safety valve・22







  味わわされた吐精の衝動に硬直した肢体が、緊張から解放されたかのよ
うに脱力する。
 それと察して、それまできつく拘束していた上肢を解放すれば、荒く息を
弾ませながら、青年はその総身を寝台の上に投げ出した。


 身じろぎもままならないような体勢から吐精へと強引に追い上げられた衝
動に体がついていかないのか、室内に垂れ込める夜気を乱す不規則な呼
吸音はなかなか収まらない。汗や涙に濡れた顔をピッコロの目線から隠そ
うとする余裕もないのか、悟飯は半ば呆けた様相のまま、己を支配する衝
動が総身から抜け去るまで、成り行きに身を任せているようだった。

 こうして、自分が悟飯の本意ではないやり方で強引に彼を逐情させるの
も、初めての事ではない。だからこそ、青年も不承不承にであれ、総身の
自由を取り戻すまでの間、そんな自らの痴態を晒すことに内心で目を瞑っ
たのだろう。今更、些末に関ずらわっていられない程に彼が余裕のない状
態である事も確かなのだろうが、なにより、かつて同種の恥辱をこの手に
よって強いられたという鮮烈な記憶が、彼の中にある種の諦めめいた思
いを抱かせたのだろうとピッコロは思った。

 不本意で、居たたまれなくて……それでも、それを強いられたのが古付き
合いの自分であったことで、せめてもの安堵も感じている、と言った心境な
のだろうか。青年にとって、到底歓迎しかねる事態であるという事実は変わ
らないだろうが、それでもこれを已むに已まれぬ局面であると割り切る事
で、彼は先刻までよりも精神状態が安定しているように見えた。

 ようやく解放されたという安堵からか、取り繕う事もなく無防備に投げ出さ
れた肢体。このまま放置しておけば、緊張の糸が切れた脱力感に誘引され
た青年は寝入ってしまうかもしれない。その位、今の悟飯からはそれまで
漂わせていた異常なまでの緊迫感が感じられなかった。

 やはり、雄の本能を逆手に取ってしまう事が、その内気の均衡を保つに
は手っ取り早いらしい。あの老界王神の、好色老人の戯言としか思えなかっ
た神託にも、こうしてみるとそれなりの説得力があるものだとピッコロは苦
い思いで得心した。

 束の間であれ、これまで限界近くまで張りつめていた緊張から解放された
のなら、この機を逃さずに休ませてやるべきなのだろう。
 一足飛びの一挙解決など見込めるはずもない状況なのだから、せめてこ
うして小出しにガス抜きさせて、試問の為下界で過ごす時間をその場しのぎ
でやり過ごさせる事は有効手段と言えるはずだ。もう一つの発散手段であっ
た手合わせを強要することで、自分を攻撃できない青年の自虐性を、悪戯に
刺激する危険もない。
 身の処し方を知らない幼子でもあるまいし、こうしてガス抜きに有効な手立
てを身を以て再認識すれば、後は外野があれこれといらぬ世話焼きをする
必要もないだろう。そもそも、請われもしないのにここまで自分が出張る事自
体が、分の過ぎた振舞いなのだ。

 このまま、悟飯が寝入るのに任せるべきかと、それまで相手を拘束するべ
く乗り上げていた寝台から身を起こす。今声をかけても、半ば意識を飛ばし
ているような状態の青年を悪戯に刺激するだけかと、ピッコロは、脱力した
態で寝台に身を投げ出している悟飯をそのままに、単身、寝室を後にしよう
とした。
 だが―――

 「…っ」

 「それ」を感知したのは、悟飯をこのまま休ませようと、ピッコロが踵を返し
かけた時だった。
 しばらくは異変が生じる事もないだろうと、無防備に向けた背中が、しかし
次の瞬間にビクリと竦む。背後からジワリと迫り寄るような怖気に、ピッコロ
は弾かれたように寝台の青年を振り返った。

 ようやく吐精の衝動も収まったのか、悟飯は寝台の上に身を投げ出した体
勢のまま、気だるげな様子で瞼を閉ざしている。放っておけば今にも寝入っ
てしまいそうなその姿は、ここしばらく目にする機会がなかったほどに、心身
ともに寛げているようにピッコロの目には映った。
 だが……完全に無防備な姿を晒している青年の総身から、こちらが呑みこ
まれそうな威圧感が伝わってくる。それは「今夜」、己の中で膨れ上がる種の
衝動と戦っていた悟飯と、相応の傷痍を覚悟して向き合った瞬間に感じた底
冷えのするような脅威と同種のものだった。

 己の目に映る光景とのあまりの差異に、思わず自らの感性を疑う。だが、
総身を射抜くかのような衝撃は、今にも眠りに落ちそうな眼前の青年から確
かに発されていた。

 これはどういう事なのかと、ピッコロは、息を詰めるようにしながら寝台の青
年を眺めやった。 
 悟飯の中に巣食うサイヤ人の破壊衝動は、つい先刻まで、その意志の力
で制御できない勢いで膨れ上がり、今にも臨界を迎えようとしていた。文字通
り「熱を冷ます」などといった手立ても付け焼刃にすらならず、手合せに興じて
発散させようにも肝心の青年の気構えが後ろ向き過ぎて、到底満足のいく効
能は見込めない。
 ならば致し方ないかと、雄の本能を逆手にとって無理やりに発散させてみれ
ば、それまで傍目にも解るほどに青年が漂わせていた、息詰まるような緊迫
感がようやく和らいだ。今、悟飯は確かに、身の内で膨れ上がる種の衝動か
ら一時的にであれ解放された状態にあるはずなのだ。
 だが……その悟飯から感じる威圧感は、先刻までとまるで変っていない。
むしろ、それまで曲がりなりにも己の内気のバランスを取ろうとしていた青年
の意志の力が一時的に弱まったことで、その衝動が統制を失って暴れ出そ
うとしているようにすら感じられた。

 「…悟飯…っ」

 有効と思われる手立てを思いつけないまま、それでも、このまま青年を放置
しておくのは危険だと声をかける。今にも眠りに落ちそうな様相の悟飯は呼び
声にぼんやりと瞼を持ち上げたものの、その意識は半ば眠りの中に引き込ま
れているようで、それ以上の反応は返らなかった。
 「悟飯…っ起きろ!…っ!」

 強引に揺すり起こそうと肩口に手をかけた刹那……触れた掌を通じて、ピッ
コロの体に衝撃が走った。
 静電気に感電した程度の、傷みとも呼べないような細やかな刺激。だが、外
敵から身を守るために意図して作り上げなければ、到底生じるはずもない衝
撃だった。

 咄嗟にその手を引いたピッコロと同様、「外敵」を遠ざけようとする不快な刺
激が、悟飯自身にも伝わったのだろう。程なくして、喉奥で微かにうめきながら、
青年も寝台の上に起き上った。

 「……ピッコロ、さん…?」

 状況を理解できていないようなら、こちらでも全貌を把握しているとは言い難
い状態でどう言葉を並べたものかと内心迷ったが、幸いというべきか、身を起
こした段階で、悟飯は自分の様態を把握していたらしい。二、三度気だるそう
に瞬きを繰り返した後、彼は、何かに思い至ったかのようにその居住まいを正
した。 

 「…っすみません、僕…っ」
 「無理に動くな。……気分はどうだ?」

 言葉少なに掛けられた問いかけの意味するところが、過たず伝わったのだ
ろう。悟飯は束の間虚空に視線を彷徨わせ、現状を再認識したのか、その総
身を強張らせるような素振りを見せた。

 自制を失い、理性で組み上げた箍を内側から壊そうとするサイヤ人の破壊
衝動。こうして対面していても、絶えず伝わってくるほどの余勢だ。己の欲を
吐き出し、束の間であれその重圧から解放されて「気を抜いた」状況下での
不意打ちに、当の本人が気づかないはずがなかった。

 寝台という限られた空間を限界まで活用し、発育のいい体躯がじりじりと壁
際まで後辞さる。そうして自分から少しでも距離を取ろうとしている青年を追う
ことなく、ピッコロは、再び悟飯を呼ばわった。

 己の内で主張を続ける衝動を抑え込もうとでもするように、悟飯の上肢が自
らの体をかき抱く。自分自身を拘束することで僅かばかりの気休めになったの
か、不自由な体勢に身を縮こまらせたまま、彼は深く息を吐いた。

 「悟飯」
 「……すみません、大丈夫です」

 もう治まりました―――続けられた青年の言葉は、明らかにやせ我慢だった
のだろう。僅かばかりの距離を隔てた程度では誤魔化しようもなく、悟飯の内
気は混沌とした状態だった。
 それでも、半ば意識を飛ばしていた時とは違い、それなりの自制を図れてい
るのだろう。青年の表情一つとっても事態の物々しさは覆い難かったが、こうし
て意識を集中させることで身の内に巣食う衝動に「蓋をする」事は、まだ可能
であるらしかった。

 ひとまずは、悟飯が己を失うような極限状態ではないのだという事実に安堵
する。だが、あくまでも振出し状態に戻ったにすぎないこの青年を、打つ手も
ないまま放置する危険性に変わりはなかった。

 こうして向き合っていても、薄皮一枚で辛うじて覆われているかのような、青
年の放つ波動がピリピリと肌を刺すようだ。相対する自分にも相応の気構えが
必要だが、その内気を抑え込む悟飯の心労の方が遥かに大きいだろう。


 僅かばかりでも、その身に巣食う衝動を宥められるのならばと強行した無体
であったが……この程度の「ガス抜き」では、到底足りないという事か――― 
 その神経をすり減らす程の緊迫感から束の間免れたところで、このままでは
結局、悟飯がその逃避の代償を払わされる羽目になる。仕掛けるなら徹底的
に、その内気を蝕む衝動を根絶させる気概で以て「発散」させるしかなかった。
 だが、只でさえ性交渉に対して思うところを抱えているこの青年に対し、これ
以上の疑似行為を強いるのは……
 

 ギリギリのところで自分を保っているのだろう悟飯に、有効な手立ても思い
浮かばないまま、かける言葉も見つからず―――ふと追憶を刺激されたのは、
眼前の青年と自分が邂逅を果たしたばかりの頃の、戦う術も知らず、ただ稚
いばかりであった悟飯の面差しだった。

 爆発的な潜在能力に恵まれながら、それを引き出し、使いこなす事を知らな
かった少年。ようやっと物心つくかつかないかの時分の幼子に、即席の指南
役となった自分がまず「教えた」のは、急場に陥り恐慌状態となった……理性
を保てなくなった己がどれほどの能力を発揮できるのか、少年に身を以て体
感させることだった。

 戦闘民族であるサイヤ人が己の真価を最も発揮できるのは、満月が発する
ブルーツ波を浴びて大猿化した時、そして強い負の感情に引きずられて変化
する究極の戦闘形態、超サイヤ人へと転じた時だ。
 まだ悟飯が幼かった当時、超サイヤ人は伝聞による想像上の存在に過ぎな
かったが、きしくも自分が彼に課した指南は、基本的な体術などの会得に先
駆けて、少年が生まれ持った気性の甘さを矯正する事だった。

 元来戦いを好まず、心優しい気性をした少年に向かい、昼も夜も、怒れ非情
になれと焚き付けていたように思う。それは彼の戦士としての気構えを培うた
めに必要な措置であり、あの時強要しなければとは、今でもピッコロは思わな
かった。
 だが……少なくともあの少年時代の経験が、こうして青年が己の衝動に苦し
んでいる、一つの要因にはなっているのだろう。

 時世が違えば、戦いなど無縁な一生を送ったかもしれないこの青年の本質
を、本来であれば彼が望むの事のなかったであろう形へと「矯正」したのは自
分だ。もしそうでなければ、などと仮定することには何の意味もなく、ピッコロ
自身、そうした仮想に浸って益もない自虐に走るつもりなどなかったが……追
憶が示す事実から、目を反らそうとは思わなかった。

 元来、優し過ぎると評されたこの青年にとって、戦闘民族であるサイヤ人た
れと強要され続けた十有余年は、どれほどの負荷となってその胸襟を苛んで
来たのだろうか。
 規格離れした桁外れの潜在能力と、それを余すところなく引き出された老界
王神の施術が直接の誘因であったとしても、そもそも、悟飯をここまで苛むに
至った要因の根幹は、あの少年の日々にあったのではないかと、ピッコロは思
わずにはいられなかった。
   
  
 追憶の日、老界王神によって、己の限界を越えた潜在能力を引き出されて
いたのが、もしも悟飯ではなかったとしたら……そんな、埒もない事を考えて
しまう。
 地球の命運を脅かす最悪の魔人に太刀打ちするための切り札として、サイ
ヤ人と地球人の混血であり、類まれな資質を有する悟飯の存在はうってつけ
だった。彼の尽力なくして、地球が今の平和を勝ち得る事はなかっただろう。
 だが、現存するサイヤ人とその血族の中で、種の本能を逆手に取ったこうし
たやり口に、尤も向いていない気性をしているのも、また悟飯だった。

 例えば、これが彼の父親や、現存するもう一人の純血種、亡星の王子であっ
たなら、今頃、彼らがこの青年のように、複雑な懊悩に苛まれることはなかっ
たのではないかと思う。
 生来の破天荒な気性で知られる孫悟空には、良くも悪くも、地球人の概念
から形成される常識が通用しない。それだけに、世間体を取り繕うことなく、
自身の感性や価値観にのみ従う事の出来る我の強さがあった。

 仮に、悟空の中で己の破壊衝動が飽和状態を迎えたとしても、市井の暮ら
しという枠組みに己をはめ込もうという欲求を持たない彼は、それを適度に発
散させる術に困らないだろう。なにも無理やり己を殺して一般社会に迎合する
必要はないのだから、その気になれば、衝動が治まるまでの間、地球外へと
「退避」してガス抜きを続けてもいい。ベジータにしても、その辺りの随意性は
変わらなかった。 
 そして……これは完全に当て推量の範疇だが、おそらくは悟空もベジータも、
己の内に潜む破壊衝動と真っ向から衝突する局面に陥る事はないだろうと、
ピッコロは思う。

 天衣無縫をそのまま体現しているかのような悟空の為人は、良くも悪くもぶれ
るという事がない。今回、悟飯が直面している事態は、内在する種の衝動を実
生活に持ち込ませまいとするが故の苦慮だ。素の姿のままどこへでも出向き、
その「世界」の空気に馴染んでしまう……言い換えれば、世界の空気を自身の
「実態」に迎合させてしまう悟空にとって、愛息の抱える心労は無縁のものだろ
う。

 母星の名を冠した王族出身であり、特殊な英才教育を施されたベジータにし
ても、おそらくはそうした懸念に煩わされることはないだろうと思う。彼は母星の
王位を継ぐものして、余人に対する自らの特異性優位性を徹底して刷り込まれ
てきた存在だった。
 かつて、地球侵略を目論んだサイヤ人との激闘の最中命を落としたピッコロ
が、自らの耳目で確認する事は敵わず、全ては後から伝聞の形で仕入れた情
報であったが……今でもこちらが呆れる程に誇り高く我の強い気性をした亡国
の王子は、ブルーツ波を浴びて大猿化したその時も、自らの理性を保ったまま
平然と行動してのけたという。そう振る舞えることが王族であり、彼らの母星で
呼ぶところのエリート戦士の証であるのだと、随分後になってから知った。
 思えば、魔人ブウとの決戦の折にも、彼は、魔導師バビディの洗脳により自ら
の悪心を強制的に引き出されながらも、最後まで己を保ち「ベジータ」であり続
けた。バビディの洗脳を逆手にとって彼が仕出かしたことはけして褒められたも
のではなかったが、そうして自らの掲げる「美学」を貫いてのけた彼もまた、悟
空と同様、大界王神の施術による後遺症に懊悩する事はなかっただろう。

 残された地球人との混血児達はいまだ幼く、仮に大界王神がその資質を見
込んだとしても、精神的に未成熟な悟天とトランクスに秘術を施したとは思えな
かった。
 あの時、心身ともに、地球の命運を担うに足る存在として老界王神に見込ま
れる資質を持った戦士は悟飯以外にはありえず……そして、それぞれに強烈
な個性を宿した純血のサイヤ人達に比べて悟飯だけが、良くも悪くも己の型に
囚われた存在だった。

 己を押しこめる型から自分を解き放てば、悟飯は少なくとも今よりは、楽に
なれるのだろう。悟空やベジータといった、生きた「実例」が身近にいるのだ。
どう振る舞えば自分にとってこの世界が生き易くなるのか、手本には事欠か
ない。
 だが……ただ自由に気楽に、彼ら超人を隔絶する世界と極力疎遠に生き
るような生き方のその先に、悟飯が望む将来はなかった。

 悟空はいい。彼は確かに、非常に大きな視野でこの世界を愛しんでいたが、
俯瞰するような感覚で愛着するその世界の中に飛びこんで、自ら市井に交じ
るような生き様を望んではいないだろう。程度の差こそあれ、ベジータにして
も、そうした執着は希薄であるように思えた。
 だが、悟飯が幼い頃より描き続けてきた夢は、その市井の暮らしに立ち交
わらなければ叶わない。彼の目指す将来は、良くも悪くも、地球人の規格か
ら大きく逸脱した存在である自分達が阿ることができない、市井に浸透する
狭苦しい「良識」の中にあった。 

 『解っとる。まだ若すぎる孫悟飯には酷な事だと、あの時解っとったよ』
 『体の方が落ち着くまで、ちいっと感情をコントロールしてやった方がいいか
  もしれんよ』

 決死の覚悟で赴いた界王神界で、大界王神から告げられた言葉が今更の
ように耳朶に蘇る。神の中の神と謳われたあの老神は、今悟飯が直面してい
る窮地を、過たず予測していたのだろう。
 付け焼刃の発散行為では、到底治まりを見せない青年の衝動。ここまで追
い込まれた悟飯を、彼の望む市井の暮らしに返すには、老神が提示したよう
な「荒療治」に縋る事が最も効果的な打開策なのだと、ピッコロも理性では解っ
ていた。

 一度は身上も顧みず猛反駁した大界王神のあの言葉に従えば、きっと悟
飯は楽になれる。それはきしくも、己の衝動とのせめぎあいに疲弊した悟飯
自身が、一度は自ら口にした諦観交じりの妥協でもあった。
 

 「今夜」、床に就いた折に一度は思い巡らせながら、青年の異変によって棚
上げされていた懸念が、ピッコロの胸中にじわりと蘇ってくる。
 老界王神の「荒療治」に否やの声を上げたのは、あくまでもピッコロの主観
であり独善だ。ここまで追い詰められた青年の様相を前に、己の感情のみで
今後の進退に関わる彼の選択を誘引すべきではない。

 『……スイッチになる僕の衝動ごと…蓋をしてしまえればいいのに…』

 鍛錬の最中、悟飯が口にしたあの言葉は明らかな軽口だった。悟飯自身、
そんな事ができようはずもないと内心で諦観しているからこそ気安く口にでき
た、希求の声だったはずだ。
 その言葉が実現可能なものだと、この青年はいまだ知らない。

 多くの束縛を強いられた存在であるからこそ、せめてこの先の半生に背負
う重荷は一つでも減らしてやりたかった。そんな身贔屓が前面に出て、口に
する事が憚られた……口にしたくはなかった、界王神界で知らされたもう一
つの真実。
 悟飯の身を焼く衝動を継続して、一定の水準まで抑え込んでいられるなら
ばと思いながらも、他の替えが効く手立ての可能性がある以上は、彼を遠ざ
けておきたかった荒療治。だが、それが相当に困難である事を、こうしてまざ
まざと見せつけられたからには―――当事者である悟飯を、ずっと蚊帳の外
に置いておく訳にはいかなかった。

 この先の進退を、選択するのは悟飯本人の意向によるべきだ。それがどれ
ほど忍びなくいたわしく思えても、何も知らされなければそれを選択するとい
う権利すら、悟飯には残らなくなってしまう。
 それは、一人の独立した存在と向き合うには、あまりにも相手を見くびった
振舞いだった。彼はもう、自分の先導なしには己の立ち位置すら覚束なかっ
た、追憶の日の幼子ではない。
 事態に対する、覚悟を決めなければならないのは……人の世の理を超絶
した絶対神から一つの切り札を託された、自分の方こそだった。


 「……悟飯」

 呼びかける声は、意気地なく震えてはいないだろうか。平時の自分を装える
程度には、自分は自制できているだろうか。
 自分がこれから口にしようとする事は、あくまでも一つの選択肢の提示だ。
それを耳にした青年の判断を揺らがせるような、「ぶれ」があってはならない。

 「……お前は「昼間」、俺との手合わせの後こんな事を言っていたな。『自分
  で自分をコントロールできないなら、力を持つ資格はない』『持て余すだけ
  の力なら、スイッチになる自分の衝動ごと、蓋をしてしまえればいい』、と」

 口にした悟飯自身、そんな自分の言葉が、何の打開策にも結び付かない愚
痴に過ぎなかったという思いがあるのだろう。彼は束の間眉間に皺を寄せるよ
うにして口惜しそうな表情を浮かべたものの、ピッコロの言葉に応えを返さなかっ
た。
 当時を追想して鬱屈とした思いを味わわされているだろう青年に相対しなが
ら、自分こそが揺らがないようにと、胸の内で己自身に喝を入れる。
 自分の提示が情報の過不足なく、滲み出た先入観で悟飯の心証を左右して
しまう事のないようにと、意を決してピッコロは続く言葉を口にした。


 「―――それは、あながち不可能な仮説ではない。先日、お前が下界で所
  用を片付けている間に、俺も界王神界まで出向いたと言った事があっただ
  ろう。……あの日、俺はお前の子孫に関する懸念事だけではなく、大界王
  神様から、もう一つの確約を頂いたんだ。お前の血脈ではなく、お前自身
  に関する事をな」

 ピッコロの予想に反して、眼前の青年からはっきりとした反応は返らなかっ
た。膨れ上がり、身の内で猛り狂う種の衝動を封じ直す術はないとはっきり
断言されている以上、それ以外のどんな保証をもらおうが意味がないと感じ
たのかもしれない。
 それでもピッコロの立場を慮ってか、神妙な面持ちで耳を傾けている青年
を前に、ここからが本題だと、腹に力を込める。

 「例え大界王神様でも、一旦解放されたお前の潜在能力を…サイヤ人の衝
  動を封じ直す事はできない。それは、先日お前に伝えた通りだ。
  ……だが…それと同時に界王神様は、こうも言われていた。引き金となる
  お前の感情を一時的にコントロールして……お前の中の衝動とお前の感
  情とを、直結させないように「処置」することはできる、と……」
 「…っ」
 「要は、衝動を呼び覚ます程の激情を、お前が知覚できなければいい。お前
  の内面が成熟すれば……お前自身が老成して今よりも精神の安定を図れ
  るようになれば、そうした「処置」も不要になる。そうなれば、すぐに「戻す」
  事もできると……」 
 「ピッコロさん……」
 「あの時、その事をお前に伝えられなかったのは、そうしてお前が強制的に
  感情を抑制される事に、俺がどうしても賛成できなかったからだ。本音の
  部分では、こうして自力ではどうにもできずに苦しんでいるお前を見てい
  ても、今でも俺は、そんな「処置」の為にお前を界王神界には連れて行き
  たくないと思っている」

 だが、それは全て、俺の身勝手な理屈だ―――

 一旦言葉を切り、向かい合った青年の姿を改めて眺めやる。
 身の内で再び勢いを取り戻しつつある、自身の衝動を抑え込んでいる悟飯
の様体が好ましいはずもなかったが、唐突に突きつけられた事実に衝撃を隠
しきれないのか、只でさえ色素の薄い青年の容色は、今にも色を失いそうに
ピッコロの目には映った。
 なぜ今になってそんな話をと、そう思っているかもしれない。なにもここまで
悟飯を疲弊させるその前に、彼にこの一件を伝える機会はいくらでもあった。
 全ては、そもそも選択権を持たない部外者の自分が、今現在の彼の為人を
惜しんだが故の怠慢だ。その結果責任から逃れようとは思わない。

 それでも、今肝要なのは、責任の所在ではなく、この事実を知った悟飯が、
その進退をどのように判断するかだった。
 
 これ程に振り回され苦しめられるならと、感情に「蓋」をする事を選ぶかもし
れない。眼前の口頭試問を乗り切るための補償としてのみ考えても、大界王
神の示した手立てには、十分すぎる程の真価があった。
 選ぶのは悟飯だ。自分にできる事はあくまでも情報の提示に過ぎず、分を
越えての干渉は、悟飯の重荷となるだけだった。

 自分を見上げる青年から敢えて視線を反らすことなく、己の内的世界を可
能な限り、同化し、かつての半身でもあった先代の神へと連結させる。適度
な距離感を持つ事で、悟飯の判断に余計な影響を与えないために、また、
僅かでも己の動揺を伝えて彼の心を乱すことがないように、ピッコロは、彼が
馴染んだ存在である「ピッコロ」を、己の表層からできうる限り払拭した。


 「これは、お前のこの先の生き様を左右する選択だ。だから、それはお前の
  意向によるべきだと、俺は思う」
 「ピッコロさん……」
 「孫や家族の事も、ましてや俺の事も、一切考慮するな。お前の人生は、お
  前にしか生き切る事が出来ないんだ。後押しはできても、お前以外の誰か
  がそれを肩代わりすることはできない」

 だから、お前が決めろ―――続く言葉が、酷く遠い響きを持ってピッコロの耳
朶を打つ。内的世界をかつての半身と繋いだためか、すぐ目の前で自分を見
上げている青年との距離感が、うまく掴めなかった。
 今、悟飯にこの手を伸ばしても、きっと「自分」はこの手からなにも感じる事が
できないのだろうとぼんやり思う。自ら仕掛けておきながらそれがやるせない
とも思ったし、だからこそこの距離感に意味があるのだとも感じた。

 「急ぐ必要はない、じっくり考えろと言いたいが……今のお前の状態では、
  あまり考える時間はとれないかもしれない。この部屋に籠っていられる時
  間を駆使するとしても、肝心のお前が自分を抑える側から消耗している状
  況だからな。……引き延ばせて、この部屋過ごす時間の、あと「一日」と言っ
  たところか……」
 「…っ」
 「もっと早くに、お前に告げておくべきだった。ここまで事態を悪化させてしまっ
  たのは、俺の見通しが甘かったからだ。……本当に、お前にはすまなかっ
  たと思っている」

 ようやく告げられた、今となっては意味を成さない詫言すら、自分以外の存在
を前面に出したようなこの状況では、酷く他人行儀な響きで以て悟飯の耳に届
いたかもしれない。ここにきて見放すのかと、彼は、内心で憤懣を募らせている
かもしれなかった。

 だが―――この先の半生がかかった、けして軽忽であってはならない選択だ。
青年の覚悟を後押しするには、きっとこのくらいの距離感が、ちょうどいい。
 だから……きっと青年を落胆させるであろう「他人顔」のまま、ピッコロは、彼に
自らの半生を指針づける二者択一を迫った。


 「悟飯……お前の感情を、お前の中の衝動と直結させないために、界王神界で
  「処置」を受けるか?」
 「ピ…っ」
 「それとも、「お前らしく」生きるために、消耗することを承知の上でその場し
  のぎを繰り返しながら、精神が熟成するまで耐え凌ぐか?……俺は、ど
  ちらであろうとお前の選択に従う」
 「ピッコロさん…っ」
 「悟飯、お前が決めろ」
 

 それきり、互いにかわす言葉もないまま、室内に重苦しい静寂の帳が垂れ
込めた。

 唐突に自由意思による選択を迫られ、突き放されたと青年は感じたかもし
れない。彼は何事かを訴えようとするかのように幾度か口を開きかけたが、
小刻みに戦慄くその口角は、結局、意味のある言葉を紡ぐことができなかっ
た。
 

 自分以外の他者を頼れないのだと彼が身に染みて得心する為ならば、彼
の助けになれない事を、青年からどれ程恨まれても構わない。その恨みや
落胆の思いが力となって彼を発憤させてくれればいいと、ピッコロは淡い期
待を抱いていた。
 あまり時間が取れないだろうと口にはしたが、悟飯の体に弊害がでない限
りは、ここでどれほど逡巡を繰り返してもいい。そうして彼が、少なくとも今こ
の瞬間には未練を残さない形で一つの答えを導き出せるよう、それまで向き
合っていた青年と敢えて距離をとり、移動した寝室の入り口から変わり映え
のない「夜」の景観を眺めた。

 五分が過ぎ、十分が過ぎる。
 室内に据えられた時計以外に時流を物語るものもない空間で、ピッコロは、
状況が許す限りいつまででも、青年との根競べにつきあう心積もりだった。

 寝台に残ったままの青年の思索を妨げぬように、融合した己の半身を隠れ
蓑にするようにして、自らの存在をより希薄なものとする。そうしてまる「一晩」
でも己を殺したまま悟飯の選択を待つ覚悟でピッコロは時を過ごしていたが
……その後、彼の体感時間にしてものの十分ほど経過した頃、契機はふい
に訪れた。


 まず初めに、知覚できたのは寝台の青年が大きく嘆息した語音とそれによ
る空気の流れ。それでも敢えて背後を振り向かずに黙殺を決め込めば、程
なくして、青年がピッコロを呼ばわった。

 青年の様相は、先刻までと全く変わっていない。呼ばわりの声とは裏腹に
彼は顔を伏せたままで、上肢で自らの体をかき抱いたその姿は、到底、今
後の進退を決める覚悟を定めた様には思えなかった。
 だが、そんな寄る辺もないよすがのまま、彼は再度、ピッコロの名を呼んだ。 

 そして……


 「……いけません…」
 「悟飯?」
 「こんな中途半端な気持ちのまま……界王神界には行けません」

 己をかき抱いていた青年の指先が、震えを帯びているのが傍目にも見て取
れる。喉奥から振り絞ったのであろう声は掠れ震え、平時の闊達とした青年を 
思わせるものは何もなかった。
 だが、それでも―――悟飯は、意気地なく頼りないばかりの自らの「表明」を、
言葉を重ねて撤回しようとは、しなかった。

   
          






                              TO BE CONTINUED...


  
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