「…なぁ、ヒカル」
「唐突に何を言い出すんだと思うかもしれんが…」
「さっきからお前の話に出てくる相手って言うのは…その、例の噂がらみの相手の事なんじゃ
ないか?」
刹那―――
「……じいちゃん…」
刹那…こもった熱気が不快に感じられるほどだった蔵の空気が、サッとその体感温度を下げた
ようにヒカルには感じられた―――
「…な…んで、じいちゃん……」
問いかけの声は、酷く震えを帯びた。血の気が引いていく気配すら、手に取るように解った。
そんなことがあるはずはない。自分以外の人間に、理解できようはずがないのだ。それなのに…
緊張にかさつく唇を無意識に舌で湿しながら、続く祖父の言葉を待つ。
冗談なのだと、軽く流して欲しかった。お前が余りにこの碁盤に執着するから、ちょっと脅かして
みただけなのだと、したり顔で窘めて欲しかった。
祖父の言葉をそのままの意味合いに受け止めてしまえば、自分は自分の犯していたもうひとつ
の過ちを認めざるをえなくなる。それだけは、どうあっても絶えがたいとヒカルは祈るような思いで
身を堅くした。
だが…返って来た応えは、ヒカルの抱いた畏怖の思いを裏切らなかった。
「なにかあるんだろうとは…気付いとったよ。なぁんとなく、な」
それっくらいの思いきった転機でもこなけりゃ、お前がこんなものに自分からはまり込む訳がない
からな。
続けられた言葉に、相手を揶揄する響きはなかった。これまでの長い隠蔽を、咎め立てるよすが
すらなかった。
ましてや憐憫でも厭悪でもない、ただ自らの幼い外孫を気遣うばかりの穏やかな語調。
それでも……紡がれた言の葉には、聞き手を瞠目させるだけの衝動があった。
どうして、どうして。何故今になって。
話したところで、誰にも解ってはもらえないと思っていた。夢想癖のある子供の戯言だと、そう笑
われて終わらされてしまうのだと思っていた。
自分と件の霊魂の相関はそれほどに非現実的で、それを説明しようとすればするほど荒唐無稽
に思えて…
自分を取り巻く世界から、常軌を逸していると指差されることが嫌で。今の自分の棋士としての立
ち位置が、努力も認めてもらえずにただ境遇に与えられたものなのだと決め付けられてしまうことが
嫌で。
厚意も信頼も何もかも取り払った腹の底で…佐為に対してそんな後ろ暗い屈託を抱えている、自
分の隠しようもないエゴが嫌で。そんな自分の情動を、認めたくなくて。
だから、この相関は誰にも知られてはならないと。生涯隠しおおさなければならないのだと。
なのに、何故…もう取り戻しの聞かないところまで事態が動いてしまった今になって何故。
薄々自分を取り巻く境遇に気付いていたという祖父の言葉が、それまでとは別種の悔恨となって
ヒカルの胸を焼いた。
こんなことなら。こんなことになるのなら。
自己にしか目を向けることのできなかった自分との相関を続けるためには、あの霊魂には理解者
が絶対に必要だった。自分以外の誰かが彼の存在に理解の手を差し伸べてくれていたら、今自分
の向きあっている窮状は今少し違うものとなっていたはずだ。
そんなものはありえないのだからと、始めから周囲への理解など求めようとも考えなかった自分。
だが…余りにも近しいところに、それはいとも容易く差し出されていたのだ。
もし、自分がそれに気付いてさえいたら。
全ては仮定の話だ。これが抗いようのない顛末であったのだとしたら、誰の理解をえようと助力に
すがろうと、どの道佐為が自分の前から消えてしまったこの現状に、なんら変化は望めなかったは
ずだ。
だけれども。そんな仮説を立ててみることさえ、放棄してしまった自分は…
今になって…佐為のいない今になって、こんな手痛い竹箆返しがくるとは思ってもみなかった。
こんなことなら…こんなことに、なるのなら…
「……ヒカル?」
「……ッ…ッフ…ッ…グ…ッ」
人生は後悔の繰り返しだと些か自嘲気味に呟いた祖父の言葉が胸襟で反芻する。
自分を奮い立たせるために言ってくれたのだろうその言葉の、しかし内在する意味の重さに総身
が竦みあがるような心地がした。
こちらを気遣うように声をかけてきた祖父に言葉を返すこともできず、情けのないばかりの醜態を
せめて曝すまいと、膝をまとめた両の腕の上にきつくその面を押しつける。
噛み殺しても噛み殺しても喉をつく自らの嗚咽をどこか他人事のように聞きながら、ヒカルは新た
な後悔が泥の様に胸襟を淀ませるのを知覚していた。
そう…何もかもが、自分の認識と覚悟の甘さを起因とするが故の惨事なのだ。
こんなことになるのなら…
話してしまえばよかったのだ。自分と命運を共有する、共鳴者の存在を。
自分以外の誰かがその存在を知覚していたら…きっと、今のこの状況には、何らかの変化があっ
た。自分以外彼の存在に触れることがなかったからこそ、彼は「世界」から掻き消えてしまったのだ
から。
誰か一人でも…なにも碁会の関係者などでなくてもいい。身内の、信頼が置けるという意味合い
では、正にこの祖父にこそ。せめて祖父だけにでも。
伝えておくのだった。あの魂魄が消えてしまわないうちに。確かにここに存在しているのだと、そう
言い張る事ができたうちに。
そうしようと思えば、いくらでも機会などあったのに、自分は……
―――劣等意識丸出しの片意地なんて、張るのではなかった……
◆◆◆
「……そういうことだったんかい」
二年という時間を遡る孫の長い回顧に耳を傾けていた家主は、気を取り直すように大きく息を
つく事で辺りを支配していた重苦しい沈黙を打ち破った。
まだまだ人として未分化な存在だとばかり思っていた孫の昔語りは、既に初老と呼ばれても
おかしくはない人生経験を持つ彼にとっても、俄かには信じがたいものだった。
そして同時に…これまで釈然としなかった懸念の幾つかの、符号が遅れ馳せながら一致した
のも事実だった。
これまでまるで興味を示す素振りさえなかった碁の世界に、二年の昔、何故ヒカルが唐突に
足を踏み入れる事となったのか。棋力から言えば全くの素人にすぎなかったヒカルが、たかだ
か二年という時間でプロ棋士と言う狭き門を潜ることが叶ったのは何故だったのか。
……ここにきて、この家にそう寄り付く方でもなかったはずの孫がなにくれとなく理由をつけて
は、こんな古びた碁盤目当てに蔵に入り浸っていたのは、なんのためだったのか。
そこに聞き手の存在があることなど考えてもいないかのようなヒカルの語調は、回顧と呼ぶ
には余りにも乱雑で、話の筋道を追うのに祖父は少なからず苦労をした。それでも、何度も何
度も孫の言葉を反芻することで、どうにか大まかなことの次第を得心する。
この家の預かり物となった時分からなにかと物々しい曰くの絶えなかったこの碁盤に宿って
いたと言う、千年の時流を渡った古の貴人の存在。波長が合ったのか、あるいは全くの偶然の
産物であったのか、ともあれその霊魂と、共鳴と言う形でヒカルは互いの命運を共有していた。
藤原佐為・・・それが、件の霊魂の名であるという。この二年、誰よりも側近くでこの孫の碁打
ちとして、人としての成長を促してきた存在であったのだと。
なにかの曰くがあるのだろうとは、以前から薄々と察していた事だ。ヒカルにこんな話を持ち
かけたのも、カマかけというよりはある意味、自分の中にあった懸念を解消する裏づけを求めた
からで。
だが…いざ蓋をあけてみると事実は自分の思うよりも遥かに複雑で…俄かには言葉を発す
る事ができなかった。これは、自分の憶測の規模を余りにも超えている。
それでも、こんな話を振ってしまったのは自分で、それが孫の胸襟にどれほど爪立てるもの
であったのかは、こうしてその回顧を聞けば歴然だった。
十五歳にすぎない子供が経験してしまうには、余りにも重すぎる出会いであリ別離だった。
自らの命運をも分け与えあうような相関が、人格形成の完成されていない子供に与える影響
は余りにも強すぎる。
そういった存在と、ヒカルは生まれて始めての別離を味わったのだ。そう考えれば、孫の尋
常ではない取り乱しようにも得心がいく。
人生を変える程の出会いなど、そうそう巡り合わせのあるものではない。そんな出会いは、
長い人生の中でも数えるほどだろう。
そんな相手と―まつわる曰くはどうあれ―早々に出会えた事は、ある意味では幸運と言え
るのか……腹の底では孫煩悩な好々爺でありたい家主は、孫の名を呼び、しかし続く言葉を
紡ぐ事が結局はできなかった。
お前は幸運なのだと、先刻までと同じ励ましを口にするには聞かされた話は重すぎて…か
といって、お前が悪かった訳ではないのだと、安易なお定まりの慰めを向けられるほど、こと
は単純なものではなかった。
結果としてむっつりと口を噤んだまま、年期を思わせる色合いをした蔵の天井を、なんとも
言えず情けない思いで見上げてみる。
自分のせいなのだと繰り返すヒカルの言葉は確かに真相の一角を担うものであり…そんな
孫になんと声をかけたものかわからずに、彼は再び辺りの空気を支配した静寂を、盛大に吐
き出した自らの呼気で破る事しかできなかった。
……to be continued
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