やさしい嘘・8






 微かに漏れ出でる嗚咽の響きが、コックピット内の静寂に浸透する。


 まだ自ら身を起こすには抵抗を感じるほどに、困憊を覚えた体を持て余しなが
ら……ロロは、抱き寄せられた腕の中で身動くこともできないまま、どこか茫然
とした様相で、初めて耳にする兄の嗚咽に聞き入っていた。


 自分を殺そうとしたと、隠しだてることもなくそう告げた同じ口で、自分が生きて
いて良かったと吐露した兄。

 そこに至るまでにどれほどの後ろ暗い思いがあったとしても、自分に向けて彼
が最後に望んだものは、この自分の命が永らえることだった。彼の望みのまま
に、こうして命を取り留めた自分に向かい、安堵し涙してみせるルルーシュの姿
に、それまで彼が頑なにしがみ付いてきたのであろう、取り繕った偽りの兄とし
ての擬態はきっとない。

 兄さんと―――そう呼びかけようと口を開きかけ……しかし、胸襟の奥底から
せり上がってくるものに喉奥を塞がれて、ロロは、明確な言葉を紡ぐことができ
なかった。



 嬉しいと、素直にそう思うには、身の内から湧き上がる衝動はあまりにも鮮烈
すぎる。

 一度は自分に殺意を向けたルルーシュに対する、本能的な畏怖もあった。自
分に向けられた、自分が音を上げるほどの愛情にはやはり擬態が込められてい
たのかと、諦観じみた思いが双肩にずしりとのしかかる。
 それでも……意識の表層に現れるさまざまな情動を言葉に置き換えようとす
るのなら、ようやく自分は楽になれたのだという、そんな安堵のような思いが最
も、強かった。



 思えば、監視役としてその懐に潜り込んだ出会いの当初から、自分達の関係
は偽りばかりだった。

 記憶を失ったルルーシュがC.C.との接触を果たすまでの間、自分の背後に
ある機情の存在を、けして彼に悟らせる訳にはいかなかった。自分の言動に、
改竄された彼の記憶がちらとでも違和感を覚えれば、その時点でルルーシュの
監視計画は頓挫する。

 だから記録に残る彼の嗜好を頭に叩きこみ、その身内に当たる存在に彼が望
むであろう言動や立ち居振る舞いを、シミュレーションしては模倣した。いつしか
彼のみならず、周囲の認識に定着した「ルルーシュ・ランペルージの弟」としての
振る舞いはそうした試行錯誤の結果作り上げられたものであり、厳密にいえば、
ロロが生来兼ね備えていた為人ではない。

 元来、冷徹な暗殺者であり続けるための教育を受けて育ったロロにとって、任
務を円滑にこなすための擬態は、ごく当たり前の行為だった。それは同時に、任
を果たしおおせて自身の命をつなぎ、糧を得るために不可欠な手段でもあった
から、そうして自らを偽ることで、対象に後ろめたさを抱いたことなど一度もない。


 あの日……封じられていた記憶が解放され、自らのあるべき姿を取り戻したル
ルーシュから、惜しげもなく差し伸べられた手を、逡巡の末自分が選びとるまで
は。



 当時の自分が幾度も自問し、逡巡した通り、あの日の彼の差し出し手は、自
分を籠絡しようとした彼の計算づくの厚情によるものだったのだろう。いつ、どこ
で。そんな明確な言葉で語られたわけではなくても、自分の顔を見ることもでき
ないほどに狼狽し憔悴したルルーシュの様相を見れば、あの優しい笑顔の下
に押し隠されていた彼の底意は過たず察せられた。



 いつからか、不信の念との狭間で揺らぎながらも、自ら縋りついてしまってい
た在りし日の記憶が、偽りであったことを改めて認識させられることは苦しかっ
た。ずるずるとルルーシュに依存していく自分の存在を、彼がどう捉えていたの
かと考えると、酷くいたたまれない気持ちになる。

 だが……そんな後ろ暗い情動が、ロロの中でルルーシュに対する怨恨へと変
貌することは、ついぞなかった。




 感傷を伴わない任務から始まった相関とはいえ、自分達の間に初めに偽りを
持ち込んだのは自分の方だ。思惑の程はどうあれ、そんな自分を弟として受け
入れてくれた彼を、粗を探して不実だと糾する資格など、始めから自分にはあ
りはしない。むしろ、そんな自分にようやく引導を渡し、その上で自分から逃げ
ることなく正面から向き合おうとしてくれた彼の厚情が、俄かには信じがたいほ
どだった。




 シャーリーの件にしても……自分の行為が、それほどまでにルルーシュを追
い詰め打ちのめしていたことなど、こうして彼の口から語られるまで、自分は思
い及びもしなかった。
 けして対外に漏れてはならない、ルルーシュの封じられた記憶とテロリストと
しての半生。その秘密に近づきすぎた件の少女を必要に駆られて「排除」した
時、自分の中には、ルルーシュが語ったように躊躇いも後悔も存在しなかった。

 ……否。むしろ、この腹の底には、あの少女や、ひいては彼女が取り戻した
いと切望した、ルルーシュの実妹である少女に対する、後ろ暗い思いがわだか
まっていて……


 こうして、互いの関係に埋めがたい溝を穿つ結果となるならば、あの時自分
はもっと冷静に慎重に、他の手立てを考えてみればよかったと、心のどこかで
思う。
 だが、それは自分の立ち位置を守りたいがための保身行為を仮定するもの
にすぎず、この期に及んでさえ、シャーリー個人に対して湧き上がった贖罪や
悔恨の念であるとはいえなかった。


 全ては兄の秘密を守るためにと……そんな都合のいい建前に、自分の抱え
る後ろ暗いもの思いまで全て押し隠してしまった自分は卑怯だった。

 そんな自分の心の動きを、きっとルルーシュは察しているはずだ。それでも、
彼はあの一件に対して彼の思う所を吐露したにとどめ、自分に、何故シャーリー
を殺めたのかとは問い直さなかった。

 今となっては詮無い問答であることも確かだったが……それは、この胸の内
を承知の上で、それでももう一度この手を取るために、敢えて彼が飲み込んで
くれた言葉なのだろう。


 その身を守るために、死すら覚悟してあの脱出劇を画策した自分を受け入れ
ようと、その手をもう一度自分に差し出すために……その代償のように呑みこ
まれた言葉は、どれほど重く彼の胸襟にもたれていることだろう。
 追憶することで再び鮮明によみがえったであろう、当時自分に向けた感情と、
シャーリーに対する贖罪の念に苛まれ、今、彼はどれほどの衝動を抱えている
ことだろうか。



 清濁交々の情動に膨れ上がった心は、こうしている間にもそのはけ口を切望
しているだろうに……それら全てを呑みこんで、ただ、自分が生きていて良かっ
たと繰り返すルルーシュの姿が、ロロには、ひどく神聖な存在であるように思え
た。

 自分を抱き寄せたままのルルーシュの腕の中で、観念したように目を閉じなが
ら……ロロは、自らが引き起こした行為の結果を、思い出したように総身に伝達
する、軋むような胸の痛みとともに味わっていた。 



 この痛みから解放されたいという思いと、そんな自分を諌めようとする自制が、
意識の表層に交互に表れては鬩ぎ合う。

 自分を楽にする方法は解っていた。それで今更過去を変えられるわけでもない、
詮無い言葉であったとしても……ここであの日の自分の行為を真正面から受け
止め、贖罪の意思を示せば、許されることはなくとも少なくともこの胸襟を塞ぐ自
縛の念からは、自分はきっと、解放される。

 だが、それは自分一人を楽にさせたがる欲求を優先した、あまりにも独りよがり
な謝罪であり贖罪だ。
 シャーリー当人へと底意から向き合えていない以上、今、彼女の一件を言葉に
して詫びることはロロにはできなかった。それは彼女にも、そんな彼女の死を悼
むルルーシュに対しても、卑怯で不実な、自己満足に終始する行為だ。

 生まれて初めてこの身に向けられた、こんなに奇麗で衒いのない思いを……こ
こで自分に都合のいい逃げ道を選んでしまったら、自分はきっと一生涯、この身
に受ける資格を失う。
 一生涯……自分はきっと、この得難い人と向き合うことができなくなる。



 結果として語る言葉も失い、抱き寄せられるままにその身を任せるしかなかっ
たロロの、閉ざされた瞼を押し上げるようにして―――今更のようにせり上がり、
溢れ出したものがあった。



 「……ロロ?」

 身の内にわだかまる情動と連動するかのように、総身に広がっていった小刻み
な震えは、接触するルルーシュにも伝導したのだろう。それまで、息苦しさを感じ
るほどに確かな力でロロの体を押し包んでいたルルーシュの両腕から、怪訝そう
な呼びかけの言葉と主に、スルリと力が抜けた。

 まだその情動の名残を伺わせる、充血した双眸が気遣わしげに自分の顔を覗
き込む。苦しいのかと問いかけられ、思わしげに伸ばされた手で額や首筋に触
れられると、そうではないのだと首を振りながらも、溢れ出す思いの発露は、ます
ます押しとどめることが出来なくなった。



 自分に対して不誠実でありたくないという、恐らくはただそれだけのために、で
きることならこのまま時流と共に押し流してしまいたかったであろう自らの暗部に、
まっすぐ向き合いそれを物語ってくれた、ルルーシュの葛藤と決断の痛みを思う。

 出会った当初から幾度となく思い知らされ、それによって互いの差異を味わわ
されてきた事だったが……ルルーシュの本質は、どこまでも実直で清澄だった。


 当初自分に向けられていた思いはどうあれ、今こうして向き合うルルーシュが、
自分に情を抱いてくれていることは確かだった。それならば、なにもそこに至るま
での後ろ暗い思いまで、こうも真正直に曝け出して見せる必要などなかっただろ
うに……
 いくらでも言葉で補完し、その後ろ暗さを自身に都合のいい形で払拭することな
ど、彼には造作もなかったはずだ。そのやり様を選ばず、敢えて全てを語った彼
らしからぬ不器用さに、ロロは、ルルーシュが自分に向ける及び腰の誠意を感じ
ずにはいられなかった。

 自分には―――到底、真似ができない。少なくとも、これまで自分が歩んでき
た半生において、誰かにそこまで胸襟を開き、誠実であることにこだわり続けて
いたとしたら、自分はとうの昔に、この世界から消えていた。
 できないと思えばこそ、自分には手の届かない境地にまで昇華された思いを、
惜しげもなく自分に示してくれたルルーシュの得難い為人が、切なくも愛おしい。



 この人の、いたたまれなくなるほど奇麗な心に……自分は、どうすれば、報い
ることができるのだろう。
 全てを曝け出してでも自分と向き合うことを選んでくれたこの人に、どうすれば、
自分はこの後ろめたさを振り棄てて顔向けすることができるのか……


 言葉を噤み、自身の暗部から目を背け続けたままの卑怯な自分でも、一度そ
の手を差し出すと思い定めたルルーシュがこの身を見放す事は、きっとないの
だろう。得難い厚意のままに伸べられた彼の手に、このまま己の後ろ暗さに蓋
をして縋りついてしまえば、きっと自分は、この先もルルーシュの「弟」で居られ
る。

 それでも……自分からは何の代償も払わずに、向けられるままその厚情に甘
えてしまえば、その押し殺した気後れがきっと、いつか自分達の関係にひびを
入れる。
 ここで決断を先送りにした自分自身の弱腰が、いつか己の足場を崩すのだ。



 ルルーシュが自分に向けそうしてくれたように……これまでの半端な相関を
再構築するための代償は、自ら引き受けるよりほかにない。
 それがどれほどいたたまれず、痛みを伴う行為であったとしても……ここで安
易な逃げ道を求め、ルルーシュに顔向けできない自分のままでいるのは、嫌
だった。



 「………兄さん…」

 兄を呼ばわる、ただこれだけの行為に、総身が震えを帯びるほどの恐怖が
腹の底から湧き上がる。
 それでも……せり上がる衝動が喉奥を塞ぎ、短い呼ばわりすらかすれ震え
る自身の痴態がどれほど厭わしく居たたまれなく思えても、続く言葉を呑みこ
むことだけは、ロロはけして自分に許さなかった。




 「……兄さん。もしかしたら……本当に、もしかしたら、だけど……」
 「ロロ?」


 前触れもない水向けの言葉に、束の間怪訝そうな表情を見せたルルーシュ
の、まっすぐに向けられたままの視線から逃れてしまいたくなる。それでも、衝
動に早鐘を打つ自らの鼓動を押さえつけるかのように、上掛けられたマントご
と自身の上衣をきつく握りしめながら、ロロは、喘ぐように続く言葉を喉奥から
絞り出した。

 この言葉を告げることで……一度は自分に情を傾けてくれたルルーシュは、
結果として、再び自分から遠い存在に戻ってしまうのかもしれない。これまで
のように、彼が自分を疎んじた故に生まれる隔たりではないのだと解ってはい
ても、その距離を持った相関を想像することは、一端希望を与えられた身には
ひどく苦しかった。
 それでも……この言葉を避けて通らずして、自分がこの人と衒いなく向き合
えるようになる刹那など、きっとこの先一生訪れない。



 これは―――自分自身の未来を掴み取るための、禊なのだ。




 「……ナナリーは…咲世子も……もしかしたら……生きているかも、しれな
  い」




 刹那……
 弾かれたように居住まいを正したルルーシュの容色に、立て続けに様々な
情動の色が表れては消えていくのを……許容できる衝動の限界を訴える心
臓の痛みに耐えながら、ロロは、ただ黙したまま見遣っていた。




                               TO BE CONTINUED...


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