safety valve・1







  自分の中で、何かが音を立てて立てて弾け飛んだ感覚があった。

  頭の中が真っ白に塗り替えられ、それによって、これまで自分が抱え込み、しがみ続けて
きた一つの箍が、跡形もなく塗りつぶされていく。
 白濁する意識が再構築され、眼前の景色が再び鮮明な像を結んだのを知覚した時―――ま
ず目に飛び込んできたのは、地上の命運をかけてこれまで死闘を繰り広げてきた、究極の人造
人間「だったはずの」存在だった。



 『―――どうだ…これが、本気になったわたしだ…』
 『それがどうした』


 今の今まで、どう足掻いても力及ばないと思い知らされてきた眼前の敵が、自分の目を疑
う程に脆弱な存在に見える。ほんの一撃、その気になって力を放てば、簡単に雌雄が決して
しまう予感があった。

 信じられないという恐れにも似た思いと、これが今の自分達の力関係なのだという優越感
にも似た高揚感が、胸の内で交錯する。交互に意識を支配するそれらの思いが少しずつ融合
し、ようやく落ち着きを取り戻した時、自覚できたのは、対峙するセルに向けられた、身の
内から湧き上がる筆舌に尽くせないほどの弑逆性だった。

 殺してやる。だが、ただ殺すだけでは足りない。ただの一撃で楽にしてやれるほど、この
人造人間が犯してきた罪は、軽くはない。
 追い詰めて追い詰めて、ぐうの音も出ないほどに互いの力量差を見せつけて。「彼」がこ
れまでそうしてきたように、けして覆らない己の劣勢を、骨の髄まで味わわせて。
 そうやって、きっと生まれた初めて抱いたであろう絶望の念でいっぱいになったセルを、
死ぬほどの後悔を覚えさせてから、それから……


 ―――じわじわと縊り殺すように……止めを刺してやるのだ。


 それまで曲がりなりにも余裕の表情を見せていたセルが、傍目に解るほどに狼狽している
のが解る。みっともなく足掻き、焦りのあまり、戦闘の効率を無視した醜悪な姿へと変貌し
ていく人造人間の姿が、滑稽でならなかった。

 これまで自覚したこともなく、また、理解したいと思ったこともなかったが……これが、
圧倒的な力量差を前にして感じる優越感というものなのかと、腹の底でぼんやり思う。
 敬愛する父にも、師父にも、諌められることだろう。だが、この高揚感ばかりは、如何と
もしがたかった。

 後のことなどどうでもいい。今はただ、湧き上がるこの思いのままに、眼前の「敵」を
葬り去るだけだ。
 どうすれば、最も効果的に、相手の絶望を募らせることができるだろうか。大丈夫、自
分の頭は、考察を繰り返すことを苦痛とは感じない。
 そうそう時間をかけるわけにもいかないだろう。限られた時間を有効に使って、自分の
思いつく限りの「考察」の結果を反映させて、より効果的に、より圧倒的に―――


 ……殺してやるよ。セル……






  




 「……っ!」


 寝覚めの気分は、最悪だった。

 幼い頃から幾度となく繰り返し夢に現れ、筆舌に尽くしがたい後悔を味わわされ続けてき
た遠い日の記憶。もはや魘される回数を数える事すら諦めるほどに追体験させられてきたそ
の記憶からようやく逃れられたと知覚できた時、悟飯は寝汗と呼ぶには不自然なほどに全身
から発汗し、身に纏う夜着をぐっしょりと濡らしていた。

 夢に魘されつづけた後遺症か、荒く息を弾ませている自分の呼吸の音が、どこか耳に遠く
聞こえる。虚空をぼんやりと眺め、寝起きで焦点の定まらない双眸を意識的にしばたたかせ
ることを繰り返すうちに、見慣れたはずの下宿の天井が次第に鮮明な像を結び始め……よう
やく、悟飯は夢から覚めた自分の姿を自覚した。

 寝台から起き上がろうとした何気ない所作ですら、いまだ早鐘を打つ鼓動に苛まれている
かのように、胸がズキズキと痛んで容易には果たせない。極力体に負担を掛けないように横
臥した体制からゆっくりと上体を起こすと、せめて現状を把握しなければと、枕元に置かれ
た目覚まし時計に手を伸ばした。

 「……11時半…」

 文字盤が示す時刻を改めて言葉に出して反芻し、胸だけでなく頭も痛くなる。今日一日は
予定を入れずのんびり休養する心積もりであったとはいえ、いくらなんでも睡眠の摂りすぎ
だ。
 二度寝……いや、三度寝まで雪崩れ込んだのだろうか。ここまでダラダラと惰眠を貪って
いれば、夢見が悪いのも当然だった。


 「……やっぱり徹夜なんて、するもんじゃないな」

 他に聞く者もいない室内で、それでも自らの自堕落を言い訳するかのように、ぼそぼそと
一人ごちる。これがパオズ山の実家であれば、いつまでも起きだしてこない自分を心配して
家族の誰かが声の一つもかけてくれたのだろうが、生憎とここは実家を遠く離れた都であり、
自分の素行は自分で管理するしかなかった。

 エイジ777、春―――ユニバーシティを順当にスキップで修了した悟飯は、一貫制博士課
程を基準とするグラジュエートスクールに、無事進学した。
 以来一年。在学中に博士論文審査を受け、博士号の取得が可能となるこのスクールに籍を
置き、二回生に進級した悟飯は、初めての博士論文審査に挑むため、この数か月、提出論文
の作成に忙殺されていた。

 草案から温め続けた論文もようやくその全容をみせ、一昨日の夜から、彼は下宿に引きこ
もってその仕上げに取りかかっていた。
 文章をしたためるにはどうしても、製作者の気概のみならず、それにのめりこむタイミン
グも必要で、いったんつかみかけたそれを逃してしまうと、頭の内に渦巻く言葉を脳内から
出力することに非常に難儀する。だから、徹夜程度の無理はしてでも、机から離れる事がで
きなかったのだ。

 夜通し執筆の勢いを落とすことなく朝を迎え、限界を感じて数時間の仮眠をとった。その
後、最後の校正を行い、夕方になってグラジュエートスクールの専攻学科の研究室へと、完
成論文の提出に出向いた。
 下宿に戻るやいなや、緊張の糸が切れたように眠り込んでしまい―――気が付けば、半日以
上が経過していたというわけだ。
 

 本来、グラジュエートスクールの博士課程を履修する学生に、課題などの細かな提出期限
は定められないことが多い。論文一つをとっても、提出することが最終目的ではない以上、
少しでも手を加え吟味を重ね、後の自身のグレードへとつながるよう、一つ一つを大切に作
り上げていくべきものだった。

 故に、本来であれば、勢いのみを求めて急ぐことに、然程の利点はないように思える。だ
が、「研究論文」と銘打つ以上、世に発表されるのはあくまでも早いもの順という原則があっ
た。
 仮にも専攻学科が同門の学生や、もっと解釈を広げれば、同じグラジュエートスクールの
学生であれば、研究テーマが被らないようお互いそれなりの配慮をしあうだろう。
 だがこれが他校の学生ともなれば、そんな配慮などどこ吹く風だ。将来の強力な「商売敵」
となりうる存在に塩を送るお人よしなど、狭き門をくぐりぬけた先で尚競い合わなければな
らないこの業界で、生き残れるはずもない。

 テーマ選びは慎重に。論旨は簡潔に、かつ丁寧に。そして作成は迅速に―――それが、悟飯
が籍を置く専攻学科の基本理念だった。


 ともあれ、論文の提出を済ませた以上、このあたりでいったん生活を立て直す必要がある。
一人の自由にどっぷり浸かってけじめのない生活に慣れてしまうと、修正の苦労も雪だるま
式に嵩みかねなかった。



 まずは、これ以上寝巻のままダラダラ過ごす事のないよう、目覚ましも兼ねたシャワーを
浴びる。そして遅すぎる朝食、兼昼食だ。そこから世間並みの生活に戻さなければ。


 決めるが早いか、悟飯は着替えを手にバスルームへと向かいかけ……しかし、いくらも移
動しない内に、その歩みが止まった。

 『……なんだ?』


 夢に引きずられ、動悸を覚えるほどの興奮状態を味わわされた後だ。早鐘を打ち続けた心
臓が悲鳴を上げ、体内からの抗議を受けているかのような、物理的な胸の痛みを覚えるのは
致し方ないだろう。
 だが……意識しなければ平常心すら保てなくなりそうな、異常なまでの高揚感が、いまだ
になりを潜めてくれないのはどういうことだ。

 夢の中、極限までセルを追い詰め、嬲り殺しにしようとしていた自分の感情が、現実に戻っ
たいまだに、自分の中から抜けていかない。まるで、あの夢の続きを現実で追体験している
かのように、悟飯の意識は、セルと相対したあの時の自分に、縛り付けられたままだった。

 今、何らかの外的刺激を受ければ、サイヤ人としての箍が外れたあの時と同じように、狙
い定めた獲物へと、蹂躙の限りを尽くしたくなるような―――


 「…っ!」


 それ以上、想像を巡らせることはできなかった。
 ややもすれば、ろくでもない方向に歯止めがきかなくなりそうな意識を拡散させるべく、
飛び込んだバスルームで頭から勢いよく水を浴びる。
 
 夢見が悪かったのだ。疲れて、寝起きが悪かったのだ。だから、夢と現実の境界があやふ
やになって、こんな感覚を引きずっているだけだ。

 さっさと食事をして、外に出て、少し体を動かそう。そして今夜は早めに寝て、明日の朝
から元の生活サイクルに戻せば、こんな感覚はすぐに忘れてしまえる。
 季節柄、まだ肌に浴びるには冷たい水流に全身打たれながら、この異常な高揚感を少しで
も早く忘れてしまえと、悟飯は、繰り返し自分に言い聞かせていた。





 



 同様の状態が、それから三日続いた。
 
 戦いの現場を夢に見て、異常に高揚している自分を自覚することは、以前から時折あっ
たことだ。夢見の悪さからかつて心に負った疵を再認識し、当時の遣り切れない思いを追
体験させられることも、一度や二度の経験ではない。
 だが……夢から覚めてなお、その高揚感が持続するというのは、これまでに味わったこ
とのない感覚だった。目覚めの直後ならば何も不思議ではないことでも、それが数時間に
も渡って続くとなれば、明らかに「夢見の悪さ」の範疇を越えている。

 とはいえ、言い換えれば、前夜の夢を引きずっているだけとも考えられるのだ。自分の
中に言いようのない高揚感、あるいは不快感を覚えるだけとも言えるこの段階で、これを
「異変」とまで呼んでいいものか、悟飯は考えあぐねていた。

 だが……もしもこれが、自分の中に眠るサイヤ人の本能に起因する事態であるとすれば、
安易に見過すことはできなかった。まさかまさかで見過ごした挙句に、いざ事が起こって
しまえば、自分一人がその責任をとるだけでは済まなくなる恐れがある。
 
 何より―――有事の際には命運を共にすると言質をくれたかけがえのない師父を、自分は
自分の暴走に、巻き込んでしまうかもしれないのだ。


 ただの夢だと、思い込んでしまいたい気持ちはあった。かつてあれ程に迷惑をかけ通し、
最近ようやく「安定している」「安心してみていられる」と評してもらえるようになった
師父から、こんなことで失望されたくないという焦りもあった。

 だが、これがただの杞憂で済まなかったその時は……つまらない矜持にこだわった自分
の軽挙が、彼を殺すことになる。
 自分を信じ、不確かな命運さえ共有してくれたピッコロに対し、それは、これ以上ない
ほどの裏切りだった。 

 大人から叱られる事を恐れる小さな子供ではあるまいに、自分の身から出た錆を、自ら
落とすことができなくてどうする―――
 自らを鼓舞し、これが杞憂であればそれに越したことはないのだと繰り返し言い聞かせ
……それでも、行動に移す決意を固める為に、悟飯は丸一日、同じ問答を自らに繰り返さ
なければならなかった。

 その翌日―――奇妙な夢の後遺症に悩まされるようになってから四日目の午後、悟飯は、
目的地である天上の神殿へと、ようやく足を向ける事が出来たのだった。 







 「……そうか」

 悟飯の予想に反し、その報告を受けたピッコロの様相は、意外に冷静なものだった。
 報告という名目で、助力と、ある意味では懺悔を求めに来た青年の心中を慮って、敢え
てそのように振る舞って見せたのかもしれない。それでも、平時と変わる事のない師父の
佇まいが、得体のしれない不安に襲われる悟飯を落ち着かせたのは確かだった。

 その朝も変わらぬ夢に引きずられ、つい先刻まで自身の中を駆け巡っていた高揚感を収
めるために消耗した態を見せていた青年の表情が、明らかにそれまでの異常な緊張から解
放され、脱力したものとなる。その様子を見計らったかのように、ピッコロは、悟飯の双
眸を正面から覗き込んだ。


 「……ピッコロさん?」
 「こうして見ている限り、俺にはお前が変わったようには見えないがな。夢の余韻とい
  うのは、それほど強烈にお前を引きずりまわすのか?」

  
 その穏やかな語調は、例えるならば、彼が悟飯に、下界に暮らす特定の集落の慣習につ
いて訪ねている時と大差のないものだった。
 人は、自らの抱える懸念事を、余人からさも何でもない事のように評されると、不思議
と「そうかもしれない」と錯覚させられることがあるものだ。いつか聞きかじったことの
ある、そんな心理のありようを、さもありなんと得心しながら、悟飯は、そうして自分を
落ち着かせ、理性の目を曇らせまいと気遣ってくれる師父の厚情に応えるべく、極力客観
的な視点で自らを観察するように努めた。

 「下宿で気を静めてから、出てきましたから。今は自分でも、普段と大きく変わった感
  覚はありません。……でも、夢に起こされてから、出かけるまでに、三時間かかりま
  した」

 出かけることが、できなかったんです―――控えめに言葉を続ければ、その言外に悟飯が
言わんとしている事を、ピッコロも過たず察したのだろう。相槌とも独白ともつかない声
で短く唸ると、彼は、改めて青年へと向き直った。


 「院の方は、どうしているんだ?四日間、ずっと下宿にこもっていたのか」
 「論文の査定にはまだ時間がかかりますし、どうしても外せない単元もなかったので、
  通学していません。まだ僕はメンバーとして呼ばれてもいませんけど、同じ門下でチー
  ム研究を進めているので、本当は雑用の片づけ程度でも、顔を出した方がいいんです
  けど……この状態では、何時間も手伝えませんし」
 「……そうか」
 「今は、何とかなっています。後二週間……今月いっぱい位なら、後からどうとでも巻
  き返せます。でも、いつまでもこのままだとすると……」



 それきり、二人はしばらく、言葉を交わさなかった。交わせなかった。
 声に出して互いの認識をすり合わせるまでもなく、押し黙った二人の意識を占めている
のは、彼らが人造人間と戦った十二年前の記憶だった。

 地上を蹂躙しつくそうとするセルに立ち向かった対抗勢力の中で、最後の切り札として
戦いの行方を託されたのは、まだ少年の域を抜け出していなかった悟飯だった。
 父親の後押しによって戦いの現場の最前線に立つことになってもなお、断ち切る事ので
きなかった戦いに対する躊躇いや戸惑い。それらの後ろ向きな感情の反動であるかのよう
に、極限状態にまで追い詰められた悟飯の戦いぶりは、熾烈で、容赦がなかった。
 もはや一撃で、相手の息の根を止める事すら可能であったはずの自身の潜在能力に溺れ、
猫がネズミをいたぶるようにじわじわと、セルをなぶり殺しにしていく少年。誰も彼に力
では敵わなかったが故に、強引に割り入ってでも、そんな悟飯に「待った」をかけてやる
ことが、その場に居合わせた誰一人、できなかったのだ。

 紆余曲折を経て、その後展開された壮絶な死闘の末、セルとの戦いは幕を下ろし、以来
数年、平和な日常に浸って生きる悟飯の中で、あの当時の好戦的なサイヤ人が目覚めたこ
とはない。
 ハイスクールに編入したばかりの頃、天下一武道会に参加する父親との再会を控え、今
度こそ自分の中の「封印」が解けるのではないかと、我を失うほどに取り乱し、ピッコロ
に縋ったこともあったが……ピッコロから一つの言質を得て現実へと踏みとどまった青年
が、自我を失うことはなかった。
 その直後、人ならざる存在の後押しによって自身の潜在能力を限界以上に解放され、悟
飯は更に絶大な戦闘能力を手に入れた。その状態で迎えた魔人ブウとの決戦においても、
周囲の杞憂をよそに、魔人と渡り合う青年が強者の弑逆性に溺れるようなこともなく、彼
は「概ね」これまで通りの様相で、地上随一と謳われた戦闘能力を内包した内包したまま
その後の日常を生きる事となったのだ。 

 以来四年、目指す進路を順当に進んでいく悟飯が己の異変を訴えたことなど、これまで
一度もなかったことだが…… 

 



 「……孫を呼ぶ」

 長い沈黙の末、先に口火を切ったのは、ピッコロの方だった。


 「ピッコロさん?」
 「あいつなら、界王神界へも出向けるだろう。お前に術を施した大界王神様に、直接真
  偽を確かめた方がいい」
 「でも……」

 地上に暮らす人間にとって、悟飯が気安く出入りを繰り返すこの神殿も、本来は禁足地
だ。その神殿を基準にしてもずっと狭き門である界王神界への移動を提言され、さすがに
悟飯は二の足を踏んだようだった。
 だが、ピッコロはあくまでも持論を譲らない。

 「神の中の神と呼ばれる方の采配に、よもやの手抜かりがあるとは思えないが……それ
  でも、万一という事もある。手を打てる事があれば、少しでも早く行動に移すべきだ
  ろう」

 悔しいが、俺ではお前の中で起こっている異変の原因すら、突き止めてやることができ
ないんだ―――そう続けて、ピッコロは青年の肩に手を置くと、互いの目線を合わせるべく
その視線を下げた。

 「とにかく、ここで気を揉んでいても何も始まらん。確かなことが解るまでは、お前も
  余計な気を回したりせず、できるだけ鷹揚に構えるようにしろ」
 「ピッコロさん」
 「下界の実家よりも先に、お前がここに来た理由は解っている。お前が、お前の暴走に
  巻き込まれるかもしれない俺を気遣っていることもな」

 言って、ピッコロは所在なさそうにその場に立ち尽くす悟飯に向かい、意図した仕草で
その口角を持ち上げて見せた。

 「四年前の約束は、今でも生きている。よもやの事態に陥った時には、俺も躊躇うこと
  なく約束を果たす。……だが、それは打てるだけの手を打ってからだ。お前が気を揉
  んでいるように、ただ成す術もなくお前の暴走に巻き込まれ、お前と心中する道を選
  ぶつもりも、俺にはないぞ?」

 これでも、お前の師匠だからな―――敢えて居丈高に言い切ると、ピッコロは相手の了承
を待つことなく、当面の目的を果たすべく、下界への交信を開始した。
 悟飯の返事すら必要とせず、現状で考えうる全ての手立てを尽くそうとしている師父の
姿を前に、悟飯は、ただ黙って頭を下げる事しかできなかった。 







 その日、神の補佐役であるピッコロの召集を受け、およそひと月振りに、天上の神殿に
孫悟空が姿を現した。


 「……そりゃ、あそこまで行くことくらい、なんでもねぇことだけどよ」


 通学のため、現在都に下宿している悟飯にとっても、久方ぶりの父親との再会であった
が、その挨拶もそこそこに、ピッコロが悟空に界王神界への瞬間移動を依頼する。再会に
水を差された形となったはずの悟飯もまた、師父の饒舌とは言えない依頼に言葉を添え、
神殿の一角には、束の間穏やかならざる空気が流れた。

 事の次第の説明もなしかと、どこか不信の色をのぞかせた表情のまま、悟空が依頼主を
仰ぎ見る。悟飯はオラの息子だぞと言葉を重ねられ、それなら相応の甲斐性を見せてみろ
と反駁しつつも、不承不承といった様子でピッコロが嘆息する。


 「詳しいことは、俺にも悟飯本人にも、まだ解らん。ただ、4年前の界王神界での出来
  事が、今悟飯の体調に異変を生じさせている原因となっていることは、間違いなさそ
  うなんでな。原因究明のためには、界王神界に行って大界王神様にお目にかかること
  が一番だろう」
 「そりゃまあ、あそこでなんかあったんなら、オラ達に解るわけねぇけどよ」
 「貴様はそもそも、物事を順序立てて考えるという努力が欠落しすぎているんだ。少し
  は息子を見習って、まず考えてから行動に移してみろ。―――とにかく。今は界王神界
  に向かうことが先決なんだ。詳細は、向こうで追々解っていくだろう。俺と悟飯を連
  れて、界王神界に移動しろ」
 
 依頼主の居丈高な物言いが面白くなかったのか、悟空が不興の念も露わに鼻を鳴らす。
それでも、自分が現世を離れていた時間、この異星人から長男が受けた恩義がどれほどの
ものであったか、悟空としても無視を決め込むことはできなかった。その元神からの依頼
であり、かつそれがほかならぬ自らの息子の進退に関わる事であるのなら、悟空としても、
いつまでも依頼形式にこだわってはいられなかった。
 あるいは、いつまでもぐずぐずしていれば再び始まりかねない、意外と口喧しいピッコ
ロの説教を恐れたのもしれなかったが。

 ともあれ、息子とかつての宿敵兼盟友の言葉に、そうせざるを得ない緊急性は感じ取れ
たのだろう。悟空は、悟飯の体に起きているという異変をかいつまんで聞いただけで、後
はあれこれ問いただすことなく、界王神界への瞬間移動を受諾した。









 人の世の摂理の及ばない、宇宙のどこからも切り離された閉ざされた空間、界王神界。

 悟空の瞬間移動によってあっけなく、再びこの地を踏んだ悟飯は、同行した父に、単身
での大界王神との接見を望んだ。

 どんな結果が待っているか解らない以上、例え敬愛する父親であっても、その宣告の場
に同席されるのは、得体のしれない恐ろしさがあった。それは同じように自分を鍛え育て
てくれた師父を相手にしてもいえる事だが、ピッコロには今一つの懸念を覚えたため、始
めからこの異界への同行を固辞している。

 故に、ただ一人の同行者である父親の説得に悟飯は意識を集中することができたが、彼
が予想するよりずっと簡単に、悟空は接見の場に立ち会わないことを了承した。

 自ら望んだ申し出とはいえ、子供の時分であれば、あまりにも簡単に頷かれたことで、
父親の自分に対する愛情を疑いたくもなったかもしれない。だが、成長した今となっては、
その放任振りこそが父親の示す情の形であるのだと、悟飯は疑うことなく信じることがで
きた。

 ただひとつ、その場を離れる悟空が悟飯に約束させたのは、接見の結果を隠さず打ち明
ける事だった。
 どのような結果が待っているにせよ、父と、地上で待つ師父に対する報告は、悟飯にとっ
ても当然の義務だ。それに否やを唱える理由は始めからない。
 そんな経緯を踏まえ、界王神界に到着して後は殆ど余計な時間を費やすこともなく、悟
飯は、大界王神との接見に臨むことができた。





 
 
 「ふーむ……」


 大界王神との接見が叶ってから、悟飯の体感時間で、およそ三十分が経過していた。

 相手が相手だけに、多少は畏まった挨拶を述べた後、悟飯は己の体に起こっている異変
について、矢継ぎ早に陳情した。
 とぼけた表情のまま、老界王神はそれを聞いていたが、悟飯が語り終えるのを待つこと
なく、投げやりに悟飯を促し、自分と向き合ってその場に座るよう指示を下す。
 そうして、悟飯の潜在能力を限界以上に引き出してのけた在りし日の行動を再現するか
のように、彼は、悟飯に向かって持ち上げた両手をかざした。


 以来、老神は「ふむ」だの「ほお」だの一人ごちるばかりで、意味のある言葉を口にし
ない。かつてこの神に能力を引き出された時にも、集中の邪魔をするなと散々小言を食らっ
た経験もあり、自分に声がかかるまで、悟飯は辛抱強く相手の出方を待つよりほかになかっ
た。

 それにしても、ただ自分の中を流れる力の脈動を読み取っているにしては、大界王神の
沈黙は長すぎる。もしや自分が想像するよりも、ずっと事態は深刻な様相を呈しているの
だろうかと、悟飯は内心、気を揉み続けていた。

 だが……
 

 
 「べーつにどうもなっとりゃせんわ。言うなれば、単なる欲求不満みたいなもんじゃ」

 だが、内心気を揉む悟飯をよそに、老界王神の応えはあっさりとしたものだった。
 ああ疲れた疲れたと、それまで悟飯に向け掲げていた両手をぶらぶら振りながら、彼は
事もなげに、その見立てを宣告する。


 「お前さん、昔っからずーいぶんと体を鍛えとったんじゃろ。それが、この平和続きじゃ
  なあ。普通の体力もっとったって、溜まるときゃ溜まるもんだ。それがそんだけ有り
  余っとっちゃ、そりゃあ辛かろうがよ。ま、男ならこの手の事にそう大差ないわな」

 どうせ、ろくに体を動かしもせんと、平和ボケしまくっとたんだろが―――指摘されれば
返す言葉もなく、悟飯には、どうしても確かめなければならない自らの懸念事を念押しす
るのが精一杯だった。


 「……あの。じゃあ、リミットを外した弊害が出て、能力が暴走したとか、そういうこ
  とは」
 「ああん?ないない」

 歯切れの悪く語調でぼそぼそと伺いを立てた悟飯の言葉が終わるのも待たず、緊張感の
欠片も感じられない声で、心外だと言わんばかりの反駁が成される。と同時に、不機嫌そ
うに眇められた上目遣いで、老界王神は青年をねめつけた。


 「あのよー、わしがよ?いっくら緊急事態だったからっつってよ?そーんな物騒な奴
  のリミットをよ、ほいほい外す訳なかろうが」
 「大界王神様……」
 「お前さんはよ、力を振りまわして、だれかれ構わず壊せるタイプじゃないだろうが
  よ?」

 そんなこたハナっから解っとるわ―――面白くもなさそうに鼻を鳴らすと、老神は自身の
威厳を示すかのように、青年に向かいふんぞり返った。

 「ま、その若さじゃ仕方なかろうよ。方法っつってもよ、適当に発散してよ、溜め込ま
  ないようにするくらいしかないじゃろうて」
 「発散、と言われても……」
 「お前さんの年頃ならよ、するこた一つしかないだろうよ?」

 この平和な世界のどこにぶつけて発散しろというんですか―――そう続けようとした青年
の不平交じりの訴えを、老界王神はからからと笑い飛ばすと、見せつけるように己の指先
で卑猥な仕草をしてその機先を制した。

 「おなごじゃよ、おなご。その有り余っとるエネルギーをよ、えっちぃことにどーんと
  ぶつけりゃよ、一発解決ってもんだろがよ」
 「……っ!」
 「まっさか、やりかた知らないなんぞとは言わんだろ?ガタイいいしのー。ムッツリそ
  うな顔しとるしのー。おなごの方で放っておきゃせんだろ」
 「あの、大界王神様……」
 「そういうおなごによ?うまく粉かけてよ?合意の上でえっちいことしときゃよ?お互い
  いいとこ取りで、言うことないじゃろ?年齢的にも、大人の遊びで通るしのー」


 若い奴は羨ましいのーと能天気に笑う好色老人を、実力行使で黙らせたくなる衝動を辛う
じて堪えながら―――悟飯は、この場に師父が同行していなくて心底よかったと、内心胸を撫
でおろしていた。
 父親に頼んで界王神界へと移動する際、ピッコロは最後まで同行を申し出てくれていた。
その申し出を敢えて固辞したのは、主神にあたる界王神達と相対しなければならないピッコ
ロの体面を考えての、悟飯なりの配慮であったのだが……結果的として師父が不在である事
に、救われた心地がした。

 もしも自分の中に巣食うサイヤ人の衝動が暴走すれば、一蓮托生を誓ってくれたピッコロ
は、自分と命運を共にすることとなる。今回の一件も、どれほど彼の心を波立たせたことだ
ろうか。
 それだけの心配をかけておきながら、原因が「欲求不満」とは……もしこの場にピッコロ
が同席していたら、あまりに申し訳なくて顔向けもできない程だ。いずれにせよ、神殿へは
事後報告に出向かなければならなかったが、それでも言葉を濁せる分だけ、伝聞系に言い換
えられるのはありがたかった。

 とにかく、これで自分やピッコロが危惧していた、すわサイヤ人の本能が暴走したかとい
う最悪の予測は、幸いにも杞憂で終わったわけだ。それだけで、今も意図しての采配なのか、
品のない物言いで自分を挑発する老界王神に目通りを願い出た甲斐はある。
 とはいえ、当面の目的を果たしたからには、いつまでも好色な老人の与太話に付き合って
はいられなかった。神の神殿で自分の帰りを待っているピッコロも、この異界で下された神
託の内容を今か今かと待ちかねていることだろう。自分をここまで連れてきてくれた父共々、
経緯を報告しなければならなかった。

 目通りを願い出た一介の民草に過ぎない身で、外見はどうあれ、地上を席巻する神をもは
るかに超越する存在に対し、横柄な態度はとれない。一時の感情に負けてそれを自分に許し
てしまえば、そのツケを払わされる羽目になるのは、自分の師父だ。
 故に、表向きは、地球の管轄を任された元神に師事する存在としてそぐわしいであろうと
思われる敬虔さで以て、悟飯は、老界王神と、同席する大界王神に辞去の挨拶を述べようと
した。

 と、その時―――


 「……にしてもまあ、一口におなごといっても、相手は慎重に選ぶこった。そーのガタイ
  と精力じゃよ?うかつにコトに及べばよ?相手のおなごを抱き壊しかねんからのぅ。
  さすがにそりゃあまずかろうて」
 「っご先祖様!」

 老神のあまりにもあけすけな物言いに、それまで傍観を装っていた界王神からさすがに苦
言が呈される。大事な事じゃろうがと涼しい顔で返す老界王神とその子孫が何やら言い合い
になりそうな気配を察し、悟飯は非礼を責められることのないよう、せめてもの恭しさで以
て、しかし辞去の挨拶もそこそこに、二大神の前から辞した。




 当初の目的を果たした以上、この異界に長居は無用だった。どれほどおちゃらけた外見と
行状をしていようとも、人の世を統べる神をも遥かに超越する絶対神の前に出るという事は、
想像以上に気の張る行為だ。

 この界王神界のどこかで時間を潰しているはずの父親に念話で話しかければ、すぐにでも
地上に戻ることができる。無意識のうちに肩肘を張っていたのか、首筋から肩口にかけて引
き攣れるような痛みを覚えた悟飯は何度か己の肩口を回して揉み解し、胸の内で父親に呼び
かけた。

 それにしても、と、父親との合流を待つまでの手持無沙汰のように、先刻大界王神と交わ
した会話を思い起こす。

 『一口におなごといっても、相手は慎重に選ぶこった』

 人知を超越した存在であるからこその視点なのだろうが、随分と横暴な神託もあったもの
だと思う。

 ハイスクール編入以来、一足飛びに学歴を積み上げてきた悟飯には、そんな風に「深い仲」
になり得る相手など、いまだに存在しなかった。スキップを繰り返す中で、よほど意図して
出会いの機会を設けてきてでもいれば今とは違う交友関係もあり得ただろうが、そもそも、
悟飯本人にその願望がなかったのだ。それでよかったのだと、今でも自分で思っている。
 それに、もしも巡り合わせの妙で、そんな相手が今の自分に存在していたとしても……老
界王神の言いぶりは、あまりにも傲慢だ。そもそも、女性は男の欲求を満たすためだけに存
在する道具ではない。「合意」「合意」と気安く前置きを付けたところで、そういった対象
としてのみ捉えるなら、相手に対して無礼であることに変わりはなかった。

 だから、そもそもそういった「発散」手段を選びようがない今の自分の立場が、むしろ幸
いであったと悟飯は思う。始めから選択肢に加えられていない手段なら、よけいな懊悩に追
い詰められる必要もなかった。

 だが……


 『うかつにコトに及べばよ?相手のおなごを抱き壊しかねんからのぅ』

 あまりにも生々しい大界王神の言葉を何度も思い返すのも腹立たしいことだったが……辞
去する際、付け加えるように告げられた神託は、好色老人の与太話と受け流し切れない引っ
掛かりを、悟飯の中に残していた。

 今、対象となりうるような相手はいない。いたとしても、こんな身勝手な「発散」に一方
的につきあわせる事など、到底自分にはできなかった。だが、それでも……


 ……戦いの場に、おいてだけではないのだ。
 大人になれば、当然日常の中に組み込まれるようになるのであろう、いつか出会うかもし
れない生涯の伴侶との、未来を繋ぐための営み。そんな、余人が当たり前に思うであろう、
日常を担う生命活動すら……

 ―――自分が行えば、「破壊活動」にすり替わってしまうかもしれないのか……

  

  
 と、そこまで思い至った時、念話を送った悟飯のもとに、悟空が合流したため、悟飯の物
思いはそこで中断した。
 そもそもが、対象者すら限定できない、埒もない仮定の話だ。いまからそう深刻に向き合
う命題ではないのかもしれない。

 だが、それでも……
 その日、父親に連れられて再び地上へと戻っていった悟飯の中で、この日の物思いは、抜
ける事のない棘のように、根深く胸襟の奥へと残されたのだった。 




                                        TO BE CONTINUED...
 

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