ちも視点を切り替えるべきなのかもしれな
い。
 これといった当てもないまま、「仕切り直し」の契機を探して、悟飯
は出入り自由を容認されている神殿の敷地内を、そぞろ歩いた。


 考えまいとしていても、どうしても意識に張り付いたまま離れてくれ
ないのが、この一連の出来事に対してピッコロが見せた「公平さ」だっ
た。
 自分とという一個の人間性を尊重してくれたからこその、彼が自分
との間に線を引いてみせた互いの距離感。それは師弟として以前に、
対等な関係を保つために必要な線引きであり、依存関係に甘えない
為のけじめでもあった。
 ここでピッコロの言葉に流された選択をすれば、その依存のつけは、
いつか何倍にもなって自分に返ってくるだろう。それを予測している
からこそ、師父は自分を、いい意味で突き放すのだ。

 これまで多かれ少なかれ関係を築いてきた、周囲の先達との間に
は当然に弁えるべきものとして、抵抗なく受け入れられるであろうそ
の線引きが……何故、こうも悲しいと感じてしまうのだろう。


 これ以上は、考えるべきではないのかもしれない。これ以上嵌まり
込めば、何らかの答えを導き出せるまでそこから抜け出せなくなる
と、本能が警鐘を鳴らしていた。
 今は、一時避難として神殿に身を寄せているだけだ。「本業」の進
行もある以上、いつまでもここに隠れて下界との関わりを絶つわけ
にもいかない。この隠れ屋に長居をすればする程、下界に残してき
た「日常」に対する敷居が高くなるだけだった。
 
 いつまでもぐずぐずと甘えているわけにはいかない。どこかで見切
りをつけて、一方的に問題を棚上げにしてきた生家へと、自分は戻
らなければならなかった。
 戻って、そして、この見合い話に乗るか断るか、選択を―――


 「……っ」

 ―――ああ、馬鹿だと自分で思う。
 持ちかけられた件の見合い話を、受けるも断るも自分次第だ。それ
を承知していながらも、これ程に底冷えするような恐怖を覚える事自
体が、既にこの案件に対する答えだった。
 
 自分がこの神殿に逃れてきたのは、母の執拗な「説得」から一時的
にでも逃れたかったからではない。二者択一の選択に心を定めるため
の、時間を稼ぎたかったからでもない。
 自分は―――ほかならぬピッコロの、言質が欲しくてここに逃げ込
んだのだ。

 そんな因習は理に適っていないと。そんな風に急ぎ足に将来を決め
る事は、お前の為にならないと。
 父でもなく、母でもなく、他の昔なじみの大人達でもなく……その言
質をピッコロに求めたことが、この自問に対する、紛れもない答えだっ
た。
 ……そうだ。自分はピッコロに、この案件を否定してほしかった。ピッ
コロの口から、見合いを断るよう、要求されたかったのだ。
 なぜならば、自分は―――



 ―――と、刹那。

 これといった場所の目的もなく、重い歩みを進めていた悟飯の足が、
ふと止まった。
 神殿が聳える台座の外周に沿うようにしてそぞろ歩いている内に、
いつの間にか、正面からは外観が目視できない神殿の裏手側へと
回り込んでいたらしい。下界からの来訪者はもとより、神殿の住人達
も頻繁に立ち寄る場所ではないというその「死角」で、ピッコロが、粛
然とした佇まいで瞑想していた。
 
 こうして一人の時間を過ごしているという事は、神の補佐役としての
所用は早々に片付いていたのだろう。その上で、気持ちの整理をつけ
る時間を自分に与えるために、敢えて自分に構わずにいてくれたとい
う事なのか……

 いつでも、自分にとって良かれと思う采配を当たり前のように振るっ
てくれる師父の厚意が心底ありがたく、そして、それを受け取り損ね
た自分の不出来さを、申し訳なく思う。
 だが……幼い頃から幾度となく目にしてきた師父の佇まいを前に、
最後に悟飯の胸襟を支配したものは、そんな彼に対する謝意でも恭
敬の念でもなかった。


 「……ピッコロさん…」

 喉奥で蟠り、吐息のように頼りない語勢でなされた呼ばわりは、人
並み外れた聴覚を誇る師父の耳に、過たず届いたらしい。ふと身じろ
いでこちらに向き直ったその長身を改めて見遣った刹那―――胸襟
をせり上がり、視野を滲ませるものを瞬きで懸命に振り払いながら、
悟飯は、自分の中に巣食う衝動の正体を、諦観の思いと共に、受け
止めた。

 「……見合いなんかするなって……言って下さい」
 「悟飯?」
 「僕は……このままお見合いをして、自分の生涯の相手を決めら 
  れたくありません…っ」

 ああ、そうだ。自分は……      

 
 「悟飯……だからそれは、お前の心ひとつで決めればいいと…」
 「それじゃ駄目なんです!」

 我ながら、子供が癇癪を起しているようだと思う。師父は自分の自
主性を重んじてこの距離感を保ってくれていたのに、それを当の自
分が台無しにしてどうするのだと、心の片隅に残っていた冷静な部
分の自分が、叱咤する。

 それでも―――こうでも言わなければ。こうまでなりふり構わず言
葉にしなければ。
 天然だ、野暮天だと世間から謗られながら、それでも人の世の理
や柵に多少なりとも通じている自分以上に、世事に疎いこの人には、
きっと、自分の声は届かない。

 「駄目なんです!ピッコロさんに、止めてほしいんです!」
 「悟飯……」
 「止めて下さい!一度でいいから、引き留められたっていう口実を、
  僕に下さい!」
 
 恋愛感情という概念を持たないピッコロに、自分の言わんとしてい
る事がどこまで伝わっているのかは解らない。自分の感情ばかりを
押し付けた、卑怯な物言いをしている事も、承知の上だった。
   
 卑怯でいい。世間が自分を何と評しようとも、この人ただ一人に、
自分の言葉が伝わるのなら、それでいい。
 自分がこれほどに―――この人の存在そのものに、慕情の念を
抱いているのだという事を。


 「……あなたが、好きです」
 「悟飯……」
 「世間に認められたいとか、そんな、形式的な事は、どうでもいいん
  です。僕の「日常」に、ピッコロさんを縛り付けたい訳じゃないんで
  す。でも、このまま自分の気持ちに蓋をしてお見合いして結婚して
  …それで「一人前」になったと言われても、きっと僕は、自分の選
  択を一生後悔する……そんなのは、嫌なんです!」
             
 きっと他の誰と縁づいても、僕は後悔するんです―――言って、悟
飯は臆面もなく眼前の長身に縋った。

 「身勝手だって……狡い事を言ってるって、解っています。これは僕
  の勝手な気持ちで、ピッコロさんの気持ちはそうじゃないのに……
  僕の勝手でピッコロさんを巻き込んでいるんだって、解っているん
  です。でも……っ」

 あなたには、恋愛感情は解らないから―――そんな風にいう事は、
どうしてもできなかった。そうやって、互いに承知しているはずの事実
から目を背け、相手が「自分と同じ気持ちで向き合っていない」距離
感を責めるような物言いをしている自分の小狡さに、虫唾が走る。
 だがそれでも、悟飯には、聞き苦しいばかりの陳情を、引き下げる
事が出来なかった。

 「お願いします……僕を止めて下さい!見合いなんかやめて、今の
  ままのお前でいろって…そう言って下さい!」
 「悟飯……」
 「今はそれだけでいいんです!それ以上は望みませんから……っ」

 だから、僕を止めて下さい―――

 再三の訴えは、喉奥から込み上げてくるものに震えて、まともな言
葉にはならなかった。
 それきり、意味をなさない嗚咽ばかりが、周囲の沈黙に浸透する。


 互いに言葉を発することなく、そうして、どれ程の時間を過ごしてい
たのだろうか。

 「……悟飯」

 垂れ込める沈黙の帳を破ったのは、縋りつかれた形のまま次の行
動を起こせずにいた、ピッコロの方だった。


 「俺達ナメック星人には、地球人と同じ尺度で恋愛感情を理解する
  ことは、恐らくできない」
 「…っ」
 「それは種族としての特性だ。ある程度歩み寄る事は出来ても、こ
  の認識差の距離は埋まらない。恐らく、この先もずっとな」

 平時と変わらない抑揚に欠ける声音が、それでも聞き流す事を許
さない威圧感で以て、悟飯の恐れていた「事実」を物語る。聞きたく
ないと悟飯は首を打ち振ったが、ピッコロは、それを許さなかった。

 「そんな俺に思いを寄せても、きっと、お前は報われない。それな
  らば、まだ世間がお前に強制的に道を示している内に、お前の
  一生を支えられる伴侶と、縁づくべきだと……そうも、思う」
 「ピッコロさん!」
 「だが……」

 噛みつかんばかりの勢いでなされた反駁は、最後まで話を聞け
とばかりに力を込められた、悟飯の背に回された支え手に阻まれ
る。 
 互いの身長差から、頭一つ分以上離れた上方から向けられた眼
差しは、悟飯がこれまで目にしたことがないほど、複雑に混じりあっ
た色合いをしていた。

 「だが……頭ではそうあるべきだと思っても、お前が、生涯の伴侶
  と縁づくかもしれないと考える事は、正直、面白い事ではなかっ
  た。ここに逃げ込んでくるほど意に沿わない話なら、尚更だ。お
  前の母親の言い分にも正しさはあるのだと思うが……今のお前
  を、見合いをするために下界に戻したくはない、とも思う」
 「ピッコロさん……」
 「だが、本当にいいのか」

 刹那―――自分に向けられる声音に、それまでとは異なる色が
込められたのを、自らの衝動に追い詰められた余裕のない意識の
片隅で、悟飯は知覚した。

 「お前が俺に望んでいることは―――今お前が突き付けられてい
  る選択肢の一つを、お前に、完全に捨てさせることだ。そうなれ
  ば、お前はもう、「選択」すらできなくなる。お前の方こそ、恋愛
  感情もろくに理解できない相手に縛り付けられて、一生を無意
  味に生きる事になるかもしれないんだぞ」

 それでもいいのかと、言外に問いかけられ……閉ざされた瞼を押
し上げるようにして、それまで辛うじてこらえてきた思いの発露が、悟
飯の頬桁を伝い落ちた。 
 そして……


 「……嫌です…」
 「悟飯……」
 「縛り付けられるって言うなら……それは、ピッコロさんの方です。
  それが解っているのに……嬉しいって思ってしまって……それが、
  ピッコロさんに申し訳ないって気持ちで、一杯なのに……」
 「悟飯」
 「こんなに嬉しいのに……無意味に生きるだなんて、言わないでく
  ださい…っ」


 多分、この選択は、周りの誰からも、積極的に祝われることはない
のだろうと、悟飯は思った。
 生態も、寿命も、一部の情感の方向性も、自分達は噛みあわない。
世間が普遍的に認識するような、「恋人」としての相関を、恐らく、自
分達は作り上げる事ができないだろう。

 だが、それでもいい。
 例え世間が求める「自立」ではなくとも……どのような形であれ、こ
の人が世界に残す足跡に、少しでも交わった生き方を、自分は選び
たかった。

 思いの丈を伝えるように、自分を支える相手の長身に縋る力を強
めれば、ピッコロもまた、己の覚悟を示すかのように、自分を強く支
え直してくれる。
 何一つ確証のない自らの未来への、それこそが得難い支柱のよう
だ。それが何よりも幸せだと、悟飯は思った。
 
 そして――――互いの抱く覚悟の重さを分け合うように……一つの
宣誓が、なされた。 


 
 「―――見合いなどするな」
 「…っ」
 「そのままの……今のままの、お前でいろ」

 
 平時よりも、幾分低い声音でなされた、端的な要求に……嗚咽交
じりに返された微かな応えは、人並み外れて秀でた聴覚を誇るピッ
コロの耳に、確かに、届いていた。




   






 「おけぇり悟飯ちゃん」


 数刻後―――
 生家に戻った悟飯を出迎えたチチは、彼が家を飛び出した時の喧騒
を思えば、意外なほどに物柔らかだった。

 嵐の前の静けさかと、内心身構える。それでも、天上の神殿でようや
く固めた自らの覚悟を、「嵐」に押されて譲る訳にはいかなかった。
 ここから先は自分一人の領分で、覚悟の後押しをくれたピッコロにも、
助力は頼れない。母の説得は、自分がやり遂げるべき命題だった。

 そんな悟飯を家の中に引き入れると、チチは、「けぇった早々、蒸し
返して悪いんだけんどよ」と口火を切った。

 「昼間の話な……悟飯ちゃんが出てった後、また世話人さんから連
  絡があっただ。悟飯ちゃんも気乗りじゃねぇみてぇだし、もうちっと
  時間もらってから返事をするっつったども、あちらさん、えれぇ乗り
  気でな。こういう事は少しでも早い方がええで、ぜひ万障繰り合わ
  せて都合をつけてくれって言うだ」
 「お母さん……」
 「まあ、確かにタイミングっちゅうもんはあるでな。あちらさんの言い
  分も解るけんども……日取りもいいから、「万障繰り合わせて」来
  週の土曜に、一席設けましょうっつっただよ?うちの都合も、なに
  より悟飯ちゃんの予定も聞かずにだぞ!?」

 オラ、むかっ腹立っちまっただよ―――吐き捨てるように続けられた
母の言葉には、隠しようもない嫌悪の響きがあった。
 日頃何かと口喧しい母だが、相手に言うだけ言ってしまえば後を引
かない、捌けた気性をした人だと子供の頃から知っている。その母が
ここまで根深そうな嫌悪を口にするからには、先方とのやり取りが、
相当に気に障ったのだろう。
 
 どう返したものかと内心逡巡する悟飯を前に、チチの怒りは収まる
気配を見せなかった。

 「ありゃあ、自分とこが一端の名家だっちゅうのを、鼻にかけてる何
  よりの証拠だ。最初っからこっちの都合なんかお構いなしで、そ
  のままズルズル自分らのいい様に話を進める気だでな!」
 「はぁ……」
 「見合い先のあちらさんがどういうお人だか、まだわかんねぇけども
  ……間に入る世話役があんなんでは、縁づいたって悟飯ちゃんが
  苦労するんは目に見えてるだ。なんつっても、「自分が世話をして
  やってるんだ」っつー上から目線なんが、気にいんねぇだよ」

 この話は無しだ―――憤懣やるかたないといった様子で言い放っ
たチチは、一転、気遣わしな表情を悟飯に向けた。

 「悟飯ちゃんも、振り回しちまってすまなかっただな。元々乗り気
  でなかったようなのによ、オラが先走り過ぎただ」
 「お母さん……」
 「まあ、こんだけ引手数多っつう状態なんだ。そん中から、またじっ
  くり良い縁を見つければいいべ。話進めるんなら、悟飯ちゃん
  がまとまった休み取れる時の方がいいだべと思ってたけんどよ?
  そこはほれ、それこそ「万障繰り合わせて」だでな?」

 悟飯ちゃんも忙しいだろうけんど、頼むな?―――言うだけ言っ
て溜飲が下がったのか、チチが気が晴れたように笑う。さあ飯にす
るべ、と続けられた母の言葉には、自分にとっても鬱屈の種であっ
た件の見合い話について、これで仕舞いにするとの意向が伺い知
れた。

 少なくとも、今回の一件については、棚ぼた式の幸運で立ち消え
になったという事か。母も少しはこの憤懣を引きずるだろうから、
ここしばらくは、同様の話を持ち込まれることはないはずだった。
 願ったりだと思う。しばらくこの手の話から遠ざかれるだけでも、
自分が一息つく時間が作れる。その時間を母や家族の説得に費
やせることは、ありがたかった。

 とりあえず、折角立ち消えになったのだ。母の機嫌も直ったよう
だし、何も今日、この話題を蒸し返すことはないかもしれない。
 帰省の予定は明日までだから、今日明日は大人しく、家族孝行
に勤しんで―――

 だが…… 
 
 『一度でいいから、引き留められたっていう口実を、僕に下さい!』

 安全策を取りたがる自分の逃げ腰を、天上の神殿で師父に一蓮
托生を迫った、自分自身の言葉が引き留めた。

 今日をやり過ごしたところで、この手の話は、またいずれ持ち込ま
れるようになるだろう。次の帰省の際に、などと問題を先送りにして
いたら、ますます自分は、自分の首を絞める事になる。
 なによりも、あんな小狡い言い方でピッコロの言質をもぎ取るよう
な真似をしておきながら、その結果ようやく固めた自分の覚悟を出
し渋るなど、ピッコロに対して申し訳が立たない。

 ここから先は、自分が決着をつけるべき領分だ。後になればなる
ほど自分を追い詰めるだけだと解っていて、今、行動を起こさない
のは余りにも怯懦というものだった。
  

 「……お母さん」

 腹に力を入れて、威儀を正す。今にも台所へと取って返そうとして
いた母の顔を改めて見遣りながら、悟飯は続く言葉に、一語一語、
力を込めた。

 「すみません、お母さん……僕はもう、見合いはしません」
 「やんだな、解ってるだよ。嫌な思いさせて悪かっただな?今回の
  話は、もうこれで仕舞いっつう事にしてあるから心配すんな。ま
  たどっこからでも、悟飯ちゃんに合ったいい話が……」
 「そうじゃないんです」

 この一件に関する念押しだとでも思ったのか、気安い調子で手を
振りながら、気に病むなとチチが繰り返す。そんな母の言葉を遮る
ようにして、悟飯は、一際声を張り上げた。

 「悟飯ちゃん?」
 「……そうじゃないんです。どこからの話でも、誰が相手でも、もう
  僕は、金輪際見合いはしません。お母さんが言っていた、「生涯
  誰とも娶わない」覚悟で、そういう目的の紹介は受けません」
 「悟飯ちゃん、おめぇ……」
 「だから―――もう金輪際、見合い話は受けないで下さい。孫家
  の長男は全く結婚願望がないから、紹介を受けるだけ無駄だと
  ……そう、お断りして下さい」

 向き合った母の表情が、見る見るうちに色を失っていくのが解る。
これがそれほどに、親心を無視した親不孝であると、頭では悟飯も
解っていた。
 だが……ここで絆されて自分を曲げたら、きっと自分は、この選択
を、一生後悔する。
 自分を生み育ててくれた両親の為に、これまで自分と関わってく
れた多くの先達の為に。そしてなにより、自分のこの覚悟を後押し
してくれた、得難い御敵の為に―――そんな後ろ向きな生き様は、
晒せない。

 「――――すみません。どうか、許して下さい」

 彼らへの謝辞と、これからの道行きを歩む覚悟と、ともすれば
尻込みしたがる自らへの喝と……
 それら全てを飲み込んだ、万感の思いで以て―――言葉を失っ
た母を前に、悟飯は、思い切りよく頭を下げた。






 
  






 その日の晩―――一家揃っての夕食を終え、それぞれが、思い思
いの時間を過ごそうと食堂から解散するのを見計らったようなタイミ
ングで、 悟飯は、母に呼び止められた。

 院生時代から続く下宿生活で、いまでも自室はそのまま残されてい
るものの、こうして帰省した折は、悟飯の待遇は実家住まいだった当
時と比べ、幾分「お客様」よりのものとなる。悟飯の方にも多少は帰省
者の遠慮があるため、こういう時に、家族との時間を作らずに早々に
自室に切り上げるような事は、出来るだけ避けるようにしていた。
 それは、家族に対し、多少の後ろめたさを抱えた時でも、変わらない。
母がこうして自分を呼び止めた理由は改めるまでもなく察せられたが、
その気まずさを口実にそれを固辞することも、悟飯にはできなかった。
 
 父や悟天をわざわざ遠ざけてまで、母が自分に投げかけたい用向
きなど、今は一つしかないだろう。解っていて、それを頑なに避けるの
も時間の無駄だ。
 それにこれは、一旦動き出したからには何らかの形で、関係者全員
の折り合いを付けなければならない問題でもある。母から水を向けら
れたのは、むしろ好都合だった。

 改めて食卓の自席に座りなおした悟飯の前に、茶器と作り置きの茶
請けが差し出される。それは少年の日から親しみ、成人した今でも帰
省の度に振る舞われる馴染のものであったが、それだけで、母がこの
対話に関し、相応の長丁場を覚悟している事が解った。

 一旦こうと腹を決めた母を相手に、その場ごかしなど通用しない。彼
女が納得するまで、自分は言葉を尽くして母と向き合わなければなら
ないだろう。    

 自分自身を落ち着かせるために茶器を煽り、予想される長丁場に備
える。相向かいに食卓に腰を下ろした母も、恐らくは同様の理由なの
だろう。明日の朝食の下拵えと思しき手仕事を始めながら、静かに口
を開いた。

 「…なあ、悟飯ちゃん。さっき言ってたあれは……金輪際見合いはし
  たくねぇって言ってたあれは、そう思うくれぇに、悟飯ちゃんが、気
  持ちを向けてるお人がいるってことで、いいんだべ?ただ単に面
  倒だとか、気楽なままでいてぇからとか、そういう事じゃねえべな?」
 「お母さん……」
 「そっただ理由だったら、オラも簡単には話を引っ込めねぇ。誰かと
  所帯構えるってだけで幸せになる訳でもねぇし、そうしねぇ奴が一
  人前じゃねぇとも思わねぇけどな。そんでも、周りがお膳立てして
  やんねぇと解んねぇ事もあるもんだ。だから、いっぺんきっちりと
  腹割って、悟飯ちゃんの気持ちを確かめてみたかったんだけんど
  ……そういう事じゃ、ねぇんだべ?」

 それは、問いかけというよりは、母が自ら抱えた自問に答えを導き
出すための「念押し」のようなものだったのだろう。一瞬の躊躇の末
頷いた悟飯に向かい、チチは、小さく息を吐いた。
 そして―――

 「……ピッコロさか?」

 言葉が発されるまでに要された時間に比べ、紡がれた語勢は、独
語のようにか弱く、頼りない。それでいて、その声音には、己の推測
を疑ってもいないような、確信めいた響きがあった。
 問いかけと呼ぶには、余りにも言葉足らずな、たった一語で線引き
された一つの人名。その指し示すところはあまりにも明白で、悟飯は、
先刻のようには、咄嗟に頷いて見せる事ができなかった。

 それでも、己の予測に対する確信を得るための情報は、悟飯のそ
の反応だけで十分だったのだろう。数呼吸程の間をかけて、向かい
合う息子の姿をまじまじと眺めやると、チチは、そうけ、と一言呟い
た。

 こちらに噛みつくような怒声であるとか、一度「スイッチ」が入ったら
容易には止める事ができなくなる、感情と理詰めで力惜しした反駁
であるとか……悟飯の予想していた反応は、一切返らなかった。
 それでも、幾分伏し目がちになりながら何事かを思案しているらし
い母の表情を見れば、彼女が、突然突きつけられたこの案件に、手
放しで賛成してなどいないことも伝わってくる。
 自分のこの欲求は、周囲の目にもあまりにも突飛なものとして映る
だろうし、到底後押しを期待できるようなものではないと、自分でも解っ
ていた。だからこそ、予想よりもはるかに冷静な反応を見せる母の様
子が、反って悟飯には気にかかった。

 その夜幾度目かの沈黙が食堂の空気に浸透し―――ようやくチチ
が顔を上げたのは、その場の空気に悟飯が居たたまれなさを感じ始
めた頃だった。

 「……なんだかなぁ…オラ、本当に意気地がねぇな」
 「お母さん……?」
 「そっただ予感は、なんとなくあったしよ……いざその時がきたら、
  孫の顔見せねぇ気かーっとか、親の気もしらねぇで勝手に話進め
  るでねぇーっとか、色々言ってやるつもりだったんだけんど……」

 いざとなると、そんな風には言えねぇもんだな、と、独語のように、
チチは呟いた。

 「オラには詳しい事は解んねぇだども……ナメック星人っていうん
  は、地球の人間よりも、うんと長生きするんだべ?」  

 ピッコロさは、いくつ位まで生きられるんだべな、と言葉を続けた
母の問いかけに、悟飯を試しているような響きはない。自分を窘め
たり咎めたりしている訳ではなく、純粋な疑念からの言葉であるの
だと、悟飯にも伝わってきた。

 確かに、他にナメック星人の先達が健在していないこの地球で、
遠く母星を離れて生きるピッコロやデンデが、元来の生活圏と異な
る環境下でどれほどの定命を持つことになるのか、それは誰にも
解らなかった。おそらくは、当の本人達でさえも、それは同様だろ
う。
 それでも一つだけ確かな事は、彼らの定命が、この星で暮らす者
達に比べて、極端に長いという事だ。
 
 だから一言、解らないと答えた悟飯に対し……チチも一言、そうか 
と返す。
 それきり、母は押し黙り―――数十秒ほども経ってからようやく口
を開いた彼女は、何とも形容できない口調で、しんどいなあ、と独語
した。

 「……お母さん?」
 「悟飯ちゃんは男の子だで、こういうこと言われても解んねぇかも
  しれねえけどよ」

 そう言って、母は、どこか寂しそうに笑って見せた。


 「オラも、ブルマさも、地球人だからな。サイヤ人の旦那様より、早く
  年食っちまう。寿命はそんなに変わらねぇって話だども、見た目は
  オラ達の方が、どんどん先に年食って……ずっと若いまんま変わ
  らねぇ旦那様達の姿を、傍で見ていかなきゃなんねぇ」

 平時の闊達とした語調に比べ、抑揚に乏しい抑えられた語勢のま
ま言葉を繋げる母の横顔は――確かに、子供の時分の記憶に残る
それと比べて、未だ若々しさを保ちながらも、その細部に加齢による
変化が見て取れる。それは、生物として至極当然に、誰の上にも平
等に訪れる、加齢による変化であったが……その例外もあるのだと
いう事を、悟飯もまた、我が身を以て、見知っていた。

 父も、ベジータも……純血のサイヤ人である彼らは、戦い漬けの
半生を余儀なくされる事が常であるという戦闘民族の習性を正常に
受け継いで、極端に老化が遅い。とはいえ、聞き及んだ話によれば、
所謂、戦闘員としての「絶頂期」を経過した者は、みな一様に例外な
く、一足飛びに加齢による退化が始まるという話だから、思秋期を迎
えることなく一気に「老け込む」こととなる彼らの晩年が、幸せである
とも言い難いものはあったが。

 ただ……その特異な半生を、側近くで見送る事になる身近な存在
にとっては―――特に、伴侶となる女性にとっては、種族間のその
差異は、この上もなく重いものとなって受け止められるのだろうと、
まだ人生の研鑽途中である悟飯にも、容易に計り知れる事だった。

 共に年月を重ねていきながらも、自分一人が外見年齢を重ね、体
感時間を止めてしまったかのような伴侶に、この先の半生を置き去
りにされるという焦燥と恐怖。そんな、至極一般的な夫婦関係からは
かけ離れた命題を、母もブルマも、生涯背負っていかなければなら
ないのだ。

 この先、決して短くはない一生を、そうして生き続けなければならな
い彼女らの鬱屈は、いかばかりだろうか。
 そして―――息子である自分に対し、これまで一度でも、素振りに
さえ見せる事のなかった母が、今、こんな話題を仕向けてきた理由が、
悟飯には、解るような気がした。

 サイヤ人と地球人との混血である自分が、父やベジータと比べて、
どのように「老化」していくのか、前例のないだけに、それは図りかね
る事だったが……少なくとも、そんな自分より、ナメック星人の定命
を背負ったピッコロの方が、遥かに長く、寿命を残しているだろう。
 外見年齢の違いはあっても、そう変わらない速度で以て互いに寿
命を終えるのであろう、両親やベジータ夫妻とは、自分とピッコロの
抱える命題は、似て非なるものだった。

 自分の方が、遥かに早く年を取り―――そして、遥かに早く、寿命
を終える。それは種族間の特性の違いであって、どうにもならない事
だった。

 そんな悟飯の内心を見透かしたかのように、チチは、再び寂しそう
に笑った。 

 「……こんなこと、今更オラが言うまでもないんだべな。悟飯ちゃん
  は、全部ひっくるめて承知した上で、お父やオラに、打ち明けたん
  だべ?そんならみんな、余計なことかもしれねぇけんどよ……」

 そんでも、お父じゃあ、絶対解ってやれねぇ事だろうからよ―――
言って、チチはそれまで手慰みのように続けていた手仕事を止め、
真っ直ぐに悟飯へと向き直った。

 「悟飯ちゃんは女の子じゃねぇけんども……一緒になりてぇってほ
  ど好いたお人より、自分だけが年食っていくのは、辛ぇもんだ。
  旦那様が若いから、つられていつまでも若くいられるだろ、なん
  て言う人もいるけどな。やっぱり、どんなに気を若く持ってみたっ
  て、本当に老け込まねぇお人には、敵わねぇ」
 「お母さん……」
 「もう悟飯ちゃんは大人だと思うだべ、初めてこんな話もすっけど
  な。おっかあも、ブルマさも、旦那様がそういうお人だって、知ら
  ねぇまま一緒になっただ。……そりゃあそうだべな。サイヤ人の
  嫁っこになった地球人なんて、他にいねぇんだから。だから、きっ
  とブルマさもそうだろうけんど、そういうお人と添い遂げる覚悟が
  できてきたんは、結婚して、随分過ぎちまってからだ」
 
 だが、お前はそうではないと―――自分に向けられた母の目線が、
語っていた。

 「ピッコロさは、そりゃあできたお人だ。戦い戦いの、あんなとんで
  もねぇ時代を生き抜けるように、悟飯ちゃんをしっかり仕込んでく
  れた恩人だ。お父があの世に行っちまってた間も、どんだけ助け
  になってもらっただが解らねぇしな。ナメック星人っちゅうのは男
  も女もねぇって話だけんど、ピッコロさに惚れ込んだ、悟飯ちゃん
  の気持ちはようく解るだよ」
 「お母さん、あの……」
 「だども……」
  
 悟飯ちゃんにも、解ってるんだべ?―――続けられた母の言葉は、
常の彼女らしからぬ、ひどく語勢に欠けたものだった。

 「……オラと悟空さは、見た目の年齢は、どんどん離れちまうけど、
  そんでも……いつか親子みてぇな見た目になっても、そんでも、
  同じだけ年取って、そっただ違わねぇ時間にお迎えが来るはずだ
  でな。そう思えば、先に老け込んじまうんも、耐えきれねぇ程のも
  んじぇねえって思えるだ。……だども、ピッコロさと悟飯ちゃんは…
  …一緒に生きてぇと思うんなら、もっとずっと、覚悟が必要だべ?」
 「お母さん……」
 「ピッコロさがどうこうって訳じゃなくてな……いつかきっと悟飯ちゃ
  んが辛ぇ思いする時が来るって、最初っから解ってて……そんで
  も、そういう将来を悟飯ちゃんが選ぶ姿を見てるんは……ちっと、
  しんどいだ」

 そこで一旦言葉を区切り、チチは再び、中途のまま傍らに放置して
いた手仕事を取り上げる。急ぎの仕事という訳でもないのだろうに、
自らの手元に集中している彼女の姿は、これ以上自分と視線を合わ
せずに済む為の、取り繕いのようにしか悟飯には見えなかった。

 それほどに、自分の決断が母を追い詰めているのだろうかと考える
と、申し訳なさで居たたまれない心地になる。それでも、母を安心させ
るために、人並みの家庭を築くという選択も、悟飯には、今更選ぶ事
はできなかった。

 そして―――そんな悟飯の胸の内を察してか、チチもまた、悟飯に、
その選択を考え直せとは、言わなかった。

 「……普通に地球人の嫁っこをもらって、その嫁っこと共白髪んなる
  まで一緒に年取って、手塩にかけて子供育てて……そんな風に、
  普通に年食ってく悟飯ちゃんを、見たくないって言ったら嘘になる
  けんどよ……だども、それが本当に悟飯ちゃんの幸せなんだか、
  オラにも悟空さにも、解んねぇだでな」

 悟飯ちゃんの幸せは、悟飯ちゃんが自分で選ぶしかねぇもんな―――
独り言のように続けられた母の言葉が、その語尾を僅かに震わせた
のを、悟飯は、何とも気詰まりな思いで聞き咎めた。

 もしも、平時の彼女がそうであるように、頭ごなしに感情的に、一方
的な拒絶を示されていたなら、自分も恐らく、反骨精神が芽をもたげ
るままに、母の言葉を黙殺していたかもしれない。だが、正面から自
分の気持ちに寄り添って心を砕いてくれた母の思いを、あっさりと無
碍にはできなかった。

 地球人とサイヤ人の混血である自分よりも、ナメック星人であるピッ
コロの方が、きっと、残された寿命ははるかに長い。
 自分一人が年を取り、先にこの現世を去らなければならないのだと
いう覚悟を、今から実感として捉える事は出来なかった。そしてそれ
は、いくら想像を働かせても対応策が生み出せるわけでもない、どう
にもならない命題でもあった。

 いま、母が語り聞かせてくれた、先陣としての体感を、自分もいつか、
我が身で以て味わう時が来るのだろう。そして、他に同類を持たない
まま年を重ねる事になるのだろう自分には、母やブルマのように、誰
かと同じ思いを共有し、それを無意識下の慰めとすることもできない
のだ。
 母の言う「覚悟」には、そういった、共感者を持てない孤独を背負う
ことも込められているのだろう。
  
 それでも―――その孤独から逃れられても、市井の暮らしに混ざり、
平凡な家庭を築くことが、自分の幸せだとは、悟飯にはどうしても思
えなかった。

 「……すみません」

 それが、この場にそぐわしい言葉であるかどうかも解らないまま、そ
れでも、言葉に置き換える事の出来ない交々の思いを込めて、頭を
下げる。
 どこか物憂い空気に耐えられなくなったのか、そんな悟飯の肩を軽
く叩き、チチは、やんだなあと小さく笑った。

 「まっさか、悟飯ちゃんとこんな話することになるなんてよ。ウチは二
  人とも男の子だで、嫁っこの苦労する覚悟しか考えてなかっただよ」
 「お母さん……」

 まあ、あのピッコロさじゃ、嫁っつうんも婿っつうんも、なんか違う気が
するけんどな―――冗談めかしてもう一度笑うと、チチは、ふとその表
情を改めて居住まいを正した。

 「……だども、これだけはちゃんと覚えといてけれな。悟飯ちゃんの選
  ぼうとしてる将来は、普通に嫁っこ迎えて家族を作って、家庭を養っ
  ていくよりも、ずっと、しんどいもんだ。周りの人達もな、そりゃあ助け
  てくれる時もあるだろうけんども、自分の家庭ができたら、みんな、
  まずはそっちを必死で守らなきゃなんねえ。お互い様だーって支え合
  うんには、悟飯ちゃん達の「家庭」はやっぱり特殊だべな。どうしたっ
  て、周りとうまく足並みが揃わねえことも出てくるべ」
 「……はい」
 「そういう時によ、お父やおっかあが元気でいる内は話も聞けるし、手
  伝ってやれることも、なんかしらはあるだろうけどよ……どうしたって、
  オラ達は悟飯ちゃんより先に、あの世に行っちまうからな」
   
 だから、しっかり腹括ってくれな、と、チチは言い含めるように言葉を繋
いだ。

 「悟飯ちゃんの人生は、悟飯ちゃんが決めるしかねぇ。なぁんも考えねぇ
  で流されてるようなら、ここらで周りが梃子押ししてやらねぇとって思っ
  てたけんど、そういう気持ちがあるんなら、親が世話焼くのは筋違いっ
  てもんだべな」
 「お母さん……」
 「だども、そんならそれで、きっちり覚悟決めてくれねば困るだぞ?おっ
  かあはこれ以上何も言わねぇ。そんでも、お父や悟天ちゃんやじいちゃ
  んが、どう思うかは解らねぇべな。頭ごなしに反対されても、おっかあ
  は間に入らねぇからな」


 つまりは、家族や周囲の人間にどれ程反駁されても、援護射撃は期待
するなという事か―――
 この一件を口にした時点から、孤軍奮闘は覚悟の上の水向けであった
が、はっきりと言葉にして突き放されると、背中に冷水を浴びせかけられ
たような心地になる。
 だが……それは、けして不快な衝動ではなかった。

 この程度の事を自力で乗り越えられないようなら、大人しく人並みの将
来を選んで人並みの幸せを掴む「妥協」をしろという、これは、母なりの
引導だ。そうして言外に入れられた喝が、問答無用に自分の背中を押す
だろう。それこそが、この上ない援護射撃だと、悟飯は思った。


 「―――はい」

 居住まいを正し、腹の底から声を出す。そうして言葉少なに宣誓した
悟飯の姿に、チチは、やはりどこか寂しさを伺わせる笑顔で頷いて見せ
た。

 「……んじゃ、今日はもう遅いだで、風呂さ入って早めに安め。なんだ
  かんだで、悟飯ちゃんも疲れただべ。後はもう、みぃんな明日だ」

 悟空さと悟天ちゃんは早風呂しただし、オラもまだ明日の支度あっか
ら、ゆっくり入ってこい―――言葉と同時に椅子から腰を浮かせ、この
話題は終わりだと言わんばかりに悟飯に背を向けた性急さは、チチな
りの気遣いによるものだろう。悟飯自身、どんな顔をしてこの場を辞去
したものか些か面映ゆい思いを抱えていたために、母の言葉にありが
たく従う事にした。

 ……と、刹那。

 「……あっと。話蒸し返して悪いけんどな、悟飯ちゃん」

 いかにも話のついでという態で、肩ごしにチチが背後を一瞥する。そ
れきり自らの手元へと視線を戻してしまった彼女は、事もなげな語調
で、息子を呼び止めた用向きを言い繋いだ。

 「今日明日って話じゃねぇけどな。これっからの事でなんか段取る時
  は、報告でも相談でも、ピッコロさも一緒に連れてくるだぞ。悟飯ちゃ
  ん一人で動いてたら、ピッコロさも腹が決まんねぇべ?」 
 「あ……はい…?」
 「こういう事はな、二人揃って動かねぇと意味がねぇんだ。そうやって
  なんでも二人で悩んで決めてくとこから、家族らしくなっていくんだ
  からな」

 ちゃんと覚えとくだぞ―――言い置いて、そのまま明日の朝食の下
拵えに本腰を入れ始めた彼女に、息子の返事を期待する気持ちは始
めからなかったのだろう。その言葉通り、そもそもこれが、「今しなくて
もいい話」である事は、彼女自が承知しているはずだ。
 だから、このまま言葉を返すことなく、この場を立ち去るという選択
肢も悟飯には用意されていた。そうすることで母が気を害することな
どない事も、これまでの経緯から承知している。これは、あくまでも「蛇
足」の話だった。

 だが……母の厚意に甘えてこのままこの場を後にしてしまうには、
母と自分の間には、余りにも捨て置けない、一つの大きな齟齬があ
る。放置してしまえば後々の禍根にもなりかねないその懸念を、悟
飯は黙殺できなかった。


 「……あの、お母さん…」

 これを口にするのは、「息子」としても、親元からの独立を示唆され
た「成人」としても、不体裁極まりない醜聞だった。できればこの案件
提示は一月は先送りにしてほしかったと、気の早い母を胸の内で思
わず恨む。

 それでも、このままずるずると「誤解」をまかり通らせてた挙句、いざ、
事が自分の思う形に終着しなかったとすれば、これ以上におさまりの
悪い話はない。しかも、次第によっては、母の先走りに巻き込まれた
に過ぎないピッコロにまで、余計な迷惑をかける羽目になるのだ。
 自衛をするなら、少しでも早いに越したことはない。ここでこの齟齬
を正さず、決まり悪さに負けて母の固定概念を放置すれば、結局、自
分で自分の首を絞める事になるのだ。

 できる限りさりげなく、事もなげに、現状における「事実」のみを端的
に告げればいい。そう自分に言い聞かせても、不自然に上ずってしま
う声を、悟飯にはどうすることもできなかった。

 「……あの。今更、言うのもアレなんですけど……僕、まだピッコロ
  さんと、具体的な将来の約束をしたとか、そういう訳じゃ、ないん
  です……」
 「へ?」
 「あの……というか、まだ…自分の気持ちを、ピッコロさんに伝えたっ
  てだけで……この先どうするとか、そういう話は…その……」

 全然していなくて、と続けられた言葉は、体裁の悪さにひどく滑舌の
悪いものとなる。それでも、もごもごと言い訳のように紡がれたその言
葉は、過たずチチの耳にも届いたようだった。
 こちらを振り向いたその口元が、あんぐりと開かれている。文字通り、
空いた口が塞がらないといった態で、チチは、まじまじと悟飯の姿を眺
めやった。

 水仕事の途中であったことが禍し、出しっぱなしになってしまった水
道の流水音が、向き合った二人の間を流れる沈黙に、断続的に横槍
を入れる。
 その体制のまま五秒が過ぎ、十秒が過ぎ―――さすがにそろそろ、
水を止めた方がいいかと悟飯が思い始めた時、同じことに思い至っ
たらしいチチが背後に体をねじり、開いていた蛇口を閉めた。
 一瞬の所作で再び息子を振り向いた彼女の口は閉ざされていたが
……幾分引き攣り気味の表情全てが、心底呆れたと物語っていた。

 「……悟飯ちゃん……」

 そりゃあ、オラもちゃんと確認したわけじゃなかったけどよ―――
脱力気味にぼやいた母の口唇が、声を発することなく、小さく「情け
ねぇ」と動く。声に出さなかったのが、彼女のせめてもの温情だった
のだろうが、幼い頃から叩き込まれてきた様々なサバイバル技術に
助けられ、その意図するところは、過たず悟飯へと伝わっていた。
 せめてもの気概で以て平静を保った悟飯に向かい、チチは、長々
と嘆息した。

 「こういう事はよ……せめて、ピッコロさの返事をきっちりもらってか
  ら、オラ達に根回しするもんでねぇだか?オラだって、なぁにも今
  すぐ、おめぇに別の見合いしろって言った訳でもねえべ?」
 「はあ……」
 「まあ、心に決めたお人がいるからには、意に沿わねぇ見合い話
  なんかちっとでも持ち込まれたくねぇって気持ちも解るけどよ。
  それは悟飯ちゃんの誠意だとしてもだ。これでしっかり将来の約
  束してもらえなかったら、おめぇ、ただの頓馬だぞ?」
 「…っ」

 良くも悪くも、裏表のないあけすけな人なのだと、幼い頃からの経
験で身に沁みてはいても、歯に衣着せない母の言葉に、少しだけ
泣きたくなる。そんな悟飯の心情を知ってか知らずか、チチは、再び
向き合った息子の長身を見上げ、景気づけのように、その肩を二、
三度叩いた。

 「……ともかくよ。まあ、こういう事は早けりゃいいってもんでもねぇ
  けんども、おめぇ、ピッコロさとの話は早めにケリつけちまった方
  がいいぞ?」  
 「は、はい……」
 「気持ちを言うだけ言って、それで一件落着。一緒にいられるだけ
  でええ。なんて、そんなん娘っこの甘ったるい妄想だでな。結婚っ
  ちゅうのは現実だ。この先の生き方が掛ってるだぞ?もう金輪際
  見合いはしねぇ、嫁っこのきても探さねぇっつうんなら、そんくれぇ
  の覚悟固めて腹ぁ決めて、きっちりピッコロさと話をつけてくるだ
  ぞ?できねぇって言うんなら、オラも見合いの件を呑むわけには
  いかねぇからな」

 先刻までの神妙さはどこへやら、胸の前で腕を組んで悟飯を見上
げるチチの様相は、平時の覇気をすっかり取り戻している。その勢
いに内心気圧されながら、そう言えば、母もある意味、実力行使で
自らの伴侶を勝ち取った過去を持つ人なのだと、悟飯は思い返して
いた。

 これは援護射撃云々以前に、大変な障壁が立ちはだかってしまっ
たものだと思う。これまでは、予測しうる周囲からの「反対」に備えた
「説得」を考えていればよかったが、こうなると、このままずるずる現
状維持を続けようものなら、これまでの清算と言わんばかりに、主に
母が主導で段取られた見合い話が、雨あられと降り注ぐ羽目になり
そうだ。
 これを後押しと受け取るか引導と受け取るか、非情に悩ましい局面
だと悟飯は思う。だが、おそらくはこの先、しみじみと我が身を振り返
る余裕などない事だけは、誰に指摘されるまでもなく、身に染みて解っ
ていた。

 この分では、残りわずかな休養期間である帰省中の日程も、のんび
りと家族孝行などに勤しんではいられなさそうだ。そんな口実で家に
居残ろうものなら、家族の機嫌を取る暇があったらさっさと話をつけて
来いと、文字通り家から蹴り出されかねない。
 きっと母が捲し立てるであろう「喝」の一字一句、想像がつくようで、
先刻までとは幾分意味合いを違えた理由で再び泣きたくなる。それで
も、解ったなと念押しのように言い渡されれば、宇宙最強のサイヤ人
唯一の泣き所として定評のある孫家御台の貫録を前に、悟飯には、
黙然と頷いて見せる事しかできなかった。

 
 明日から始まるであろう、新たなを悶着を思い描き、悄然と項垂れ
た悟飯の喉奥から、飲み下し切れなかった嘆息が小さく漏れる。よ
うやく一つの艱苦を乗り越えたと思ったのも束の間、安息の時は、ま
だまだ先送りになりそうだった。
  
 だが―――
 
 将来の取り決めなど何もない、ようやく入口に立ったに過ぎない自
分の展望は、遠く果てがなかった。自分一人で成形出来ない以上、
この先の道行きを望む方向に歩いて行けるかすら、保証はない。そ
れは、暗中を手探りで進むような心許なさだった。
 だが、それでも……ここから先の艱苦は、回避の為ではなく、自分
の望む生き様を勝ち取るためのものだ。そして自分には、引導を用
意するほどの真摯さで、この道行きを後押ししてくれる理解者がいる。

 望む相手と、望む道行きを歩むために新たな労苦を払える自分の
身上を―――悟飯は、幸せだと思った。 





   ドラゴンボールZの小部屋へ