その晩、神殿内の客室に落ち着いた悟飯は、持ち込んだ私物の荷解
きも早々に、室内に鎮座する大振りの寝台に寝転がった。
悟飯が神殿に逗留する際には恒常的にあてがわれる客室は、隅々ま
で清潔に整えられており、居心地の良さに心身が癒されていく心地がす
る。有事の際にばかり転がり込んでくる自分の為に、こうして快適な環
境を提供してくれる師父や親友、そして神殿の管理を取り仕切る精霊の
心尽くしを、悟飯は改めてありがたいと思った。
幾度となく体を休めてきた寝心地のいい寝具の上でのんびりと体を伸
ばしていると、この天上に駆け込んでくるまでの、下界での忙しない数日
間がどこか遠いもののように思えてくる。随分と忙しない出立となってしまっ
たが、携わっていたチーム研究の引き継ぎに手落ちはなかっただろうか、
などと考えを巡らせている内に、悟飯の意識は、意図するでもなく、この
天上への避難を余儀なくされたそもそもの発端について、追想へと流さ
れていった。
一年前、弟の悟天が家中を巻き込んだ爆弾発言を落としたことで、孫
家の生活は、一気に悟天中心のものへと変わっていった。
ジュニアハイスクールの教師陣との段階を踏んだ進路相談。目的とす
るハイスクールの求める学力レベルを身につけさせるためのカリキュラ
ム作成。私塾や、不定期に帰省してくる悟飯のバックアップに頼るだけ
では到底間に合わないと、母が方々をあたって、悟天との相性を考慮し
た家庭教師まで手配した。
費用面に関しては、息子達の学力向上に骨身を惜しまなかった母が
長年かけて地道に用意してきた蓄えで当面は凌げた。そして悟天が順
当にハイスクールに進学すれば、その入学と入れ替わりに悟飯がスクー
ルを卒院して就職する。学者の卵として巣立ったばかりの身では定給と
言ってもたかが知れていたが、それでも、自分の口を自分で養える身分
になっただけでも、生家にかかる負担は軽減されるはずだった。
そうした環境の中、限られた時間を駆使して受験勉強に勤しんだ悟天
の学力は、じわじわと、しかし確実に伸びていった。希望進路の公言当
初は渋い顔をして見せたジュニアハイの担任も、三年生の一学期が終
わる頃には、手応えを覚えたのか、本気で梃子押しをしてくれるように
なった。
これならどうにかなるかもしれない―――掲げた目標がすぐ目の前ま
で近づき、いよいよそこに手が届きそうだと思えば、本人もそれを支える
周囲の人間にとっても、俄然やる気の度合いが変わってくる。その頃に
は、孫家の生活はますます悟天中心のものに変わっていった。
自分の幼少時代に腐心した教育方針を反面教師とでもしたかのように、
奔放な気性に弟を育て上げた母親の中に、まだこれ程の情熱が残って
いたのかと、その変貌ぶりに内心でたじろいだ。勉強嫌いを公言していた
弟のどこにここまでの気概が眠っていたのかと、その進捗振りに舌を巻
いた。
そうして、全てが弟中心となっていく生家の暮らしの中、悟飯はいつし
か、弟の進路を後押しする気持ちとは別のところで、何とも言えない居心
地の悪さも覚えるようになっていったが……それでも、良くも悪くも「二の
次」の扱いを受けるようになった自らの身上を、ありがたいと思う気持ち
があったことも確かだった。
悟天が希望進路を表明するよりも数か月前―――2つ目の博士号取
得が確定した悟飯の元には、そんな悟飯と己の身内を娶わせたいと目
論む方々からの見合い話が、引きも切らないという状態だった。
一つ、二つならどうにかやり過ごせても、立て続けに見合いを断るとな
れば、先方もこちらの身内も納得させられる、それなりの理由が必要に
なる。ことに、見合い話が持ち込まれたことで、息子が世間から「一人前」
の扱いをされたのだと手放しで喜ぶ母親を納得させるだけの理由を示す
のは容易な事ではなかった。
結局、会ってみなければ始まらないのだから一旦は仲介人の申し出に
乗ってみるべきだ、と繰り返す母親をどうしても説得できず、追い詰めら
れた悟飯は、天上の神殿へと文字通り逃げ込んだ。
その気になりさえすれば、いつでも自分を連れ戻すことが可能だっただ
ろう母の目こぼしと、気が済むまで避難していけばいいと、この天上に匿っ
てくれた師父や旧友の厚意に甘え、自問を繰り返した。それは、自分がこ
の先どうしたいかという前向きな方向性のものではなく、「何故自分は見
合いを受けたくないのか」という根本的な理由について、改めて向き合う
ためのものだった。
神の領域の住人である師父や旧友に、下界の、人の世の理は実感と
しては理解できない。そんな彼らに匿われたことで、悟飯は執拗に見合
いを強要される下界の柵から逃れる事ができた。だが、それと同時に、
己の実感を以て悟飯の境遇に共感するとこのできない彼らから、「見合
いをすることはない」という後押しを受ける事は出来なかった。
受けるも断るも自分の意志で決めるのが見合いの建前だ。悟飯にし
ても、ピッコロやデンデの言葉を言い訳にして、持ち込まれる見合い話
から逃れようとしたわけではなかった。
それでも、この二十年という長付き合いの中で、自分の人格形成に多
大な影響を受けた師父の口から、見合いを公然と固辞できるだけの言
質を取れなかったという事実は、悟飯が想像していた以上に重い衝撃と
なって胸襟を抉った。
我欲というものに執着せず、公正な視点で世界を見据える事ができる
のは、彼らナメック星人の特性であり、地球系人物と比べてもっとも大き
な差異だ。そんな個性をもったピッコロに、その生まれ持った公平性を
曲げさせてまで自分に都合のいい言葉を求めるのは、我儘というものだ
ろう。それは、悟飯にも解っていた。
気のすむまでここに避難していけばいい。それでも、それほどに周囲
がお膳立てを整えてくるのであれば、いっそそれに乗ってしまうのも一
つの選択肢ではないか、とピッコロは口にした。それは悟飯達からすれ
ば神の視点にも近しい目線で世界を俯瞰する彼が、悟飯の置かれた状
況を鑑み、可能性を取りこぼすことがないようにと腐心してくれた結果だ
ろう。純粋な厚意から出た師父の助言に従うことに、本来、悟飯には何
の不安も感じる必要がないはずだった。
だが……自分に対してどこまでも公平であろうとするピッコロの言葉に、
悟飯は自分でも想定できなかった衝撃を受けた。それは、師父が自分
一人の肩を持ってくれなかったという事よりも、自分に持ち込まれた見
合い話を彼が遠まわしにであれ容認したのだという事実に対しての衝
動だった。
そしてその時―――悟飯は、ようやく思い至ったのだ。長年師弟関係
にあった師父の言葉に、いつしかそれほどに左右されてしまうようになっ
ていた、自分の中で育て上げてしまった、彼に対する執着を。
自分の将来を見据え、その可能性を一つでも潰すことのないようにと、
自分の置かれた境遇に対してどこまでも公平な目線を保とうとしてくれ
た師父。そんな彼の口から告げられた、見合いを後押しするかのような
言葉が、なによりも自分の胸を抉った。それは、裏を返せば、師父に見
合いを止めてほしかったという期待の表れに他ならなかった。
自分の将来を慮ってくれた師父の思いを知りながら、何故そんな身勝
手な期待を抱いてしまったのか……そんな自分の衝動に向き合った時、
その根幹に根付いた執着の正体に、悟飯は、もう思い至らない訳には
いかなかった。
自分にとって―――ピッコロという一人のナメック星人の存在は、その
公平な目線で育て導いてくれる師父の域を、とうに越えてしまっていた
のだ。
特定の相手を恋いうるという心情を理解できないという種族的特性を
持った相手だ。ピッコロにとって、身勝手な執着をぶつけられる事がどれ
ほどの重荷となるか、想定できなかった訳ではない。それでも、一度箍
が外れてしまった衝動は、行き場も与えられずに再び胸の内に押し戻
すことは、もうできなかった。
周囲のお膳立てによって、新たな縁を築こうとしている自分を引き留め
てくれと、形振り構わずに懇願した。それで何かを期待したりはしないか
ら、引き留められたという口実を自分にくれと、彼に縋った。
まるで生形態の異なる出自を持つ師父にとって、自分の懇願は、どれ
ほどに重く煩わしく感じられた事だろうか。それでも、身勝手な衝動をた
だぶつけるばかりだった自分の訴えを、彼は、最後には黙って受け止め
てくれた。
自分には恋情は理解できないと、そう言葉では牽制しながらも、そのま
まのお前でいればいいと、自分を受け止めてくれた。こんな状態のお前
を、見合いをさせるために下界に返したくはないと、そうも言ってくれた。
それだけで―――十分だと、悟飯は思った。
地球系人類とはどうしても、ものの感じ方の違う彼が、精一杯の譲歩で
自分を受け入れてくれたのだ。それ以上の確約など、求められるはずも
ない。そんな師父の思いに触れただけでも、自分は下界に投げ出してき
た諸々の不始末に整理をつけ、この先の長い学者人生に挑んでいける
と、そう思った。
だが……いざ下界に戻ってみると、ことは、そう簡単には治まらなかっ
た。
下界の生家に戻った悟飯がまず真っ先に向き合わなければならなかっ
たのは、数々の縁談を喜び勇んで自分の元へ持ってきた母親に、見合
い話を諦めてもらうよう、説得することだった。
母の気性を考えれば、そう簡単に首を縦に振ってもらえるとは到底思
えない。残された休暇日数のみならず、次の休暇まで当て込むつもりで、
何としてでも母に納得してもらう覚悟だった。
母からピッコロの事を言及されるにいたり、相当の長期戦を覚悟したも
のの、結果として、意外なほどにすんなりと、母が折れてくれた。だが、母
が聞く耳を持ってくれたことで、悟飯は、自分の将来に対する母の懸念の
細部まで、思い知らされることになった。
持って生まれた寿命さえ異なる、異星人であるピッコロと自分が辿る事
になるであろうこの先の半生に、同じように肉体の成長速度がかみ合わ
ない伴侶を得た自らの身上を、母は、重ね合せたのだろう。彼女は繰り
返し、そんな悟飯の未来を思うと忍びないのだと、口にした。
何としてでも自分に「家庭」の苦労を背負わせたくないと心を砕いてくれ
た母の思いを考えると胸が痛んだが、それでも、自分にも譲れない領分
があるのだと真摯な態度で以て向き合うことが、そんな母の思いを無碍
にする不肖の息子が、唯一示せる誠意でもある。悟飯には、自分のこの
先を慮る母を前に、覚悟はできているのだと、どうか許してほしいと、頭を
下げる事しかできなかった。
見合いをし、婚姻し、いずれは新たな血脈を広げていくはずだった未来
を全て手放そうとしている息子の我儘を、母は、最期には諦観交じりに認
めてくれた。
だが……
『ええだな悟飯ちゃん。悟天ちゃんの事も家の事も、心配はいらねえ。せっ
かくのまとまった休暇だ。おめぇはその間神殿に厄介になって、ピッコロ
さとよおく話し合ってくるだぞ』
都の下宿から慌ただしく立ち寄った生家で、見送りに出た母親から掛けら
れた言葉が耳朶に蘇る。こちらの事は一切に気にかけなくていいから、お
前はお前の成すべきことを済ませて来いと、母は、繰り返し悟飯に発破を
かけた。
『なにもこの一週間でどうこうケリをつけろとは言わねぇ。そんでも、悟天
ちゃんの件で、ただでさえおめぇ達の事が後手後手になっちまってるん
だ。ちゃあんと腹割って、ピッコロさと話してこい。他の誰でもねえ、おめぇ
自身の事なんだからな?』
例の見合い話が立ち消えになった当初―――悟飯は、母の不承不承な
がらの許しを得た代わりに、今後の進捗について、ピッコロと協力して事
に当たるようにと、強い語調で言い置いた。
今後一切の縁談を固辞するというなら、その根底にあるピッコロとの関
係にしっかりとした形を持たせるべきだというのが、母の言い分だった。ま
た、その位の覚悟がないのであれば、どこにも縁づかないという悟飯の言
明を、認める訳にはいかないと。
その後、程なくして悟天の受験問題が持ち上がったことで、この命題に
ついては、結局一年越しで結論が棚上げされてきたのだが……この機に
乗じて、これまでの遅れを一気に巻き返してこいと、母は悟飯の背中を押
したのだ。
生家でのそんなやり取りを思い返すにつれ、胸襟から重い嘆息が、喉元
へとせり上がってくる。
そもそもが、件の見合い話の騒動は、自分が身勝手にピッコロを巻き込
んだに過ぎなかった。一度きりの口実でいいからと、自分に都合のいい言
葉を彼に求めたのは自分の方だ。それだけでも、自分達とはものの感じ方
から異なる師父にどれ程の重荷となったか解らない。
強引にもぎ取ったにも等しい言質を盾に、ピッコロに、母が望むような相
関を強要するなど、あまりにも厚顔というものだった。
それに……自分自身の身上と重ねあわせて息子の身を案じてくれてい
るのだろう母には、きっと、酷く偏った視点でしか、事の次第が見えていな
い。
肉体の衰えが極端に遅いサイヤ人を伴侶に持った事で、いつまでも年
を取らない父との外観年齢の差を、つねに眼前に突き付けられながら生
きていかなければならない母。それは、仮にピッコロとそうした相関を作り
上げる事になれば、地球系生物である自分もまた、受け入れなければな
らない未来だった。ベジータと縁づいたブルマにしても、胸の内に抱える
屈託は同様だろう。
だが……父も母も、ベジータもブルマも、肉体が有する寿命そのものに、
外見年齢程の差異がある訳ではない。
母が以前物語ったように、いずれは、然程変わらぬ時期に互いの寿命
が尽きるのだと思えば、一人老け込んでしまったかのような焦燥も、少し
は慰められるのだろう。そうした種族間の特性も鑑み、そもそもの寿命が
著しく異なる自分とピッコロの将来を、尚更、母は案じていた。
それでも―――母の懸念は、結局は、息子である自分の境遇に添った
ものだ。
地球人よりも、サイヤ人よりも、よほど長い寿命をもったピッコロは、自
分達がこの世からいなくなった後も、定命尽きるまで、生き続ける事にな
る。見知った者が次々と身罷っていくという時の流れを見届けるだけでも
ひどく残酷な事のように思えるのに、その上、彼の長い人生を思えばあま
りにも短すぎる時間に限定して、誰かと特別な相関を作り上げてしまうと
したら……
ピッコロの思いは、ピッコロ当人にしかわからない。それでも、身勝手に
彼の懐に飛び込んでおきながら身勝手に彼を置いて死に逝くことになる
自らの身上を思うと、それはあまりにも残酷な自己満足なのではないか
と、悟飯は居たたまれなさを覚えずにはいられなかった。
ナメック星人は恋愛感情を理解できない種族なのだと聞かされた時、
この地球で暮らすことに寂しさを覚える事はないのかと、そんな風に彼
の心情を慮ったこともある。だが、今になって思えば、極端に寿命の違
う種族の中で生きていく師父や旧友にとって、自分達のように誰かを請
いうる気持ちを理解できない事は、反って彼らの生き様に余計な枷を
背負わせずに済んでいるのではないかと、どこかで安堵の思いを覚え
たことも確かだった。
そんな師父に、今更身勝手な執着を押しつけて、一体どうしようとい
うのだろう―――
気を抜けば耳朶に蘇ってくる、母の発憤の言葉を振り払おうとするか
のように、掛け布の下で幾度となく寝返りを打つ。
胸襟に根付いたきりどうしても打ち消すことのできない思慕の念と、
そんな我欲を師父に押し付けているという心苦しさで……その晩、悟
飯はどうにも寝付くことができなかった。
TO BE CONTINUED...
お気に召しましたらこちらを一押ししてやってください。創作の励みになります
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