faith9





 ロロの取った出し抜けの行動は、ただでさえ正常な判断能力を欠いた状態にあった
ルルーシュの思考を、追い討ちのように白く塗りつぶした。


 容赦のない力でつかみ取られ、あろうことかその一点を主軸に体ごと引きずり寄せ
られたために、両の手首から腕の付け根にかけて筋を違えたような痛みがある。何よ
り、自分より背丈も背幅もない相手に正面から抱きすくめられているこの体勢は、息
苦しさを満足に逃がせる場所もなく、受け身を強いられる側には苦痛だった。


 だが、そんな力押しが、それまで錯乱状態にあったルルーシュの頭を冷やす事に
なったのもまた、事実で―――



 手首の拘束が解かれたままの半端な体勢で、収めどころを得られず空をつかむば
かりだった両腕が、ダラリと地面に下ろされる。
 抵抗をやめたルルーシュの肩口に、釣られて脱力したかのように、ロロの額が押し
当てられた。


 「……兄さん…」

 布地を通してくぐもった……しかしこの一年余りで耳に馴染み過ぎた声が、縋りつ
こうとでもするかのように、何度も自分の名を繰り返す。
 その伏せた額が押しつけられたままの肩口が、じわりと湿り気を帯びていくのが解っ
た。


 虚空へ向けて瞬かれた若紫の双眸に―――束の間、追憶の色がよぎった。



 偽りの記憶を植え付けられて以来、この声に、兄である自分を渇望され続けてき
た。今こうして、密着した互いの体を通して伝わってくるロロの鼓動も、この記憶には
馴染みのあるものだ。

 それほどに、当たり前のように近しい関係を、自分達は共有してきた。
 改竄され、封じられていた記憶の全てを取り戻した時、それらは身震いを覚えるほ
どに厭悪した記憶であり感触であったはずなのに……今、その追憶を懐かしいと感
じる自分が不思議だと、ルルーシュは思った。




 我に返ったかのように、地面に投げ出されたままだったその手が、意志の力で再
び持ち上げられる。
 及び腰に伸ばされた掌が、一呼吸ほどの躊躇いの後、自分を抱きすくめたままの
ロロの背中に触れた。


 「……っ」

 途端、顔を伏せたままのロロの総身が弾かれたように竦み上がる。それを宥める
でも咎めるでもなく、ただ相手の出方を促すかのように、ルルーシュは回した手で
二、三度その背を叩いた。

 きっかけを望んでいたのは、あるいはそれを仕掛けたロロの方こそだったのか……
ルルーシュの手に促されるように、伏せられた顔がゆっくりと持ち上げられる。

 「この世界は……今の日常は、貴方にとって、そんなにあり得ないものなの?そ
  うやって生きてきた時間を、否定しなきゃならないくらい、許せない?」

 同時に両腕の拘束を解いてルルーシュとの距離を取ったロロは、感情の名残を物
語る双眸を眼前の「兄」へと向けた。



 「……貴方にとって、書き換えられた記憶を頼りに過ごしてきた時間は、全部紛い
  ものみたいに思えているのかもしれないけど……この一年、貴方は確かに、ル
  ルーシュ・ランぺルージとして生きていたよ。書き換えられたのは、貴方が覚えて
  いると都合の悪いことだけで……貴方の中の倫理観とか、感性とか、そういった
  ものまで塗り替えられた訳じゃない。貴方は、貴方の価値観で、この一年を生き
  てきたんだ」
 「ロロ……?」
 「……この一年、僕はずっと貴方を見ていた」

 それは、言葉の意味合いから連想させられるほどには、甘い響きを含ませた吐露
ではなかった。
 この一年間が紛いものではなかったと言い募りながら、しかし語られる言葉もその
表情も、「監視者」としてのロロを前面に押し出している。その真意を測りあぐねて結
局口を噤むよりなかったルルーシュを前に、けして流暢とは呼べない語調で、昔語り
にも似た独白が続けられた。


 「監視対象だった貴方に、ほんの少しでも違和感を抱かせてしまったら、僕の任務
  は失敗する。ブリタニア本国からの任務を取り上げられたら、もうどこからも声は
  かからない。どこにも、僕の居場所はなくなる。……だから、本当にこの一年、僕
  は必死だったよ。ゼロとしての貴方の暗躍。ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアとしての
  貴方の本国での足跡。記録に残っているものは、手当たりしだい読み漁ったよ。
  そして、研究した。どう振る舞えば、貴方に用意された新しい生活に違和感なく溶
  け込めるのか」

 そこまで口にすると、ロロはそれまで淀みなく言葉を繋いでいた独白の続きを、ふ
と飲み込んだ。眼前の「兄」へと向けられた目線に束の間感傷めいた色をのぞかせ
て、その双眸がわずか伏せられる。


 「……どう振る舞えば、貴方の「弟」になれるのか」


 向けられた言葉に反射的に身じろいだルルーシュを、思うところを含ませた目線が
追いかける。

 それは、言うなれば、自らの封じられていた記憶を取り戻したことをこの少年に看破
された時のような、後味の悪さをルルーシュに彷彿とさせる語調であり表情だった。
 ロロが真っ直ぐに差し出した手を、自身の後ろめたさに気が咎めて掴み取ることの
できなかった負い目が、向けられた視線を受け止める気概をもまたルルーシュから奪
い取る。

 だが、監視者とその対象者として初めて相対した当時にも似た緊張を共有しなが
ら、それでもロロは、当時のようにはルルーシュに対する追及の手を伸ばさなかった。


 「だから、この一年間の貴方の事なら、貴方以上に僕は知っているんだ。―――貴
  方は、普通の学生に比べて随分頭が切れて、だけどその代わりのように体力面
  がからきしで……そして、いつでも、本当に自然体だった」

 相手の答えを期待しない一人語りには、始めから話の筋道が整理されておらず、
語り手の思いつくままを並べていくその内容は時系列も乱雑で、聞き手に対して親
切であるとは言い難かった。
 自身の負い目と相まって、結果としてその問わず語りの聞き役に徹するよりなく
なったルルーシュを尻目に、自らの追憶と向き合ったロロの独白が訥々と続けられ
る。


 「学生の立場では手が出せない理不尽な格差に直面したとき……例えば、ブリタニ
  ア人とイレブンとの確執を目の当たりにした時なんかだけど、そんな時は、貴方
  が苛立ちを持て余しているのが分かった。封じられたはずの、ゼロとしての記憶
  に触発されたんじゃないかって、随分気を揉んだりもしたけど……」

 語り進む内に、当時の感情を追体験した心持ちになったのか……束の間剣呑な
色を覗かせた語り部の双眸が、ややして浮かび上がった別種の情動と混じり合い、
波紋を描くように複雑な色合いに彩られた。
 まるで猫の目のようだと、どこか焦点を外した感想を抱いたルルーシュに向い、ロ
ロがでも、と言葉を繋ぐ。


 「……でも。こんな言い方は貴方の気に入らないかもしれないけど、それでも一ブリ
  タニア人としての貴方は、本当にのびのびと毎日を過ごしていたんだよ。学生生
  活も、けして素行がいいとは言えなかったけど、本国への隠れ蓑としてだけ籍を
  置いていたっていう以前の貴方に比べたら、ずいぶん楽しそうに、満ち足りてい
  るように見えた」
 「……っ」
 「僕に対する態度も、そうだった。貴方がナナリーを思う気持ちの程は聞かされてい
  たし、その身代わりを演じるんだと思ったら、初めて貴方と接触した時は、随分気
  が張ったよ。僕には元々身内がいないし、これからの長い時間、弟の顔で貴方
  の側に居続けることができるのか、内心では不安ばかりだったし、シミュレーショ
  ンの段階で、試行錯誤の連続だった」


 それなのに―――言って、ロロはその口角を僅かに持ち上げて見せた。


 「なのに、いざ二人きりの生活を始めてみたら、貴方は僕の思い描いていた「ル
  ルーシュ」像と全然違っていた。ただ一人の妹を守るために一日の全てを費や 
  しているって聞いていたから、貴方の「過保護」にも耐性をつけておかなきゃって
  覚悟していたのに、結構貴方は自分勝手だし。気まぐれで授業はさぼるし補習
  は受けないし、挙句その脱走に僕をつき合わせたりするし。貴方はいつでも僕に
  優しかったし、その一つ一つは、心底僕を困らせるようなものじゃなかったけど、
  数がかさめばうんざりすることもあった。介護の要らない「弟」なら、貴方との関係
  はそんなものなのかなって、そうも思ったけど……僕と接触したことでルルーシュ
  という人間像が変わったんだとしたら、それは監視者としては大事だったから。
  その度に、監視者としても弟としても、いちいち軌道修正するのは大変だったよ」

 言葉を重ねるにつれて、その容色を彩る苦笑の色が増していく。好き放題に上げ
連ねられて思わず憮然となったルルーシュとは対照的に、追憶を物語るロロは、どこ
か幸せそうですらあった。

 「始めのうちは、修正修正の繰り返しで、貴方に対しても苛々させられたけど……
  そうやって、「弟」像に少しずつ手を加えていくうちに、いつの間にか肩の荷が下
  りたみたいに、貴方の側にいることが楽になってた。必要以上にナナリーを意識
  して演じなくても、貴方は当たり前のように僕との日常を送れるんだ思ったら、な
  んだかそこが自分の居場所のように思えてしまって……」


 監視者としては、その場でお役御免になっても仕方がない体たらくなんだけど―――
続けられた言葉の語尾が、不自然な震えを帯びた。
 ややして……続けられた吐露を追いかけるようにして、笑みを形作ったロロの頬桁
を、堪え切れずに伝い落ちていくものがあった。



 「―――この居場所を手放したくないって……そう、思ってしまったんだよ」
 「……っ」
 「ルルーシュ……作りものだ、紛いものだって、そう言って切り捨てようとしているあ
  の頃の貴方が……僕を、そう変えたんだよ」




 それは、この一年誰よりも側近くで暮らしながら、ルルーシュが初めて目の当りに
した、ロロの激情だった。

 それが「弟」としての作られた仕草であったのか、それとも彼元来の性質であった
のか、ロロではない自分には判断のしようがない。だが、執拗に「兄」である自分を
求め、事あるごとに自分を試すかのように甘えてみせていた、言わば脆弱な心象す
ら受けてきたロロが、それでもこんな風に、自分の前で激情を晒したことはなかった。

 自分を前に、こんな風に涙を流す「弟」を……自分は知らない。



 「ロロ……」

 「弟」の名を、及び腰に口にしてみて初めて気づく。
 腹の底からの叫びをぶつけ合ったためか、弾ける寸前にまで溜まり高まっていた
鬱積は、いつしかその臨界から遠ざかっていた。

 何よりも、激した自身がいったん鎮静化されたことで、ここにきてこれまで無視し続
けた疲弊の程が唐突に意識されて、これ以上気を高ぶらせる事も億劫に感じる。
 ナナリーとの決裂以来、言い表すことのできない衝動に凝り固まっていた総身から、
不意に力が抜けたような気がした。



 ―――信じても、いいのだろうか


 毒気の抜けたような意識の底で、それまで思いもかけなかった方向から、湧き上
がってきた自問の言葉。

 それこそが、自身の手駒に仕立て上げようとした偽りの弟に仕掛けた、手管の代
償だった。自分に向かって何度も同じ葛藤を繰り返したであろうロロに対して、それ
は本来許される自問ではない。


 『……信じて、いいんだよね?』

 ゼロとしての自分を取り戻したあの時、そんな自分への態度を決めあぐねたロロ
が、縋るように何度も繰り返したためらい交じりの問いかけ。問いの形を取っては
いたが、それは自分の肯定という後押しを期待する、紛れもない願望から発された
言葉だった。

 当然だろうと、何度も答えた。自分達は兄弟なのだからと、そう言って、他に縋る
身内も持たない偽りの弟を、籠絡し続けてきた。
 その「弟」に……今は仕掛け側であったはずの自分の方こそが、縋るものを求め
て自ら手を伸ばそうとしている。


 本来、けして立ち位置の交わる筈もない、監視対象者であった自分に向けて、及
び腰に躊躇いがちに、それでもその胸襟を開いて見せた、天涯孤独の少年。振り
払われたが最後、生涯拭い去れないかもしれない傷を自ら抱えることを覚悟の上で、
それでも、自身の葛藤と折り合いをつけながら、彼は差し伸べたこの手を取った。


 結果としてそれだけの代価を、相手に強いた野望ではなかったか。
 承知の上でロロに支払わせた代償は、それを担う側に立たされた以上、逃げるこ
となく向き合い、この身で背負わなければならなかった。

 今、互いの立場が逆転したこの状況下で、それでも自分と共にありたいと笑って
見せたロロ。負い目があるなら贖って見せろと叫んだロロ。恐らくは彼が自分に対
してずっと懸念を抱いてきたように、彼ではない自分に、その腹の底にある思いは
解らない。


 だが……それが、口先ばかりの空言であったとしても。



 「…………ロロ」


 胸の内に残された、せめてもの矜持で、ともすれば情動に乱れかける呼吸を整
える。
 眼前でその感傷を曝け出したままの「弟」の泣き濡れ顔を、その日初めて気押さ
れることなく、ルルーシュは正面から真っ直ぐに見据えた。

 そして……



 「……お前は、ナナリーじゃない」
 「兄さん……」
 「お前の事を、ナナリーのようには愛せない」
 「兄さん、だから……っ」
 

 先刻の愁嘆場をそのまま再現するかのようなルルーシュの言葉に、また同じ問
答を繰り返すのかと、苛立たしげにロロが声を荒立てる。
 だが、掴みかからんばかりに詰め寄るロロの怒気を真っ向から浴びせかけられて
も、今度はルルーシュは動じなかった。

 そして……



 「……それでも…」


 そして……向けられた情動に怯むでもなく阿るでもなく、自らの「弟」に正面から
向き合ったまま、ルルーシュは、緊張に干上がる喉奥から最後の気概でその声を
絞り出した。



 それが、口先ばかりの空言であったとしても―――
 一度は「弟」と呼んだ存在が自己責任で耐え抜いた、岐路に直面する事の重圧か
ら、自分一人が逃げ出すことはどうしても我慢できなかった。



 「それでも……お前が必要だと言ったら……」


 その胸の内に抱える葛藤の程を思わせるかのように、独白を繋ぐ沈黙は、けして
短いものではなかった。
 だが……続く言葉をその胸襟から過たず吐き出すことを、ルルーシュはもう躊躇い
はしなかった。


 「……力を、貸してくれるか?ロロ……」




 それは、腹の底に芽をもたげた感情である事を知りながら、これまで頑なに目を
背け続けてきた自らの意固地さから、ようやく解放された最初の瞬間であったかも
しれない。

 眼前で虚を突かれた様相を見せる「弟」の幼い容色を、ルルーシュは、封じられ
た記憶の解放以来初めて、好ましいものとして受け止めていた。



                               TO BE CONTINUED...


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