あまり頻繁に使われることがないのか、蝶番がぎこちなくきしむ音を立てな
がら、合成樹脂で作られた扉が開放される。
「……よく、機情の目を盗んでこんな場所を押さえられたな」
ロロに促されるままに、開かれた扉をくぐったルルーシュの……それが、第
一声だった。
シュンジュクゲットーに残された再建開発跡地を離れ、ルルーシュとロロが
移動したのは、先述の跡地から公共交通機関一駅分ほどを隔てた場所にあ
る、手入れは行き渡っているもののどこか古めかしい印象を拭えない、築年
数に年季を感じさせるマンションの一室だった。
あの開発跡地で、自虐の堂々巡りからようやく抜け出す転機を得たルルー
シュを、ロロは当初、自分達が生活の場として共用するアッシュフォード学園
のクラブハウスに連れ帰ろうとしていた。だが、その提案に、当のルルーシュ
が難色を示したのだ。
あの部屋では、眠れない―――ルルーシュが口にしたのはその一言だけ
だったが、兄の取り乱しようを一部始終目撃したロロが、その言外に込めら
れた真意を読み逃すはずがない。
ルルーシュは、長年馴染み、相応の勝手も利くあの部屋に戻ることを恐れ
ていた。
慣れ親しんだ私室で、それでも眠れないと吐露したその言葉の意味すると
ころは―――
『ナナリーの、夢を見るから?』
新総督の奪還作戦が実行に移され、そして頓挫した夜、一晩中うなされて
いたルルーシュを思い出す。
その晩は敢えて素知らぬ振りを決め込んだ彼の機微を、今なら話題に上ら
せても、悪戯に追い詰めることはないだろう―――そう判断して、ごくさりげな
い口調で水を向けたロロを、予想通りルルーシュは咎めなかった。
知っていたのかと苦笑すると、先刻の喧騒で自身を覆う意固地の盾を取り
払ったルルーシュが、呆気なく己の傷痕を白状する。
その上で、あのクラブハウス以外の場所に行きたいと望んだ彼に、ロロは、
自分の息のかかった場所でいいのなら、と持ちかけたのだ。
一連の騒動で、ある意味腹が据わったのであろうルルーシュは、その提案
を拒まなかった。
そして、話は冒頭へとさかのぼる。
ロロがルルーシュを誘ったのは、彼が架空名義で個人的に契約していた、
隠れ家的な一室だった。
「……でも、俺の弟役として監視をするなら、同じ家の中で寝起きするのが一
番だろう?実際お前はいつも俺と行動を共にしていたし、わざわざ別に部
屋を用意する必要はなかったんじゃないのか?」
通された室内を所在なさげに見渡しながら、生じて当然の疑問をルルーシュ
が口にする。それは、向けられたロロにとっても後ろ暗さを抱かせる疑念であっ
たが、ロロは敢えて言葉を濁さなかった。
「うん……貴方の行動を逐一観察するだけなら、こんな部屋はいらなかったん
だけど。ただ、監視対象者の貴方と四六時中一緒にいるのも、報告に差し
障る時もあったんだ。だから、そういう時に貴方から離れられるようにって、
情報局が別に部屋を用意してくれたんだけど……」
そこまで口にして、この部屋の事じゃないよ、と、言わずもがなの蛇足まで言
葉に出してしまう。だが、承知していると言わんばかりにその言葉を受け流す
ルルーシュに動揺を思わせる素振りはなく、そんな風に自分達の間に見受け
られる些細な変化が、ロロには素直に嬉しかった。
そんなルルーシュに後押しされたかのように、気を悪くしないんでほしいんだ
けど、と、幾分及び腰に言葉を重ねる。
「僕がこれまでついた任務は、暗殺とか情報の撹乱とか、下調べは必要でも
実行そのものは短時間で終わるものが殆どだったから……身元を偽って、
一年もの間誰かを監視するなんてこと、経験がなかったんだ。元々僕には
家族もいないし、貴方の弟として振る舞えって言われても、始めのうちはそ
れがものすごく苦痛だったんだ。……だから、どうしても息が詰まって我慢
できなくなった時に、逃げ込める場所が欲しくて、個人的にこの部屋を借り
た。情報局の手配してくれた部屋じゃ、結局こっちの行動が全部筒抜けに
なりそうで、安心できなかったから」
だから、この部屋には何の監視の手も入ってないよ―――そう続けながらも、
どうしても語勢が失われていくのは、ここが本来、ルルーシュをも遮断したいが
ために用意された場所であったからか。小さくごめん、と口にしたロロに向って、
ルルーシュは苦笑した。
それよりも、と、改めて室内を見渡した若紫の双眸が、別種の懸念ごとに眇め
られる。
「今更、そんな事はどうでもいいさ。……でも、この部屋……築年数はそれな
りらしいが、セキュリティーもしっかりしているし、家賃もそれなりの値段なん
じゃないのか?隠れ家と言っても電気が通っているし、だったら水やガスも、
生活できる状態になってるんだろう?その光熱費だって年単位となったら…
…」
「兄さん……」
どうやら、ルルーシュにとっての最たる関心ごとであり懸念ごとは、この部屋の
維持費をロロがどこから捻出していたのか、というところにあったらしい。それは
世間並の感性に準えて考えれば、自分やルルーシュの世代にある、それも通常
生活観念の発達しにくい男子が気に留める部分ではないように思えた。
意外の念の下から、今更のように、ブリタニアを出奔してからのこの青年の足
跡が思い起こされる。自分達の生活を守るために、皇子であった頃の自分から
は及びもつかないような経済感覚を苦労して身につけたのだろう彼の労苦を思う
と、痛ましさと頼もしさがない交ぜになったような、複雑な心境になった。
だが……それ以上に、長年「家計」を預かってきたのであろうルルーシュが、
彼の庇護する妹に向けるのと同じ目線で、自分をとらえている事が、ロロにはな
んだかおかしかった。
お前はナナリーではないと、そう執拗に繰り返したのは、彼自身だろうに……
「兄さん……僕は一応、情報局に籍を置いた軍人なんだよ。与えられた任務を
こなせれば、ちゃんと報酬は貰えるんだ。場合によっては、難度に合わせて
成功報酬がプラスされたりもしたし……その上、基本的には衣食住が保証さ
れていたからね。「別宅」を手に入れられるくらいの蓄えは、ちゃんとあるんだよ」
説明を続けながら、次第に語調に笑いが滲んでしまうのは、それを耳にしたル
ルーシュの表情から、彼の内心が手に取るように把握できてしまったからだ。
一瞬意外の念に虚を突かれた兄の顔が、ややして、これまで思い至りもしな
かったのであろう事実に狼狽の色をのぞかせる。そして……最後にどこか悔し
そうにその口角を歪めると、彼はふいとロロから視線をそらせた。
可能性に思い至らなかった自身に向けられたやりきれなさと言うよりは、それ
は、恐らくは、ロロが自分よりもよほど甲斐性を有していたことを思い知らされた、
「兄」としての立つ瀬のなさからきた感情だったのだろう。
兄弟などではない。お前のことを妹のようには愛せない。そんな風に、自分と
の間に必死で一線を隔てようとした、その舌の根も乾かぬうちに……
なんだか……こんな風に己の沽券に固執して内心拗ねているのであろう彼と
自分は、以前よりもよほど、世間が語るところの兄弟らしいのではないかと、胸
の内に湧き上がった面映さを持て余しながら、ロロはそう思った。
ともあれ、こんな話題をいつまでも続けれいれば、家計の達人を自負するル
ルーシュが、ますますその臍を曲げてしまうのは必至だ。
早々に切り上げようと、兄を尻目に隣接する簡易式のキッチンに逃げ込んだ
ロロは、憮然とした面持ちのまま室内に佇む彼に、背中越しに声をかけた。
「とりあえず、その辺に適当に座ってて。小さいけどバスもあるし、予備用で
よければ簡易ベッドもあるから、一息入れたら少し休むといいよ。どうせ、
この二日、ろくに眠ってないんでしょ?」
隣室のルルーシュから答えは返らなかったが、それを肯定の沈黙と解釈して、
とりあえずお湯を沸かすことにする。ここしばらく使用する機会のなかった電気
ポットは衛生面から潔く諦めて、備え付けのコンロに水を張った薬缶をかけた。
一先ずは人心地つかせるためにと、カップの用意をしながら、兄の嗜好に統
一性がないことを思い出す。キッチンの備蓄品を見比べながら、ロロは再び隣
室に向かって声を張り上げた。
「兄さん、インスタントだけど、コーヒーと紅茶、どっちがいい?…あ、これから
休むんだから、コーヒーは良くないのかなぁ。それを言ったら、本当は紅茶
もそうか。でも他になにも……」
「なんでもいい」
市販の即席品しか用意のなかったそれらを並べて、語尾が独りごちる形と
なった呼ばわりに、隣室からそっけない一言が返ってくる。それでもと、ひとま
ずコーヒーは避けた方が無難だろうと片づけ始めたロロの手が、続く言葉に
つとその動きを止めた。
「なんでもいい。それに、コーヒー程度で眠れなくなったりしないから」
「でも、眠りが浅くなるかもしれないし……」
「……今はどの道、同じことだからな。眠れないのは」
事も無げに付け加えられた言葉には、しかし聞き流すには重い響きを宿して
おり……室内に取って返したロロは、簡易ベッドの上に所在なく腰を下ろすル
ルーシュの前に膝をついた。
「……環境を変えても、眠れそうもない?」
「気が高ぶっているからな……妙に頭の芯が冴えて、そういう気分になれな
いんだ。悪いな、横になるだけで体は楽になると思うから……」
「……薬は?」
このまま体を休めるだけでいいと言外に告げるルルーシュの言葉を、敢えて
遮る形で口を挟む。束の間怪訝そうにその眉宇を寄せたルルーシュに向かい、
続く言葉に、かつて監視者を自認していた当時の、含むところを思わせる響き
が込められた。
「……ロロ?」
「薬は、試した?体のためには、良くはないんだろうけど……貴方の身に何ら
かのイレギュラーが起きた時のためにって、機情から預かっていた薬がある
よ」
「……っ」
「試す?」
ロロが口にした薬という単語が、何を指示しているのかは明白だった。
反射的に総身を強張らせたルルーシュを前に、制服の懐からロロが小さな包
みを取り出して見せる。開かれた中から現れたのは、シート状に個別包装さ
れた錠剤だった。
大きさも色合いも、市販されている睡眠薬と大差はない。だが、それが緊急
事態を想定して、それも軍部の手によって開発されたものであるなら、効用ま
でが市販のものと同程度であるはずがなかった。
恐らくは、服用者を即座に昏倒させるほどの、麻酔にも似た代物であるはず
だ。それを敢えて明かした上で自分に判断を委ねようとするロロの真意を読み
取ろうとするかのように、ルルーシュの視線が向き合った「弟」の表情に釘付
けになる。
互いに交わす言葉を持たないまま、十秒が過ぎ、二十秒が過ぎ―――
声もなく向き合ったまま、一分が過ぎようとした頃……ルルーシュは、静か
に首を横に振った。
「……いい」
「兄さん、でもそれじゃあ……」
「これをお前が持っていたっていうことは、あのゲットーで、そのイレギュラー
をお前が危惧していたってことだろう?効き目は信じる。命に別条はないっ
てことも。……ああ、そんな顔をしなくていい。ロロ、お前の事もだ」
その幼い顔立ちから色を失うほどの衝動をあらわにしたロロを宥めるかの
ように、ルルーシュはその口元にかすかな笑みを刷いた。
だが、ようやく貼り付けられたかのようなその表情は、次の瞬間には滑り落
ちるようにルルーシュの容色から掻き消えてしまう。
「多分……無駄だから」
「兄さん?」
「この手の薬物に対する耐性をつけるために、ブリタニアにいた頃あれこれ
薬を試しているんだ。俺も、ナナリーも」
語調だけは殊更に、さりげなさを前面に押し出した昔語りは……しかし、伏
せられた双眸に滲む情動の欠片が、語り手の意図を裏切っていた。
「俺達は、ブリタニア皇統に生まれたと言っても、継承位の低い兄妹だった。
だから、皇位争いを前提にした水面下での悶着にはあまり縁のない生活
を送っていたんだが……それでも、ブリタニア皇帝の血は、それを有する
と言うだけで諍いの種になる。俺達は自分の身を守るために、幼い頃か
ら主だった薬物のほとんどに対し、毎日少しずつ服用することで耐性をつ
けてきた。体が耐えられる範囲で、毒物に対してもだ。その結果、大抵の
薬物は俺達には効果がなくなった。……ナナリーの障害についても、目は
心因性のものだが、なかなか足が治らないのは、そのせいでもあるんだろ
う。まさかあんな事になるなら、ナナリーだけでも薬に慣れさせておくべき
じゃなかったと、後になって思ったが……」
だから、薬は必要ない―――言って、ルルーシュは疲弊の色を濃く滲ませ
た容色の、口元だけで笑って見せた。
「……ありがとう、ロロ。お前一人の城だった、この部屋を提供してくれただ
けで十分だ」
「兄さん……」
口先だけで笑ってみせるルルーシュに何事かを言いかけて、しかしその刹
那、キッチンから漏れ聞こえてきた甲高い人工音が、続く言葉をロロに飲み
込ませた。
引き返したキッチンでコンロの火を止め、一度は用意しておいたカップに手
を伸ばしたが……思い直し、結局は何も淹れないまま、から手で兄の元に
取って返す。
ぼんやりとベッドに腰を下ろしたままのルルーシュの前に立ち、彼を見下ろ
す体勢でロロは兄を呼んだ。
「……ねえ、兄さん。だからなの?さっき、ゲットーで……」
呼びかけに反応して顔を上げたルルーシュのやつれ顔が、自分が立ち入る
以前に、あの開発跡地の暗がりから漏れ聞こえてきた喧騒の記憶を彷彿とさ
せる。
この疲弊しきった顔を自身の内面から湧きおこる自虐の色にくすませて……
それでも、向き合った少女に何事かを詰めよっていたルルーシュ。
会話の細部まで、遠目に眺めていた自分の耳には届かなかったが、その後
のカレンの反応と言い、ルルーシュの表情と言い、事態を想定することは容易
かった。
ルルーシュも、男だ。同性として、どうにもならない衝動を持て余した兄の胸
のうちはロロにも理解できる。
だから、それをカレンが受け入れるというのなら、ルルーシュの行動に対し、
ロロは云々するつもりはなかったのだ。結果としてカレンが拒絶し、事態が未
遂のまま終わったというのなら尚のこと、それは弟としても、同じ性をもつ者と
しても、触れるべきではない機微だと思った。
それが……単純な、男の生理の問題であるのなら。
「……薬が効かなくて、どうしても眠ることができなくて。でも、もう貴方の体
はこれ以上起きていられないほどに限界で……だから、彼女に縋ろうとし
ていたの?」
「……っ」
虚を突かれたよすがを見せたルルーシュの容色に……数瞬遅れて、朱の
色が上った。
ばつが悪そうにロロを見上げた双眸が、しかし視線がかちあう寸前に不意
に逸らされる。そのまま顔を伏せてしまったルルーシュの項までが赤く色づ
いたことで、ロロは己の推量が正しかったことを確信した。
「兄さん……」
だめ押しのようにその名を呼ぶと、ごまかし切れないと観念したのか、ル
ルーシュはゆっくりとその顔を持ち上げる。
せめてもの抵抗なのか、けしてロロと視線を合わせないまま、彼にしては
珍しいほどぶっきらぼうな声音で、ぼそりと告解がなされた。
「……カレンには……落ち着いたら、後で謝るつもりだったんだ」
「兄さん…」
「そんな事にでも没頭すれば、高ぶっていた気持ちも納まって眠れるんじゃ
ないかって……あんまり非礼過ぎて、とてもそんなこと言えやしないか
ら……」
あの時、ゲットーで問い詰められでもしていたら、カレンにするつもりだった
のであろう申し開きの言葉を聞きながら……ロロは、身の内から湧き上がっ
てくるものに、総身が震えを帯びるのを止めることができなかった。
『それでも……お前が必要だと言ったら……』
自虐の堂々巡りからようやく抜け出しいたルルーシュが、はじめて自分に
縋ろうとしたあの刹那を思い出す。
『……力を、貸してくれるか?ロロ……』
あの刹那―――兄を支える支柱の一つに、自分はなれたのだと思ってい
た。自分の存在が兄の力になれるのだと、そう思えて嬉しかった。
だが……
「だから……彼女に欲情したと思われた方が……まだ、お互いに納まりが
つくと思って……」
「……っ」
切れ切れに続けられる、兄の言葉を受け止めるのも、もう限界だった。
「……ロロ…?」
出し抜けに抱きすくめられ、続く言葉を封じられたルルーシュの怪訝そうな
呼ばわりが耳朶を打つ。
その肩口に顔をうずめ、せめてもの矜持で込み上げてくるものを喉奥で食
いしばりながら……ロロは、腕の中に収まった体を抱きしめる腕にグッと力
を込めた。
解っていなかった。
自分は何も、解っていなかった……
一度は縋るよすがの全てを失ったこの青年の、自分はきっと、力になれる
と思っていた。彼さえそう望むのであれば、自分は彼を、彼が望む世界へと
きっと送りだせると信じていた。それだけの力を自分も彼も有していると……
そう信じて、疑わなかった。
だが……疲弊し、自らの意志では眠りを得ることさえ叶わない、この眼前
の「兄」に対し、今の自分に、いったい何がしてやれるというのか……
「……ロロ?ロロ、どうした?」
抵抗を見せるでもなく、腕の中に収められたままのルルーシュが、途方に
暮れたようにロロの名を呼び続ける。
自分こそが縋りついているかのように、その背に回す腕に力を込めながら
……耳朶を打つ兄の声に、ロロは応えることができなかった。
TO
BE CONTINUED...
お気に召しましたらこちらを一押ししてやってくださいv創作の励みになりますv
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