safety valve・8







  翌朝―――目覚めた時、悟飯がまず自覚したのは、これまで慢性的に体内に燻ってい
た倦怠感からの、劇的なまでの解放感だった。


 
 寝起きでぼんやりした頭でも、寝台に投げ出した手足の先にまで、活力が漲ってい
るのが解る。夢見の悪さを恐れずに、安心できる空間で熟睡できた証拠だった。
 就寝前は嘔吐感すら誘発されるほどの衝撃を訴えていた腹部の痛みも、疼くような
鈍痛が幾分残る程度だ。ためしに意味もなく首を捻ってみても、多少寝違えた程度の
痛みしか感じない。ピッコロに落とされてから初めて目を覚ました昨夜に比べれば、
後遺症とすら呼べないほどの、それはささやかな痛みだった。

 幾分及び腰に、寝台から身を起こす。問題なさそうだと、次は慎重に、そこから抜
け出してみる。行動に障るほどの苦痛は、体のどこからも発されなかった。

 これは、自分の回復力が秀でているのではなく、しかけたピッコロの手腕が絶妙だっ
たという事だろう。焦燥に駆られた自分を相手に長々手合わせをすることを忌避した
彼が、最も効率的かつ、極力尾を引かない方法で、自分を落としてくれた賜物だった。

 ありがたいという思いと、申し訳ないという思いが、胸の内で交錯する。

 自分の体がこれほど短時間に「まし」な状態に戻ったのも、活力を取り戻せるくら
いに深い眠りを貪れたのも、全ては、それを采配してくれたピッコロのおかげだ。
 あれほど師父への依存心を押し殺し、彼が安心して見ていられる院生生活を送る事
を自分に課してきたというのに、いざその膝元に身を寄せれば、すぐこれか。そもそ
もが、ここへの緊急避難も、あの研究室での数日を自力で乗り切れると思い強行した、
自分の意地と慢心から生じた不手際なのだ。その一つ一つの解消に逐一師父の手を煩
わせ、合わせる顔もない心地だった。



 とはいえ、居候先の神殿で、いつまでも惰眠を貪っているわけにもいかない。体の
自由が戻るまでは師父の厚意にありがたく甘えたが、こうしてましな状態になったか
らには、居候なりの誠意ある返礼に努めなければならなかった。

 きっと本人が宣言していた通り、ピッコロは、自分が眠っている間に変調をきたさ
ないよう、この部屋で付き添ってくれていたに違いない。
 所用でも片付けに席を外したのか、あるいは様子の落ち着いた自分を見て、もう大
丈夫と判断したのか、今はこの部屋に姿が見えなかったが……あれほどの安心感に包
まれて安眠できたのだ。自分が目覚めるのと然程大差ない時刻まで、彼がこの部屋に
居残ってくれたことは疑いようもなかった。


 
 体の自由が戻るまでと、ピッコロの厚意に甘えてここに身を寄せたことは、まあ不
可抗力だろう。しかし、その事と、懊悩に振り回される心ごと彼に依存してしまうの
は、話が別だ。

 
 身動きが取れるようになったからには、今度こそ、この神殿から離れていた二週間
の自分の行状を―――場合によっては、この衝動に悩まされた当初からの経緯を踏まえ、
師父に順序立てて説明しよう。
 言葉が拙くとも構わない。自分の主観で、自分の言葉で、包み隠さず物語るのだ。
それが、師父に対して今の自分にできる、何よりの返礼だった。

 その上で、この諸々の自覚症状に対する自分なりの考察を明示しながら、師父の見
解とそれらをすり合わせ、今後の指針を打ちたてよう。状況によっては、あれこれ取
り繕わずに、素直に師父の助力を願い出る。
 その「状況」を、見誤らない事が、自分に課された自己責任だ。その判断さえ他者
に依存する人間に、己の意地を貫く資格はない。


 この体が活力を取り戻すまではと、それまで何も聞かず、意地を押し通す自分の事
を、ピッコロは待っていてくれたのだ。それがどれほど気まずく、居たたまれなく思
えても、今度は自分から、彼に水を向けなけれなばらなかった。




 と、刹那―――悟飯が間借りするこの部屋に、外部からの入室を求める控えめなノッ
クの音が、室内の空気を僅かに震わせた。

 自分がまだ寝ているかもしれないと配慮されたノックの仕方に、容易に相手の存在
が推し量られ、気安くどうぞと言葉を返す。
 果たして、長身を屈めるようにして室内に姿を現したのは、ピッコロその人だった。


 「おはようございます、ピッコロさん。色々と、お世話をおかけしました」
 「―――だいぶ顔色もましになったな。よかった」
 「はい。おかげさまで、本当にぐっすり眠れました。ありがとうございます」


 顔を合わせるなり明らかに安堵した表情を見せたピッコロに、心配をかけたことへ
の言外の謝罪も込めて、折り目正しく頭を下げる。そんな青年にもう一度よかったと
繰り返すと、ピッコロは、伸ばした掌で、寝起きでいつにもまして奔放に乱れた悟飯
の頭髪を、気安くぞんざいに掻き乱した。

 お互いに段階を意識して踏んでいくような対面を終え、本題に入ろうと促すかのよ
うに、ピッコロが悟飯の面前から一歩退く。その動きにつられるように身を起こした
悟飯もまた、向かい合う師父の視線を、正面から受け止めた。
 ここまでピッコロを巻き込み振り回してきた迷惑を考えれば、もうこれ以上言葉を
誤魔化すことはできない。ここは、自分から本題の口火を切るべきだった。

 整わない言葉でも致し方ないと、一度は腹をくくったが、やはり自分が語り手を担
う以上、少しでも相手に伝わりやすい言葉で、順序立てて事の次第を釈明したい。な
らば、まずはどんな言葉から、この長い口述を始めようか―――無意識の内に自らにプ
レッシャーをかけ、悟飯は、自身を鼓舞するように大きく息を呑んだ。

 だが、本題に入る足掛かりを探して、束の間辺りに浸透した静寂を共有していた二
人の、思いがけず機先を制したのは、ピッコロの方だった。


 「……ああ。そういえば、三十分ほど前だったか。お前の荷物の中で、何か物音が
  していたな。ケータイデンワ、というやつだろう?」

 急用だといけないから、早く確認した方がいい。そう続けられ、気勢を削がれた形
となった悟飯も、反射的に部屋の片隅に置かれていた自分の手荷物を振り返る。

 泊まり込んでいた研究室棟から一旦下宿に戻り、とりあえず行動可能な程度に衝動
が治まるのを待ってから、取るものも取りあえず、この神殿を目指した。そんな慌た
だしい中でも最低限必要となるであろうものを詰め込んだ手荷物だけは持ち込んでい
て、その中に、ピッコロが指摘した携帯電話も入っていた。

 ハイスクール時代までは、受信状態も怪しいような山中の親元で暮らしていた事や、
一般的な学生生活を送る上で必要性を感じなかった事もあって所有していなかった携
帯電話を、悟飯がようやく使い始めたのはユニバーシティに入学してからの事だ。
 スキップを繰り返しながら規定されたカリキュラムをこなす為には、そのスケジュー
ル調整にユニバーシティ側との連携は必須であり、常に何らかの形で情報の受信を可
能にしておいてほしいという、ユニバーシティの要請があったのがそもそもの発端だっ
た。

 以来およそ三年以上利用しているツールではあったが、基本的に、この神殿を訪れ
る際、悟飯は携帯電話を持ち込まないことが多い。ピッコロやデンデ、ミスター・ポ
ポが持ち込んだ私物に難色を示したことはないし、流石は神の力が及んだ領域という
べきか、受信状態も申し分ない。それでも、この人里離れた聖域に、おいそれと人間
の世界のツールを持ち込むことに、悟飯自身がいくばくかの抵抗を覚えたからだ。

 本来であれば、そう長居をする予定もなかった今回の滞在にも、携帯電話を持ち込
まないという選択肢もあった。それでも衝動に駆られるまま神殿を目指した自分が咄
嗟にそれを手荷物の中に投げ入れたのは、今が博士論文提出後の査定期間であること
を、無意識の内に考慮していたからなのだろう。

 研究室棟でもこの神殿でも、場所柄を考慮して携帯電話はマナーモードに設定して
あったが、ピッコロの秀でた聴覚が聞き咎めたというのなら、確かに何らかの着信が
あったという事だ。この状況で連絡が入るとすれば、博士論文絡みである可能性が高
い。

 二日や三日、情報の伝達が遅れたところで、今後のスケジュールに然したる影響は
ない。それでも、これから日程調整を経て、初めての口頭試問に臨もうとしている駆
け出しの自分が、少しでも先方の心証を損ねるかもしれない事態は、極力避けておき
たかった。

 「……すみません。あの、ちょっと……」
 「ああ。構わんから早く確認しておけ」

      
 事もなげに言い置いたピッコロに黙礼し、部屋の隅へと踵を返す。手荷物から取り
出した携帯電話の液晶画面は、メールの着信が一件あったことを悟飯に教えていた。
 該当するメールを呼び出し、ざっとその内容に目を走らせる。数秒の間にそれらを
済ませた悟飯は、しかし、どこか困ったような表情を浮かべ、ピッコロを仰ぎ見た。

 「どうした?」
 「あの……すみません。スクールの研究室からのメールで……直接、連絡しないと
  ……」
 
 メールの内容は、悟飯が先日提出した博士論文の査定が終了し、博士号認定の最終
関門となる、口頭試問の日程が決まったというものだった。ただし、メールの誤送信
を避けるため、かつ本人確認の意味も含めてなのだろう。日程の詳細については記さ
れていない。メールには、追って連絡するようにという、指示が追記されていた。

 そこまで事細かに事情を説明しなくとも、ピッコロには大まかな事情が察せられた
らしい。目顔で頷くだけで、彼は悟飯に諾意を示した。

 メールを確認するよりもはるかに緊張した面持ちで、手の中の携帯電話を見つめ直
す。数秒の沈黙の末、彼は意を決したように、この一年半余りで馴染んだ番号を呼び
出した。


 「―――あ、分子生物学研の孫です。連絡いただいてすみません、口頭試問の件で…
  …はい。11月15日ですね。予備日は……はい、18日……はい、解りました。
  あの、試問前にプレゼンの件での打ち合わせは……はい、はい。ありがとうござ
  います。今ちょっと出先なので、戻ってこちらでも段取りを組んでから、改めて
  伺わせて頂きます。…はい、ありがとうございます。失礼いたします」


 あくまでも要件確認のみの通話であったが、所謂「余所行き」の顔で応対している
姿を「身内」に見られるというのは、何とも面映ゆい。それでも用件だけはしっかり
とメモに残し、なんとか体裁を保ったまま通話を終了させた悟飯は、それまで成り行
きを見守っていたピッコロに向き直り、照れ隠しのように軽く咳払いした。

 「……すみませんでした。研究室からで、口頭試問の日程がきまったという連絡だっ
  たんです」
 「ああ、聞いていて大体内容は解った。……11月15日なら、あと一月ちょっと
  だろう。準備は大丈夫なのか」
 「はい。今回は学外募集が例年より多かったみたいで、その分少しずつ日程が前倒
  しになっているみたいですけど……あ、学内募集から先に試問されるんです。で
  も、だいたいいつもこんな感じだとは聞いて段取っていたので、大丈夫だと思い
  ます」


 うちの研究室は結構人気があるので、外部からも「ここのブランドで認定されたい」っ
ていう人がそこそこ集まってくるんですよ―――言って、悟飯は気を取り直すように、大
きく息をついた。

 
 ようやく意を決したと思ったら、思わぬ方向から水を差されてすっかり出鼻を挫か
れてしまった。もう一度仕切りなおして師父と向き合うのも、なんだか妙に気恥ずか
しい心地がする。 
 
 だが、ある意味では、この横やりで、師父と向き合おうとしていた自分の緊張が適
度に解されたともいえるのだ。それに口頭試問の日程も、ここしばらく自分を縛って
いたストレスの一つであったのだから、こうして重荷を一つ下した状態で一つの命題
に集中できるのは、ありがたいことであるかもしれなかった。

 試問までは、あと一月と少し。そのための前準備に充てる時間を差し引いても、も
う二、三日程度を自分の自由時間に充てる余裕は十分にある。研究室からも、段取り
を固めたら早めに顔を出すようにと言われただけで、具体的な日程の指示は受けてい
ない。ならばこの二、三日は外部の動静を自分が気にかける必要もなくなったという
事だ。

 ……ありがたい。ならばこの二、三日で自分が抱える命題にそれなりの打開策を見
出して、それから自分は試問に臨まなければ…… 
 自分の為にも、そしてそんな自分にここまでずっと付き合ってくれた師父の為にも、
こんな出口の見えない堂々巡りは、いい加減に終わらせなければならなかった。
 
 

 「――――ピッコロさん。聞いて頂けますか」

 改めて威儀を正し、自分をずっと気遣っていてくれた師父の、長身な体躯へと向き
直る。それと察して幾分表情を引き締めたようにも見える、ピッコロの変化に乏しい
容色を見上げながら、悟飯は、まだわずかに鈍痛を残す己の腹部に力を込めた。

 「……すみません。界王神界に行ったあの日の事で、僕は、ピッコロさんにもお父
  さんにも、お話していなかったことが……言えなかったことがあります」

 それを、聞いて頂けますか―――?

 敢えて婉曲な言い回しを避け、自分で自分に、言い訳の逃げ道を与えないための端
的な言葉を選ぶ。
 相変わらず表情を変えないピッコロを前に、自ら進んで告解することはやはり勇気
のいる行為だと思ったが……今は、態度を取り繕うことなく自分の続く言葉を待って
いる師父の泰然とした姿が、心底頼もしくありがたいと、悟飯は思った。




  
 
                                   TO BE CONTINUED...


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