「おいお前の番だぞ」
何度呼んでも、返事が返ってこない。それは自分と『彼』の相関においてはそれほど珍しい
事ではなく、またここ数日『彼』の機嫌が思わしくはないことを感じ取ってもいたから、いつもの
ことと受け流したヒカルは、眠気も手伝って顔を上げる手間を惜しんだ。
「お前の番だってば」
それでも返事はなく、早く対局を済ませて一眠りしたいという思いに意図せず呼びかけに険
がこもる。
最近お互いの相関が円滑とはいいがたいことをまだ引きずっているのかと思うと、こちらの
気持ちも不用意にささくれ立った。拗ねるのもいい加減にしろとばかりに、顔を上げる。
そして……
「佐為!」
これが最後と呼びかけて……そして、ヒカルはその時始めて自分が取り返しのつかない二
の足を踏んでしまったことを知った。
やけにガランとした印象を与える、しかし馴染んできたはずの室内の景観。辺りを見渡すの
に、なんの遮蔽物もない調度品の配置。
見なれたはずの景観の、しかしそこには……
「……佐為?」
そこには…それまで共に対局していたはずの、そこにあるべきはずの人物の姿がなかった。
無人の蔵の中で、どれのほどの時間をそうやって過ごしていたのだろう。
二階へと続く梯子が軋む音に、それまで息を詰める様にして眼前の碁盤と対していた
ヒカルはつと現実へと意識を引き戻された。
弾かれるように顔を上げた刹那、執拗に同じ姿勢を強要されていた体が抗議の訴えを
あげる。寝違えた時のような首筋の引き連れる痛みに、自分がどのくらい自失していたの
かが知れた。
ほどなくして、この蔵の主である祖父が梯子段の上へと顔を覗かせる。
「ヒカル、夕飯はこっちで食って行くか?」
「あ、いいよウチに帰ってから……もうそんな時間?」
「まったく灯りもつけんと…時間にも気づかんかったんかい、こりゃあまたそれも気にいら
れたもんだな」
そんなに気にかかるならプロ入りのお祝いに譲ってやらんでもないがな―――言って、
初老と呼ぶにはまだまだ年若い感の強い家主は苦笑まじりに蔵の明かりを灯した。
パッと光量を増した蔵の中は俄然その視野を明るくしたが、灯りに馴染んだ目をどれだ
け凝らしても、それまで意地のように眼前に対していた碁盤の上に、そこに転々と付着し
ていたはずの古びた染みはやはり見つけることができなかった。
早く下りて来いと言いのこし、祖父の姿が梯子段の下へと消える。
遠ざかって行く足音と共に、再び眼前に突き付けられた現実に・……ヒカルの思惟が、
答えのでない自問へと再び沈殿した。
それまで自分の傍らにあった存在が出し抜けにその姿を消してしまい、泡を食ったヒカル
が取るものとりあえず向かった先は、父方の祖父の管理する本家の敷地に建てられた古
めかしい作りの蔵の中だった。
この蔵には、自分と佐為にとって因縁浅からない曰くを秘めた、年代ものの碁盤が保管
されている。先日ここに足を運んだ際、その表面に鮮明に残されていたはずの染みが心な
しか薄くなっていたことを……そして同じ場所で自らの共鳴者の口から聞かされた言葉が、
始めの衝動から我に返った意識にまず思い起こされたのだ。
自分を試しているだとか、きっとそういう他愛もないことなのだと……ここに向かう道すが
ら、自分を落ちつける呪文のように繰り返した。きっとここにくれば佐為がしゃあしゃあと待
ち構えていて、ほら引っかかったなんて笑ったりして……
もしこれが彼のしかけた悪戯の類だったとしたら、前準備さえあったということだ。悪趣味
にも程がある、一言言ってやらなければ…と。
だが……最悪の事態を回避するにはそう思いこむよりなかったヒカルの予想は、碁盤の
保管された蔵のニ階に上がった途端、最悪の形で裏切られた。
件の碁盤の表面には……染みの類が綺麗に掻き消えてしまっていたのだ。
「……佐為…?」
今から2年以上も昔…この蔵で、余人の目には見咎めることのできなかったと言うあの
染みに気づいた目と霊感(と呼んで言いものなのかどうか今でもヒカルにはわからないの
だが)を自分が持っていたことで、自分と佐為は出会った。
かつての共鳴者が流した血痕であり、また志し半ばにして自刃を余儀なくされた彼自身
の未練無念が流した泪の痕でもあるのだというそれは、佐為がこの現世に「降臨」を果た
したと言う―――当代の共鳴者に出会えたのだという証であり、また然るべき時が訪れた
時にその存在を此岸と彼岸のギリギリの境界にとどめ置く為の「道」であり「場」でもあった
のだ。
だが……今、この碁盤に佐為の為の道はなく、自分の前から佐為は消えた。
証明の照り返しに目を眇めるようにしてどれほどねめつけて見ても、この目に、あの染み
は映らない。
…………………・どういうことだ?
まさか……そんな馬鹿な事が……
生きている生身の人間である以上、どれほど実感が沸かなくとも自分の寿命はいつか
は尽きる。この身を媒体とする佐為が、自分の死によって現世との繋がりを断たれる瞬間
は、いつか必ずやってくる。
だが……それは、自分の想像も及ばないほどの遠い未来の話だ。
お互いに感情を持っている以上衝突も諍いも数えきれないほど繰り返してきた。そんな
風にしながら、それでも自分達はずっとこんな風に共存して行くのだと…自分がいつか寿
命を終える日まで、自分達の相関は続いていくのだと…そう、思っていた。
順当に行けばあと六十年も七十年も生きていくのだろう自分にとって、天寿をまっとうす
る日など半永久的な未来の話だと思ってきたのだから…だから、想像すら自分はしたこと
がなかったのだ。
こんなに唐突に、こんな瞬間がやってくるなんて……
『私はもうじき消えてしまうんです』
あれは、ほんの数日前の出来事。蔵に泥棒が入ったという知らせを聞いて、碁盤の無事
が気がかりになって二人でここに押しかけた時に、ほかならない佐為の口から聞いた言葉。
不安だ、気がかりだと……折りに触れては彼からそういう言葉を聞いていた自分は、その
時も真剣に話を聞こうとはしなかった。根拠もなにもない、漠然とした焦燥なのだと思って疑
いもしなかったのだ。
ここしばらく、彼が焦っているように見えたのは……我を押しとおしているように感じてきた
のは……
このためか……このことを、知っていたからなのか……
恐らく彼は、もっと以前からこんな瞬間がくることに気づいていて…だから、あれだけ彼なり
のサインを何度も自分に向けていて…
それを、自分は…目先のことばかりに捕らわれていた自分は……気づくことすらできなかっ
た……!
「……畜生…」
我知らず込み上げて来るもので視野が歪み……それでも涙はそれ以上零れてもくれなく
て、代わりのように恨み言が口をつく。
「…んだよ……なんだっていうんだよ…っ」
―――俺は、じゃあどうすれば良かったんだよ…!
これだけの時間を共に過ごしていていながら、彼が内に抱えていた思いに少しも気づいて
やれなかった自分自身に腹が立つ。そして、それと同じくらい最後の最後に何も告げること
なく目の前から消えてしまった佐為に対しても腹が立った。
……解っている。これは、それだけのサインを受けながら何もしてやれなかった自分の不
甲斐なさを認めたくないがための八つ当たりだ。そこに意図があろうとなかろうと、これだけ
の理不尽を働いてしまった自分に彼が何も告げて行ってくれなかったのも当然のことである
かもしれない。
それでも……身勝手を承知で、思わずにはいられない。
自分の眼前から掻き消えてしまった佐為は、その最後の瞬間少しでも自分のことを思って
くれたのだろうか……。
きっと……彼はそうしてくれたのだろう。
自分には聞こえなかった。自分には見えなかった。それでも、自分にはわからなかった言
葉と表情で、彼は最後に自分を案じてくれたのだろう。
どれほど厚顔と、そしられても構わない。感じ取ることもできなかった自分にそんな資格が
ないことも良くわかっている。
それでも…きっと最後の最後に、佐為は自分にその思惟を傾けてその姿を消した。
理解のなかった自分に対する恨み言ではなく。怨嗟の思いでもなく。
ただ、保護者が自らの庇護者に向けるような……見返りすら望まない、泣きたくなるほど
の優しい思いと言葉を、彼は自分に向けたのだろう。
けして円滑な共存とは、言えなかったかもしれない。それでも、この二年余りの時間互い
の命運を共有してきた自分には確信できる。
藤原佐為とは……そういう存在だった。
そういう為人を持ちつづけながら、彼は千年の時を渡ったのだから……
「……佐為」
そう…腹の底ではわかっていた。どれほど互いにささくれ立った時でも、そのことを忘れた
ことはなかった。
それなのに、自分は……
相手を意識しての思惟は、そのまま自らの共鳴者へと伝わってしまう。そのくらいに、自分
達の命運は繋がっていたのに。
この二年余りの間、自分は共鳴者である佐為に、様々な思いを抱いてきた。
出会った当初はどうにも得体が知れなくて……彼の嘆きに自分が引きずられることに気味
悪さと憤りを覚えて……
それでもいつのまにか自分達の相関は空気のように自然な物となり、その望みに添うため
に始めた碁は、いつしか至極身近な世界となり……そして、連日のように佐為の手ほどきを
受け続けた自分は、それから二年余りで碁界の一員となった。
神の一手とまで呼ばれる究極の巧手を目指して高みへと進む、底知れず奥の深い碁の世
界。しかしそれは当初の自分が望むどころか、想像すら働かせたことのなかった世界だった。
佐為との出会いから否が応にも慣れ親しまざるを得なかったその界隈の門戸を……いつし
かこの手で叩いていたのはしかし、いつのまにかこの世界の抗いがたい魅力に取り付かれ
てしまった自分自身の意志だった。
プロ棋士の予備軍とも呼べる院生の資格を得、そして望んだプロ試験。ほんの二年前まで
は碁石に触れたことすらなかった、素人に毛が生えたような経歴しか持たない自分が一度
の受験で合格するなどとは、入院当初誰も信じていなかっただろう。
碁の奥深さを肌で感じる事自体に、特別な訓練はいらないだろう。有力な棋士と、何度で
も手合いを積めば自ずと知れてくるものがあるはずだ。
だが、それを得心した上で高みを目指して行くとなれば……
自分一人の力では、何年勉強したところでプロどころか院生の資格すら手にすることはで
きなかっただろう。例え自分の中にどれほどの才覚が眠っていたとしても、それを見出し伸
ばしてくれる存在がいなければ、それも眠ったままの才で終わってしまう。
ここまでの自分の経緯が、ある意味周囲から敬遠されているということは自分でも気づい
ていた。傍目には師事する人間もなしに入段を果たしたように見えるのだから、それは無理
もないことだと思う。それほどに、碁の世界というものは知るほどに奥深い。
そんな、限りなく狭く深いこの世界で―――余人の到底為し得ないある種の奇跡を、藤
原佐為が可能にした。
……そうだ。自分にそれを指摘する部外の存在などなくても、他ならぬ自分自身が、肝に
命じてわかっていたのだ。
佐為の存在なしに、今こうして碁で収入を得る事の叶う自分の姿などありえなかった。
世代を問わない知己も増え、おぼろげながら将来的な指針のようなものも自分の中で育
ち始めた。そんな風に、凡庸な一学生に過ぎなかった自分の世界を、ここまで広げてくれた
のは佐為だ。
わかっていた。いつでも腹の底では感謝していた。それでも、いつしか空気のように互い
に馴染んでしまった相手を前に、改まった謝意を伝えることはどうにも面映くて……
そして…そこにはきっと、この二年で自分の中にしこり続けたつまらない虚栄の念も、邪
魔立てしていたのだ。
自分がここまで辿りつけたのは、共鳴者の力添えがあってこそだ。自分一人の努力では、
何ほどの成果もあげることはできなかっただろう。
それが解っていながら……それでも、現実に棋士として碁界に足を踏み入れたのは他な
らぬ自分なのだと。自分の残した棋譜を見て、ときには賞賛まじりに世間が呼ぶ名前は、
自分自身のものなのだと……
自分のプロ入りは佐為の力添えによるものであり、表向きは自分の名で残した棋譜も、
彼のものであったこともある。そんな時期を、誰が知らずとも自分が知っていたから。この先
自分がどれほどの碁を築こうとも、出会った当初から彼が自分の名で残してきた棋譜を、見
た者の心から拭いされはしない事を知っていたから。
有望株と、どれほど好評を受けようとも……自分が、どうしようと佐為には叶わないことを、
自分だけは知っているから。
……そうだ。自分はあの霊魂に頼りながら寄りかかりながら甘えながら、それでもどこか
で嫉妬していたのだ。
だから……だから、いつのまにかつまらない見栄にすがった。告げなければ伝わらない
ことを知っていながら、それを口にすることを拒んだ。
彼の存在に対して自分が口にしてきたことといえば、身勝手な決め付けの言葉ばかりで
……本当に伝えなければならなかった幾つもの謝意を、誠意を、自分は意地のように飲み
込みつづけてしまったのだ。
「・……だってよ・…」
……思いもしなかったのだ。こんなに急に、彼の存在が自分の前から消えてしまうなどと
は。
いつか、自分がもう少し大人になって、そんな虚栄に飲まれなくなる時がきたら……きっと、
自分は告げる気持ちでいたのだから。
それを口にするまでにかかった時間が二年なら二年分、三年なら三年分の謝意を込めて、
きっと面と向かって彼に告げようと思っていたのだから。
どれほど、自分が彼に感謝してきたか。その存在を、出会いをありがたいと思ってきたか。
感情を持った者同士、時としてどれほどの行き違いが生じたとしても・……それでも自分の
感謝と尊敬の念はけして変わらないのだということを……
そのどれも……自分は彼に、片鱗さえ伝えてはいなかったのに……!
「…ずりぃじゃんかよ……」
こんなことなら……こんなことになるのなら……
「まだ……何にも言ってねぇよ俺…」
どれほど面映くてもいい。どれほど不器用な言葉でも構わない。
「これじゃ……これじゃ俺、マジお前のこと邪魔がってたみたいじゃんかよ……」
後でそれを言質に取られて、彼の存在からことある毎に揶揄されようと些細なことだ。
「本気で……」
自分の中にある見栄など、どれほどの価値があったというのだろう。
「本気でそんなこと、思ってたわけないだろ……?」
彼の人の中にいつでも根付いていたのであろう、漠とした不安や焦燥。その僅かでも、
祓える言霊を、彼と共存する自分だけが持ち得たというのなら……
……言ってやるのだった。どんなに拙い言葉でもいいから。
そんなに不安に雁字搦めにされていることはないのだと。直接対することは叶わなくと
も、世間は確かに、お前を見ていたのだと。
こんなに急速に、お前が消えなければならない事由などどこにもありはしないのだと。
確かに、自分は様々な言葉の刃を彼に叩き付けてきた。佐為の影に飲まれたくないば
かりに、外部の心象の中からその存在を消してやると口にしたこともある。
それでも……本意から疎ましがって、そんなことを言った訳ではなかった。その釈明す
ら、自分は彼に伝えていない。
伝えたいのに……何を置いても、自分が言わなくてはならなかったことなのに……
「なに……独り合点してんだよ・……っ」
あなたの存在を必要としているのだと……自分こそが、あなたにここにいて欲しがって
いるのだと……
謝るから……つまらない見栄など無視して、何度でも、自分はこれまでの言葉を詫び
るから……
だから、佐為……
言葉を重ねる毎に、堪えきれなかった思いの発露が溢れて蔵の床へと滴り落ちて行く。
そういえば、いつのまにか佐為が自分の前で泣く事はなくなっていったと、つと追憶の
機軸がずれた。
出会ったばかりの頃は、自分達の相関もぎこちないものでしかなくて、互いに齟齬が生
じる度に佐為はそのことを嘆いていたものだった。
波長を共有する自分にもその衝動は影響し、佐為が涙を流すたびに自分も何度悪寒を
味わった事かわからない。
共存を続けるうちに、いつしかそういった事もなくなり……吐気に悩まされる事もなくなっ
た自分はそれを関係の落ちついてきた証拠だと素直に喜んでいたのだが…
だが…本当に、そうだったのだろうか…。
出会った当初よりも、突き付けられた「現実」と戦っていた分だけ佐為の抱える衝動は
大きく深刻なものであったはずだ。
それでも、自分が一度でも、波長に引きずられる事がなかったのは……
まさか、佐為……
こんな事までが…彼の抱える荷物の一つになっていたのか…?
その衝動がこちらを引きずる事が解っていたから……だから、いつでも自分を押さえてい
たのか・…?
もちろん、共鳴者である自分の不甲斐なさを、彼が見抜いてしまったというある種諦めに
もにた思いもあったのだろう。それでも……
だから…最後まで押さえたまま……自分一人で最後まで抱え込んだまま、彼は消えてし
まったのか…?
「……っ」
こんなのはない。こんな抜け駆けはなしだ。
まだ間に合うなのら、対面が叶うのなら、今度こそ自分は伝えるから。腹の底から真剣
に、その焦燥に向きあってみせるから。
これが運命でも、神様の定めた柵でも……「勝つ」のも「負ける」のも、自分達二人で向
きあって得心したことでなければ嫌だ。
共鳴者というのは……そういうものだろう…!
と、その刹那―――
「ヒカル?いつまでそこにいる気じゃ?」
出し抜けに階下からかけられた声に、ヒカルは激情の片鱗を少しでも隠そうと慌てて半顔
を拭った。
自分が母屋に戻ってくる気配がないことをいぶかしんだ祖父が、様子見をかねて再び呼び
にきたのだろう。身内とはいえ、こんなところを人目には曝したくない。
だが、時を置かずして二階に上がってきた祖父は、過たず孫の異変に気付いたようだった。
「……なんじゃいヒカル。いつまでも戻ってこないと思ったらこんなところでべそかいて」
なにか、家で嫌な事でもあったんかい?―――隣に腰を下ろしながらこちらを覗きこまれ、
せめてもの抵抗に顔を背けながら首を振る。
それきり黙りこんでしまったヒカルに何を思ったか、うーんと唸ると祖父は嘆息した。
「言いたくないならそれでもいいがな。まあなんにせよ、人生なんて後悔の連続じゃよ。お
前なんかはまだ若いんだから、何度でも後悔してそれを肥やしにしていきゃいい。それを
世間様から許されるのが若いってことだ。多いに利用すればいい」
「じいちゃん……」
人生訓話へと雪崩込みそうな語り部の言葉をさえぎったのは、それまで神妙に聞きいって
いたヒカルの呼びかけだった。
「若くったって……許されない後悔ってあるよ…」
「ヒカル?」
「肥やしにできるほうはいいけど……でもそのせいで人が死んじゃったり、人一人のその先
を台無しにしてしまったりなんて…許しちゃいけないものだろ?」
「なんじゃい、随分込み入った話じゃな」
「俺…俺のせいで、二度と会えなくなってしまうかもしれないんだ。そういうこと、俺はしちゃっ
たんだよ…」
ねぇじいちゃん……言って、ヒカルはそれまで執拗にそらせていた目線を祖父へとひたすえ
た。
「……俺…どうすればいい?嫌なんだよこんなの。まだ言ってないこと一杯あるのに、きっと
一杯誤解させたままなのに、このまま会えなくなるなんて嫌なんだよ。まだ俺…あいつに
一番大事な事言ってな……っ」
「ヒカル…」
それきり、辺りを重苦しい沈黙が押し包む。
百を五つ数えるほどの時間がすぎて……先に口を開いたのは人生の先駆者である家主の
方だった。
「なんと言うのかのぅ……お前もいつのまにか、自分の世界っちゅうものを作り上げつつある
んじゃな。それだけ思い入れられる出会いができたんなら、それはお前にとっても幸せな
事じゃよ。そんな出会いは、人生にいくらもない。ましてやワシのようなじじぃになってから
じゃ、古い友人からなにから先を争って逝ってしまって、年取る毎に思い出ばっかり積み重
なって行くだけだからな」
細かいことは解らんが、お前は恵まれとるんじゃよ……言って、語り部はそれまで注意がそ
れていた、孫の眼前に据えられたままの古びた碁盤に視線を落とした。
そういえば、ここのところ孫があしげく家にやってくるのはこの碁盤がらみばかりだった……
そう思い至った刹那、つとあることに思惟が傾く。
「そう言えば……お前が碁を習いたいなんて言い出して、お前の母さんがここに相談にきた
頃からだったかなぁ?いや、もうちょっと前か」
「じいちゃん?」
「この碁盤……曰くつきだってことは前に話したじゃろ?『烏帽子を被ったお化け』の話は」
「あ、ああ」
「どうもワシはそこいら辺に疎くてな。目でみた事はないが……いや、思い込みって言うのも
あるんじゃろうがな、こう感じるものはあったわけだ。禍禍しいような類のものでもなかった
が……どこか異質な…人でないなにかがいるような、な。それでいて妙にこう、生々しい感
覚もあって…」
それが、ある日を境に妙にさっぱりしちまった……
そこまで語り、つと語り部はその視線を遠くする。
そして…
「……なぁ、ヒカル」
そして……再び現実へと引き戻ったその目線は、今度は真っ直ぐにヒカルの姿を捉えていた。
「唐突に何を言い出すんだと思うかもしれんが…」
「…なに?」
「さっきからお前の話に出てくる相手って言うのは…その、例の噂がらみの相手の事なんじゃ
ないか?」
刹那―――
「……じいちゃん…」
刹那…こもった熱気が不快に感じられるほどだった蔵の空気が、サッとその体感温度を下げた
ようにヒカルには感じられた―――
…… to be continued