safety valve・3







  「―――ああ、孫。ちょっといいかな」


 グラジュエートスクールの広大な敷地内に立地する、無機質なコンクリート造り
の建造物―――スクール内に数多存在する専攻学科の研究室が集約された研
究棟で、悟飯が呼び止められたのは、件の衝動に、彼が再び心穏やかではいら
れなくなってから、三日日のことだった。

 悟飯を呼び止めたのは、彼と同じ研究室に在籍する三回生の青年だった。と
はいえ、同門とはいえ、相手の名前も思い出せないくらい、付き合いは浅い。

 学年は一年違いでも、スキップを繰り返してきた悟飯と彼とでは、5歳の年
齢差がある。そもそも鳴り物入りで入学してきた悟飯の方が異質な存在なので、
不自然な年齢差のある悟飯と、積極的に交わろうとする存在はけして多くなかっ
た。

 同じカリキュラムをこなす同輩連中との交流は、一年もたてばそれなりに増
える。だが、縦型社会であるこの世界で、先輩後輩の序列はそれなりに重い。
相手からの声がかりでもあればともかく、悟飯のほうから相手の懐に飛び込む
ようなことはできず、結果、特別親しくしている先輩はいないというのが現状
だった。
 とはいえ、周囲が悟飯を冷遇しているわけでも、理不尽な差別を受けている
わけでもない。院生ともなれば、彼らはすでに学生気分をのんびり味わってな
どいられず、卒院後の将来を見据えた言動を意識するようになる。そんな集団
に属していれば、自然と「ビジネスライク」な付き合いが増えるのも致し方な
いことだった。

 つまり、同じ研究室に属する大半の先輩諸氏にとって、孫悟飯という青年は、
当たり障りのない付き合い以上の交流を求めようとは思わない存在である、と
いうことだ。一個人として付き合うことに、特別にメリットもデメリットも感
じない、だから敢えて必要以上には歩み寄らない……それは何も悟飯相手に限っ
たことではないだろうし、研究室を一種の「職場」と考えるなら、深入りしす
ぎない付き合い方は理にかなっているともいえた。そして、悟飯自身、それ以
上の付き合いを求められても、対応に苦慮するであろう自分の気性を自覚して
いる。

 本当に親しくなれる相手とは、自然にそういった機会が巡ってくるものだ。
だから、ある意味冷めた関係にも思える研究室内の対人関係に、悟飯はこれと
いった不満も抱いていなかった。


 その、割り切った付き合いである先輩からの声かけならば、「仕事」上のこ
とだろうと、内心、悟飯は身構える。
 だが、悟飯の予想に反して、青年が続けた言葉は、意外と物腰の柔らかなも
のだった。


 「急な話で悪いんだが。君、急ぎの用事が入っているか?明日からしばらく
  の間だ」
 「あ、いえ特には……まだ論文の選考も終わっていませんし、しばらくは余
  裕がありますが……」

 同じ研究室に属する以上、悟飯が先日論文を提出したことは、当然この青年
の知るところだろう。ならばあれこれ言葉を濁す必要はないだろうとありのま
まに答えれば、相手はさもありなんとばかりに頷いて見せた。

 「そうか、ならよかった。実は、いまうちの研究室で進めているチーム研究
  のメンバーに、急に欠員が出てね。それがちょっとタチの悪いウイルスに
  罹患していたものだから、完治するまでは研究室に出入り禁止状態なんだ」
 「あ、はあ……」

 タチの悪いウイルス絡みというなら、それは確かに出入り禁止にもなるだろ
う。研究室には、研究対象である諸々の試薬の他にも、非臨床試験用に投薬を
施された実験動物のラットなどが多数存在する。人体に感染するようなウイル
スをひとたび持ち込めば、これまでの実験成果がすべておしゃかになってしま
う恐れも多分にあった。

 曖昧に相槌を打ち、それは大変ですねと当たり障りのない言葉を返すと、青
年は全くだよとその肩をすくめた。

 「それで、同室していたチームメンバー全員が血液検査を受けたんだけど…
  …罹患した張本人以外にも、あと二人、陽性反応が出てね。こっちも同じ
  く出入り禁止さ。結局、三人も欠員が出たうちのチームは、目下危急の事
  態にあるというわけさ」

 まあそうだろうなと、悟飯も神妙な顔つきで眉根を寄せる。試薬の微妙な調
整だけでもそれなりの技術と労力がいるのに加えて、生きた実験サンプルであ
るラット達の世話も同時進行でこなさなければならないのだ。しかも、それら
の一つ一つに、有識者ならではの繊細な匙加減が要求される。片手間仕事とし
て粗略には扱えないだろう。この会話が始まってから初めて、悟飯は言葉面だ
けでなく、眼前の青年に心の底から同情の意を表した。

 そんな悟飯の様子に気をよくしたのか、青年は、何度も頷いて見せると、い
ささかなれなれしくさえある仕草で、伸ばした手をその肩に乗せた。

 「というわけで、我がチームには早急に、戦力の補充が必要なんだ。それも
  誰でもいいというわけじゃない。即戦力化が期待でき、補充要員であれチー
  ムの信頼を損なわない、そういう人物でなければならないんだ。そこで欠
  員が出てから今日まで二日間、適材はいないか、血眼になって探していた
  んだが……そんな時、教授が孫悟飯ならどうか、と仰ってね」
 「…っ」
 「君は先日、博士論文審査に提出する論文に、教授のお墨付きを貰ったろう?
  その時、教授が君の論説をお気に召したようだ。君の非常にグローバルな
  ものの見方が、面白いとね。それで、助っ人を頼るなら君も加えたらどう
  かという話になった」

 あの教授にそこまで言わせるなんて、大したものだよ―――そう続ける青年の
語調に、含みはない。彼もまた、教授に無理やり従わされたわけではなく、悟
飯の才覚を買って、この話を持ってきてくれたのだろう。

 話の経緯から、その用向きは早々に見当がついていたものの……これまで付
き合いらしい付き合いもなかった青年からの申し出は、あくまでもその場凌ぎ
の人数合わせとして、成されたものだと思っていた。
 それが、人数合わせどころか、自分が籍を置く研究室の教授の声がかりによ
る召集だとは……あまりにも一足飛びの好機に、喜ぶよりも先に、酷く落ち着
かない心地になる。
 青年の持ってきた話は、それほどに重いものだった。







 グラジュエートスクール内部に点在する、それぞれの専攻学科の研究室には、
自薦他薦を問わず、その道を志す多くの学生達が集まっていた。彼らは互いに
研鑽を重ね論議を戦わせ、いつか世界へと巣立つ日の為に、そこでより多くの
知識と経験を積み上げていく。

 悟飯が籍を置く専攻学科でも、同門の学生達が各々の力量に応じて集い、日々
凌ぎを削っていた。出身も経歴も様々な顔触れが揃う門下生達の大半が志して
いるのが、彼らが師事する教授を筆頭に結成された、スクール屈指の研究チー
ムだ。
 学生の時分から現場の空気に触れて研鑽を積める、恰好の修行の場である事
は言うに及ばず、ここまで専門学科を修め、その道のエキスパートを自負して
いる院生達には、今少し打算的な目的もある。
 その道の第一人者である教授の「身内」となる事で、いずれ足を踏み出すこ
ととなる「現場」への足掛かりを作る事―――有態に言ってしまえば、その道を
進むためのコネクションだ。

 将来を任せるに足る力を持った派閥を嗅ぎ分け、今から、そこに身を寄せる
こと。そう言い換えてしまうとあまりにも即物的で夢がないようにも思えるが、
現実問題として、この手の専門職で食べていこうと考えるなら、確かな後ろ盾
は一つでも多く持っているに越したことはなかった。資金面は言うに及ばず、
駆け出しの学者が自説を貫く為にはそれ相応の「属性」も必要となる。所属す
る派閥のネームバリューは、最高のブランドとなって彼らを支えてくれるだろ
う。

 だが、同じ研究室に属していても、その名を冠した研究成果を公表できる、
研究室の「顔」とも呼べる、スペシャリストの選りすぐりである研究チームに
は、そうそう容易くは入れなかった。

 チームの一員として戦力外通告されないだけの地力は勿論のこと、チーム作
業というものを理解し、研究成果を第一と考え、チームメンバーとその目標を
共有できる協調性も求められる。一見当たり前のようでありながら、独自の論
旨を掲げ、それを単身追求し続ける機会が多いこの世界では、それが意外なハー
ドルとなってしまう者も少なくなかった。

 幼い頃より同世代の学友を持たず、独学による自己研鑽を続けてきた悟飯も
また、チーム作業というものが得意な方ではない。周囲の人間の殆どが自分よ
りもそれなりに年嵩であることも、馴染辛さに拍車をかけている
 それこそ呼吸をするような感覚で周囲と足並みを合わせられる同輩達と比べ
れば、選抜という一つの目的に特化して考えた時、スタート地点から大きく出
遅れていることは否めなかった。





 前置きが長くなったが、そんな事情もあり、悟飯は、自分が他の学生と比べ
てそれなりのハンデを抱えていることを自覚している。まだまだ研究者として
の実績もない立場でどれほど声を大きくしても、業界に対してなんら影響を与
えないことも。力ない立場はご同様でも、先人とのその格差を少しでも埋める
べく、在学中に巧みな根回しを怠らない同輩達と比べ、自分がそういった方面
に些か疎い性格をしているということも、否みようのない事実だった。
 努力で巻き返せる差異ならば、それを怠った者の自己責任において、自身の
劣勢を受け入れるしかない。だが、ことこういった社交性については、もって
生まれた気性の違いから、自助努力だけではどうにもならないことも世の中に
は存在する。グラジュエートスクールの研修室に身を置いた悟飯が直面したの
は、まさにそういった類の「ハンデ」だった。

 そんな自分に対して、この先輩は、補充要員として研究メンバーに加わらな
いかと声をかけてくれた。
 教授の声がかりであろうと、あくまでも、それは常駐メンバーが再び顔をそ
ろえるまでの、つなぎの雑用係だ。件のメンバーが戻ってくれば、自分はお役
御免となり、メンバーから外される。それはよくわかっていた。
 だが、それでもこれが、この業界の暗黙のルールに馴染めず二の足を踏んで
いる悟飯にとって、ひとつのチャンスであることは明らかだった。

 一足飛びに、研究室内での自分の立場に梃入れされるわけではない。だが、
年単位の長い目で見れば、これは将来につながるひとつの足がかりとなるだろ
う。目の前にぶら提げられた好機に一々尻込みしているようでは、到底研究者
としての磐石な基盤など築けない。

 
 だから、悟飯は先輩の誘いに二つ返事で了承した。否、しようとした。
 だが……その瞬間悟飯の脳裏をよぎったのは、ひとつの懸念だった。 


 急場をしのぐための補充要員に過ぎないから、研究チームに加わる日数も限
られている。そのくらいの時間なら、問題もないだろうとは思ったが……やは
り気になるのは、予告もなく身の内から湧き上がる、あの衝動の事だった。

 工程が落ち着くまでは、研究室に泊まり込みでの作業も珍しくはない。人目
を避けられる下宿の部屋ですら難儀しているような今の状態で、繁忙期には雑
魚寝も当たり前なチーム作業が、自分にこなせるのだろうか。
 数日置きには天上の神殿に通い、ピッコロの協力を得て衝動の発散に努めて
いても、バイオリズムが万全であるとは言えない状況なのだ。ましてや、自分
の一存で工程を決められるわけでもないチーム作業が難航すれば、プライバシー
も何もない集団生活を、何日続けることになるかもわからない。
 今の自分で、果たして本当に大丈夫なのか……

 願ってもない好機に飛びつきたい気持ちと、自分の状態を鑑みて尻込みした
がる気持ちが交互に顔を出す。
 チーム作業に参加するからには、個人的な事情で工程に支障をきたすような
事態を招く訳にはいかなかった。よもやの事態を考えるなら、始めから誘いに
乗らない方が、チームだけではなく後々の自分の為かもしれない。
 これ以上ないほどのチャンスであることは間違いないが、この誘いを蹴った
からと言って、自分の将来にヒビが入る訳でもない。長い目で見れば、その方
が得策だろうか。

 ここは一旦、数時間の余地をもらって、ピッコロに相談した方が―――そこま
で自問するに至って、しかし、悟飯は内心で、そんな他力本願な自分自身を叱
責した。

 自分の問題だ。こんなことまで、いつまでも師父に頼っていてどうするのだ。
これでピッコロが「やめておけ」と言えば、自分はその言葉通りに先輩の誘い
を蹴るのか。そうして人の言いなりに行動しておきながら、いざ自分のバイオ
リズムにさしたる乱れも起きず、チームに加わっていても問題はなかったと後
から解ったら、自分は「あの時ピッコロさんの言うとおりにしなければ」と、
他力本願極まる責任転嫁を、自分自身に許すのか。
 ……最低だ。それでは自分は、いい年をして自分の責任で何一つ選ぶことな
く、誰かに依存しなければ自分の将来も勝ち取れない人間になってしまう。

 選択を行き詰った時、相談できる相手がいる事自体は、決して悪いことでは
ないだろう。むしろ特殊な環境に育ちながら、そんな相手に恵まれている自分
は幸せだと自分でも思う。
 だが、いま自分が考えている事は、相談ではなくただの依存だ。こんなこと
まで、あの情け深い師父の懸念材料にするわけにはいかない。

 目の前にぶら下げられた好機に、自分は飛びつきたいと思っている。自分に
この話を持ちかけた先輩は、きっとすぐにでも、自分の答えが欲しいと思って
いる。それなら、自分のすべきことは、この話に飛びついた事への責任を、自
ら背負う覚悟を持つことだけだった。

 二つ返事で承諾すると思っていたのだろう。煮え切らない悟飯の態度に、向
かい合う青年がその表情に幾分不信の色を覗かせた。必要以上にへつらう必要
はないが、始めから相手の心象を損ねてしまっても、自分に何の利点もない。
あれこれ逡巡する、時間はなかった。



 「……研究のお役に立てることがあるかは解りませんが……僕でよければ、
  精一杯頑張ります。よろしくお願いします」

 実地でどれほどの戦力になれるかも解らないこの状況で、せめて自分にでき
ることといえば、この青年の心象を少しでも好転させるくらいのものだ。二者
択一の答えを出したからには、そこが少しでも馴染み易い環境となるよう、自
分で努力するしかない。

 神妙に頭を下げた悟飯に、件の先輩は安堵したように頷くと、「じゃあ、詳
しい工程は明日説明するから」といい置き、明日から悟飯がチームに参加する
ことを念押ししてから、専攻学科の研究室へと戻っていった。 



 こうなれば、今更あれこれと逡巡している暇はなかった。これから下宿に戻り、
少なくとも数日間は寝泊りできるだけの仕度をそろえておかなければならない。
明日からまったく新しい環境での生活が待っているのだと思えば、今から神殿に
出向き、迂闊に「調整」に励むわけにもいかなかった。
 とにかく、自分をしっかりと持ち、浮足立たないことだ。チーム作業に参加す
れば、もう私事に関わずらっている暇はなくなる。

 平時であろうと急場であろうと、我が身を守る術は、常に自ら携えていなけれ
ばならない。それは、ほんの幼少の頃から、あの厳しくも懐深い師父から叩き込
まれた指針でもあった。そして、自分はその通りにこれまで生きてきた。
 今、自分で自分を律する覚悟も持てないようなら―――自分にはもう、あの師父
の弟子を名乗る資格すらない。

 これは好機だ。同時に、市井に交じって生きる事の適った今の自分の生き様を、
自ら無下にしてしまいかねない障壁でもある。
 分岐する未来のどちらを掴み取るかは、どこまで自分が自分でいられるか、た
だそれのみに懸かっていた。

 
 ―――掴み損ねるわけにはいかない。選んだこの道を歩き切り、幼い頃からの夢
を現実のものとするために、自分は今、ここにいるのだ。


 
 他に誰もいなくなった廊下の片隅で、大きく息をつき、緊張に強張った総身に
新鮮な空気を送り込む。そうして明日から始まる生活に向けて心機を新たにしな
がら、悟飯は、後押しする者もない自らの覚悟を、人知れず、自ら鼓舞した。

 



                                  TO BE CONTINUED...


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