それは、ロロにとって全く想定外の言葉であり、何故今になって、と問い返したく
なる問いかけだった。
「……兄さん?」
一端寝台の中に潜った体を起こし、改めて寝台脇に座るルルーシュと向き合う。
見つめたルルーシュの双眸には感情の抑揚は窺えず、そこから彼の真意を探る事
は出来なかった。
どう相槌を打つべきなのか内心で逡巡するロロの耳朶に、先刻の兄の問いが蘇
る。
『ナナリーの事を……どう思っている?』
ルルーシュにとっての自分は、元来実妹のナナリーの代用品だった。改竄された
記憶が甦ってからは、彼の中で自分とナナリーは完全にその存在を分かたれ、自
分は彼の「監視者」として彼に認識された。
そんな自分を、当初の思惑はどうあれ、彼は、ナナリーの身代わりとしてではなく
その側に置くことを望んだ。
けしてナナリーにはなり変われない自分。組織にしがみつかねばならなかった自
分の監視対象であったルルーシュ。段階を踏んで少しずつその立ち位置は変わっ
ても、やはり自分達の関係は単純な身内関係であるとは言えなかった。
ルルーシュとナナリーと自分、その間に存在するどうしても埋めようのない溝を、
互いに承知した上で自分達は「兄弟」になった。以来、依存しあう自分達の関係か
ら目をそらすかのように、ナナリーの話題は自分達の間で暗黙の了解事として、禁
句となっている。
それが何故……今になって、ルルーシュは自分にこんな水向けを仕掛けるのか……
先刻から変わることなく、自分を見つめるルルーシュの双眸に、その内心を窺わせ
るような感情の色は浮かんでいない。問いかけに対し、自分の返す答えに影響を与
えないように、敢えてそうしているのだろうとロロにも解った。
ならば尚の事、自分はこの問いに慎重に返答するべきなのだろう。だが、何故今
になって、彼はこんな問いを自分に投げかけたのか……
そこまで考えて、ふと、ロロは一つの可能性に思い至った。
昨夜から今朝までの、詳細を思い返すと居た堪れなくなるような事態の経緯。強
制的に与えられた薬物の効用に苦しむ自分をつききりで「施療」してくれたのは、ル
ルーシュだった。
ややもすれば体内に残る薬に引きずられて朦朧とする意識の下、残る記憶もどこ
かおぼろげではあったが……
ルルーシュに施療され介抱されながら、幾度となく浮き沈みを繰り返した意識。そ
の記憶に残らなかった時間の中で、自分は何か、彼を不安にさせるような言葉を口
にしたのだろうか。
それならば、いらぬ心配だと彼の杞憂を打ち消さなければならなかった。ギアスの
問題で機密情報部の出方が読めず、ただでさえ精神的な負荷がかかっている状態
のルルーシュに、これ以上余計な重荷を負わせたくはない。
だが……
「どうって……前に言った事と変わらないよ?僕はナナリーの代わりにはなれない
し、なるつもりもない。兄さんも、僕にそう望んではいないって言ったよね?」
「ロロ……」
「それでも、ナナリーじゃない僕を、兄さんは必要だと言ってくれた。だから、兄さん
が僕を必要としてくれるうちは、僕を側に置いて欲しいって……」
「ロロ」
だが……ルルーシュを気遣わせまいと、意識して作った笑顔と共に紡がれたロロ
の言葉は、強い語勢と共になされたルルーシュの二度目の呼ばわりによって、遮ら
れた。
恐らく、ルルーシュが欲しがっている答えは、もっと具体的な「確約」なのだろうに。
ナナリーに対して自分が含むところがない事を……この兄弟関係に自分が何の不
服もない事を、きっと彼は知りたがっている。だから、それを自分は明瞭な言葉に置
き換えようとしているのに。
何故、ルルーシュは続く言葉を自分から取り上げようとするのだろう。
出足を挫かれ、ルルーシュを訝しげに見遣るロロの双眸に、我知らず不服の色が
浮かぶ。
だが、ルルーシュの続く語勢は揺らがなかった。
「ロロ……俺の気持ちを考えるな。お前の、本心からの言葉が聞きたい」
「……兄さん?」
「……「本物」ではないからと、お前は今でも、俺の前でどこか委縮している。それ
なら……俺や、お前が「本物」だというナナリーに、お前が求めているものは何
だ?」
「……っ」
「お前は……本当は、ナナリーを……どうしたいんだ?」
それは、ロロにとって、思いもかけない言葉だった。だが、同時に、いつか突きつ
けられるのではないかと、胸の奥底に押し込んだ不安が具現化した言葉でもあった。
敢えて「本物」という言葉を、ルルーシュは口にした。それならば、やはり自分は
昨夜、夢現の中で、自分の中に押し隠した暗部を彼の前に晒してしまったという事
になる。
不覚の思いに、全身がカッと火照るのが解った。
ルルーシュにとって、ナナリーが彼の執着の大半を占める特別な存在である事は
今更再認識するまでもない事実だ。その彼女に対する自分の負の感情を、彼が好
意的に受け止めるはずはない。
おぼろげな意識の下から、自分が何をどこまで口走ったのかは解らないが、でき
うる限り、自分はそれを修復しなければならなかった。その為には情報を整理する
ために、ルルーシュとの会話からその取捨選択をしなければならない。
だからこそ、何かルルーシュに話さなければとそう思うのに……自分を真っ直ぐに
見据える彼の視線が恐ろしくて、ロロは、顔を上げていることもできなくなった。
口火を切るきっかけもつかめず、そうして押し黙ったまま、果してどれ程の時間を
過ごしていたのか―――
先に行動を起こしたのは、仕掛けた側のルルーシュだった。
「なあ、ロロ……」
先刻までの強い語勢を幾分改めた、静かな呼ばわりの声とともに、伸ばされた手
がロロの肩口に触れる。反射的に顔を上げた視線の先に、どこか痛みを堪えてい
るかのような、ルルーシュの顔があった。
「……ナナリーが、疎ましいか?」
「…っ」
「「本物」になる為に……ナナリーの存在を、俺の中から消し去ってしまいたいか?」
核心に近すぎ過ぎることを恐れてか、それとも、自分を刺激することを案じてなの
か、ルルーシュの物言いはどこか婉曲だった。それでも、その意図するところは過
たずロロの胸襟を穿つ。
返す言葉もなく、ロロは愕然とルルーシュを見遣った。それが、言葉以上に雄弁な
応えとなる。
そんなロロを、ルルーシュは、それまでと変わることのない眼差しで見つめ返す。
声を荒げることも、その肩に置いた手に力を加えることもなく、それまでと全く変わら
ない様相で、彼は、再びロロの名を呼んだ。
「ロロ……それだけは、認めるわけには、いかない」
「…っ!」
「お前のその感情は……見て見ぬ振りは、してやれない」
それは、一切の感情を気取らせないような、静かな声だった。明日の天気を話題
にするかのように、気負いのない言葉だった。
だが……告げられたその内容は、全身から血の気が引くような衝動を、ロロに与
えた。
ルルーシュの言葉は、一方を残しもう一方を捨て去る、二者択一の答えだ。そし
て、その選択の末に篩にかけられたのは……
「……そ…れは…」
続く言葉を喉奥から吐き出すには、ロロ自身が想像していた以上の勇気が必要
だった。
「それは……ナナリーの為に、なの?」
―――ナナリーを守るために、僕の感情が…僕の存在が、邪魔だから?
どうしてもそう口にする事は出来なくて、問いかけは明確な内容を避けた酷く曖昧
なものとなる。その意図を聞き返すことなく、ルルーシュの応えもまた端的だった。
「……ああ、そうだ」
「…っ」
「そして……お前を失いたくない、俺自身の為でもある」
ルルーシュの反応を予想できていながら、いざ予想通りの言葉が返された衝動に、
ロロの鼓動が跳ねあがる。だが、そんなロロの様子に頓着しない素振りでありなが
ら、ルルーシュの間髪入れず続けられた言葉は、ロロの予想を裏切るものだった。
顔色を失ったロロに気遣う言葉をかける事もなく、しかし、ルルーシュの真摯な眼
差しがロロを真っ直ぐに捉える。
「……ロロ…今更身勝手な事をとお前は思うだろうが、俺は、お前とこのまま「身
内」の関係でいたいんだ」
「兄さん……?」
「これは俺の身勝手な仮定だ。俺の穿ち過ぎだと言うなら、お前に本当にすまな
いと思う。……だが、もしも……」
続く言葉を口にする事は、平静を装った風であっても、ルルーシュの動揺の限界
を超える衝動があったのだろう。微かに語尾を震わせ、踏ん切りをつけるかのよう
に何度か呼吸を整えながら、彼はようやく、再びその口火を切った。
「……もしも、お前がナナリーをこの空間から排除しようとするのなら……ナナリー
をここに呼び寄せる、あらゆる存在を邪魔に思って「処分」を考えようとするなら
……俺は…俺はお前を、憎まなければならなくなる」
「…っ」
「散々お前をいいように利用しておいて、勝手な言い分だと思うだろうな。……だ
が、俺は…今更お前と、決別したくないんだ……」
言葉を綴るにつれ、その整った容貌が痛みを堪えているかのように歪んだ表情を
作り出していく。だが、それでもルルーシュは、向かい合ったロロからその視線を外
さなかった。
「もしもお前が、ナナリーや、ナナリーに結び付く全てに敵意を向けて、それを行動
に移すなら、俺はお前を、処断しなければならなくなる。そうしたらお前は……俺
の中で、お前は「弟」ではなくなってしまう。とても、遠い存在になってしまう……
情けない話だが、それが、俺の本音だ」
「兄さん……」
「俺にとって、ただ都合のいい存在として、お前を側に置きたかったわけじゃない。
俺はお前をナナリーの代わりだなんて思っていない。それは本当だ。……だが
それでも……これをお前に言うのは酷なことかもしれないが……俺にとって、お
前は、俺の世界の全てではないんだ」
刹那―――向けられた視線に逆らえず眼前のルルーシュに釘付けになっていた
はずの己の視野が、ぐらりと傾いたのをロロは知覚した。
時を同じくして、切り替えられた視野が一面真っ白な世界に染まる。それが、重心
を崩した自分を支え抱きとめてくれたルルーシュの纏うシャツの色だと気付いた時に
は、ロロは、爆発的に跳ね上がった自身の動悸に引き摺られ、平静さを保つ事が出
来なくなっていた。
「……っ…んで…」
「ロロ!」
「…な…んで……っ」
―――お前は、俺の世界の全てではないんだ
ルルーシュから告げられた言葉は、ロロにとって、己の全てを否定されたに等しい
ものだった。
全身から力が抜け落ちてしまったような心地になる。視界を埋め尽くす白が滲み、
喉奥がこみ上げてくるものに塞がれて、満足に声も出せなかった。
何故……今になって、そんな事を……
ルルーシュを恨みたいのか。憎みたいのか。それとも自分を否定するその言葉の
撤回を求めて、彼に形振り構わず縋りつきたいのか……
衝動に、嗚咽さえ混じった情けない声で、自分が何を訴えようとしているのかさえ、
自分でも解らなかった。それでも言葉を飲みこめば、二度とそれを吐き出す事が出
来なくなりそうで、自分を抱きとめるルルーシュにしがみつきながら、喘ぐように同じ
言葉を繰り返す。
「……に…いさん………な…で…っ」
「…っ」
喉奥から振り絞るようにしてなされた呼ばわりに、ルルーシュからの応えはなかっ
た。その代わりのように、ロロを抱き支えていた腕にぐっと力がこもる。
そして……
「……ロロ、俺にもお前にも、自分の世界を作る為に、必要なものは沢山ある。だ
から、お前と二人だけの世界で、生きていくことはできない」
「…っ」
「それでも……」
続く言葉と共に、痛みさえ覚えるほどの力で、寝台に身を起したままのロロの上体
が、ルルーシュの胸元へと引き寄せられる。
次の刹那……喉奥で苦鳴を押し殺したかのような低い呻きが、密着するルルーシュ
の体からロロへと伝わった。
「ロロ……それでも俺は、俺の世界から……お前を、失いたくないんだ」
解ってくれ―――
まるで嗚咽のようなルルーシュの声が、ロロの耳朶を打つ。その声と体の震えが彼
の覚悟の程を物語っていることを、密着した相手の体から、ロロも確かに感じ取ってい
た。
だが……
それ以上に、味わわされた衝動があまりにも大きすぎて……ロロは、そんなルルー
シュに、何も答える事が出来なかった。
TO
BE CONTINUED...
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