safety valve・23







  「僕のわがままなんだって、解っています。誰にだって、自分の思い通りに
  ならない事なんかいくらでもあって、それでもみんな、どうにか折り合いを
  つけながら生きているんだって……解っているつもりです。それをうまく受
  け入れられるようになるのが、大人になるってことなんだって」
 「悟飯……」
 「……だけど…こんな気持ちのまま、界王神界には行けません。……行き
  たく、ありません」

 長い沈黙の末、ようやく口を開いた青年の語調は、けして前向きなものでは
なかった。

 平時であれば、それが習い性であるかのように真っ直ぐに人と向き合い、
臆することなく言葉を発する実直な青年だ。反って、成人してもいまだに変わ
ることのないその得難い為人に、この先の彼の道行きを案じる者も少なくな
かった。これから研究者として業界に打って出ようとしている青年が、この純
朴とした気性のまま人中でもまれ続けて潰れはしないかと、彼の母親などは
特に気を揉む様子を見せている。
 それでも、できることならその得難い気性を持ち続けたまま、青年にこの先
の進路を歩んでいってほしいと、周囲の人間がどこかで望んできたことも事
実だった。


 持って生まれた素直な気性。そして、幼い頃から否応なしに強要され心身
ともに叩き込まれてきた戦士然とした所作。そうした要素の長年の積み重ね
により、人見知りではにかみ屋だった少年は、正面から人の目を見つめ、腹
の底から声を出して己の胸懐を語れる青年に成長した。

 そんな風に実直な成長を遂げた青年の姿は、彼の生い立ちに良くも悪くも
関与し続けてきたピッコロにとって、そして、ピッコロを含め、その双肩に多く
の重責を担わせざるを得なかった周囲の大人達にとって、せめてもの安堵を
覚えさせたものだった。苛烈な幼少期、少年期を過ごさせたことでその成長
の伸び代を歪めてしまったら、彼を庇い、世界を生かす為に自らの命を擲っ
た彼の父親に対しても申し訳が立たない。
 なにより、悟飯の将来は悟飯自身のものだ。そして、これから世に出ようと
している彼の生き様は、市井の暮らしについぞ馴染むことのできなかった同
胞達にとって、ある種の希望でもある。只でさえ特異な環境に育ってきた青
年の前途を、外部の余計な干渉によってこれ以上阻むことは何としても避け
たいと、彼らは願っていた。 

 その悟飯が、これまでの十有余年という長付き合いの中でおそらくは初め
て、余人を顧みることのない自分本位の「我儘」を口にしている。
 それが彼にとっての本当の救いになるかどうかは、解らない。それでも、こ
こまで追い詰められてようやく聞きだせたその底意を、無碍にしたくないとピッ
コロは思った。

 己の言葉を「我儘」だと言い切る青年の陳述を、窘めるでも宥めるでもなく、
ただ黙したまま受け止める。そんなピッコロの様子に後押しされたのか、それ
まで相手の出方を伺うかのようにポツリポツリと言葉を繋いでいた悟飯の語
調に、力が籠った。

 「……強制的に感情をコントロールされてしまえば、確かに僕は楽になれる
  んだと思います。スクールを出た後も、都で人中に揉まれて暮らしていくつ
  もりなら、そうした方が絶対に、気持ちの部分で楽になれる。スクールでさ
  え、あいつは変わり者だって、周りから遠巻きにされてきました。この先学
  会で多くの人と関わりを持つようになれば、きっと今よりもっと、傷つくこと
  もあると思います。そんな時に肝心の僕の感情がずっとフラットな状態でい
  られるなら、必要以上に色々なものを感じ取らないで済む。怒ったり傷つい
  たり、落ち込んだり……そういう状況になるまで感情の揺れ幅が動かなけ
  れば、きっと僕は楽になれます。それで周りからもっと色眼鏡で見られるよ
  うになったとしても、それが僕の感情に直結しないなら、風評なんて存在し
  ないのと同じことです」
 「……ああ」
 「だけど……それは、強制的に感情をいじられた産物であって、僕が何か努
  力をしたとか、自分を保つために強い気持ちを保てるようになったとか、そ
  ういう事じゃありません」

 それは、ただの逃げだから―――続けられた青年の言葉には、飲み下し切
れなかったのであろう自嘲の響きが滲んでいた。 

 「そうやって逃げて、その場その場をやり過ごしていたら、いつか本当に大き
  な壁に直面した時、きっと僕は、自分の力で自分を支える事ができなくなっ
  てしまう。一時的に気持ちが楽になる逃げ道ばかりを選んでいる内に、僕
  はきっと、今よりももっと、弱い人間になってしまうと思います。……そんな
  ことになったら、僕は、本当に色々な方向に、顔向けもできない人間になっ
  てしまう……」
 「悟飯」
 「……僕は、学者になります。これからスクールで待っている口頭試問に合
  格して、世間にきちんと認めてもらえる形で、博士号を手に入れます。その
  ためにも、僕は、ちゃんと僕自身の力で、僕自身の意志で、試問会場に行
  かなきゃならない」

 己自身を鼓舞するかのように、青年が大きく息をつく。そうして、彼はそれま
で己の上体を掻き抱いていた両腕に、傍目にも解るほどにグッと力を込めた。

 「……この部屋に逃げ込んでいる内は、時間稼ぎができます。僕に残された
  使用時間をもっとつぎ込む気になれば、一週間だって二週間だって、ここ
  に「避難」していられる。でもそうやって結論をずるずる先延ばしにした分だ
  け、きっと僕は、ここから自力で出ていけなくなります。そんな、できて当た
  り前の事さえ尻込みしてしまうところまで、僕は自分を甘やかしてしまう」

 それじゃ駄目なんです―――言って、悟飯はそれまで聞き役に徹していた
ピッコロの顔を、正面から仰ぎ見た。

 「外に出れば……下界に降りれば、また人中で揉まれるストレスに気持ちが
  乱されることは解っています。試問の緊張も上乗せされたら、また感情が
  爆発してしまうかもしれない。自分で自分を抑えきれるか、自信なんて全然
  ありません。……でも、ここを出る事もできないようなら、僕にはそんな心配
  をする資格すらない。誰かに強制されて、ここから引きずり出されるんじゃ
  なくて……ちゃんと、僕自身の意志で、ここから出て行かなきゃいけないん
  です」
 「悟飯……」
 「……力を貸して下さい。ピッコロさん」

 寝台の片隅で総身を強張らせていた青年が、それまで自らを拘束していた
上肢の柵を解き、ぎこちない動きで、寝台の上を一歩いざり寄る。そうして、彼
は僅かに距離を縮めたピッコロに向かい、意を決するかのように居住まいを正
して見せた。

 「僕に、ここを出ていく力を貸して下さい。根絶はできなくても、いま体の中に
  燻っているものをひとまずやり過ごすことができれば、僕はここを出て、ま
  た下界に戻る事ができます。後は……そこから後をどう凌ぐかは、僕の覚
  悟次第です。その覚悟をちゃんと持ち続けるためにも、僕は自分の感情に
  外からの力で蓋をするような逃げ道に頼らないで、ここを出なきゃいけない
  んです。……だから、その為の力を、僕に貸して下さい」 

 ピッコロを見上げる悟飯の面差しは、けして快活なものであるとは言えなかっ
た。傍目にも解るほどに血の気を失ったままの容色は、老界王神の神託を知
らされた彼の衝動が未だ冷めやらぬ事を物語っている。それでも、多くのもの
を堪えるかのようにきつく唇を噛みしめた面持ちのまま、悟飯は、まっすぐに
ピッコロと視線を交わした。

 「……逃げ道に頼らないと言いながら、矛盾しているかもしれません。でも、
  僕の力だけじゃ、僕は自分を押さえられないんです。どんな形でもいい。
  今僕の中で燻っているものを、宥めて、治めて、下界に降りても大丈夫だ
  と思えるところまで自分の気を安定させなきゃいけない。…それは、僕一
  人の力じゃ無理なんです」
 「悟飯……」
 「ここで、ちょっとやそっと手合わせをしたくらいじゃ、付け焼刃にもならないん
  だってことは、よく解りました。それじゃ、どんなに繰り返しても自分を押さえ
  ていられる時間なんていくらにもならない。だからって、何かを…物や人を
  破壊して衝動を治めるなんて、できっこない。……それならあとは、界王神
  界で大界王神様から言われた方法くらいしか……」

 青年が物語る言葉の合間を縫って室内の空気を支配する、重苦しい静寂を
破ったのは、果たしてどちらが先だったのか―――刹那、どちらが発したとも
判別できない、鋭く息を呑む呼吸音が、室内の静寂に浸透した。

 十秒が過ぎ、二十秒が過ぎ―――息詰まるような空気に先に耐えられなくなっ
たのは、聞き役に回っていたピッコロの方だった。

 「……悟飯」


 お前はそれでいいのかと、そう言葉を続けることはできなかった。

 その身の内に燻るサイヤ人の衝動を治める為に、現状で考えられる手立て
を指折り数え、それを自ら打ち消した後だ。残された手立てがどういった類の
ものであるのかは、悟飯当人が一番よく分かっているだろう。 

 『なんじゃ、まっさかあの年で、懇ろになれるおなご一人作れんで、わざわざ
  泣きついてきたっつうことか?』
 『おなご遊び位できるように教えとくんも、師匠の務めだろうがよ?』

 禁を侵す覚悟で出向いた界王神界で、青年の朴訥とした気性を揶揄するか
のように、言葉を重ねて繰り返された老神の神託。話題の方向的に、あの絶
対神の趣味趣向に多分に左右されたことは否めないとはいえ―――おそらく
は九割方が、単純な嗜好によるものだったのだろうが―――その言葉には確
かな裏付けがあったのだという事を、今となってはピッコロも認めない訳には
いかなかった。

 サイヤ人という存在そのものが希少であり、限られた精鋭によって辛うじて
命を繋いできた民族であるがゆえに、生存能力も強いのだろうと語っていた、
老界王神の言葉を思い出す。そうした種族の血を受け継いだ悟飯の抱える衝
動を治める為の効率的な手段が生殖行為であるという事は、偏頗な見方を取
り払って考えてみれば、理に適っている原理であるようにピッコロには思えた。

 冷静な頭で仮定してみれば、もしも、この一件の当事者が悟飯ではなく、悟
空やベジータであったとしたら、そしてその衝動の治め方を、同様に自分が聞
き及んでいたとしたら―――自分はにべもなく、彼らにそれを伝えた上で突き
放していただろう。「貴様らの伴侶と相談しろ」と、ただ一言そう言い捨てればい
い。それぞれに築いた家庭の形は異なっても、自ら認め求めた伴侶と番う彼ら
の進退は、それで事が足りるはずだ。

 だが―――悟飯は違う。
 そもそも、彼がここまで屈託する羽目になったのは、彼がいつか番うかもしれ
ない自身の伴侶との間に、三世代目のサイヤ人を設ける事を憂えているから
だ。悟飯本人は認めたがらないかもしれないが、その感情は、既に恐れや怯
えと呼んでも差支えがないのではないかとピッコロには思われた。
 今悟飯を苛んでいるサイヤ人の破壊衝動は、次世代に引き継がれることは
ないだろうと老界王神は語っていた。仮にその推測が外れたとしても、文字通
り神の御業によって、悟飯の子供が父親と同様の苦しみを味わわされること
はないという確約も得ている。
 それでも、身の内で燻る衝動を治める手立てになると知りながら悟飯が尻
込むのは、生殖行為に対する彼自身の煩慮によるものなのではないかと、ピッ
コロは薄々感じていた。

 そんな悟飯に、例えガス抜きを目的としたものであっても、これ以上の自発
的な性行為を強要するのは酷だった。それも生半可なガス抜きでは意味が
ない。それこそ、老界王神が揶揄していたような、「相手を抱き潰しかねない」
衝動を、そのまま発散させなければ効果は見込めなかった。
 悟飯自身、自ら仕掛ける発散行為に限界がある事は承知しているだろう。
身を以てその現実を味わわされたからこそ、彼は、自分一人の力では無理だ
と確言したのだ。

 その上で助力を頼るというなら、自分に取れる手立ては一つだけだ。そして、
こうして自分を頼ろうとしている青年には、その覚悟があるということになる。
そうまでしてもこの閉ざされた空間を抜け出し、現実の世界へ帰りたいのだと、
居住まいを正しながら自分を見上げている青年は、固く強張らせたその全身
で物語っていた。


 「……悟飯」
 「―――お願いします。僕に、ここを出ていくための力を……貸して下さい」


 本当にそれでいいのかとは―――やはりピッコロには言えなかった。  
 ここまで言い募った以上、相応の覚悟はあるのだろう。後になって、あれは
そんなつもりで言った言葉ではなかったのだと、自らの発言を棚上げするよ
うな小狡さも強かさも、彼にはおよそ無縁のものだ。求めた「助力」によってど
のような結果が待っていたとしても、自ら望んだ事だと自分を説き伏せて、彼
はそれを甘んじて受け入れるのだろう。孫悟飯とは、そういう実直で不器用な
青年だった。
 だから、悟飯の覚悟が整っている事は解っている。その結果を我が身で以
て味わわされる事まで含めて、彼は自らの鬱屈に踏ん切りをつけたのだ。

 だが……それらは全て、已むに已まれぬところまで追い込まれた彼が選ば
ざるを得なかった、苦肉の策だ。もしも他の手立てが残されていたとしたら、
彼は何があってもこんな方法に縋ろうとは思わなかっただろう。
 眼前の障壁から逃げ出したがる自らの弱腰を無理やりに押し殺して、彼は
現状に踏み止まっているのだ。明らかに本意ではない選択だと解っていて、
その是非を問うなど意味のない事だった。
 
 ここで自分が余計な口を挟めば、ようやくの思いで覚悟を固めたのであろ
う青年の気構えに水を差すことになる。どころか、自分の気持ちを整理する
ために過ぎない無意義な一言で、彼を悪戯に惑わせる羽目にもなりかねな
かった。
 だから―――自分の前で身を固くしているこの青年に、その底意を確かめ
る事は、ピッコロにはできなかった。それで得られるものは、胸の内に呑みこ
んだ様々な衝動に耐えている青年からの、形ばかりの言質だけだ。そんなも
のの為に、これ以上悟飯を追い詰める事は出来なかった。

 「……解った」

 形ばかりの言質など、それを仕掛ける側の後ろめたさを僅かばかり解消し
てくれるだけの無意味なものだ。それが青年の救いにならない事を知りなが
ら、自分の為の逃げ口上など、身勝手に求める訳にはいかない。
 だから―――この一件に関する問答を、ピッコロはそれ以上続けなかった。
  
 
 寝台へと一歩足を勧めれば、その上で身を固くしながらも自分と向き合っ
ていた青年の総身が、傍目に解るほどギクリと竦む。それだけで、この青年
がどれほどの恐怖に耐えてこの場に踏み止まっているのか、手に取るよう
に解った。
 腹の奥底から湧き上がる、青年に向けられた惻隠の思いで胸が痛くなる。
それでも、青年が自分に何を求めているのか過たず理解している状況下で
それ以外のどんな心配りをしたところで、彼の慰めとはならなかった。
 今の自分にできる事は、求められている己の役割を、最後まで放棄するこ
となく全うする事だ。これから自分の仕掛ける事がどれほど青年を傷つけた
としても、彼が無事にこの空間から抜け出せる状態を取り戻すまで、自分は
「助力」の手を緩める訳にはいかなかった。

 さらに一歩、寝台の青年へと歩み寄る。伸ばした掌でその肩に触れれば、
緊張に強張った肩口が滑稽なほどに跳ね上がった。 
 それでも触れた手を振り払う事もなく、拒絶の声も上げずその場に留まって
いる悟飯の姿に、彼が胸の内に固めた覚悟の重さを知る。その覚悟に応え
るためにも、仕掛ける側である自分がこれ以上、躊躇いを見せる事は出来な
かった。

 「―――目を閉じていろ。そうそう時間はとらせん、楽にしていろ」
 「…っ!」
 「お前がここから出て、現実の生活へと戻れるように……俺が、力を貸して
  やる」

 だから―――こんな「処置」を、お前の疵として抱えるな。

 ここでその身に受けた恥辱の記憶など、現実の世界に戻れば何ほどの意
味も影響力も持ちはしないのだ。道を歩きながら、そこにあった小石に足を
取られたとしても、それで歩みが止まる訳ではない。行く手を邪魔する障害
物に一瞬つまずいた、ただそれだけのことだ。

 一瞬のつまずきなど、人はすぐに忘れる。そんな記憶を後から反芻する余
裕があるなら、人はもっと有意義で価値のあるものに、己の記憶容量を費や
すだろう。
 その程度の事だ。こんな記憶を、わざわざ現実世界にまで持ち込む必要は
ない。こんな事で、真っ直ぐに未来を目指して邁進を続けてきた青年の歩み
は阻めない。

 この部屋で起きたことなど、全ておいていけばいい。そうやって、自分自身
を含めて誰憚ることなく、真っ直ぐに顔を上げて、ここを出て行けばいい。
 何一つ抱え込むな。全てを置いて、身一つで……お前はここから、自由に
なれ。  


 言葉にする事の叶わなかった言外の願いが、飲み下し切れなかった苦い
薬のように喉奥を焼く。そんな未練にも似た思いを胸の内でやり過ごしなが
ら、ピッコロは、ことさら無造作に、手をかけた青年の肩を突き放した。
 自重によって背後に突き倒された青年の体が、そのまま寝台の上へと沈
む。生来の豊かな感受性を表すかのように、感情の起伏のままにくるくると
よく表情を変えるその双眸が、物言いたげに見開かれてピッコロの姿を見遣っ
た。

 だが―――総身を強張らせ、衝撃に容色を失いながら……それでも尚、悟
飯は自分を追い詰めるピッコロに向かい、拒絶の言葉を口にしなかった。








                                  TO BE CONTINUED...


  
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