DBZ「safety valve・13」






  その晩―――仮住まい先として落ち着いた神殿の一室で、悟飯はようやく、
総身から力が抜けたような心地を味わっていた。

 日中、下界で雑事に忙殺された興奮や、つい今しがた乱された感傷に、ま
だ頭の中が混乱している。到底眠れる気分ではなかったが、それでも、大き
すぎる一つの重荷を下した心は、自分でも驚くほどに軽かった。

 自分の中に渦巻くサイヤ人としての衝動は、いずれ自分が設けるかもしれ
ない自分の子孫に、受け継がれることはないという。万が一、受け継がれて
しまったとしても、それは文字通り神の力で以て、封じる事が可能だとも。

 それは、この一件において否応なく取り上げられた、自らの将来に対する
選択肢が、再び自分の手に戻ってきたことを意味していた。
 魔人ブウとの決戦から四年。以来ずっと胸襟の奥底に燻り続けてきた一つ
の懸念から、自分は解放されたのだという実感が、じわじわとせり上がってく
るようだった。

 これで自分は、この先どのような将来を選ぶことになったとしても、自分と同
じ思いを味わう子供を生み出さずにすむ。後顧の憂いを断ち切れたことが、
心底嬉しくありがたいと、悟飯は思った。
 全ては、ピッコロの采配の賜物だ。自分が雑事に追いまわされ、自分の事
だけで手一杯だった間に、師父が機先を制して立ち回ってくれたから、自分
はこうして、心弛びの境地に浸っていられる。

 界王神界に出向いてまで、あの老界王神の言質をもぎ取ってきてくれたと
聞いた。地球の神を名乗った過去を持つ師父にとって、あの閉鎖された神の
世界は、どれほど敷居が高く感じたことだろうか。
 自分達一介の「凡夫」とは桁外れな畏怖の衝動に耐え抜いての、接見であっ
た事は想像に難くない。そうまでして師父が界王神界行きを強行してくれた
のは、彼の目から見た自分の状態が、様子見を続ける猶予もないほど、切
羽詰まったものであったからなのだろう。
  
 ありがたいと思う。そして、自分が原因で、そんな心労を師父に味わわせた
ことを、心底申し訳ないと思った。
 詫びたところで、師父は鼻息一つで吹き飛ばすだけだろう。そんな暇があ
るなら自分のするべき事をしろと、新たな叱責の種を作る要因にしかならな
いのは目に見えていた。

 それならば、自分はピッコロの尽力に報いるためにも、今自分がなすべき
ことに、全力で取り組むしかない。そうして自分が求め、求められてきた結果
を、目に見える形で示すことが、彼に対しての返礼だった。

 まずは、目先の口頭試問を乗り切る事だ。そして無事一つの山を越えたら、
その時は、自分の手の中に取り戻した、自らの将来についても、自分は少し
ずつ考えていかなければならないだろう。

 数日前―――この部屋で、ピッコロを相手に取り留めもなく語った、胸の内
にわだかまる交々の屈託。その中でも大きな比重を占めてきた、「自分は自
分の将来を選べない」という命題は、ここにきて、否応なしに棚上げせざるを
得ない類のものでは、なくなった。
 強制的に選択権を取り上げられるというのも、ひどく窮屈で理不尽な思い
を味わわされるものだが、逆を返せば、その命題に関しては、「自分には選
択権も選択肢もない」という、外部への口実を掲げる事ができた。
 例えば、「どうしても伴侶にしたい相手がいる」、あるいは「どうしても自分は
子孫を設けたい」などといった、将来設計に対する強い希求の念があるのな
ら、自分はこの解放感を、手放しで喜べばそれでよかったのだろう。  

 だが、現実問題として、今の自分には、それほどはっきりとした将来への欲
求がない。目指す稼業を一心に見据えてここまで学業を積み上げてきたもの
の、ではいざその夢が現実のものとなった時、その後、自分はどう生きていき
たいのか―――そういった、具体的な将来像が、自分の中にはまだ出来上
がっていなかった。

 今はまだ、慌てる事はないのかもしれない。同世代の人間に比べ、幾分特
異な進路を選んできたという自覚はあるが、自分くらいの年代であれば、こ
れといった将来設計を描くことなく、「とりあえず進学する」「とりあえず自分に
向いていそうな仕事を選ぶ」程度の感覚で、次の進路を選択する者は大勢
いるはずだった。
 一生の問題だ。早く結論を出せばそれでいいというものではない。自分は
自分のペースで、じっくりとこの先の事を考えていけばいいとは思うが……
かと言って、いつまでも先送りにしておくわけにはいかない命題であること
も、確かだった。

 まずは口頭試問を終えて、念願であった博士号を手に入れて―――そう
して、自分を取り巻く環境が落ち着いたら……


 全てはその後の事だと結論付けて、踏ん切りをつけるかのように寝返りを
打つ。明日からの工程に備えて、少しでも体を休めておかなければならな
かった。

 『……自分の子孫、か……』

 幾度目かの寝返りの末、高ぶっていた気持ちも静まってきたのか、ようや
くぼんやりとした睡魔の波が押し寄せてくる。じわじわと四肢が重くなってい
くのに身を任せながら―――眠りに落ちる寸前の最後の意識で、悟飯は、
そんな事を考えていた。







 翌日からの数日間は、文字通り戦争のようだった。

 口頭試問に臨む悟飯が用意した資料に、大量に入れられた「赤」を修正
し、それによって変更の必要が生じた図解などの装丁を、一から組み立て
直す。そうして必要書類を整えながら、同時進行で、試問を受ける「ホスト
役」としての準備も、悟飯は進めていかなければならなかった。

 学外受験を受け入れているほど大掛かりな規模の試問であるだけに、
会場の設営、受け持ち時間の割り振りなどは、全て学部の事務局が采配
してくれる。それだけでも、会場となる会議室、講堂等の手配から始めなけ
ればならない事もあるという、他院の博士学生よりは、自分は恵まれてい
た。

 それでも、人には得手、不得手がある。
 例えば、試問を受ける事になる選考委員会の教授連に対し、ホスト役で
ある自分がどこまでの「もてなし」をすればいいのか、悟飯には皆目見当
もつかなかった。
 人数分の飲料を用意しておけばいいのか、それとも、選考が長時間に
及ぶ事態を想定して、軽食程度は手配しておくべきなのか。

 博士学生によっては、試問会場であるという弁えと慎みを逸脱しない程
度に、程度な会場装飾を施す者もいるという。もちろん、そういった「もて
なし」が試問の合否に直接の影響を与える事はないだろうが――それを
容認し、行き過ぎた「もてなし」が横行すれば、現行の口頭試問というシス
テムが崩れてしまう――やはり、選考を受ける立場にある以上、教授連
からの心証は、少しでもいいに、越したことはなかった。

 とはいえ、ホスト役としての立ち回りなど、やはり、試問の本筋の合間に
問われる、いわば「おまけ」のようなものだ。肝心要なのは発表される論
文の趣旨でありそのためのプレゼンテーションなのだから、本筋を外れた
「もてなし」にまで、師事する教授や先達は、そうそう本気で取り合っては
くれない。

 『そう堅苦しく考える事はないよ。選考委員の教授の中には、そういう事
  をされるのを好まない方もいるし、逆に好感を持って下さる方もいるん
  だ。教授連全員に、それぞれ違うおもてなしって訳にもいかないだろう?
  どちらかが立てば、どちらかは立たないんだ。ま、せいぜいが皆様並
  み?ってことで、いいんじゃないか』
 『まあ、初めての試問だからいちいち悩むのも無理はないがね。そんな
  ところにまで神経を張りつめていたら、参ってしまうだろう。私としては、
  本筋に関係ないところは人並み程度にあしらって、プレゼンの進行の
  方に全力で当たってもらいたいね』

 人並みでいいのだ、と、口をそろえて彼らは言う。人並みの事をしておけ
ばいいのだから、そこまで悩む問題ではないだろう、と。
 その「人並み」が……自分には解らないから、問題なのだ。   
 
 事あるごとに、張り合ったり、あるいは相談し合ったり―――そういう同
世代の存在が身近にいないまま過ごした自らの成長期を、引け目に感じ
たことは一度もない。他の生き方を望んだり、自分の生き様を恨んだりし
たことも。
 今振り返っても常軌を逸していたとしか思えない、ああした経験の積み
重ねが、今の自分を作った。例え市井では風変わりな存在と噂されても、
この自分のまま、望む生き様を貫いていけばいいと思う。

 だが―――こうして一介の学生としての時間を重ねていくにつれ、自分
と自分の周りの存在との差異を、突きつけられる瞬間が増えていく。
 「そんな事」と周囲が失笑するような事が、市井での生活の経験値が圧
倒的に不足している自分には、解らない。今回は、先達の言葉通り、試問
の結果を左右するような問題ではないのだろうが……ある種の派閥社会
である学会に籍を置く学者稼業を目指す自分にとって、この命題は、いず
れ己の足元を掬いかねない障壁になるように思えた。
 
 このまま平和な世界で、「当たり前」の日常を送り続けていけば、いつか、
自分にも市井の暮らしにおける様々な機微が、実感として理解できるよう
になるのだろうか。
 それは、かつて世界を恐怖に陥れたという大魔王の分身であるあの師
父から、自分の身の内に寝る戦士としての素養を見出され、それを具現
化させるための鍛錬を強いられた少年の日と同じくらい、今の悟飯には、
難解で見通しのつかない煩労であるように思われた。
 

  


 それから、更に数日が過ぎた。

 予定されている口頭試問の日程まで十日と迫り、試問に臨む博士学生
として、整えるべき準備の大半は終わった。後は来たるべき試問の日に
備え、心身とも万全の状態を保てるように、気を抜きすぎることなく生活
を正していけばいい。

 ここまで漕ぎ着けるまでの間、天上の神殿と下界のグラジュエートス
クールとを往復しながら、可能な限り時間を詰めて、準備を進めてきた。
 ようやくその目途も立ち、一息つけるようになったというのに―――こ
れまで寝食に充てる以外、殆どの時間を費やして準備に集中してきた
からなのか、ずっと対外に向けて張りつめていた気持ちが、なかなか元
に戻らない。
 試問に用いる資料も当日の段取りも、ようやく教授のお墨付きをもらっ
て準備作業から放免されたのだ。一度気持ちをほぐして頭を休め、英
気を養った状態で試問当日を迎えるべきなのに、こんなもやもやした、
ささくれ立った気持ちを抱えたままでは、公私の切り替えもままならな
かった。

 休めるべき時にはしっかりと心身を休めておかないと、有事の際に思
わぬ瑕疵を招きかねない。だからたかが休養と思わずに、しっかりと公
私を切り替えろと、幼かった修行の日々にも、師父から口煩い程に指
南を受けてきた。
 日中どれほど厳しい訓練に音を上げ、心が折れそうになっても、師父
の教えを守り、しっかり空腹を満たし、夜には眠った。ほんの子供の頃
でさえ実践できた習慣だ。あの頃よりもよほど気力体力に長じた今の自
分が、できないはずはない。
 
 だが―――神殿で待つ師父に、今日一日の出来事と今後の予定を
簡単に報告し、早々に引き上げた「自室」の寝台で、悟飯は、もう二時
間近く、まんじりとも出来ずにいた。

 体は疲れているはずなのに、神経が高ぶって眠気が訪れない。何も
考えず、頭を空にしようと思っても、日中、下界で体験した交々が脳内
にフラッシュバックし、そこで追体験させられる衝動に、いちいち気持ち
が乱された。

 人中で立ち動けば、人と交わる分、大なり小なりの軋轢が生まれるも
のだ。そんなものは今に始まったことではないし、いつまでも引きずる
ようでは、到底「村社会」ではやっていけない。
 解っていて、それでもしつこく思い返されてしまうのは、元来人付き合
いに秀でているとは言い難い自分の感情が、平時にも増して、ささくれ
立っているからなのだろうか。このままでは、延々フラッシュバックする、
外部からの「些細な悪意」に振り回され、自分は不毛な堂々巡りの挙
句、夜明かししてしまいそうだった。

 明日の予定は入っていないから、最悪、このまま夜明かししてしまっ
ても、大勢に影響はない。それでも、あからさまな寝不足顔のまま明日
顔を合わせたら、師父はきっと、なにを一人で悶々としていたと、自分
を叱責するだろう。

 下界からの連絡用にと、枕元に備え置いていた携帯電話を取り上げ
る。液晶画面に表示された時刻は、このまま一人夜明かしをするか師
父に「助力」を求めるか、今が、選択できるぎりぎりの時間帯であること
を示していた。

 このまま不毛な夜明かしをしたと知られ、師父に余計な気遣いをさせ
たくないという思いと……後は、何故すぐに声をかけなかったという師
父の怒声を聞きたくないという僅かばかりの怖じ気が、相俟って背中を
押す。
 踏ん切りをつけるかのように、もう一度携帯電話の液晶画面を眺め
―――数瞬後、それまで所在無げに寝返りを繰り返し、申し訳程度に
纏っていた掛け布を、悟飯は思い切りよく蹴り上げた。



 

 一度は辞去の挨拶と共に自室に引き上げた悟飯からの、唐突な手
合わせの申し入れに、ピッコロは、これといった反応を示さなかった。
 ただ一言、そうかという応えと共に、久しぶりに体を動かすのだから
しっかり体をほぐして温めておけ、と忠告される。
 
 もう夜も更けた時間帯だというのに、ピッコロは、悟飯からの申し出
を待っていたかのように、神殿の外壁近くで瞑想をしていた。決めら
れた生活サイクルをきっちり守る事を習い性としているような人だか
ら、あるいは、悟飯の気の乱れでも感じ取って、来たるべき時に備え
ていてくれたのかもしれない。
 手間をかけさせて申し訳ないという思いと、やはりこの人には頭が
上がらないという面映ゆさに多少の居たたまれなさを覚えながら、悟
飯は事もなさそうな語調でなされた師父の忠告に、神妙に頭を下げ
た。




 神殿の主であるデンデの就寝時間も考慮し、始めに三十分と時間
を区切り、手合わせは開始された。

 ここしばらくの悟飯のオーバーワーク振りを鑑みてか、繰り出される
ピッコロの拳は常よりも幾分軽い。甘く見られているというよりは、そ
の程度の配慮が必要なくらいに、今の自分は体が鈍っているという事
なのだろう。
 武道を己の生業とせず、長年かけて叩き込まれてきたものを錆びつ
かせてしまった不肖の弟子だ。現存の戦士であり続ける師父との鍛錬
にはいつでもある種の申し訳なさが伴ったが、ここまであからさまに彼
が手を抜くのは、珍しかった。

 三週間ほど前、身の内にわだかまる衝動に己の限界を感じてこの
神殿に避難した際、師父は、自分を落とすことだけを狙って手数を仕
掛けてきたきらいがあった。だが、その目的がなければあの時も、今
と同じような手合わせが行われていたのだろう。 

 これでは本当に、自分のガス抜きのみを目的とした発散行為だ。
相手の鍛錬にもならない手合わせに、何度も師父を付きあわせてい
るという事が、申し訳なく、情けない。

 この神殿でも、下界でも、自分は自分の中から生み出される衝動
に振り回されてばかりだ。
 「日常」の中には、大なり小なりそれなりの鬱積の種がそこかしこ
に転がっているものだ。人は誰でも―――飄々と日々を送っている
かのようなあの父でさえも例外ではなく、そうした精神的な負荷との
折り合いをつけながら生きているのだろうに、それも満足にできなく
なっている自分の不甲斐なさが、苛立たしかった。

 もう少し、もう少しと自分に甘え、いつでも助力の手を惜しまない、
この師父の厚意に依存しながら、自分はこの先も生きていくつもり
なのだろうか。 博士号取得の暁には、それを足がかりに学者稼業
業で生計を立てる、独立のための第一歩を踏み出そうとしているの
に、これでは、社会人としての自覚も覚悟も、あまりにも心許なさ過
ぎた。

 このまま目指す道を志していけば、自分を取り巻く環境において、
派閥社会であるが故の対人関係の柵は、おそらくは、世間一般的
な「勤め人」と比較しても、深刻さの度合いが重くなる。まずは「実力」
ありきの世界とはいえ、いつまでも人中での立ち回りに尻込んでい
るようでは、将来の同僚候補達に対し、大きく出遅れてしまうのは否
めなかった。
 馴染んでいくしかない。新たな環境に、自分が適合していくしかな
い。そうして少しでも早く、自分は自分を、いっぱしの生計を見込め
るだけの有識者へと、育て上げなければならないのだ。
 
 それに―――今は辛うじて周囲から容認されていても、将来自ら
の家庭を持ち、家族を養うべき責任を背負う立場となった時、下界
での「些末な」衝突の度に、この神殿に逃げ込んで、ほとぼりが冷
めるまで身を潜めているなど、「世帯主」として許されるはずがない。
独立した暁には、自分こそが、自分の身内に対し、身を寄せられる、
よすがであらねばならないのだ。

 だから、強くなければならない。いつか独り立ちするその日の為
に、よすがとしたこの場所を……師父の厚意を、ただの逃げ場所
にしてはならないのだ。
 いつの日か―――子孫を設け、この血脈の枝葉を広げる事を、
少しでも望むなら……







 と、刹那―――

 「……っ」

 手合わせを続けていたピッコロの繰り出した拳が、思いのほか至
近距離に迫り、防戦する悟飯の頬を掠めた。

 余所事に意識が向いて、手合わせに集中できていない自分の状
態を察し、喝を入れる意味もあったのかもしれない。二度、三度と至
近距離から繰り出された師父の拳圧は、心ここにあらずと窘められ
ても弁解できない悟飯の背筋を、ヒヤリとさせた。

 自分から手合わせを願い出ておきながら、これ程に礼を逸した行
いもない。そもそも、この師父と出会った幼少時から、鍛錬に臨む
際の心構えとして、眼前の相手に集中することの重要さを、自分は
心身ともに叩き込まれてきたのだ。

 こんないい加減な状態で、師父に相手取ってもらうのは余りにも
失礼だ。折角時間を割いてくれた師父の厚意を疎かにしない為に
も、そしてこの手合わせを望んだそもそもの当て所のためにも、今
は余計な懸念事など頭から追い出して、この一手に集中しなけれ
ば……

 防戦の構えから一歩を踏み出し、反撃の糸口を探るべく、再び
迫りくる師父へと向き直る。迎え入れ、受け流した相手の攻撃の
勢いに乗じて反撃の一手を繰り出そうと、悟飯は、前傾姿勢へと
体重を移動した。  
 だが―――ピッコロのような手練れを相手に巻き返しの契機を
図るには、悟飯の行動は、ほんの僅か、手遅れだった。

 時間にして、僅か一呼吸にも満たない、刹那の後れ。それだけ
で、この一手の明暗を分けるには、十分すぎた。

 「…っつ!」

 待ち受けていた反攻の拳を紙一重で躱し、勢いを殺されること
なく、ピッコロの拳が悟飯の頬に叩き込まれる。ようやく弟子がや
る気を出したと感じたのか、仕掛けたピッコロの口角が、わが意
を得たりとばかりにたわめられた。
 平素から日常的に繰り返されてきた、「手慣らし」の一齣だ。どち
らに軍配が上がっても苦笑いの一つで済ませられる、取るに足ら
ない駆け引きであるはずだった。

 だが―――ここで、双方ともに、予測もしていなかった、一つの誤
算が起きた。
 拳を形作って繰り出したピッコロの拳が……有体に言うなら、拳
を握りしめたその親指の爪先が、インパクトの瞬間に、打擲した悟
飯の皮膚を傷つけたのである。

 実戦形式の手合わせにおいて、細かな生傷など、珍しい事では
ない。双方がそれなりの気勢で以てやり合うのだから、些細な傷を
付けあうことなど、文字通り「お互い様」で片付けられる問題だった。
 だが―――

 
 攻撃の勢いに引きずられたかのように、僅かに切り裂かれた悟飯
の頬の傷から、ピッコロへと返り血が飛ぶ。
 ほんの数滴過ぎない青年の体液は、しかし、付着したピッコロの体
色と相俟って、ひどく鮮烈な色彩として、悟飯の目には映った。

 それが―――双方とも予測すらしていなかった、大きな誤算の引き
金となった。



 
 「……・悟飯?」

 それきり動きを止めてしまった悟飯を訝しんで、攻撃の手を引いたピッ
コロが、探るように、その名を呼ぶ。幼少の時分から耳に馴染んだそ
の呼び声は、確かに悟飯の耳に届いていた。
 届いてはいたが……大丈夫だと、そう声に出して応える事が、悟飯
にはできなかった。

 師父の剥き出された鎖骨辺りに、飛び散った自分の血糊。相手の体
色によって強調されるその鮮烈な色差しから、目が離せない。

 「悟飯?……おい、どうした?」

 気遣わしそうな師父の呼び声が、どこか耳に遠く聞こえる。まるで眩
暈でも起こしたかのように、目に映る己の血糊以外の一切が、自分の
知覚できる世界から遠のいていった。
 一足飛びに跳ね上がる鼓動。息を乱す程の脈動に引きずられるよう
にして、体内で爆発的に膨れ上がっていくある種の衝動―――

 この二月近く、断続的に現出しては悩まされてきた、止め処のない破
壊の衝動。これまで騙し騙しどうにか抑え込み受け流してきたその衝動
が、限界を越えてはち切れたような心地だった。


 
 ―――自分には壊せる。自分にならば、壊せる。
 息詰まるような、現実社会での柵。あまりにも馬鹿馬鹿しい、村社会を
生きるための、益体もない不文律。
 くだらない、馬鹿げている。いざ有事の発生した際、物理的な効力すら
持たないそんなものが、自分のこの先を値踏みするほどの、どれだけの
価値を有しているというのだろう。
 これ程に不本意な「型」に自分をおしこめなければ、自らの将来すら手
に入れられない、そんなものが、傾倒すべき日常であるというのなら……


 ―――壊してしまいたい……

 「…っ」


 それは、悟飯の腹の底から湧き上がってきた、衝動だった。そして幼い
頃あれ程に厭悪した、地球を蹂躙せんと来襲した「サイヤ人」達の内包す
る、侵略の歴史を物語る弑逆性だった。
 自らをも滅ぼしかねない危険思想であると、子供の頃の自分が総毛立
つ程に嫌悪したサイヤ人としての種の本能が、今、一つの実感となって、
胸襟に沁み渡っていく心地がする。
 ―――底なしの破壊衝動に、総身が飲み込まれていくようだ……


 「…っ…ぁ…っ!」
 「悟飯!おい悟飯!」

 喉奥から込み上げてくる、獣じみた呻り声が、自分の意志で抑えられな
い。
 泡を食ったように自分を呼ばわる師父の大呼と、箍が切れたように吐き
出された自らの咆哮が、神殿の空気を同時に震わせる。
 限界まで膨れ上がった衝動の捌け口を求めて、それまで抑え込んでい
た内気が体外へ溢れ出ようと荒ぶるのを―――もう、悟飯は自制するこ
とができなかった。

 我を失うほどの衝動が、制御不能な気弾となって、体外へと放たれる。



 加減のない気弾が発する光量に、自らも、束の間網膜を焼かれながら
―――白濁する視界の片隅で、最後に知覚できたのは……至近距離か
ら放たれた気弾に弾き飛ばされた、翠緑色の片腕だった。




 
                              TO BE CONTINUED...

  
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