「safety valve・15」






  神殿の最深部にしつらえられた、現世と次元の隔てられた空間へ
と続く重厚な扉を押し開いた時―――ピッコロがまず知覚したのは、
それまで身を置いていた現実世界とは、あまりにもかけ離れた冷気
だった。


 精神と時の部屋の使用定員は2名までとされているが、基本的に、
使用者は同時に入退室することが多い。使用時限を限られた空間に
別々に入室することで、各々に残された残余時間を把握しづらくなる
といった難点もあったし、また、先に入室した者の使用時間によって
室内の体感時間が流れ出すため、極端な高低差があるこの特殊空
間での気温差に、後から入室した者が、どうしても影響を受けるから
だ。
 故に、仮に別々の入室を望む場合、先行した者との現実世界での
「時間差」は、非常に重要となる。ほんの4分も間隔を空ければ、室
内での体感時間をほぼ同じ状態で享受することができるのだから、
本来であれば、後行者がそのタイミングを合わせて入室するべきだっ
た。

 だが、現在この部屋を使用している青年相手に、そんな悠長な配
慮など試みている余裕はない。それこそ「1分でも早く」、悟飯と合流
しなければならなかった。

 室内の空気を支配する現実離れした冷気から、この部屋を流れる
時間が「夜」である事が解る。ならば、この部屋で過ごす悟飯にとっ
て、既に二日目の大半が経過したという事だ。
 この二日、悟飯がどのような過ごし方をしていたかは解らないが、
一度後ろ向きな思考に嵌まり込んだが最後、ズルズルとそこから抜
け出せないような厄介な性格だ。一人で鬱々と時間を送らせても、ろ
くなことにはならないだろう。
 曲がりなりにも規則正しく休息が取れていればまだしも、「夜が更
けるまで」一人悶々としているようなら、喝の一つも入れてここから
引きずり出すべきだ―――そう自らに言い聞かせ、建物内部に設え
られた簡素な寝室へと向かう。
 
 だが―――否。案の定というべきか……時間帯を慮って一応足音
を殺しながら伺い見た室内に、悟飯の姿はなかった。

 決して広くはない建物の内部を、ざっと見まわってみる。風呂場やト
イレ、隣接する食糧庫にも、青年の姿は見つからなかった。
 ならば、体感気温が零下40度にも及ぶこの時間帯に、悟飯はまだ、
この建物の外にいるという事か―――

 あまりにも広大な異次元空間の、中枢に位置するこの建物は、その
造作の表向きの簡素さに反して、利用者にとってなくてはならない、い
わば心臓部とも呼ぶべき場所だった。
 地球とほぼ同面積を有する空間の拠点であり座標である事は当然
として、この場所なくして、ここを修練の場所と定めた者達は、望む成
果など、到底上げる事は出来ないだろう。
 体にかかる重力までは軽減できないものの、酷暑、極寒という二極
する外気温の落差が、この室内では「薄皮2枚分ほど」防護された。
それだけで、この過酷な環境に身を置く者達は、必要最低限の休養
を取る事が可能となる。そして、長丁場を前提にしたこの空間での鍛
錬には、定期的な休息が不可欠だった。

 だからこそ、ここに入った者達は、計画的に鍛錬を重ね、効率よく睡
眠をとる。この部屋に入るのが初めてという訳でもあるまいに、その
鉄則は、悟飯もまた肝に銘じているはずだった。
 だというのに、こんな時間帯まで、何を無駄にフラフラしているのか
……これは早々に見つけ出して一喝しなければと、ピッコロは舌打ち
せんばかりの不機嫌顔で、足早に室外へと歩みを進めた。

 果たして―――建物を離れて二十歩ほどの場所で、悟飯の姿は見
つかった。
 だが、その姿を一瞥した瞬間……ピッコロは、出会い頭に叩きつけ
てやろうと喉奥まで出かかった一喝を、思わず飲み込んだ。

 文字通り、建物からほど近い場所に「転がっていた」悟飯の姿は、傍
目にも見て取れるほどに疲弊しきっていた。纏う衣服は既に見る影も
ない有様で、たった二日で何をすればここまでボロボロになれるのかと、
うそ寒い気分になる。

 この部屋に入ってから片時も休まずに、それもひたすら我が身を痛め
つけるような「精錬」を繰り返せば、こんな有様にもなるだろうか。この空
間は現実世界と比べれば桁違いの強度を誇っているから、規格外の内
気を擁した悟飯でも、外界よりはるかに気安く暴れる事ができただろう。
 それにしても、こんなやりようでは、悟飯の抱える問題はなにひとつ好
転しない。どころか、自暴自棄になって我が身を痛め続ければ、当面の
打開策であった「ガス抜き」を通り過ぎて、緩やかな自殺行為を敢行して
いるようなものだ。
 
 これはもう、ひと時も悟飯をここには置いておけない。引きずってでも
外界へ連れ帰り、真っ当な環境で休ませなければ―――そう決意も新
たに、その場に転がったままの悟飯に向かい足を進める。
 だが……目的の人物まであと数歩と迫ったところで、ピッコロは、再び
息を呑んだ。

 自分が姿を見せたことに気付かないはずもないのに、まったく反応を
示さないことを、内心訝しんでいたが……目前に迫った青年の様相に、
その理由を否応なしに思い知らされる。 
 悟飯は、単に疲弊してその場に転がっていただけではなく、意識その
ものを、失っているようだった。

 「…っ悟飯!」

 反応の返らない青年の体を腕の中に抱き起す。抵抗を示すことなく
すんなりと収まったその体は、あからさまに震えていた。

 「悟飯!」

 抱き起こし、強制的に体勢を変えられたことで、ある意味では肉体の
箍が外れたのだろう。軽く顎をのけ反らせる姿勢となった悟飯の歯元
が、辺りの空気を震わせるほどの音を立てて、鳴り始めた。
 万が一にも己の舌を噛み切りはしないかと、よもやの懸念が脳裏を
過る。間に合わせの処置にと、引き裂いたマントの切れ端で、歯の根
の合わない悟飯に急ごしらえの猿轡を噛ませ、ようやく、ピッコロは一
息ついた。

 同時に胸の内から込み上げてくる、筆舌に尽くせない程の衝動…… 

  
 零下40度の極寒だ。そんな環境で備えもなく意識を手放せば、いか
に鍛え上げた肉体であろうと、地球人―――そこにサイヤ人の素地が
まざっていようとも―――の生態には命取りだ。なんの備えもなくこの
極寒に体温を奪われれば、一般人との格差など、体力面で勝っている
程度の強みでしかない。凍死しかねないというリスクは、彼らとそれほ
ど変わりはしないのだ。

 悟飯の気質を鑑みれば、意図してこのような「自殺行為」に及んだ訳で
はないのだろう。少なくとも、ピッコロはそう信じたかった。
 それでも、こうして結果として、自らを緩やかな自殺へと追い込みかね
ない程に進退窮まってしまったのであろう悟飯の身上を思うと、どうにも
遣り切れない気持ちになる。

 とにかく、意識のない状態の悟飯を、これ以上この場所に野晒しには
できない。ひとまずは建物の中まで連れ帰り、冷気に体力を奪われてし
まった体を温めてやらなければならなかった。

 手足など、衣類に覆われていない四肢の末端部分の肌が変色を見せ
ていないことから、おそらく凍傷に冒されてはいないだろうと思ったが、
門外来のピッコロには、己の診立てが正しいかどうかも解らない。どち
らにしても体を温めてやる必要はあるだろうと、万一に備え、壊死を起
こしやすい手足の先に不用意に触れないよう意識しながら、ピッコロは、
腕に抱えなおした体を慎重に持ち上げた。
  
 意識が戻る気配もないまま、成すがままこちらに体重を預けている青
年の体から、断続的な震えが伝わってくる。互いの生態を鑑みれば不
自然極まりない事だが、地球人と比べてそれなりに体温差のあるナメッ
ク星人の体すら、今の悟飯には「暖を取れる存在」として無意識下に認
識されたらしく、腕の中で、悟飯が身を摺り寄せてきたのが解った。

 図体ばかりが大きなって、こういうところは幼少時と何ら変わらない。
意識のない分、常よりも無防備に見えるその面差しが、なおのこと、追
憶の中の幼子と腕の中の青年の姿を、ダブらせていた。
 ともすれば、感傷めいた物思いに捕らわれそうになる自らを諌めるよ
うに、腕の中の存在に向かい、馬鹿が、と短く独語する。
 それきり―――建物の中に入るまで、ピッコロは、腕の中に抱きかか
えた青年に、それがせめてもの意地であるかのように、一瞥もくれなかっ
た。







 「…っ」

 意識を取り戻した刹那、悟飯がまず知覚したのは、薄靄に覆われた視
界と、全身から伝わってくる、ピリピリとした痛みだった。
 擦過傷をそれなりの温度の湯で流されたら、こんな痛みを伴うだろうか。
それは市井の暮らしに身を置くようになってからも馴染みのある、ごく当
たり前の感覚ではあったが……何故か、それを現実のものとして認識す
るには、不自然だと感じる程度の違和感があった。

 体感しているはずの、時間軸がつながらない、とでも言い表せばいい
のだろうか。
 精神と時の部屋に入って以来、自分は現実世界ではほぼ味わうことの
ないであろう、酷暑と極寒を代わる代わる味わっていた。

 休息の場である寝室に行けば、この異次元空間における独自の時間
を把握するための「時計」もある。だが、そもそもこの部屋には、太陽の
傾きで時間の経過を把握するという、概念そのものがなかった。
 入室以来、一度も寝室に足を踏み入れていない悟飯にとって、変化を
見せない景色と色彩に支配された空間の中で、寒暖の差だけが、時の
経過を知覚する唯一の符牒だった。
   

 どうにも体がいう事を聞かなくなり、エネルギーを補給するための「食
事」は、二度ほどした。後はひたすら、自暴自棄のように「鍛錬」を繰り
返している内に、二度目の寒気が辺りを支配した。
 二日目の「夜」がきたのかと、そう認識はしたものの、やはり寝室に戻
る気持ちにはなれなくて……もう少し、もう少しと引き延ばしている内に、
いつの間にか、手足の自由が利かなくなった。
 
 零下40度という極寒の地だ。このまま凍えつき、全身の自由を奪われ
れば、最悪、凍死する恐れもある。とにかく少しでも早く建物の中に戻り、
唯一暖を取れる風呂場で体を温めなければ―――

 明確な記憶として覚えていられたのは、そこまでだった。
 形振り構わず、這うようにして建物を目指したような気もする。だが、自
分が覚えている限り、芯まで凍りつかせるあの寒気から解放されたとい
う記憶はなかった。

 体のあちこちに作った無数の傷に、湯が沁みる。急激な気温差につい
ていけなかった手足の先が、じんじんと痛んだ。
 ……そうだ。これは、現実に自分が味わっている感覚だ。ならばいつ、
どうやって、手足も利かない状態で、自分は建物の中までたどり着いた
のか……


 と、刹那―――

 「―――気がついたか」
 「…っ」

 薄靄に覆われた視界の外から、低い声が飛び込んでくる。耳朶に馴
染んだその声に、悟飯は反射的に身を強張らせた。 
 同時に、薄膜に覆われた自らの視野が、にわかに現実味を帯びてく
る。
 
 いまだにしつこく視界を遮る靄を通して、無機質な白い内壁が広がっ
ているのが解る。十年以上も昔に目にした光景は脳内で結びつくこと
はなかったが、この靄が湯気であり、自分が今いる場所が、精神と時
の部屋の内部に設えられた浴室である事を、悟飯はようやく得心した。

 前後不覚の状態であった自分が、自力でここまでたどり着き、暖を取
るための処置を解かせたとは考えにくい。それなら、今自分がここにい
るのは、外部からの助力によるものという事になる。
 とすれば……常並みに考えれば、その相手は、たった今自分に働き
かけた、耳に馴染んだ声音の主か―――

 自分のすぐ傍らで、「恩人」が介添えしてくれていることは解っている。
だからこそ、意識もなかった自分が溺れもせず、こうして暖をとれてい
るのだという事も。 
 だが……何を置いても口にするべき、謝意や詫びの言葉を述べるよ
りも以前に、顔向けできないという思いが、悟飯の胸中を支配した。

 はっきりとした時間帯は解らないが、湯気に温められた暖気の隙を
縫って浴室内に入り込んでくる冷気を感じる以上、この次元を支配す
る時間は、まだ夜なのだろう。それなら、自分がこの部屋に足を踏み
入れてから、大して時間は経っていないという事だ。

 現実世界の時間は、神殿の住人達の活動時間には、まだ早い早
朝だった。そんな中、おそらくは神殿の主である旧友が師父に報告
し、自分を気遣った師父がここへとやってきてくれた。
 ありがたい、と思う以前に、申し訳ない。ただでさえ昨夜、あれ程の
失態に巻き込んでしまったばかりだというのに、また、自分はこの人
の手を煩わせてしまった。


 「悟飯」

 いつまでもそちらを顧みようとしない自分の態度に業を煮やしたの
か、呼ばわるピッコロの声音が、幾分硬くなる。その呼ばわりだけで
己がどれほどの不義理を働いているのか身に染みて思い知らされた
が、それでも、悟飯は顔を上げる事が出来なかった。

 「…………さん…」

 せめてもの誠意を示そうと、喉奥から振り絞った応えの声は、自分
の耳にも届かない程か細く頼りない。相手の人並み外れた聴力に甘
えるような真似は卑怯だと、なけなしの矜持で腹に力を込めれば……
続く言葉は、酷く情けない抑揚を以て吐き出された。

 「申し訳……ありません…っ」

 言葉を紡ぐ側から、込み上げてくるもので視野が歪む。あれ程の失
態に巻き込み、今なお多大な迷惑をかけ手を煩わせている事を思う
と、意味を成さない詫言すら、まともな言葉となって出てこない。そん
な自らの不甲斐なさが、心底厭わしいと悟飯は思った。

 それきり、互いにかわす言葉もなく、浴室内で結露した湿気や、双
眸から意気地なく溢れ出すもので断続的に発生する水音だけが、浴
室内の静寂を乱す。

 五秒が過ぎ、十秒が過ぎた。
 互いに押し黙ったまま、共有する空気の重さに耐えきれなくなった
のは、果たしてどちらが先だったのか……浴室内に、交々の内情を
伺わせるような、ピッコロの嘆息が落ちた。
 そして―――

 「……もう介助は必要なさそうだな。のぼせないように注意して、十
  分暖を取ってから、上がってこい」


 言い置くなり、悟飯の返答も待たずに、ピッコロは湯気に霞む浴室
から足早に立ち去った。

 諾とも否とも―――悟飯には、言葉を発することが、できなかった。

  



 
  

                                 TO BE CONTINUED...

  
お気に召しましたらこちらを一押ししてやってください。創作の励みになります



 
  ドラゴンボールZの小部屋へ