吻合~a soothing place







  孫悟空が、死んだ―――


 地上殲滅を目論む最凶の人造人間、セルとの死闘に次ぐ死闘の最
中、勝機を逸したと悟ったセルが繰り出した最後の禁じ手―――地球
そのものを巻き込んだ、自爆攻撃から地上を守るための、「殉死」だっ
た。
 残された者達の衝撃と悲嘆は、計り知れないものがあった。地上最
強と謳われた、心優しく破天荒な戦士の喪失がもたらす、未来への惧
れも筆舌に尽くせない。ただ一人の存在を失ったことで、彼らの覇気は、
火が消えたように衰えていった。

 だが、生ある以上、人はその営みを止める訳にはいかない。件の青
年の喪失の痛手はそのままに、これまでその命運を共有してきた同
胞達は、自らの生活を成り立たせなければならなかった。


 そして、更に二週間―――一通りの供養が終わり、外敵を退けた地
上は表向き、平穏な日常へと立ち戻りつつあった。
 だが、共に戦い抜いた同朋以上に、儀式などでは気持ちに区切りを
つける事ができない存在もいる。

 家長の葬儀および追善供養からおよそ半月が過ぎても、孫家に残さ
れた遺族達は、世間から強制的にまき直しさせられ始めた「日常」に、
いまだ馴染めない日々を過ごしていた……









 
 父親の死から半月―――悟飯は、残された母親の側から極力離れ
ないよう、意識して生活していた。

 葬儀やその後の法要など、喪主として雑事に追われ、母と連携して
動かなければどうにもならなかったという事もあったが、なにより、母
親を一人にすることが不安だったのである。
 父の存命時は、母の関心はまず自分に向けられることが殆どだった。
「親というのはそういうものだ」と聞かされ、そんなものかと思っていた
が……父の死を伝えた際の母の様相を一部始終見届けた時、夫婦と
いうものは子供の目線からでは見えない絆で結ばれているのだという
事を、おぼろげながら理解したような気がした。そして、それが遅きに
過ぎた認知であったという事も。

 今更どのように悔やんでみても、自分の失態の尻拭いをして父が鬼
籍の人になったという事実は覆しようがない。それならばせめて、残さ
れた母の為に、自分が精一杯の助けにならなければと、悟飯は自分を
戒めていた。

 だが、立て続けに訪れていた弔問客もひとまずはなりを潜め、必要な
仏事も一通り営んでしまった途端、母は、気が抜けてしまったようにぼ
んやりする事が多くなった。
 何かすることはあるか、してほしい事はないかと折に触れ訪ねても、
どこか心ここにあらずといった風情のまま、「悟飯ちゃんがそんな事を
気にすることはねえだ」と、申し出をやんわりと固辞されてしまう。そう
やって、どこかに心を置いてきてしまったかのような母の姿を見ている
事は、父の死を知らされて泣き崩れた彼女を宥めた時よりも、胸に堪
えた。

 表向きは静謐とした、しかし、ひどく活気に欠けた日常が、積み重なっ
ていく。
 そんな風に、隠場の見つからない日々の繰り返しに、悟飯は、自らの
進退について、本腰を入れて考え始めていた。
 そして、その水面下で―――ひそやかに、しかし確実に。彼の体には、
そのとき既に、一つの異変が生じ始めていた。
    
  










 「……っ!」


 その「夜」―――天上にそびえる神殿で単身瞑想に耽っていたピッコ
ロは、突如感じた、自分の背を叩かれるようなある種の衝動に戦慄した。

 地上の新たな神として、研鑽を始めたばかりのナメック星人の少年を
補佐する日々を送るピッコロは、これまでのように、下界との間で気楽
に行き来をすることが難しい立場になった。少なくとも、自分が補佐する
新たな神が、この地球という環境に慣れるまでは、何を置いても彼を優
先して行動するべきだという気構えがある。
 故に、これまで付き合いのあった同朋達がここまで足を運ぶ分には差
支えなくても、自分からこの場を離れる事には相応の抵抗があった。当
然、有事の際にはその限りではなかったが。

 そして今―――遥か眼下に臨む地上から、何らかの異変を予期させる
ような、激しい気の乱れをピッコロは感じていた。
 ひどく攻撃的な……それでいて、中核となるものが定まらずに揺らいで
いるかのような、乱れた気―――それは、ピッコロもよく知る、下界に暮
らす少年の持つものと酷似していた。

 「……悟飯…?」

 ナメック星人であるピッコロは、生来の戦闘民族であるサイヤ人程には、
相手の「気」を感知する能力に秀でていない。故に僅かな気の乱れなど
といった機微には明るいとは言い難かったが、そのあまりに馴染みのあ
る気が、平時と比べて不自然な揺らぎを見せている事は、否みようがな
かった。

 下界を眼下に見下ろす神殿外壁の縁付近まで移動し、対象と定めた
少年へと意識を集中する。どうやら悟飯は今、かつて修行の地として自
分と暮らしたこともある無人の島へと、足を運んでいるようだった。
 
 セルゲームが終了し、戦いに関わった者達が各々の居場所へと散り
散りに別れた際、時々神殿に顔を出してもいいかと尋ねてきた少年。し
かしその後結局、彼がこの神殿を訪ねてきたことはなかった。

 異種族の自分にはその機微が理解できない、故人を偲ぶ法要などが
しばらく続くと聞いていた。故に、雑事に忙殺されているであろう彼や彼
の母親の邪魔にならないよう、こちらから行動を起こすことは控えるべ
きだろうと、意識していたのだが……
 この気の乱れ様は尋常ではないと、ピッコロの脳裏で警鐘が鳴る。杞
憂で済めばそれに越したことはないのだからと、彼は、即座に行動に移っ
た。


 既に就寝しているデンデの世話をミスター・ポポに託し、神殿の縁を蹴っ
て地上まで一直線に下降する。眼下に広がる雲海を抜け、高度を下げて
いくに従い、今夜が満月である事に、遅まきながらピッコロは気付いた。 








 少年の発する不安定な気の波動を辿りながらピッコロがたどり着いた
のは、天上で感知した通り、彼にとってもある種の郷愁を抱かせる場所
だった。


 四方を海に囲まれ、外界との接点の一切を遮断した、他に訪れる者も
ない無人の荒野。この未開の地で、自分はかつて、件の少年と一年近
く、寝食を供にしながら修練の日々を過ごした。

 ある意味では、これ以上心象に強く刻まれた時間もなかったが、目的
が目的であっただけに、後からしみじみと浸りたくなるような記憶でもな
いだろう。なのにこのような便の悪い場所を、敢えて目指そうとした少年
の腹積もりが、ピッコロには解らなかった。

 ともかく、自分がたどり着くのに先んじて、悟飯がこの荒野にやってき
たことは間違いない。まずは合流して少年の様子を見定めなければと、
ピッコロは自分を中心とした円を描くように意識を拡散させて、周囲の様
子を伺った。
 果たして―――目的の人物は、予想以上に間近で見つかった。

 煌々と輝く月明かりに照らし出された、未開の荒野。隔てる物など何も
存在しないはずのその場所に、一つの人影が、長く尾を伸ばしていた。
 目線でたどった、その先に佇んでいたのは―――

 「悟飯…っ」

 こちらに背を向けたままの立ち姿でも、はっきりそれと分かる少年の
見慣れた風体。こんな時分にこんな場所で何をやっているのかと、ピッ
コロは、叱責の声を上げかけた。
 だが……

 「……っ」

 あと数歩、というところまで背後から少年に逼り寄り……しかし、次
の刹那、ピッコロはギクリと歩みを止めた。



 開かれた視野の中、月明かりに鮮明に照らし出された少年の立ち姿。
その腰肉より更に下部に、ピッコロがかつてその目で捉えた……しかし
今となってはあり得ないはずのものが、その存在を主張していた。

 少年の出自である戦闘民族、サイヤ人を特徴づける最たるもの―――
霊長類を髣髴とさせる長い尾が、そこには存在していた。
 そして、惜しげもない光量で少年を照らし出す、「満月」の光…… 


 「悟飯!」

 先刻から感じていた衝動の正体はこれであったのかと、胆の冷える
思いで少年の名を呼び上げる。目を凝らしてその姿を見改めれば、悟
飯の体は、既にその末端から大猿化が始まっているようだった。

 人間のものにしては、不自然なまでに鋭く伸ばされた爪。年代から鑑
みてもありえない程の体毛に覆われた手。背後から見遣っても違和感
を覚えるほどに、平時のものとはかけ離れた耳朶の形。―――そのど
れもが、今、彼の身に何が起こっているのかを、如実に物語っていた。
 戦闘民族、サイヤ人の真骨頂ともいうべき、大猿への変態―――


 「…っち!」

 出会った当初、サイヤ人の特徴である尾を生やしていた幼子は、ピッ
コロの目の前で過去に二度、その本性ともいえる大猿へと、その姿を
変化させていた。
 当初はサイヤ人という種族に関する知識も浅く、その変態のメカニズ
ムについても言及できずに、ある意味状況に流されるまま対処するし
かなかった。

 当時と今とでは、その辺りの事情もだいぶ異なるものの、基本的な対
処方法に違いはない。そして悟飯がここで、どれほどの時間月の光を
浴びていたのかはわからないが、少年が、既に予断を許さない状況に
ある事は確かだった。 
 「対処」しなければと、変態の核となっている場所、少年が長々と伸ば
し揺蕩わせている尾へと狙いを定める。 


 ――――だが……

 内なる衝動に突き動かされ、今にも異形の姿に変貌しようとしてい
る悟飯に向けて伸ばしかけた己の腕を―――次の刹那、ピッコロは、
無言のまま引き戻した。


 今の悟飯は、この荒野で修行に勤しんでいた時分の、あの幼子で
はない。その後の数年で、彼らサイヤ人の生態について学ぶ機会も
増え、大猿へと変貌するそのメカニズムもおぼろげに理解している。
 訳も解らずに振り回されていたあの当時と比べれば、大猿化した少
年への対処を心得た分だけ、こちらには迎え撃つ余裕もあった。いざ
となればその尾を断ち切ってしまえばいいし、思考能力の極端に鈍っ
た少年を相手に、今の自分が太刀打ちできないとは思わない。

 それでも、無用の騒動を避けるためにも、少年の変態を許すべき
ではないのだろう。それに、ほんの幼子であった当時であればまだ
しも、大人の分別さえ備わってしまったこの少年に、自ら醜態を晒す
契機を与えるのは、酷というものだ。

 だから、何の益体も見込めないこの事態を、自分は早々に収める
べきなのだと、頭ではピッコロも解っていた。まだ実害の発生してい
ない今なら、大地に余計な瑕疵を残すこともない。正気を取り戻した
悟飯が、己の暴走のツケを払わされる羽目にもならずに済むだろう。

 
 だが……ピッコロには、眼前で今にも変態を遂げようとしている少
年に対し、制止の手を伸ばすことがどうしてもできなかった。

 ここで自分が邪魔立てすれば、少年の変態は止まるのだろう。過
去の経験から自分はその術を知っていたし、己の変容に気を取られ
て周囲に注意を払う事を忘れた悟飯を相手に、それは決して難しい
事ではなかった。
 だが……この変態は、少年にとってのある種の逃避だ。少なくとも
大猿化して理性を失っている間は、彼は、己を取り巻く現実を直視し
なくても済む。

 ―――そうだ。こうして我を忘れ、自らの衝動に飲み込まれた束の
間の時間であれ、悟飯はそれでも、現実世界の惨たらしさから逃避
することができるのだ。

 この現世において、二度と見える事の叶わない彼の父親。惜別の
言葉さえ交わすことなく身罷ってしまった父親との別離を、彼は、いま
だに受け止めきれていなかった。

 無理もない事だと思う。幼い頃から年不相応なまでの分別を備え、
今なお大人びた為人をしていても、悟飯は十歳の子供だ。己の失
態に端を発した肉親との別離の記憶など、向き合い続けるには重
すぎる。

 ならば―――自分はこのまま、悟飯が我を失っていく様を、見て
見ぬ振りで放置してやるべきなのではないかと……ピッコロは、及
び腰にそう思った。 

 大猿化するとは言っても、理性を失った少年が、肥大化した己の
戦闘能力を解放してひとしきり暴れるだけの事だ。純粋な破壊力
という意味では確かに侮れないが、その力を、悟飯が自ら制御で
きるわけではない。
 制御できないという事は、より効果的な「活用」もできないという事
だ。セルとの戦いの中、その終盤で彼が見せたような「己の能力を
的確に把握し、「理性的」に暴走する」などという芸当は、到底出来
はしないだろう。

 あの時少年が見せたもう一つの顔は、その場に居合わせた者達
の記憶に、それほどの脅威を植え付けた。ピッコロにしても、例外で
はない。
 だからこそ、今の悟飯ならば、その暴走に自分でも対処できるとい
う自負の思いが、ピッコロにはあった。

 よしんばしくじったとしても、ここは人里から遠く離れた孤島の、無
人の荒野だ。大猿化した少年によってもたらされた多少の傷跡など、
大勢になんら影響を与えるものではない。
 我を取り戻した時、少年は自らの暴走に多少なりとも負い目を抱く
だろう。それでも、今にも押しつぶされそうな悔悟の記憶から束の間
でも逃れる手立てとなるならば、その程度で収まる自己嫌悪の方が、
遥かにましだ。

 暴走の咎なら、その場に居合わせながら彼を止め立てしなかった
という結果責任を以て、自分が肩代わりしてやれる。それで、全ての
膳立ては整うはずだった。 

 
 事態を静観するという自らの覚悟を再認識し、今にも内なる衝動
を解放しようとしている少年を必要以上に刺激しないよう、その場に
とどまり一定の距離を保つ。
 固唾を呑むようにしてピッコロが成り行きを見守る中、少年の変化
が始まった。―――否。始まるはずだった。
 だが……



 「……悟飯?」

 少年の意識に留まらぬよう、かつ万一の攻撃に備えて保った距離
を隔てて、身の内から湧き上がる衝動を持て余し始めたのであろう
少年が、咆哮する。
 常軌を逸した目の色といい、剥き出しの歯列を押し開くように発さ
れた獣じみた呻り声といい、その姿は、かつてこの荒野でピッコロが
向き合った在りし日の悟飯そのものだった。追憶の少年は、こうした
前後不覚の様相を見せた後、程なくしてサイヤ人の本性である大猿
へと変態している。
 だが……今、眼前で種の衝動を持て余した少年は、あの当時と異
なり、本能を剥き出しにした異形の形相を晒しながらも、それ以上の
変化に及べない、中途半端な状態にあるように見えた。 


 種の異なるピッコロに、サイヤ人、それも地球人との混血種である
少年の生態は、定かには解らない。それでも、いまの悟飯には、大
猿へと変容するために必要な要素が揃っていないのだろうという事
は、想像がついた。

 敢えて言及するならば……その目の色、だろうか。
 平時と比べれば明らかに常軌を逸した眼光を放つ少年の眼差し
は……しかしそれでも、ピッコロの記憶に残るそれよりも、幾分理
性の色を残しているように見えた。

 変態へと至る衝動の最後の一押しに、自らの理性が歯止めをか
けているといったところだろうか……それが少年にとって吉兆とな
るのか横災の種となるのか、判断を躊躇ったピッコロの反応が、ど
うしても煮え切らないものとなる。

 そして―――その逡巡は、思いもかけない弊害となって具現化し
た。
   

 獣に例えるなら、総身の毛を逆立てんばかりに興奮し、僅かでも
外部からの刺激が加われば一触即発の状態を余儀なくされた、少
年の不穏な佇まい。断続的に意味を成さない呻り声を発しながら、
彼は不自然な震慴を繰り返した。

 身の内で次第に膨れ上がっているのだろう己の衝動を外部に逃
がそうとでもするかのように、獣じみた咆哮があがる。それでも足ら
ないのか、少年は、僅かに変態の水端を見せる、体毛に覆われ始
めた自らの両手で、その喉元を掻き毟った。

 「悟飯…!」

 よほど確固たる意志に突き動かされでもしなければ、平時であれ
ば当然、無意識下の制御が働く「自傷行為」だったのだろう。だが、
良くも悪くも、戦闘民族の本能に引きずられている今の悟飯には、
その「当然」の匙加減が、一筋縄ではいかないようだった。

 己の爪先によって急所を傷つけられた少年の喉奥から、生理的
な反射だったのだろう、えづくような音吐が漏れる。そうして不規則
に喉奥を軋ませながら、悟飯は己の衝動を持て余したように、立て
続けに咆哮した。
 意味を成さないはずのその「声」は―――それでも、余人と一線
を画した聴覚を誇るピッコロの耳には、少年が、懸命に発した呼ば
わりである事が伝わってきた。

 ―――――「お父さん」、と。
 
 

 掻き毟られた首筋から、鮮血が筋を描いて伝い落ちる。肉付きの
薄い皮膚など容易に切り裂いてしまう霊長類の鋭い爪が、加減の
ない力でその喉元に食い込んでいく様子を目の当たりにして、ピッ
コロは事態を静観していられなくなった。
 
 これ以上は危険だ。いかに鍛錬を積ませ、この地上に比類なき
戦士へと成長を遂げた少年にも、当然ながら疵瑕はある。研鑽を
続けても鍛えようのない生物としての急所を加減のない力で傷つ
ければ、彼の将来へと、不要な「疵」を残しかねなかった。

 「……っ」

 迂闊に声をかけて、こちらの存在を気取らせることは、双方共に
危険だった。
 相手の視野に入らない背後から一息に距離を詰め、自傷行動を
続けるその腕の自由を奪うような体制に、少年を羽交い絞めにす
る。途端に激しい咆哮をあげて抵抗を示す少年の総身を、ピッコロ
は全身で抑え込んだ。

 「っ悟飯!落ち着け悟飯!!」

 平時の少年のものとは似ても似つかない、獣そのもののような叫
喚が、夜気をつんざいて周囲の静寂に伝搬する。耳朶に痛みを覚
える程の叫声に耐えながら、ピッコロは、己の流した血に塗れる少
年の喉頚を、どうにか潜り込ませた己の腕で、執拗に続く彼自身の
「攻撃」から庇った。

 「…っが…ぁ…っ!」
 「ぐ…っ!」

 総身の自由を抑え込まれ、苛立った少年が猛り狂う。彼は持て余
す衝動の矛先を、自分を牽制する「邪魔者」へと挿げ替えたようだっ
た。
 中途半端な変態の影響を受けた鋭利な牙が、彼を羽交い絞めに
するピッコロの腕に突き刺さる。それでもここで腕をひけばますます
少年を煽るだけだと、ピッコロは食い込む牙の痛みに耐えて少年の
成すがままに任せた。
 皮膚が破れ、鋭利な切っ先が筋肉組織を傷つける、鈍い音が耳
朶に届く。

 「…っ…悟飯……落ち着け…っ」
 
 傷口から溢れだした血潮が、牙を立てたままの少年の口腔へと流
れ込む。種の根幹から違えた異星人の体液は、少年の経験によって
刷り込まれた味覚には違和感を覚えるものだったのだろう。彼は束の
間抵抗を緩め、自らが味わったものの正体を見極めようとでもする
かのように、突き立てた「もの」からその牙を引き抜きかけた。
 その隙を逃さず、羽交い絞めの大勢から無傷の片腕を引き抜き、無
防備な少年のうなじへとピッコロが手刀を叩き込む。

 「―――っ!」

 声もなく昏倒した小柄な肢体が、それまでの激しい抵抗の反動のよ
うに、大きくたわむ。食い込んだままの牙を引き抜くように腕を外せば、
寄りかかるもののなくなった体は、待ち受けていた支え手の中に容易
く落ちた。
 穿たれた楔から解放され、即座に傷の修復を始めたもう片腕も使っ
て少年の体を再び自分へと寄りかからせながら、思い出したように、ピッ
コロの背を冷たいものが伝い落ちる。
 これは自分が思うより深刻な事態なのだと……そう思い知らされた
ような心地だった。


 自分の失態によって父親を失ったという悔悟の記憶も生々しい悟飯
には、どういった形であれその「発散」の機会が必要だった。到底褒め
られたものではないにしろ、この暴走が代替行為となるなら、それでも
構わないかと自分も腹を括る覚悟でいたのだが……

 『お父さん……!』

 変態の衝動に引きずられ、獣の咆哮と共になされた少年の呼ばわり
を思い出す。月の光に、容易く自らを変容させられたであろう少年が、
それでも完全に己を見失い暴走の限りを尽くさなかったのは、それを
妨げる歯止めとなるものが、彼の中にあったからだ。
 それが、世界の命運と引き換えに現世を追われた、父親の存在……

 束の間であれ、己を苛む越度から解放されるのであれば、それが逃
避と呼ばれようとも頓着する必要などないとピッコロは思う。過ぎた過
去をどう振り返ろうともそれを今更巻きなおす事などできない以上、そ
んな悔悟の記憶からは、少しでも早く脱却してしまったほうがいい。

 だが……少年が最も解放されたいと願っているであろう負い目その
ものが、彼の中で、束の間の忘却さえ許さないほどの大きな枷となっ
ているのであれば……こうして何度尾を生やし月の光を浴びたところ
で、彼の大猿化は不完全なもので終わるしかないのだろう。そうまでし
て、少年が自らをあの悔悟の瞬間に縛り付けている姿が、ピッコロに
はどうしようもなくやり切れなかった。


  『―――孫』


 この先、家長不在の生家を支えていくにはあまりにも未成熟な体を
支えながら、すでにこの世にはない男の存在に思いを馳せる。
 血を分けた肉親の不始末を、世界の命運を一身に肩代わりする事
で清算してのけた、他の追従を許さない地上最強の戦士。その資質
からも社会的立場からも、あの時行動を起こすのは彼であるべきだっ
たのだろう。そして事実、その犠牲と引き換えにして、世界は救われた。

 だが……その場に居合わせながら、事を起こすだけの力さえ持ち合
わせなかった自らの身上を棚に上げて、それでもなお、思わずにはい
られない。

 やはり―――あの男は、あそこで潰えてはならなかったのだと。
 これほどに未成熟な、親元にとどまりその庇護を必要とする存在を
置いて、この世を去る事などあってはならなかったのだと。


 我ながら、なんとも矛盾した抗言をしているものだと思う。そもそも、危
急の事態に迫られての措置とはいえ、親元で育てられるべき幼子だっ
たこの少年を、彼の両親から引き離したのはこの自分だ。

 急ごしらえの「修行」を終え、ようやっと生家に帰せるかという段になっ
て、二転三転する戦局に引きずられるようにして、再び彼を争乱に巻き
込んだ。地球を遠く離れた星で死闘に次ぐ死闘を繰り広げ、少年がよう
やっと家族との生活に戻ることができたのは――それも来たるべき決戦
に備えるという条件付きで――、セルとの戦いを前にした、この三年ほ
どでしかなかった。

 全てが終わり、戦いを好まない心優しい少年を、今度こそあるべき暮
らしに戻してやれると思っていた。その、矢先に――― 


 これはある種の詐術なのだろうと、ピッコロ自身にも解っていた。状況
を逃げ口上にして、あの時何もできなかった自分が、我が身を省みるこ
となく世界を救った同朋を非難する資格などありはしない。彼は彼のな
すべきことをして、この世を去ったのだ。
 ならば―――この六年間、指南という名目でその総領息子に関わり続
けてきた自分は、この先、この少年に対して何をしてやれるのだろうか……



 ―――と、刹那。

 「……ぅ…」

 内省に浸りかけたピッコロの腕の中で、微かな呻き声を上げながら、少
年が身じろいだ。
 まだ意識が完全に覚醒していないのか、大儀そうに持ち上げられた瞼
の下から現われた双眸は、はっきりと焦点を結んでいないように見える。
自ら覚醒を促すように二、三度瞼を瞬かせたその半顔を、ピッコロは、さ
り気なく自らの掌で覆った。

 「……ピッコロ、さん…?」
 「落ち着くまで、まだ目を閉じていろ。……満月だ。直に見ないほうがい
  い」

  
 また暴走したくなければ、という言外の戒告を感じ取ったのだろう。少
年は従順に言いつけに背くことなく、すみませんと一言謝ると、大人しく
同じ姿勢に留まった。
 それきり、二人は互いに交わす言葉もないまま、他に訪れる者もいな
い、荒野の森閑とした空気を共有した。
  
 三分が過ぎ、五分が過ぎ―――強制的な変態の影響で体力を奪わ
れたであろう少年の体には、夜の冷気が堪えるだろうと、ピッコロが思
い至る。だが、月の波動の影響下では単独行動が困難であろう身上
を思い、このまま家まで送ると告げたピッコロの申し出に、悟飯は頷か
なかった。

 「悟飯…?」
 「帰れません……このままじゃ」

 言って、悟飯が首の動きで指し示したのは、自らの尾骶の部分だっ
た。そこには豊かな体毛に覆われた尾が、長々と伸びている。
  
 「……いつからだ」

 端的にそう問えば、今日になって急にこうなったのだと、少年は語っ
た。母親は知っているのかと重ねて問えば、今度は小さく、首を振る。

 「……お母さんには言えません。お父さんのお葬式が終わったばか
  りで、お母さん疲れ切ってるのに……僕にこんな…それも昔を思
  い出させるみたいな、こんな尻尾なんか、生えたって解ったら……」

 お母さん、疲れすぎて倒れちゃうかもしれないから―――平時よりも
抑揚に欠ける声音でそう語った少年の方こそが、今にも緊張の糸が
切れて倒れそうだと、ピッコロには思えた。

 「……それなら、神殿にくるか。あそこなら、地上ほどは月の影響も
  受けないだろう。そこでしばらく落ち着いてから……」
 「駄目です。お母さんを、一人にはできません」
 「悟飯……」
 「僕がいたって……お母さんに、何もしてあげられない……でも、僕
  のせいでお母さん、あんなに苦しんでるのに……僕がお母さんの
  側から離れる訳には、いかないんです……」


 平時の彼には似つかわしくない、にべもない否定の言葉。そうして
言葉をつなぐ少年の容色は、月の光から庇われた、残りの露出部分
からでも窺い知れるほどに、思わしくなかった。

 人造人間との激戦の傷跡も癒されぬまま、家長を失った生家で、立
て続けに行われた鎮魂の儀式。周囲の助けを借りながらも、喪主とし
て一切を取り仕切り、焦燥する母親を支え続けたこの少年は、これま
でどれほどの困憊状態を耐え続けてきたのだろう。

 地球人の風習に疎く、人中で立ち混じる事にも不慣れな自分が、彼
が身を置く日常の中で、如何程の助けになれたものかは解らない。だ
がそれでも、そんな彼を下界に送り出したままこうまで疲弊させてしまっ
た自らの浅慮を、ピッコロは後悔した。 
  

 大猿化の余波もあっていまだに整わない、少年の微かに弾んだ呼吸
音だけが、荒野の静寂を乱していく。どれほどの時間を、二人してそうし
て無言のまま向き合っていたのか―――先に口火を切ったのは、疲労
の色濃い少年のほうだった。
 
 



 「……ピッコロさん…」


 もう自分で対処できるからと、身じろいだ少年が、それまで提供され
ていた即席の「目隠し」を辞退する。


 「……僕、帰らないといけないんです。だから……」
 

 あたりを煌々と照らす月明かりを僅かでも視界に入れないためなの
か、それとも単純に、顔を合わせるのが気詰まりなのか……体の自由
を取り戻したものの、もたれかかったピッコロの胸元に顔を埋めたまま、
悟飯は動かない。
 そうしてかたくなに視線を合わせることを避けたまま、少年は、くぐもっ
た声でピッコロに嘆願した。


 「……僕の尻尾…抜いてください」
 「悟飯……」
 「…尻尾が生えてきたことが解った時…すぐに抜こうとしたんですけど
  ……自分だと、力が抜けてしまって上手くいかなくて……」


 だから、お願いします―――続けられた声音には、少年の覚悟を思
わせる響きが感じられた。だから、それが言葉面のみを辿った単純な
願いではないこともまた、過たず伝わってくる。
 この荒野で少年とただ二人、鍛錬に明け暮れていた当時、サイヤ人
の特徴である尾を有することで生じた弊害に対処するために、この少
年から尾を引き抜いて事を治めた記憶は、まだピッコロの脳裏にも鮮
明に残っていた。そうして自分の助力を受けた記憶があるからこそ、
少年も自助努力ではどうにもならない事態に対し、意固地になることな
く、自分に縋る気持ちにもなったのだろう。
 だが……

 いいのかと問いかけることを……束の間、ピッコロは躊躇った。

 確かに、サイヤ人の本能に従って箍を外したところで、結局は己の
負い目に振り回されて自虐を繰り返す結果にしかならないなら、悪戯
に衝動を煽るばかりの代物など、生やしておいても意味はない。まし
てや、傍目にもはっきりそれと解る「弱点」をこのまま晒して置けば、
少年の今後の暮らしに余計な負荷を与えるだけだった。

 それでも……彼が幼子の時分にそうであったように、ここで尾を引
き抜けば、「次」がいつあるかは解らない。事実、鬼籍に入った彼の
父親も、遠い少年の日に失った尾が、その後生涯再生されることは
なかったと人伝に聞いていた。

 諍いを好まない少年が、己の破壊衝動を具現化させたあの大猿の
姿に好んで変じるとは思えなかったが……彼にとって八方塞がりで
あるかのようなこの状況で、あるいは一つの「発散」の手立てとなる
かもしれない契機を断ち切ってしまうことに、ピッコロは幾分の逡巡
を覚えた。  

 だが……言葉を飲み込んでしまったピッコロの態度に焦れたかの
ように、少年は、言葉を重ねてお願いしますと繰り返す。
 他に術も解らず、自らも真っ向から太刀打ちできないという互いの
力量差を目の当たりにし、他に手立てもなく無我夢中で「対処」した
あの当時とは、求められている行動の重さが違う。それを承知の上
で処置を施すことは、事を起こす側にも相応の胆力が必要だった。

 荒野一帯を煌々と照らし出す月明かりのもと、精神的にも物理的
にも身動きが取れなくなっている悟飯が今、頼れるのは自分だけだ。
まだほんの稚い時分から、この少年に戦い浸けの日常を強いてきた
自分が、そんな生活の弊害ともいえる身体からの報復に苦しんでい
る彼を、ここで見放す訳にはいかなかった。


 「……わかった」

 いいのかと、そう言葉を重ねることはもうできなかった。この事態に
どう対処することが妥当であるかなど、自分にも、きっとこの少年に
も解らない。それならば、委ねられた自分が煮え切らない態度をとれ
ばとるほど、悟飯に余計な懊悩を抱え込ませるだけだった。

 それ自体が意思を持った生き物であるかのように、夜気に冷やさ
れた地面の上をたゆたっている尾に手を伸ばす。豊かな体毛に覆わ
れたそれを掌の中にゆるく握れば、それだけで、月光から身を守る
かのように胸元にすがりついていた少年の体躯から、目に見えて力
が抜けていくのが分かった。

 そういえば、過去に同じ処置を施した時、そのどちらも、幼子だった
この少年には意識がなかったのだと思いだす。どうせならば余計な
苦痛を与えないように、彼が昏倒している内にことを進めてやればよ
かったと、ピッコロは、今更詮無き事を思った。

 長引かせても苦痛を感じさせる時間が引き延ばされるだけだと、手の
中に収めたそれに、ぐっと力を込める。途端、脱力した体を仰け反らせ
るようにして、少年の喉奥から鋭い悲鳴が上がった。


 「…っひ!あぅ…っ!」
 「この始末が済んだら、お前を送っていく。母親の許に、帰ってやると
  いい。……だが…悟飯、覚えておけ」


 握りこんだそれを引き抜くべく力を加えれば、耐えきれないといわん
ばかりに、胸の中で少年が断続的な悲鳴を上げる。
 相手を気遣う言葉も、苦痛を与えていることへの詫び言も、今の悟飯
には、何の力添えにもなりはしない。だからピッコロは、頭を打ち振るよ
うにして痛みに耐えている少年の耳元に、敢えて装った泰然とした声音
で言い渡した。


 「俺は、お前から一つの逃避手段を取り上げる。この尾がもう一度生
  えて来なければ、お前はこの先も、我を忘れて暴走する機会を失う
  だろう。いつか、今日のこの事を恨めしく思う日が来るかもしれない」
 「ふ…っく!い…ぁ…っひ…っ!」       
 「覚えておけ。お前の尾を引き抜いたのは俺だ。お前から、お前の逃
  げ場の一つを奪ったのは俺だ。だから……」
 「っぐ…ぁ…あぁう…っ!」


 加減のない力で引かれた尾が、掴み締めるピッコロの掌の中でミシミ
シと不快な音を立てる。引きずられるようにして高くなる少年の悲鳴を
振り払うかのように、ピッコロは、腹の底に力を込めて、続く言葉を吐露
した。


 「だから……俺をお前の逃げ場の一つにしろ。母親にも、他の誰にも
  縋れない時には、俺にまとめて擦り付けてしまえばいい。そういう風
  に、上手く俺を利用しろ。……一人で抱え込んで、潰れるな」
 「っあ…ぁ…っ…ひっ!」
 「いいな?そうやって、小狡く立ち回ってでも凌ぎ切れ。けして潰れる
  な。お前に後顧を託した、お前の父親の分まで―――」

 ―――お前は、そうやって生きていけ……



 言い渡すと同時に、掌に収めたものに、最後の力を加える。懸命の抵
抗を示してのたうつそれは、しかし強引に引き剥がされる外部からの牽
引に逆らえず、耳障りな音と共に、少年の体から引き抜かれた。
 時を同じくして、弾かれたように痩身を仰け反らせた少年の喉奥から、
辺りの静寂をつんざくような悲鳴が上がり……そして、少年の体は、糸
が切れたようにピッコロの腕の中に沈んだ。


 腕の中の体が次第にその重さを増していくのを感じながら、少年が意
識を落としていく様子を静観する。そうして悟飯が完全に昏睡してしまっ
た事を確認すると、ピッコロは、それまで手にしていた「尾であったもの」
を、傍らの地面に放り出した。


 本来あるべき場所から引き千切られ、活動を停止したそれを、改めて
凝視する。と―――図らずも、先刻自分が腕の中の少年に告げた言葉
が、耳朶に蘇ったような心地になった。

 
 『お前は、そうやって生きていけ』 

 
 これは、ピッコロにとっても、今後の進退を選定するために強いられた、
覚悟の具現だった。今日少年から取り上げた逃避行動の代替え手段に、
自分は自分という存在を示すことで、彼が背負わされた宿運を共有する。
 この先、少年の身上に幾度となく訪れるのであろう艱難を、彼が凌いで
いく為の拠り所を自分が作る。自分という存在を証だてる「もの」であった
自身の一部を切り離され、そうして手探りのまま新たな行路を歩もうとし
ている少年の、居場所めいたものに、自分がなるのだ。

 主から切り離され、冷気に冷やされた砂の上に無造作に放り出された
「もの」へと、指先を向ける。そうして一呼吸にも満たない僅かな気を込
めれば、それはあっけなく焼失した。

 被毛と、そしてそれに覆われていた肉の焦げる匂いが、生活臭という
ものがおよそ存在しない、未開の荒野に流れる空気を束の間澱ませる。
燃え上がった炎と、そして辺りの空気に浸透していくその匂いが完全に
なりを潜めるまで―――まるでそれが厳粛な儀式であるかのように、ピッ
コロは、その場から動かなかった。


 この夜―――誓言と呼ぶにはあまりにも大仰な、一つの言質が結実
した。
 他に訪れる者もない未開の荒野で、立ち合いすら望まずに取り交わ
されたその申し合わせを……この先けして反故にすることはないだろう
と、ピッコロは、その時確信めいた思いを抱いていた。










 「ピッコロさん!すみません、また少し匿って下さい!」


 ―――そして、三年近い月日が流れた。


 人造人間との死闘を制し、「ひとまずの」泰平を手に入れた地上では、
瞭然たる日常が繰り返されていた。
 些末な小競り合いや、絶対者に縋る必要がなくなったからこその覇
権争いなど、「揉め事」の温床は枚挙に暇がない。それでも日々は滞
りなく過ぎゆき、かつての死闘に関わった者達も、それぞれに新たな
営みを繰り返していた。

 悟飯を総領息子とする孫家では、一年ほど前、新たに世帯主となっ
た女主人に第二子が誕生するという衝撃の事実が公表され、関係者
各位を沸きに沸かせた。

 あいつしっかりやる事やっとったんじゃのぅ、と「うっかり口が滑って」忌
憚ない見解を述べた、青年が在りし日に師事した老師父は、激怒した件
の細君の昔馴染から、容赦ない一撃をお見舞いされたらしい。他の同胞
達にしても驚愕の思いは大なり小なり御同様で、一時期、パオズ山の奥
深くに構えられた彼らの慎ましい住まいは、訪問客が引きも切らない状
態であったという。

 入れ代わり立ち代わり訪れる知己の存在に、孫家の家人達はしばらく
の間、そのあしらいに忙殺させられたようだ。それでも、落ちつかないと
ぼやきつつも、応対疲れの態を見せながらも、二人は幸せそうだった。      
 そうした母子の様相を、孫家を離れて天上の神殿に移居したピッコロが
始終見聞することはできなかった。だが、折に触れては報告に訪れる少
年が、日毎に生来の快活さを取り戻していく様子は瞭然だった。
 新たに孫家の一員となった新生児の世話には気力体力ともに並々な
らぬ労力が必要であり、必然的に、母子家庭で子育て要員の一員となっ
た悟飯が神殿を訪れる機会は目に見えて減少した。だがそれでも、時
折見える際に目にする「彼らしい」笑顔を見届けるにつけ、ピッコロの懸
念も、薄皮を剥ぐように和らいでいく。


 そうして更に一年―――あの荒野での誓約の夜から、いつしか三年近
い時間が流れ、少年は、頻繁に天上の神殿を訪れるようになっていた。

 背丈も伸び、すっかり大人びた風貌となった悟飯が「子育て」に奮闘し
た孫家の第二子も、今ではいっぱしの幼児へと成長し、その腕白ぶりで
日々家族を振り回しているらしい。
 「魔の三才児」の暴君振りに手を焼いた悟飯が、こうして一時の避難
場所を求めて神殿に駆け込んでくるのも、すっかりお馴染みの光景になっ
ていた。

 ある意味、自力では何もできなかった新生児期よりも、今がもっとも手
のかかる時期であるのかもしれない。それを承知している悟飯も極力、
母親のフォローに努めているようだが、いかんせん、10歳年下の弟と四
六時中行動を共にするということは、少年にとって相当に精神的負荷を
強いられる状況であるらしかった。
 子育ての心労というなら、それこそ母親であるチチの抱える労苦はそれ
以上であるはずなのだが、そこは母の強さ、といったところなのだろうか。
 第二子の腕白振りに日々振り回されるストレスを程度に発散できるよ
うにと、彼女は折に触れては少年に外出の機会を与えていたらしく、水
を向けられた少年も、基本的にその言葉に甘えることにしているようだっ
た。

 そういった経緯のもと、母親公認で不定期に顔を見せる少年は、思う存
分日頃溜め込んだ愚痴をこぼし、溜飲の下がった顔になって帰っていく。
主に手のかかる弟相手に向けられた、しかし愛情に裏打ちされた愚痴は
毎度大して変わり映えのするものではなかったが、そんな悟飯がそれでも
満ち足りた様相を見せている事に、ピッコロは内心で安堵していた。


 孫家の女主人である、チチの第二子懐妊の報は、発覚当初にはこの神
殿に持ち込まれ、住人すべての知るところとなっていた。その日、一大ニュー
スだと騒ぎながら神殿を訪れた少年が欣喜雀躍する様を、今でもピッコロ
は覚えている。


 『弟か妹か、まだ解りませんけど……生まれてきたら、精一杯可愛がっ
  てあげたいんです。お父さんがいないなんて事、その子が寂しがる暇
  もない位に……』


 半ば泣き笑いの様相で、それでも誇らしそうに胸を張っていた少年の姿
が、今目の前で、弟の横暴を並べ立てて愚痴をこぼしている彼と重なって
見える。
 それぞれの時節に見合った労苦を重ね、彼にとって、日々はけして、心
嬉しい出来事ばかりで形成されている訳ではないのだろう。それでも、ここ
に「報告」に来た当時も今この時も、悟飯は、変わらずに倖せであるように、
ピッコロの目には映った。

 三年前―――父親を失ったばかりの少年にせめてもの慰めを与えようと、
自分の存在を、彼の逃げ場にするように提言した事を思い出す。だがあれ
以来、少年は日常の「どうでもいいような」愚痴を発散するだけで、この天
上に、差し迫った経緯で「逃げて」来たことは一度もなかった。
 それでいいのだと……誰に問うでもなく、漠然と思う。

 どこにも行き場のない苦しみを抱えた時には、その事で自らを傷つけるく
らいなら、全てを外部に押し付けてでもそこから逃れてほしいと思った。そ
うして小狡く立ち回るくらいの覚悟を、腹の底に固めて欲しいとも。そのた
めに必要ならば、自分が代わりに泥を被るくらいの事は、なんでもない。
 だが……それはあくまでも、進退窮まった少年に残してやりたかった、最
後の手段だ。

 非常時の避難経路など、有事の際に思い出せるのであれば、それで十
分だ。そんな必要もないほど、日々が幸甚に満ちている時にまで、わざわ
ざ胸の内で反芻することはない。
 自分が悟飯に示した「逃げ場」というのはそういうもので……だから、こう
して快活に今を生きている少年が、そんなものを思い出す必要などないの
だ。

 有事の際には、誓約の通り、何を置いても自分がこの少年の逃げ場にな
る。周囲の目に、それがどれ程小狡い生き方に見えようが、彼が自ら潰え
るような未来を回避する為なら、自分は何を置いても、この誓約を果たすだ
ろう。
 だが……そうした最後の逃げ場を、彼が忘れたままでいられるならば―――
そのほうが、ずっといい。



 「―――悟飯」

 ミスター・ポポが用意した茶菓子にぱくつきながら、弟の行状を指折り
数えて挙げ連ねる少年に、改めて声をかける。
 話題が話題であったためか、幾分気まずそうに居住まいを正して見せ
た少年に向かい……ピッコロは、慊焉たる思いで言葉を続けた。

 「……幸せそうだな」 
 『お前は今、幸せか?』



 束の間、掛けられた言葉の意味を図りかねたかのように、悟飯はなん
とも名状しがたい表情を浮かべて見せた。
 そして数瞬の後―――彼は、ゆっくりと破願した。

 「―――はい。幸せです」
  

 記憶に残るかつての少年のものよりも、幾分含みを感じさせる、どこか
大人びた所得顔。それはこの三年余りの時間、少年が積み重ねてきた
「経験」をそのまま物語っているかのような、達観した表情だった。
 言葉面をそのままなぞった、他意のない復答ではないのだろう。そん
な煩瑣とした思いが、水を向けたピッコロにも伝わってくるようだ。

 だが……それでいいのだと、誰に問うでもなく、そう思う。


 今、自分の前で達観した態を見せる少年は、自分の不手際によって
父親をこの現世から追いやってしまったと、自らを責め苛むばかりの心
弱い存在ではない。彼はこの三年、父親亡き後の生家を懸命に盛り立
て、母を支え、総領息子の役割を十分に果たしてきた。
 昔と比べて背負うものが多くなれば、それを守る覚悟の形も変わって
いくだろう。それが傍目にはどれほど苛烈に見えようとも、彼自身が選
んだ生き様であり、それが彼にとっての幸いとなるのであれば、それで
いい。

 そうして自然と面差しを大人びさせ、ひたすらに自らを鼓舞して来た
少年が、守ろうとしている新たな居場所。それが少しでも、これからの
彼に康寧をもたらすものとなるよう―――ピッコロは、願わずにはいら
れなかった。
 


 三年前、実父を失って間もなかった少年が見せた、種の衝動に煽
られての変態。そのメカニズムはいまだに完全には解明しきれてい
ないが、それもまた、受け入れるにはあまりにも重い現実を忌避した
少年が無意識に選んだ、逃避行動であった事は否めないだろう。

 あの晩以来、悟飯の体に、尾は生えていない。自らを持て余すほど
の憂苦に足止めされた彼が、その「逃げ場」を求めて全霊で自分に
縋らなければならないような事態も、これまで発出していなかった。

 成長の只中に身を置いた少年の先行きが、そうして時流の妨碍を
受けることもなく、洋々と開けている。



 そうした、交々の要因が積み上げられて作り上げられていく回り合
わせを―――ピッコロは、ただ、幸いだと思った。





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