ピッコロの予想通り、下界での所用を片付けた悟飯が天上の神殿へと戻ってきたのは、既に
下界が黄昏時を迎えようという時分だった。
界王神界での接見によって、新たな屈託の種を植え付けられたような落ち着かない心地を胸
の内に押しこんで、半日以上を下界の喧騒に揉まれてきたであろう青年を迎え入れる。
案の定というべきか―――悟飯の内気は、朝方神殿を出立した時よりも明らかな乱れが感じ
られた。口頭試問の段取りは悟飯一人の都合で進められるものではなく、多くの協力者とのす
り合わせが必要だと聞いている。その過程において、それなりの「衝突」があったのだろうと、門
外頼のピッコロにも、容易く想像がついた。
そうした共同作業が不可欠な界隈である事も、この先の「学者稼業」を盤石にする為にも、人
脈を太くしておくことの重要さは、悟飯本人が十分に承知していることだろう。ピッコロとしても、
今更青年に訓戒じみた助言など必要ない事はよく解っていたから、外見にも疲れを滲ませて帰
還した青年を、彼は、一言労うにとどめた。
初日から白熱した意見の応酬で予定が押し、協力者達と遅い昼食をとってきたという悟飯の為
に、軽食を用意してやる。ようやく戻った「家」で人心地つき、日中の緊張から解放されたらしい
悟飯は、茶器を煽って喉を湿すと、早速ピッコロに、今日一日の下界でのあれこれを、幾分与太っ
た口調で「報告」し始めた。
「―――それで、今日は僕の用意していった資料のチェックと、大まかな進行の確認をやってき
たんですけど……もうとにかく約束事が多すぎて、駄目出しの嵐です。論文の方は、形式って
だいたい決まってますし、後は言葉の誤用がないかとか、そういうところを注意すればそんな
にとっかかり難いってことはないんですけどね。むしろ、試問に使う資料の方が、実地でガンガ
ン突っ込まれる分形式に煩いみたいなんです」
「ほう」
「表現に気をつけるとか、そういう部分は解るんですけどね。ちょっと曖昧な書き方をしただけで、
それこそ試問会場で集中砲火を浴びかねないって聞きますし。……ただ、それって本当に必要
なのかって拘りが多いんですよ。例えば、「通り」とか「頂く」とか、そういう言葉は漢字を開けと
か。もちろん、そう言われれば直しますけど、こういう文章の約束事として丸覚えしろって言われ
ても、その根拠ってなんなんだ、とか思ってモヤモヤしちゃって……」
「確かに……くだらないな」
高度に専門的な教育機関で学ぶ悟飯の、日常的に身を置く「現場」がどういったものであるの
か、ピッコロには、悟飯の語る言葉を介してしか想像できない。それでも、青年が与太った口調で
こぼす「約束事」に関しては、思わず本音が漏れた。
深く考えるでもなく口をついた相槌に後押しされたのか、悟飯が、そうでしょう、とピッコロに向かっ
て身を乗り出す。
「そう!くだらないんですよ!……そりゃあ、試問の会場には院外ばかりじゃなくて、院内の、と
いうか、僕のついている教授の対抗派閥からの「刺客」だって同席する訳ですから、慎重に慎
重を期すべきだってことは解るんです。僕が会場で集中砲火を浴びても、教授は多少の助け
舟を出せるのがせいぜいで、基本、オブザーバーの立場でしか動けないし。僕が自分で何と
か乗り切るしかないのに、結果として大コケでもしたら、最後には全部、教授の不名誉ってこと
になるんですから。準備段階から、不安の芽は刈っておかなきゃっていう気持ちは解るんです」
内心ピッコロをたじろがせるほどの勢いで食いついてきた青年の語調が、語るにつれて次第に
語勢を失っていく。陳情の締め括りであるかのように、派閥の名誉のために試問を受ける訳じゃ
ないのに、とこぼした悟飯は、一つ大きく嘆息した。
「……まあ、今更そんな理想を言ってみたって始まらないんですけどね。現実問題として、この
試問を通らない事には博士号は取れないんだし、僕が手を挙げて臨む事は変わらないですし。
結果として、教授や研究室の実績に貢献できるなら、そこの人間として言うことないわけだし。
でもなんだか、こうスッキリしないというか……」
言うだけ言って、ひとまずは気が済んだのか、悟飯は一言、やめやめ、と呟くと、食事の席の不
躾にならない程度に加減した動きで、踏ん切りをつけるかのように伸びをした。
「―――すみません、切り替えます。あれこれ文句を言ってみたところで、試問を受ける立場の
僕に、大勢を変える権限なんてこれっぽっちもないんだし、不毛なだけですよね。明後日には、
赤の入った手直し分のチェックを受けて、どんどん予定を詰めていかなきゃいけないんだし、
時間は効率よく使わないと」
こんな愚痴に付き合ってもらって、すみませんでした―――言って、手にした茶器の残りを一息
に煽った悟飯が椅子から腰を浮かせた。当面の仮住まい先となった神殿の一室に戻り、先刻運
び込んだ私物の整理でも始めるつもりなのだろう。
試問の準備が始まったからには、そうした雑事は早々に片付けて、少しでも時間を作りたいで
あろう悟飯を、ピッコロは一旦はそのまま見送りかけたが―――ふと、思い至ったように、踵を返
しかけた青年の背中を呼び止めた。
「……ああ、一つだけいいか、悟飯」
時間がないところ、すまんな、と続けられた言葉には、言葉面程に深刻な響きは感じられない。
振り向いた悟飯も、気負うでもなく、気安く相槌を打った。
緊張の気配も感じさせない空気の中、それこそ明日の天気の話でもするかのような気軽さで、
一応お前の耳にも入れておくぞ、と仕掛人が口火を切る。
「―――今日、お前が下界に行っている間にな。俺も、神殿を空けていた。お前の父親に付き
合ってもらって、界王神界に行ってきたんでな」
瞬時に顔を強張らせた悟飯の表情が、その味わわされたであろう衝動を物語る。そんな青年
に、殊更事もなげな口調で、ピッコロは、孫には送迎を頼んだだけで、あいつが同席したわけじゃ
ないがな、と続けた。
「俺が界王神界まで出向いたのは、お前が察した通りの理由からだ。このままでは埒が明かな
いからな。大界王神様にお目にかかって、今後の為に打てる手は本当に何もないのか、伺っ
てきた」
「…っ」
「結論としては、お前から聞かされていた内容と、大差なかったがな。具体的な打開策もなしで
は、送迎役の孫にも何も話しようがない。先日お前が大界王神様にお目にかかった節の経過
報告という事で、あいつは納得させたんだが……」
固唾を飲むようにして続く言葉を待っている青年に向かい、彼が彼の父親に対して抱いている
懸念事項の最たるものであろう、「悟空には何も知らせていない」という言質を、幾ばくかの捏造
を織り交ぜた「事実」として示してやる。そうして、目に見えて安堵の色を見せた彼の誤認を正し
てやることなく、ピッコロは、この青年に、今一番伝えてやりたかった言葉を続けた。
「……そういう訳で、お前自身の現状については、進捗なしという事になってしまうんだが……
一つだけ、大界王神様が、確約を下さった。それを、お前にも伝えておく」
「ピッコロさん……?」
「つい先日、お前は言っていたな。サイヤ人と地球人の混血である自分がまた子孫を設けた
時、自分の抱える血の衝動が、その子供に受け継がれはしないかと。それを考えれば、自
分は子孫を設けるべきではないのではないか、と」
「……はい」
「その事だが……」
言って、ピッコロは、一つ息をついた。
これから自分が語る言葉が、界王神界で得た真実の全てではない。だが、地球人としてもサ
イヤ人としても、その種族の感覚に準えれば、定命が尽きるまで、この先まだ長い時間を生き
る悟飯にとって、この言葉は、その半生を支える確実な介添えとなる。
僅かな齟齬もないように、過たず真相が伝わるように……自分はこの宣告に、彼の半生を
補填できるだけの責任を持たなければならなかった。
「―――悟飯。お前が今悩まされているその衝動は、お前が後天的に背負ったものだ。だか
ら、お前の子孫に受け継がれることは、ないだろう、と」
「…っ!」
「もし、万が一にも受け継がれてしまったとしても……お前が持って生まれたわけではない
ものを、封じる事は容易いそうだ。ことが発覚した時に、その子供を界王神界に連れて行
けばいい。ただ、お前の中の衝動を封じられないのとは逆に、お前の子供に課した封印を、
後から解放することもできないそうだ。どうするかは、その時によく考えるようにと、おっしゃっ
ていたが……」
「ピッコロさん……」
ともかく、と一旦言葉を切り、ピッコロは自分に向き直ったままの体勢で、そのまま立ち尽くし
ている青年の姿を正面から眺めやった。
極度の緊張に強張った表情。元来色素が濃いとは言えない容色は、今日一日下界で積み重
ねてきた心身の疲弊も相俟って、血色を失って見えるほどに沈みくすんでいた。
人知を超えた采配に後押しされ、当人の望むと望まざるとに関わらず、文字通り、地上の何
人たりとも追従を許さない、圧倒的な潜在能力を生涯内包したまま、生きていくことを強いられ
た青年。その容易くはない道のりに挑ませるべく、言霊を与えてその背を押してやるのが、自分
に課せられた役割だった。
「ともかく……「そうなれば、その時に対処すればいい」ということだ。後からどうとでも手を打
てることを、事が起きてもいない内から、あれこれ悩んでみたところで時間の無駄だ。解っ
たら……」
そこまで口にして―――自らの背負った責任に対する気負いと、自身の気質に余りにもそぐ
わない役回りをしているという多少の面映ゆさに、目的とする言葉を一息に言い切ろうとしてい
たピッコロの目論みは、失敗した。そして、この言霊が過たず青年の胸襟に届いた事を、確信
した。
「―――解ったら……今、お前がすべきことに集中しろ。時間がないと言っていただろう。自分
の限界を見極めて、悔いを残さないように、全力でお前の「戦場」を戦ってこい。自滅しない
ための戦い方も、余力の残し方も、俺は教えたはずだ。そのための環境も与えてやった。お
前にできないはずはない」
「……はい」
「衝動を持て余した時は、下界でどれだけ用事に追われていようが、何を置いてもすぐここに
戻ってこい。いつでも捌け口になってやる。これだけお膳立てを整えてやったんだ。限界を
見失ってまた暴走なんぞしやがったら承知せんからな」
「……はい」
「……このくらいの事でいちいち泣くな」
尻すぼみに小さくなっていく応えと共に、完全に顔を伏せてしまった青年の喉奥から、不自然
な頻度で息を呑みこむ音が漏れ聞こえてくる。それきり言葉を失ってしまった、頭一つ分上背の
低い青年の額を、ピッコロは己の胸元に乱暴に引き寄せた。
青年から聞かされていた懸念の一つが、これ程に根強く彼を苛んでいたのかと、今更ながら
に痛ましさが去来する。そして、仮想の未来に対する言質一つでここまで揺れるほど、今の悟
飯がこれ程に不安定な状態にあるのだという事を、今更ながらに、思い知らされた心地になった。
ともあれ、これで悟飯は、後ろ髪引かれることなく、当面の問題に集中できるだろう。後は、発
作的に訪れる彼の中の衝動を上手く発散させるように、自分が悟飯の動向に気を配っていれ
ばいい。
そんな風に、青年の歩むべき未来への道標が少しずつ確保されていく事は、ピッコロにとって
も望ましく喜ばしい事だった。
だが……
『好意でも、悪意でもな。それがそいつから見て万人向けの度合いを過ぎりゃあ、懸想じゃよ』
決死の覚悟で出向いた界王神界で、人知をはるかに超越する絶対神から下された言辞がふ
と脳裏を過る。
好色老人の戯言と、受け流すことのできなかった老界王神ののんびりとした物言いが―――
開かれた自らの未来に安堵の涙を見せた青年の感泣顔と相俟って、ピッコロを、言明できない
居心地の悪さを味わわせていた。
TO BE CONTINUED...
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