ーーーーーーーーーーー王道楽土5より

 「白鳳さん…っ」

 周囲を慮っての潜められた呼び声に、背中を木の幹に預けたままの青年の頭がわずかに
持ち上げられた。
 ところどころ血や泥に汚れてほつれ落ちる頭髪の銀糸が影となって月光を遮っているのも
手伝って、元から色素の薄いその容色は不自然にくすんで見える。それがこの遠征で蓄積
した疲弊によるものだけではないことは、荒い呼吸を繰り返しながら自らの上肢を抑えている
姿を見れば瞭然だった。

 細かな傷はそこここから血をにじませて衣類を汚していたが、苦悶の原因であるだろうそ
の右腕からは、多少泥にまみれた程度でほかの汚れは見当たらない。指先までダラリと垂
れ下がったままの状態を見やれば、考えられる症状はもう一つしか残されていなかった。

 「……熱はありますか?処置は?」
 仮にも戦事の玄人集団に籍を置いている以上、訓練や遠征中に腕や足の骨を折ってしま
うことはそう珍しいことではない。満足な手当てが望めないような状況下にあっても先を急が
ねばならないという事態は当然起こりうるものであったから、急場を想定しての応急処置法
などは訓練の一環で一通り身につけさせられていた。
 だが……滅多に遭遇することのない事態であるからこその急場なのであり、ルーキウスと
いう国が元来そこまで逼迫した軍事行動に出たことがないという国情を鑑みれば、それらの
訓練も所詮は机上の域を出ない。隊の副長を務めるセレストもまた、身につけた処置術を実
地で活用したことはなかった。

 一時的に後方部隊まで非難させ、しかるべき医療措置を受けさせるのであれば、その経
緯は日常における負傷となんら変わることはない。隊に属するのは若者が殆どであり、また
その全てが専門的な訓練をつんだ存在であったから、的確な処置を施せば傷が癒えるのも
早かった。
 しかし、満足な準備もない環境での措置となれば、そういうわけにもいかない。とにかくそ
の場を持ちこたえさせるのが緊急措置というものであったから、その施術はひどく原始的なも
のとなった。

 そんな内心の動揺が顔に出たのか、見返す青年の口元に、苦笑と苦悶があいまったような
笑みが上る。
 「……熱のほうは、まだそれほどには。先ほど、一応添え木になるものは探して……」

  では、まだ具体的な処置は施してはいないということだ。
  単身裏世界を生き抜いてきた過去を持つ以上、こういった場合の最低限の応急処置法は、
当然白鳳も身につけているだろう。
 だが、それが接骨技術となると、いささか勝手が違ってくる。粉砕骨折でもない限りは、一度
折れた骨は接ぐことでさらに頑強になるものだった。体が若い内であれば、それはなおのこと
顕著となったし、治りそのものも早い。
  だが……逆を返せば、それだからこそ、より適切な処置を施す必要があるということだ。

 下肢の…両足のどちらかであれば、身の安全を確保できる場所まで避難するために、やむ
を得ず自ら処置を施したのかもしれない。しかし折れたのが腕であるのなら、そして潜入よりも
身を守るための脱出を選んだのであれば、骨折の激痛をこらえてでも、ひとまずは満足に動か
せる足で移動することに全力を傾けた白鳳の判断は理にかなっていた。
  所詮は素人療法であり、ましてや折れたのは自らの腕だ。その痛みと動揺で、手元のわず
かな狂いが生じる可能性はけして低くはない。わずかでもずれたまま接骨されてしまったが為
に、一生の後遺症を背負っていかなければならない場合もあるのだ。身一つで世間を渡って
きた裏稼業もちの青年にとって、それがこのさきどれほどの負荷になるかは想像に難くなかった。
  勿論、だからといって施療もせずにいつまでも放置しておけば、今度は腕そのものが一生使
い物にならなくなる恐れもある訳だが……

  だが、それは青年が、いつまでも人手を頼ることなく我を張り通した場合の話だ。
  白鳳は―――信じていたからこそ、我流の荒療治に走らなかったのだろう。定刻に姿を現
さなかったその身を案じて、助けが…自分が、迎えに現れることを。

  そんな物思いが言葉ほどに顔に出たものか……言葉もないセレストに向かって、再び苦悶
交じりの笑みが向けられる。

  「……お願いできますか、セレスト」
  「白鳳さん……」

  それは紛れもなく白鳳の純然たる信頼の表れであり、一度は修復不可能とまで思われた決
裂を経験したセレストにとって、その事実はひどく面映い衝動を覚えさせられるものだった。
  同時に、明確に示された青年の厚意を、素直に嬉しいとも思う。
  ここにきて、白鳳は僅かずつではあれ確実な変化を遂げつつあった。今の彼からは、全ての
始末を自らの手でつけようと、肩肘を張っていた頃の意固地さが感じられない。
  それは、状況が切迫していくことでなりふりに構っていられなくなったという端的な事実に迫ら
れた変化であって、必ずしも彼の本意によるものではなかったのだろうけれど……少なくとも彼は、
人を頼みとすることを覚えたのだ。
  骨折の激痛に耐える青年の姿を承知の上で。ただそれだけのことが…どうしようもなく、嬉し
かった。

  我知らず高揚しかける意識を、ひとつ頭を打ち振って切り替える。浮き足立った気持ちのまま
では、平時には考えもつかないような手違いを犯してしまいかねなかった。何度も訓練を重ね、
理屈ではわかりすぎるほどに理解しているつもりでも、それが実地となれば、どうしても勝手が
違ってくるものなのだから。
  今はとにかく、白鳳の腕の治療に全ての意識を傾けることだ。うかつな結果を出せば、それこ
そ彼のこの先の半生を台無しにしかねない。
  全幅の信頼というものは…寄せる側にも担う側にも、同等の覚悟が強いられるものだった。

 「―――白鳳さん」
  腕の傷に極力障らぬよう、背後の木の幹にその上体を預ける青年の姿勢をゆっくりと改める。
体の左側に重心がかかるように凭れかけ直させると、セレストは白鳳の身につけた上衣の右袖
部分を、携帯用の小刀で慎重に切り落としていった。
  次に、手持ちの荷物の中から手のひらに収まる程の小瓶を取り出し、封をねじ切ったそれを患
部からはずさせた青年の左手に握らせる。

  「…酒です。携帯用に濃度が高いので、飲みにくいかもしれませんが。多少の麻酔と、気付け
  代わりになる」
  目線での問いかけに、敢えて端的な事実だけを言葉で返す。これから行われようとしているこ
とを互いに承知している状態で、気安い労わりや慰めなど、何の意味も持たなかった。
  頷いた青年が、わずか震える手であおったそれを嚥下する様を、同じだけの覚悟を自らに言い
聞かせながら最後まで見やる。
  ややして……飲み干した小瓶をつき返しながら、かすかに酒精を帯びた容色が、いいかと言葉
で問うよりも先に再度頷いて見せた。

 「……セレスト、それを」
  それ、と言って青年が指差したのは、先ほどセレストが施療のために切り落として脇に寄せて
おいた、彼の上衣の片袖だった。 だが、意図を察したセレストは一端手にしたそれを白鳳に手渡
すことなく、手荷物の中にしまいこんでしまう。

  「セレスト?」
  「泥で汚れていましたから。一応未使用なので、俺のもので抵抗がなければ、これを」
  しまわれた袖の代わりにセレストが取り出したのは、予備の手拭と思しき無地の白布だった。
  洗い晒したのか幾分色の褪せた観のあるそれは、しかし一応未使用という所持者の言葉どおり、
清潔感にあふれていた。用途が用途でもあるから、確かに使うなら泥や汗にまみれた衣服の残骸
よりは、こちらのほうが抵抗がない。
 短く謝意を述べると、白鳳は手渡されたそれをすんなりと口に含んだ。

  衝動で万が一にも舌を噛み切ったり、歯を食いしばり過ぎて奥歯を噛み砕くようなことのないよう
に。また、完全に安全とは言いがたい場所柄を考慮して、極力物音を立てないように。二重の意味
合いで、自らに猿轡をかませる。
  全ての準備が整ったのを見て取ると、セレストは改めて白鳳に向き直った。
  覚悟の程が伝わってくるから、もういいかとは聞かない。それでも妙な方向に肘先を曲げられた
白い腕を手に取るときには、相応の勇気が必要だった。

  「……っ」
 ギリ、と猿轡がかみ締められる音を知覚したのを合図としたかのように、両の手先に一息に力を
込める。

  「――――――――っっ」

 次の刹那―――
 僅かな火種によって照らし出された夜陰の中、骨が軋む不自然な音と、その後を追うかのような
くぐもった苦鳴が、折り重なって周囲の静寂に吸い込まれていった。


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