そして、およそ1時間後―――ピッコロを筆頭とする地球からの来訪者
達は、場を提供してくれた絶対神へと精到な謝辞を述べ、郷星への帰還
を果たした。
地球を統括する立場にあるデンデが長時間神殿を離れる事は問題が
あると、まずは彼を送り届けるべく、一行は悟空の瞬間移動によって神殿
へと移動する。そうしてひとしきり互いの労を労った後、悟空も生家へ戻る
べく踵を返しかけたが……去り際に、彼は愛息をもうしばらく頼むと言い
置いて、神殿を後にした。
完全に意識を失ってしまった悟飯を生家に連れ帰っても、その原因と経
緯を順序立てて妻に説明することは、口下手な悟空には難しいだろう。
そもそも、事の次第を物語るには悟飯のとった「選択」についても言及す
る必要があり、今は、悟空にもそこまでの精神的余裕があるとは、ピッコ
ロには思えなかった。
悟飯の容体がはっきりしない以上、下界の彼の下宿にも彼をおいてお
くわけにはいかない。必然的に、消去法により残されたこの天上の神殿
へと、その身柄は預けられることになった。
チチも心配するから、試験の前には一度くらいは家に顔だすように言っ
てくれ、と最後に言葉を重ね、悟空は後顧をピッコロに託した。愛息の抱
える懊悩、そして彼が神龍の「処置」を受けたことを目の当たりにしている
あの男の方が、その妻よりも今は余程、息子の進退に気を揉んでいる状
態なのだろうに……それでも敢えて、自分に一任して下界に戻っていった
男の豪胆さに、ピッコロは内心で頭が下がる思いだった。
―――ともあれ、龍神に釘を刺されている以上、悟飯は少なくとも明日
までは、目を覚まさないだろう。ここに至るまで、心身ともに限界まで疲弊
していたであろう青年を、この機会に一度深く眠らせてやる事は、不可抗
力の産物とはいえ、悟飯にとっては干天の慈雨であると言えるのかもしれ
なかった。
意図的に与えられた眠りであれば、簡単に目を覚ますようなことはない
だろうが、少しでも過ごし慣れた場所の方が、深層意識下でも悟飯は安
心できるだろう。そう判断したピッコロは、腕の中で昏睡状態に陥っている
青年を抱えなおし、「今朝」、精神と時の部屋に逃げ込むまでの間彼が寝
起きしていた神殿内の客間へと、その体を運び込んだ。
寝具に身を落ち着けたことで体が楽になったのか、青年から漏れる寝息
が安定したものになる。その様子に内心安堵しながら、ピッコロは、つい一
時間前の出来事に、思いを馳せた。
『――――では頼む。神龍、三つ目の願いだ』
あの後―――最後の願いを待つ龍に向かい自分が告げたのは、悟飯の
進退に関する事だった。
『こいつが今よりももっと成熟して、そして、こいつの中に蟠る破壊衝動が、
今よりはなりを潜めるようになったら……その時は、さっき叶えてもらっ
た二つ目の願いを、俺の側から破棄できるようにしてほしい』
『ピッコロ?』
物言わぬ龍と、今にもその場から立ち上がりかけている男の視線を同時
に浴び、ピッコロは、束の間居心地が悪そうにその双眸を瞬かせた。しかし
次の瞬間には、こいつの為に必要な事だからだ、と言葉を繋ぐ。
『今はもう、この方法しかないんだろう。こいつがこいつの目指す未来を
歩むために、自分の生殖能力を犠牲にしてでも、今の、あるがままの自
分を保ちたいと考えるのは、自然な事だと思う。その為にこいつ自身が
切り捨てたものを、俺達がとやかく言うことはできないだろう。……孫。
たとえ、父親であるお前でもだ』
『ピッコロ……』
『だが、悟飯もいつまでも、このままという訳ではないだろう。大界王神様
の御助力でも、神龍の力でもなくて、いつかこいつ自身の成長に従って、
こいつは今よりももっと落ち着いた、大人になっていくはずだ。そうなれ
ば、こいつはもう、こんな人工的な枷を背負い続ける必要はなくなる』
だから、その時に備えた、これは保険だ―――言って、ピッコロは腕の中
に青年を抱きかかえたまま、中空に浮かぶ龍へと、その居住まいを正した。
『破棄のタイミングを、こいつに任せるのでは意味がない。そんな事をす
れば、こいつはどうせ、俺を少しでも早くこの枷から解放するために、ろ
くでもないタイミングで、先走って破棄を宣言するに決まっている。そう
なれば、恐らくはもう、大界王神様の手前神龍に頼る事はできないから
な。……こいつは一生、自分の中の衝動と戦い続ける羽目になる』
だからこそ、破棄の権利はこちらが持っておくべきなんだと、ピッコロは言
葉を続けた。
『どんなに長く見積もっても、この枷が必要となるのは、あと3〜40年位の
ものだろう。だが、もしもそれよりも早く、こいつがこんな枷を必要としなく
なってくれれば……こいつにも、いまこいつが切り捨ててしまった、自分
の家族を作るという未来が、迎えられるかもしれない』
『ピッコロ、おめぇ……』
『俺はナメック星人だからな。こいつにとって何が幸せなのか、地球人の
規範で推し量る事はできん。俺はただ、こいつが少しでも後悔の少ない
生き方を送れるように、こいつを後押ししてやるだけだ。だが……選ぶ
権利はこいつにあっても、選択肢そのものは、一つでも多い方がいい
だろうと、俺は思う。』
だからこれが、三つ目の願いだ―――そう言葉を続けると、ピッコロは、
踏ん切りをつけるかのように、腕の中で眠る青年の奔放に乱れた頭髪を
掻き乱した。
そんなピッコロに……傍らから、悟空がそれまでとは幾分異なる語調で、
問いかける。
『なあ、ピッコロ……お前はそれで、いいのか?』
『どういうことだ?』
向き直れば、悟空はいつになく気遣わしげな容色で、こちらを見遣って
いた。
『こいつが所帯持って、独立して……そりゃあそれに越したことはねぇさ。
でもそれじゃ、おめぇはこいつの人生に一瞬関わる事はできても……
結局、こいつの人生に、最後までは関われねぇだろ?』
『孫……』
『こいつは義理堅ぇし、情にも篤い。だから、どんな人生を選ぶにしても、
こいつがおめぇへの恩を忘れる事はねぇだろうけどよ。そんでも、こい
つがそうやって独立していったら、おめぇとこいつとの関わりは、絶対
に減っちまう』
本当にそれでいいのかと、言葉を重ねて男が問いかける。その声音と表
情に―――ピッコロは、この男は自分の想像していた以上に、自分の抱
える懊悩を察しているのかもしれないと、ふと思った。
意外の念と、だからこの男のこういう一面が苦手なのだという苦々しい
思いとが、胸の中で交錯する。それでも、ここまで言葉を重ねられて尚、素
知らぬ顔を通すのも不自然かと、ピッコロは、諦観交じりの嘆息を漏らした。
『……なあ、孫。お前は俺が、あと何年位、生きると思う?』
出し抜けの問いかけに、悟空は予想通り面食らった顔をする。そのもどか
しそうな容色に僅かばかりの溜飲を下げながら、ピッコロは、解るはずがな
いな、と言葉を続けた。
『実際のところ、俺に残された寿命がどれほどのものなのか、俺自身にも
解らん。母星とこの地球は環境が異なっているし、そもそも、俺の出自
は異色だらけだからな。前身のピッコロ大魔王からは魔族の因子を受
け継ぎ、母星に暮らしていたネイルや、この地球の先代神とも融合して
いる。……ある意味では、俺も悟飯と同じだ。前例がないだけに、自分
の余命すら、全く想像がつかない』
『ピッコロ……』
『ただ、いずれにしても、俺は悟飯より、確実に長く生きるだろう。だから、
神龍も俺の願いを認めた。……俺はいつか、こいつが逝くところを見送
るんだろう。それは自然の摂理というもので、致し方のない事だが……
仮定の想像に過ぎなくとも、それが居たたまれないと感じる時がある』
ともあれ、随分と先走った話なんだが―――言い置いて、ピッコロは、大
きく息をついた。
『いずれにしても、悟飯はいつか、俺を置いていく。こいつとの繋がりが強
くなればなるほど、それは俺にとって大きな痛手になるだろう。……だが、
こいつとそれ程強く繋がったんだという記憶は、俺の中にずっと残る。
……柄でもない話だがな。とにかく、こいつが最後まで独り身を貫いたと
しても、いずれ所帯を構えて血脈を繋いでいくにしても……それぞれに
異なった形で、こいつが懸命に生き抜いた証は、関わり続けた俺の中に
も残るという事だ』
だから俺は、どちらの道を選んでも、こいつが幸せであってくれればいい
―――続く言葉に、飲み下し切れなかった感傷めいた色が宿る。それでも、
これ以上この男の前で己の深層を曝け出すような真似は耐えられなくて、
ピッコロは、この話はこれで終わりだと、強引に話題の転換を図った。
『―――神龍、またせたな。三つ目の願いを、叶えてくれ』
『ピッコロ』
『ああ、それから……孫。今の話は、悟飯の耳には入れるなよ。こいつ
に変に気遣われたくはない。それに、こいつの成熟が予想していたよ
り遅くなれば、この願いは結局反故だ。こいつに余計な期待を持たせ
ることになるからな』
【―――その願い、確かに引き受けた】
言い置いたのと同時に、神龍が願いの受諾を宣言する。制約により、全
ての願いを叶えた神龍はたちどころに空に四散し、その媒介であったドラ
ゴンボールも、次の瞬間には方々へ飛び去って行った。
大界王神の後押しがあることだ。おそらくは、この閉ざされた領域を飛び
越えて、本来存在するべき地上の各地へと、散って行ったのだろう。
神龍とドラゴンボールを見送り、いささか毒気を抜かれたような表情になっ
た男の姿を見遣り、ピッコロは、これ幸いと、強引に男との会話を打ち切っ
たのだった。
眠り続ける悟飯の傍らに付き添いながら―――ふとそれまでの追憶から
我に返ったピッコロは、そんな自分の姿を目にする者が室内に存在しな事
を承知しながら、聊かきまり悪そうに居住まいを正した。
これまで、自分自身でも判断できかねていた胸の内の蟠りを、よくもまあ、
ああまで明け透けに曝け出してしまったものだと思う。
あの男の事だ。自分が抱える機微など詳細に物語れるとも思えないし、
第一今は、悟空本人が彼の愛妻に対し、息子絡みの重すぎる秘密を抱え
ている。人の動向を気にしている余裕など、ないだろう。
それでも、自分以外の存在に、一部分であれ、自分が抱える屈託を吐き
出してしまったという事が……ピッコロに、もう後戻りできないのだという、
覚悟にも似た思いを覚えさせていた。
まだ青白い顔色をしたまま眠り続ける青年の前髪に、添えた指を絡ませ
る。癖の強い頭髪を、青年の眠りを妨げない程度に掻き乱しながら、ピッコ
ロは、結果として幾度となく接触を図る事となった絶対神の言葉を、諦観交
じりに追憶した。
『好意でも、悪意でもな。それがそいつから見て万人向けの度合いを過ぎ
りゃあ、懸想じゃよ』
『これもあれか?万人向けの度合いを越えたと、腹を括ったっちゅうことか?』
好色で、妙なところが俗っぽくて、品性が著しく不自由で―――それでも、
やはり神格を有する者の頂点に立とうという存在だ。あの老神には、自分
が胸の内に蟠らせていた懊悩の正体など、始めから見当がついていたの
だろう。
その上で、揶揄するかのような気安い口調で、そんな自分にもっと人間
臭くなればいいと、彼は告げたのだ。
おそらくは、あの好色な老神が面白がって弄りまわすような「人間臭い」
相関を、自分とこの青年が築くことはないのだろう。今の自分の立場は、悟
飯を苛む破壊衝動から彼を遠ざけるための生きた安全弁であり、そして、
その半生に渡って「一人立ち」の契機を見極め続ける、監視者だった。
それはこの先、この青年が少しでも幸い多い半生を歩めるようにと、自分
という存在そのものを担保に差し入れてでも彼の為にかけてやりたかった、
一つの保険だ。それで悟飯が、その幼い日から夢見てきたであろう未来を
享受できるのであれば、自分は今、それ以上の報いは求めない。
もしもこんな自分の腹案が、あの老神の知るところにでもなれば、彼はきっ
と、自分を指差してムッツリだの何のと囃すのだろう。それは想像するだに
不愉快極まる光景であったから、少なくとも悟飯が今よりも成熟し、監視役
を自ら担ったこの選択に確かな意義が生じるその時までは、地球をはるか
高みから見はるかす神の領域には近づきたくないものだと、ピッコロは思っ
た。
久方ぶりに訪れた深い眠りに沈む青年の、奔放に跳ねた頭髪を、それま
で手慰みのように弄んでいた指先で撫でつける。そうして眠り続ける青年
から名残惜しそうにその手を離すと、ピッコロは、居住まいを正すようにし
て、寝台に横たわる青年へと向き直った。
一週間後に迫った口頭試問に備え、時間が許す限り体を休められるよ
うにと願う傍ら、早く目を覚ませばいいという身勝手な欲念が顔を出す。
そんな自分を、随分腑抜けたものだとピッコロは胸の内で毒づいたが、そ
の実、そうやって「腑抜けて」いく自分に対し、焦燥めいた思いを覚える事
も、ピッコロにはできなかった。
こうやって、純血のナメック星人の規範から徐々に遠ざかっていく自分の
存在を安全弁として、あるいは監視役として携わりながら、悟飯はこの先の
半生を、望む道行きを目指して懸命に歩んでいくのだろう。彼がどのような
未来を選ぶとしても、彼と自分とを結ぶ縁の糸は、彼が生き行く限り、途切
れる事はなかった。
まだ稚いばかりだった幼い少年を、本人が望むはずもない過酷な戦場に
放り込んだかつての自分。そんな自分が今、本来目指すべき道行きに立
ち戻ろうとしているこの青年を、生涯に亘って支える杭となる。
そんな風にして、この得難い存在の生き様に、生涯に亘って関わっていけ
る自らの身上を―――ピッコロは、腹の底から、幸いだと思った。
「―――以上が、ここまでの論旨となります。これ以降は、質疑応答の時
間にあてさせて頂きます。ご質問などございましたら、お願いいたします」
そして迎えた、11月15日―――悟飯の臨んだ博士課程の口頭試問は、
ほぼ予定通りのタイムテーブルで進行していた。
悟飯の一人前に試問に臨んだ学生について、博士課程委員会の評価
が分かれ、規定時間よりも審議が押したことで多少のずれ込みはあった
ものの、然して影響が出る事もなく、悟飯の順番がまわってきた。
平時から講義を受け、研究を続けている学内の一室……それも、試問
に臨む学生が請け負うべき下準備として、悟飯自身がセッティングを行っ
た会議室である。言うなればこれ以上ないほどに試問に臨むには適した
場所であるはずなのに、入室許可を与える博士課程委員会の教授の声が
かかった時点で、悟飯は、ともすれば室内に踏み入れる両足が震えを帯
びるほどの緊張を味わわされていた。
これが登竜門に臨む物恐ろしさというものかと、いつしか早鐘を打ち始
めた鼓動をどうにか宥めようと、見る者の目に不信感を抱かせない程度
の頻度で、深呼吸を繰り返す。そうして、せめてもの矜持でぐっと胸を反ら
し、試問会場に待ち受けていた委員会の構成員一人一人を、悟飯は不躾
にならない程度の時間をかけて見渡した。
戦いの場において、対峙した「敵」から目を反らすことはそのまま自らの
劣勢を相手に知らしめることだ。そうした自らの弱腰を契機に、勝敗の行
方は大きく左右されてしまう。
だから、正面から「敵」を見据えてやれと、幼い頃から事あるごとに、師
父から叩き込まれてきた。気持ちから呑まれるなと、様々な方法で、彼は
自分に教えてくれた。
これから自分を審査する委員会の面々を一通り見渡し、かつて戦場で
多くの敵と相対する時にそうしてきたように、下腹にグッと力を込める。そ
うして、定型句である頭語を口切りとして、悟飯は意図した語調で、自身
の手がけた博士論文の論旨について、プレゼンを開始した。
完全に予定通りとまではいかないまでも、概ねこちらの意図した形で発
表できたのではないかと思う。適度に言葉を区切り、聴衆の反応を確かめ
ながら、まずは掲げる論旨の最後まで、語り終える事ができた。
そこから先は、口頭試問最大の難所と言われる質疑応答の時間だ。委
員会の構成員には、当然ながら、自分が支持する教授とは相反する派閥
の人間も存在する。時に刺客とさえ呼ばれる彼らの、質問、批判という形
での口撃をどう受け止め、対処するかが一つの要点となった。
試問に臨む準備期間中に散々脅され、十分な心構えをしていくようにと
繰り返し忠告された様に、論旨の解釈はもとより、些細な言葉の使い方に
まで、それこそ重箱の隅をつつくような指摘の声がいくつも上がる。事前に
何度も赤を入れられ、推敲に推敲を重ね臨んでもこの有様かと、悟飯は気
圧されそうになる己自身を、懸命に奮い立たせた。
なるほど、これなら教授達があれほど執拗に手直しを求めてきたことにも
納得がいく。委員会の一人には当の教授も名を連ねていたが、その公平さ
を求められる委員としての立場上、あからさまな言いがかりレベルの物言
いでもない限り、ここでは彼も、自分を庇ってはくれない。
委員会席からこちらを見守る教授が、自力で切り抜けろと目顔で促してく
る。内心で自分以上に気を揉んでいるのであろう恩師に目礼し、悟飯は大
仰になりすぎないよう意識した所作で、深く息を吸った。
……ああ、この緊張感は馴染があるなと、ぼんやり思う。想定する「敵」
の種類は全く異なっていたが、他者に頼らず、己の力のみでその場を切り
抜け生き延びられるように、師父に徹底的に鍛え上げられたあの荒野での
日々と、この衝動はどこか似ていた。
命のやり取りをする戦場とは違い、ここで自分が「負け」ても、身の危険
が生じるような羽目には一切陥らない。「負け」ればまた、新たな挑戦の場
を目指して自分は邁進するだけだ。
だが……たとえ学生の身上を言い訳にしても、ひとつ「負け」が込むごと
に、この先自分が歩もうとしている未来の道行きで、自分の学者生命には、
確実に瑕がつく。挑んでも挑んでも結果を出せない研究者の論説など、そ
の疵が増えれば触れるほど、学会ではまともに相手にされなくなるだろう。
積み上げた実績と、属する派閥のネームバリューが物を言う世界だ。一
つの成功事例を以てすんなり受け入れてもらえる場所ではないのだという
事を、予科機関であるスクールで学ぶ悟飯は既に、身を以て思い知らされ
ていた。
ならば、ここでの「負け」は……失敗は、許されない。
必ず生き延びる覚悟で、この戦場を戦い抜かなければならない。負け癖
のついた自分が再び挑戦しのし上がっていくには、目の前に立ちはだかる
壁はあまりにも高く厚かった。
決して負けを許されない、極限の緊張を強いられる時間。それは、まる
で意味合いを違えていながら、かつて師父と二人きり、ただ生き延びるた
めに過酷な研鑽を強いられた少年の日を髣髴とさせられた。
緊張に高揚する意識の陰から、懐かしいという思いが顔を出す。胸の奥
に鈍い痛みを感じさせる、感傷にも似た胸懐に後押しされるように、悟飯
は、向けられた口撃の一つ一つに慎重に対応した。
だが、返答の合間にも更に言葉を重ねて追い打ちをかけられ、懸命に平
静さを保とうとする側から動揺がせりあがってくる。我知らず、浮足立ちそ
うになっている自分自身を悟飯は自覚せずにはいられなかった。
落ち着けと、自分自身に言い聞かせる。こんなものは、この登竜門に臨
者全てが直面し、乗り越えてきた洗礼だ。ここを乗り切れないようなら、試
問に臨むどころか自分の師事する教授の「ブランド」を背負う資格すらない。
自分自身の言葉で、態度で、ここを凌ぎ偽らなければならなかった。
と、刹那―――
「…っ」
胸の奥からざわりと沸き上がってくる、息苦しいほどの衝動。この数カ月、
すっかり馴染んでしまった、自分自身を呑みこもうとするその衝迫が……
自分の中から、フッと抜け出していくような心地を、悟飯は味わわされてい
た。
咄嗟に飲み下すことができなかった吐息は講壇に設置されたマイクには、
辛うじて拾われずに済んだらしい。聴衆は自分の様子に不審の色をのぞ
かせる事もなく、次にこの新参者がどう切り返してくるのかと、興味津々の
態で待ち受けているかのようだった。
束の間狼狽の色を晒してしまった自分の様相も、この試問に臨む多くの
受験者がそうであるように、緊張のあまり舞い上がってものと、彼らは受け
止めたのだろう。そんな聴衆に軽く目顔で断りを入れてから、悟飯はマイク
のスイッチをいったん切ると、己を落ち着かせようとするかのように幾度か
咳払いし、その所作に紛れるようにして、その双眸を意図的に瞬かせた。
そうしなければ―――じわりと視野を滲ませたものを、臆面もなく衆目に
晒してしまいそうだった。
先刻まで、もう喉元までせりあがっていた衝動が、ほんの一呼吸の間に、
毒気が抜かれたように体内から掻き消されている。
この短い時間の中で、自分の身に何が起こったのか……察するには、
悟飯には心当たりがあり過ぎた。
『……ピッコロさん…』
ドラゴンボールで呼び出した、神龍に願った一つの希求。人知を超えた
存在である聖なる龍は、一度叶えると明言した契約を、反故にする事は決
してなかった。
父が、師父が、尽力して後押ししてくれた今日の檜舞台。場の雰囲気に
早々に呑まれてしまった自分の中から湧き上がってきた衝動を、今、師父
がその身に引き受けてくれたのだろう。
自分の暴走から世界を、そして自分自身を守るための安全弁。希った神
龍は、その捌け口を悟飯自身ではなく、外部の存在を以て賄うようにと自
分達に告げた。
それがどういう事であったのか……今、我が身をもって味わわされ、はっ
きりと、悟飯は知覚した。
己の破壊衝動へと直結する自分とは違い、膨れ上がり、一定の外的干
渉を受けた上で変質した衝動を肩代わりした師父が暴走し、他者や彼自
身を害することはないのだと聞いている。そうやって「ろ過」された衝動を
器を変えて引き継がせることが、もっとも効率よく手堅い方法なのだとも。
だが、自分に代わって衝動を引き受けた師父が、何も感じないわけでは
ない。自分が自分の中の衝動から免れれば免れるほど、師父は人知れ
ず、強制的に背負わされた負荷に耐えているのだ。
我が身をもって味わわされて、改めて、心底彼に、申し訳がないと思う。
そして、そんな師父に今まさに守られているのだという実感に、悟飯は後
ろ暗い幸甚を覚えずにはいられなかった。
師父が甘受してくれたのはまさに自分の尻拭いそのもので、社会に出
ようとさえしている自らの身上を思えば、あまりにも不甲斐なく申し訳が
ないと思う。師父から受けたこの恩義は、文字通り生涯をかけてでも返し
切れないだろうと悟飯は思った。
だが……今、この時。この場に居合わせていない師父の存在を、まさ
に自分自身の容態によってそのまま感じ取れることが―――悟飯には、
これ以上ないほどに、心強く感じられた。
今この瞬間も、天上の神殿に住まう師父が、自分の一挙一等を支えて
くれる。到底返し切れなくても、この恩義にはできうる限り報いなければ
ならなかった。
今、自分にできる事は……この試問を、全力で乗り切り、勝ち残る事だ。
「……失礼いたしました。―――質疑の続きを、どうぞ」
自らを奮い立たせるように、大きく息をついて、居住まいを正す。そうし
て講壇から聴衆へと向き直った悟飯は、居合わせた者達が一瞬たじろぐ
程の目力で以て、場内を見回した。
相対する、委員会の面々に一人一人向けられた目線が、意図した長さ
をもって対抗派閥の「刺客」の上で止まる。そうして相手の気概が一瞬削
がれた事を目顔で確認してから、悟飯は、予定されたタイムテーブルに
沿って、与えられた持ち時時間をギリギリまで費やして、質疑応答を終え
た。
まるで、かつての幾度となく直面させられた決戦の場に赴いた時のよう
に……ピンと張りつめた空気の中、場内に居合わせた全員が、ある種の
緊張を共有する感覚が、肌を通して伝わってくる。
それまで合間を突くようにして小出しに投げかけられていた、挑発めい
た指摘や批判といった「意見具申」は、論主の気勢に呑まれたかのように、
いつしか、なりを潜めていた。
「―――おう。お疲れ悟飯」
「悟飯ちゃんお疲れ様だったなぁ!立派だったぞ!」
試問会場を後にした悟飯を出迎えたのは、耳に馴染んだ肉親からの、
労いの言葉だった。
会場の規則により、受験生の付き添いは会場内に同行できず、別室の
モニターから室内の様子を観覧することになる。それまで別室で自分の
様子を見守ってくれていたらしい両親は、試問が終わると同時に、ここま
で足早に戻ってきてくれたのだろう。よくやったと代わる代わるに労われ、
悟飯は些か面映ゆい思いで、2時間近くに渡り自分の同行を見守ってく
れていた二人に、ありがとうございますと頭を下げた。
口頭試問に無事合格した学生は、そのまま博士号を取得するに足る学
士だと委員会のお墨付きを与えられたことになる。その瞬間を、受験者当
人のみならず、これまでその活動を側近くで支えてくれたであろう身内と分
かち合えるよう、会場側は、受験生が希望者を会場に招待することを認め
ていた。
当初、悟飯は特に招待者の申請をださず、単身で口頭試問に臨む心積
もりだった。招待者が試問試験に立ち合えるわけではないし、なにより、パ
オズ山の実家は遠い。父親の能力を考えれば物理的な距離などないにも
等しいのかもしれないが、それでも、自分の合否発表の現場に立ち会わせ
るためだけに両親を招くというのも、いささか憚られるように悟飯には思え
たのだ。
更に言ってしまえば、無事試験を突破できなかった時に身内が同席して
いるという事態を仮定した時の居たたまれなさに、悟飯自身が耐えられそ
うもなかったのだ。
故に、招待者申請の話がでた当初、悟飯はその話を受け流すつもりでい
た。だが、ここに至るまでに滅私の厚情で自分を支えてくれた師父が、その
話を聞き咎めたのだ。
曰く、「お前の晴れ舞台を一番見たがっているのはお前の両親だ。お前の
気持ちを多少曲げてでも、招待してやるべきだ」と。
師父本人に、始めから試問会場に同行するつもりがないのだという事は、
改めて言葉にして確認するまでもなく、悟飯にも解っていた。師父の存在そ
のものが都の人中でどれほどの喧騒の種となるか、悟飯にも、きっと師父
本人にも想像がついている。そうした柵を承知の上で、悟飯がどれほど言
葉を尽くして願おうと、彼はけして会場には現れないだろう。
それは自分の門出に僅かでも疵を残したくないと願う彼の雅量の表れで
あり、そんな師父の厚意と、また、実際に彼が人中に姿を現せばどうなる
かをこれまでの経験から知っている悟飯には、師父が人中で少なからず不
快な思いを味わう羽目になる事を承知の上で、それでも来て欲しいとは言
えなかった。
そんなピッコロが、自分の両親にだけは、同席させるべきだと言葉を重ね
て促してくる。そんな師父への申し訳なさも相俟って、後押しされるようにし
て両親に試問当日の話を持ちかけた悟飯の胸の内は複雑なものだったが
……反して、両親は、二つ返事で諾意を示した。
母については、同席したがるだろうなという予想はあった。なにより、自分
が学者を目指すことを幼い頃から後押しし続けてくれた彼女には、試問当
日に向ける思い入れも人一倍あるだろう。だが、意外だったのはその母に、
父親も同行したがったことだ。
話を持ちかけた側でありながら、予想に反した反応に悟飯が束の間言葉
に詰まる。そんな悟飯に向かい、悟空は、「おめぇの晴れの日じゃねえか。
なに置いたって行くに決まってるだろ」と、莞爾として笑って見せた。
悟空本人がこう言っている以上、スクールまでの物理的な距離は、同行
を辞退する理由にはならない。先に会場入りした自分を追って瞬間移動し
てくる両親と、人目につかない場所で落ち合えばいいだけだ。
悟飯としても、諸手を上げて試験会場への同行を希望されれば、面映ゆ
くもやはり嬉しい気持ちになった。だが、やはり気になるのは、実家と試験
会場との、距離の事だ。
こちらに向かってくる往路は問題ないが、復路となれば、また別の問題
が生じる。父の瞬間移動は目的地に見知った人間が存在して初めて、用
いる事の出来る手段だった。
口頭試問当日は、平日だ。悟天も、ハイスクールに通っていた当時の自
分ほどではないが、山から離れた町のジュニアハイに通っている。その町
に一旦移動して三人そろって舞空術で戻るにしても、試問会場から筋斗雲
で戻るにしても、それなりに手間暇かかる手段である事に変わりはなかっ
た。それに、そうなれば当日は両親は自分の試問に掛りきりになり、悟飯
一人を、蚊帳の外に置くことになる。
交々の事情を鑑みて、快諾する両親と相反するように、悟飯の語調が煮
え切らないものとなる。だが、そんな悟飯に向かい、最後の後押しをしたの
が当の悟天だった。
『いいよ、僕が家に残ってるから』
『悟天?』
『学校の試験も終わってるし、その日って別に大した予定ないしさ。お父
さんとお母さんがすぐ戻ってこられるように、家で待ってるよ』
兄ちゃんが学者さんになるって大事な日でしょ。平日の学校なんて全然
大したことないよ―――そう続けた弟は、それに公然と学校休めるしね、
と悪戯っぽく言葉を繋いだ。
『あ、でもさ。だから、会場で兄ちゃんの合格の瞬間に立ち会うっていう
のは、勘弁ね。……いや、もちろん僕もすっごく嬉しいし誇らしいんだ
けどさ……会場で、「あの孫博士の弟」みたいな目で見られるの、居た
たまれないんだよね。お勉強嫌いの弟としてはさ』
だから、そこはごめんねと、言葉面よりも気安い語調で続けると、悟天
が悟飯に向かい、その顔の前で軽く片手を立てて拝むような仕草をして
見せる。弟なりに思うところがあるのだと感じ取った悟飯は幾分切ない心
地を味わわされたが、それでも自分の檜舞台を弟なりに後押ししてくれて
いるのだという事がありがたく、嬉しくもあった。
そんな前提を経て、試問会場には両親が二人揃って招待されている。
彼らは、試問に臨んだ自分以上に興奮様やらぬ様子で、よくやった、大し
たものだと悟飯の労を手放しで労った。
面映ゆい思いで彼らのされるがままに任せていた悟飯だったが、両親
の興奮状態が次第に収まってくるにつれ、ホスト役としての立場に思い至
る。彼らは自分が会場に招待した外来であるから、せめて合否確定まで
の時間、彼らが不自由を感じない程度にはもてなさなければならなかった。
さて、どこに移動したものかと束の間思案する。通例では、試問終了か
ら合否発表までに3〜40分はかかると言われていた。会場外のこの廊下
で待ち続けるにはいささか長すぎるし、かといって、適当な場所に腰を押
し付けてゲスト二人を持て成すには中途半端な時間でもあった。
この廊下を少し進んだところにある外扉を抜ければ、学生向けのオープ
ンカフェテリアがある。そこでゆっくりすることは難しそうだが(審議時間が
長引けばともかく、予定よりも早く審議が終了した場合、受験生がその場
に不在では余りにも心証が悪い)、そこで適当に買い込んでこの廊下で
雑笑する程度なら問題はなさそうだ。
「―――二人とも、少しここで待っていてもらえますか?ここから少し行っ
たところにカフェがあるので、なにか見繕って買ってきます」
平素は山深い生家で暮らす両親には……特に母親には、カフェの飲み
物や軽食は小洒落ていて喜ばれるのではないかと、水を向ける。果たし
て、両親は―――父親の場合、「美味いもの」相手ならなんでも喜びそう
だが―――明らかな喜色を見せた。
「ああ!そりゃあええだな。オラ、ブルマさのとこでよく出してもらう、カフェ
モカっちゅうのが飲んでみたいだ。ちゅうてもオラが一緒に行っても注
文の仕方とかよく解らねぇでな……悟飯ちゃん、悪いけども行ってきて
もらえるか?」
今日の主役を働かせてすまねぇなと言葉を続けながら、母が手に提げ
ていた小さなカバンをごそごそ言わせて中から紙幣を取り出す。この都で
も共通貨幣として使われているゼニー紙幣、それもカフェでの買い物には
大きすぎるほどの額面が印刷されたものを手渡されかけ、悟飯は反射的
に体の前で両手を振った。
「いいですいいです!今日は二人はお客さんなんですから、カフェのお
金くらい僕に払わせてください。…といっても、まだまだ脛かじりの身で
すが」
一応これでも、研究室の助勤なんかで少しは臨時収入があるんですよ
―――言って、ここぞとばかりに胸を張ってみせる。そんな息子の姿に両
親は揃って破願したが、その理由はそれぞれ幾分異なるものだったよう
だった。
「そうけ?―――それじゃ、悟飯ちゃんの言葉にありがたく甘えるな?だ
ども、普段っから勉強勉強で忙しいんだ。たまの息抜きくらい、できる程
度の金は、いつでも残しとくだぞ?」
「なあチチ、オラ、悟飯の荷物持ちについてくよ。三人分持って帰るんじゃ
嵩張るだろ?おめぇはここで待っててくれ」
「そっただこと言って!悟空さ、悟飯ちゃんの驕りだと思ってあれこれたか
る気なんだべ!?悟飯ちゃんはまだ学生なんだ。羽目外して好き勝手
するでねぇだぞ!……悟飯ちゃんも、お父が何言ったって、余計なもん
買ってやる事はねぇからな?」
ちゃあんと、買ってきたものチェックするだからな、と釘を刺し、チチが買い
出し役の二人を送り出す。その際、こちらに背を向けた悟空には気づかれ
ないように、愛息の手に先刻のゼニー紙幣を握らせることも彼女は忘れな
かった。
先を行く悟空の目もあるため、要る要らないの押し問答をしている余裕も
ない。悟飯は慌てた素振りで母親を振り返ったが、彼女は沿えたもの片方
の手も使って掌に押し込んだものを握らせると、耳元でいいからいいからと
囁いた。
恐縮した態で、悟飯が背後の母親に頭を下げる。そんな息子と先を歩く
夫とを、彼女は軽く手を振りながら上機嫌で見送り続けた。
これはこれとして、ひとまず受け取っておくしかないだろう。後でなにか別
の形で、母にはお返しをしなければ……そんな事を考えながら、匂いで目
的地の位置を判断したらしく、先を行く父を追いかけるようにしてカフェテリ
アに向かう。
と、刹那―――
「……悟飯」
数歩の距離を隔てて先を歩いていた父の歩みが、不意に止まる。半ば
つんのめるようにしてその後に倣った悟飯の肩に、伸ばされた逞しい腕が
まわされた。
傍目には、外見のよく似た親子が、じゃれ合うようにして仲睦まじく歩い
ているようにしか見えないだろう。廊下に待つ母がガラス越しに自分達の
姿を見ていたとしても、同じ感想しか抱かないはずだ。
だが……気安い仕草とは裏腹に、耳元で囁かれた父の声は、重々しい
ものだった。
「……チチには、あの後全部話した。おめぇが今、どんな状態で、どんな
生き方を選んだのか……あいつはもう、全部知ってる」
「…っ」
「おめぇの大事な日にちっとでも影響があっちゃならねぇって、あいつ、
ずっと気にしてたからな。今日は、おめぇに何も言わねぇまま、帰ると
思う。……だから今日は、おめぇも何も言わなくていいからな。面倒事
が全部終わって、ちゃんと体休めて……それで気持ちが落ち着いて
から、一回家に戻ってこい。この先の事は、その後で話せばいい」
「お父さん……」
事の詳細を、悟空は語らなかった。だが、その言わんとしている事は、言
葉以上に鮮烈に、悟飯の胸襟を抉った。
自分が真っ当な学者になって、その後は人並みに幸せな結婚をして、家
族を増やして……おそらくは、それが母が自分に臨む未来絵図なのだと
思っていた。ウチは男の子二人だから、どっちかの嫁さんが一緒に暮ら
すことになるのだろう。うまくやっていけるだろうかなどと、未来の姑として
気の早い懸念を口にしていたこともある。
そうした希望も懸念も、おそらくは、息子を持つ母親なら大抵の女性が
体験するものなのだろう。悟飯自身、いつかこの母と、将来の伴侶との間
に自分が挟まれてひとかどの苦労は味わうのだろうな、などと漠然と考え
ていた。
だが、界王神界で自分が口にした願いにより、その未来が訪れる可能
性はほぼなくなった。弟の悟天がこの先どういう人生を選ぶのかは解ら
ないが、少なくとも、母が自分の子供をあやしたり、自分の伴侶と諍いを
起こすような未来は、もう訪れないだろう。それが母にとってどれほどの
衝撃であったのか―――どこまで行っても彼女の息子の立場でしかない
自分には、きっと正確には思い至れない。それでも、母が漠然と抱いてき
たであろう夢の一つを、自分が砕いたのだという事だけは、悟飯にも解っ
た。
つい先刻、廊下で別れた際の、上機嫌ですらあった母の笑顔を思い出
す。
あの見慣れた笑顔の陰で……どれほどの衝動と葛藤を、彼女は抱え
ているのだろうか……
と、刹那―――
「―――そんな顔すんな」
互いに同じ方向を向いて歩いているのだ。俯いてしまった自分の表情な
ど、解るはずもないのに―――悟空は引き寄せた悟飯を半ば強引に引き
立てながら、一瞬息子を解放したその手で、音を立てて背中をどやして見
せた。
「おめぇはうんと悩んで、考えて、おめぇの答えを出したんだ。だったら、
ちゃんと胸張ってろ。オラ達の事を考えて、おめぇが引け目を覚える必
要はねぇ。おめぇがおめぇの選んだ生き方を、しっかり生きてってくれ
るなら、それでいい」
「お父さん……」
「だからよ悟飯。もうそんな顔すんな。そんなしょぼくれたなりでチチんと
こ戻ったら、あいつもつられて、知らん顔できなくなるだろ?……今日
は、おめぇの大事な日だ。あいつと、オラを……ちゃんと、おめぇの親
として、カッコつけさせてくれよ。……な?」
耳元で続けられる父の言葉に、幾分おどけたような響きが宿る。きっと、
胸の奥からせり上がってくるものに呑みこまれそうな自分を鼓舞し、その
場の空気を変えようとしてくれているのだろう。だが、悟飯はきつく噛みし
めた自身の口角が小刻みな震えを帯びるのを、どうする事もできなかった。
しょうがねぇなぁと大仰な口調で嘆きながら、隣を歩く父が二度、三度と
背中を張る。喉奥まで込み上げてきたものをどうにか堪えて、痛いですよ
と軽口を返すと、悟飯は、持ち上げた手でその目元をグイと拭った。
せめて、買い出しを終えて試問会場の前に戻るまでには、少しでもこの
衝動をやり過ごして、今よりはましな顔を作らなければならない。そうしな
ければ、自分を慮り真実を胸の内に収めてくれた母にも、その母を説得
し続けてくれたのであろう父にも、申し訳が立たなかった。
自分自身を宥めようと、はやる気持ちとは裏腹に……普段は研究室棟
から微妙に隔てられたその立地条件に、内心苛立つこともある馴染のカ
フェテリアまでの距離が、やけに短く感じられた。
悟空と連れ立った悟飯が、自分達の帰りを待つ母親の元に合流してか
ら、およそ30分後―――軽食をつまみ、ささいな話題で雑笑していた家
族の前で、悟飯が口頭試問に臨んだ試験会場の扉が内側から開かれた。
まず悟飯が……そして数瞬遅れて悟空とチチが、弾かれた様にその場
に立ちあがる。
室内から顔をのぞかせたのは、悟飯の予想通り、博士課程委員会委員
長を務める、顔なじみの教授だった。
この試問の進行役を任じられていた年若い教授であれば、何らかの連絡
事項の示達の為に顔を出したという事も考えられたが、委員会の構成員
の中で最も権限のある壮年の教授がわざわざ動くからには、いよいよそ
の時が訪れたという事なのだろう。すぐに自分の姿を見つけて目顔で合
図を送ってきた教授の形式ばった表情を前に、悟飯は改めて、居住まい
を正して続く言葉を待った。
『―――いいか、孫。ウチのスクールは、学外からも博士論文の口頭試
問試験を受ける奴が多いだろ?なんでだと思う?……スクールの実績
も当然だけど、それなりの理由があって、みんなわざわざ方々から集まっ
てくるんだ』
『理由、ですか』
『試問に通れば、晴れて博士の誕生だ。その瞬間を共有しようと、受験生
は結構な割合で、自分の身内を招待する。そうなると、スクール側とし
ても、多少は演出して盛り上げてくれる訳さ』
あれはまだ、口頭試問に向けて本格的な準備期間にも入っていなかっ
た頃の事だ。研究室で何度か作業を手伝った縁でそれなりに親しくなった
先輩が、師事する教授の研究が業界で高く評価されたとかで開かれた内
輪の酒宴の席で、ほろ酔い状態の気さくさからか、軽い調子でスクールに
伝わる暗黙の了解ごとを、教えてくれた。
『招待者は、基本的に会場には入れない。だから、別室のモニターなん
かで気を揉みながら中の様子を伺う訳だ。いよいよ発表って時は、招
待客も会場の前で受験生と一緒に待つ。そこに、委員長を仰せつかっ
た教授が現れて、いよいよ結果発表、となる訳なんだが……合格〜不
合格〜って、ただそのまま伝えるだけじゃいまいち盛り上がりに欠ける
だろ?』
『あ、はい。まあ…』
『そこでだ。教授はそこで、ちょっと芝居がかったことをやってくれる。話
で聞いてる分にはなんてことないように感じても、その場で実際に聞く
と、中々感激もんなんだぜ?』
つい先頃、念願の博士号を取得したばかりだという先輩は、その時の記
憶を思い返したのか、束の間、遠くを見るような表情になった。酒精にわず
か赤く染まったその容色にはどこかそぐわない、まるで頑是ない子供のよ
うに希望と喜びにその双眸を輝かせながら、青年が誇らしげに胸を張る。
『まあ、落ちた時は、演出の必要もないってことで、ごく普通に中に呼ば
れるだけなんだけどな。その時に、教授はスクールの伝統を知る奴だ
けに解る、一つのサインをくれるんだ。それは……』
耳朶に蘇る青年の声が、跳ね上がる自身の鼓動に押されて、次第に小
さくなっていく。いよいよ、今が先輩の語っていたその時なのだと思うと、悟
飯は沸き上がる緊張で、耳鳴りすら覚えていた。
それでも、委員長である教授がよこすというサインを聞き逃すまいと、懸
命に呼吸を落ち着け、己の意識の全てを、眼前の相手に集中する。そん
な悟飯の緊張が伝わったのか、悟空もチチも、傍目から見れば滑稽なほ
どに並んで居住まいを正し、固唾を呑むようにしてその時を待った。
これもまた、伝統の一つであるのか、壮年の男が、幾分もったいぶるか
のように、芝居がかった仕草でお待たせしました、と一言告げる。そうして、
彼は改めて、自分の言葉を待つ青年へと向き直り、その居住まいを正した。
そして―――
「―――Dr.孫。どうぞ、お入りください」
「…っ!」
『その時にな。教授にDr.って呼んでもらえたら、口頭試問は合格だ。博
士課程で学ぶ学生が、生まれて初めて、みんなの前で、博士って呼ば
れるんだ。……感動もんだろ?』
自分の願望が聞かせた、都合のいい空耳ではないかと、一瞬耳を疑う。
父や母も同様だったのか、彼らは二人揃って黙りこくり、束の間、廊下に
は不自然なまでの沈黙が流れた。
そんな光景は、長年多くの学生達を審査してきた壮年の男にとっては、
日常的なものだったのかもしれない。彼は頃合いを図るかのように三人
の様相を眺めやり、数瞬の時を置いても事態が変容しないことに苦笑し、
そして、そろそろかとでもいうように、再び口を開いた。
「……Dr.孫。どうぞ」
刹那―――緊張に凍り付いていた時間が、一気に流れを取り戻したか
のような感覚を、悟飯は味わわされていた。
これは現実なのだと知覚できた途端、それまで緊張で凝り固まっていた
反動であるかのように、両膝が意気地なく震えだす。それでもその場にへ
たり込む無様だけは晒すまいと、懸命にその場に立ち尽くす悟飯の耳に、
母の悲鳴にも似た叫びが、飛び込んできた。
「やったべ!悟飯ちゃんやったべ!!」
興奮状態のまま横から抱きしめられ、思わず重心を崩しかける。母子二
人してその場に倒れ込みそうになるところを、脇から差し出された父の逞
しい腕が、支えてくれた。
父の腕の中に二人して抱き支えられた体勢のまま、感極まった母が声を
上げて泣いている。立ち位置の関係から真っ先に目が合った教授が目顔
で急がなくてもいいと頷いてくれた事に内心で安堵し、悟飯はまず自分に
しがみつく母に視線を向け、次いで頭を巡らせるようにして、自分達を支え
てくれた父の顔を見上げた。
そこで―――それまで曲がりなりにも平静を保とうと努めてきた悟飯の自
制心は、呆気なく、瓦解した。
「……お父さん…」
子供の時分から、いつでも超然とした存在だった。母の前でおどけた様に
弱みを見せる事はあっても、人前で己の感傷を晒すことのない、強健な精
神力に支えられた人なのだと思っていた。
その父が……家族以外の、赤の他人も行き来するような公共の場で、声
を殺して、泣いている。
これまですんでのところで堪えに堪えてきたものが、抵抗も空しく崩れてい
く。そして、自分はそうしてもいいのだと―――いま、許しを与えられたよう
な心地になった。
「……お父さん、お母さん……」
こうした愁嘆場には慣れているのか、委員長役の教授は素知らぬ顔で
視線を反らし、とってつけた様に、脇に抱えていた資料を繰って内容に目
を通し始める。そんな相手の様相が視界の隅で認識できたものの、悟飯
は、父母の抱擁から抜け出して、すぐさま現実へと戻る事ができなかった。
自分達に時間を作ってくれた教授の計らいに胸の内で感謝しながら、今
一番に口にすべき言葉はそれではないと、己の衝動に素直に身を委ねる。
そうして……悟飯は万感の思いを込めて、上がる息の下から、自分を掻
き抱く両親へと―――そして、天上で自分を見守ってくれているであろう師
父へと、語りかけた。
「本当に……ありがとう、ございました…っ」
ここまで惜しみない愛情で以て、育ててもらったことに。
物心つくかつかぬかの時分に外敵の手により殺されていたかもしれない
自分を鍛え、生き延びるだけの力を与えてもらったことに。
次第に目覚めていくサイヤ人の本能に引きずられ、地球人の規範からは
み出してしまった自分の存在を、変わらず愛してくれたことに。
自分の勇み足の代償を、その命で以て支払わされてなお、父として自分
の元に戻ってきてくれたことに。
経済力のない自分を支え、都の最高教育機関であるスクールにまで進ま
せてくれたことに。
荒れ狂う破壊衝動に苛まれる自分を命がけで抑え、文字通り暴走の安
全弁となってまで、自分の将来を後押ししてくれたことに。
そして―――さまざまな不義理を繰り返して尚、そんな自分を、変わらず
こうして支えてくれることに……
一つ一つを数え上げることなど、到底できはしない。それだけの愛情に自
分は支えられてきたのだという事を、悟飯は、息が詰まるほどの幸福感と
共に、改めて痛感していた。
どれほどの時間を、そうして三人で抱きあっていたのだろう。流石に時間
が押してきたのか、控えめな咳払いの音が、彼らを現実へと引き戻した。
「孫君。事務上の手続きがあるので、もう一度中へ」
さすがにもう、演出の必要はないと思ったのか、飾らない呼ばわりの声
が、悟飯に次の行動を促してくる。慌てて腕に巻いた時計を見れば、この
教授が室内から顔を出してから、ゆうに5分は経過しようとしていた。
弾かれた様に居住まいを正し、すみませんと頭を下げる。つられるよう
にして頭を下げた両親から一歩離れると、悟飯は持ち上げた腕で目元を
拭い、先に立って室内に戻ろうとする教授の後に続いた。
博士号を取得するという、幼い頃からの夢は、これでひとまずは叶った
ことになる。だが、本当の目標は、スタート地点に立った、この先にあった。
学会という、狭き門。ようやくその門戸を潜る事が許されたとはとはいえ、
この界隈で生計を立てていくためには、これまで以上に困難な道のりが、
果てもなく伸びているはずだ。最後まで歩みきれる行程であるのかは、そ
れこそ、生涯を捧げてみなければわからない。
ましてや、学内においてさえ、人中での立居振舞に戸惑い、浮いていた
のだ。実社会に出れば、学生時代の比ではない過酷な現実が、自分を待
ち受けている事だろう。
それでも―――自分は今、目指す道を歩むための、一つの権利を手に
入れた。
多くの厚情に支えられ、ようやく潜る事の適った登竜門だ。おいそれと、
歩みを止める訳にはいかない。
自分が生涯をかけて挑む本当の闘いは―――これからだった。
感傷に引きずられそうになる気弱い自分を振り払うかのように、二、三
度、大きく頭を振る。そうして開いた胸襟に新たな空気を送り込むと、悟
飯は改まった仕草で、その居住まいを正した。
これから始まる新たな戦いの場に挑むために、招かれた室内に、一歩
足を、踏み入れる。
「―――失礼します。孫悟飯、入ります」
『俺を巻き込むのがそんなに嫌なら、お前はお前で、この先真っ当に自
分の進むべき道を生きろ』
『その望みにしっかりしがみついていられるだけの気概があれば、お前
はそう簡単には潰れない』
さながら勝ち名のりであるかのように、腹の底から声を張り上げ室内に
足を進めた悟飯の耳に、あの日、界王神界で師父から告げられた言葉が
蘇る。
ようやく物心ついた時分から、十有余年の歳月をずっと馴染み続けてき
たその声振りが―――まるで言祝ぎのように悟飯を取り巻き、新たな戦場
へと歩みを進める、スーツに包まれたその背中を押した。
――――ここまでご笑覧頂頂き、本当にありがとうございました!
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