満足な設備もないままの水汲みには思う以上の労力が要され、当面必要だ
と思われた量の水を手にルルーシュが蜃気楼へと戻ってきたときには、森の景
観は徐々に失われつつある陽光に、その様相を変えつつあった。
機内へと運び込んだ間に合わせの容器を、水濡れを避けるためぞんざいに計
器類から遠ざける。そして寝入る弟の発熱の程や呼吸の安定を改めて確認した
ルルーシュの目線が、思わしそうに機外の景色へと向けられた。
コックピット越しに眺めやった森の景観から、陽が陰りを見せている事がはっ
きりと伝わってくる。人工的な照明など存在しないこの奥深い森は、日没と同時
に完全な夜陰に包まれるはずだ。
地上からも捜索の手が伸びているだろうこの状況下で、迂闊に蜃気楼の照明
に頼るわけにもいかない。今後の方針を立てる目途にするためにも、その容体
を把握しておくために、陽のある今のうちにロロを起こしておくべきだった。
操縦席の傍らに膝をつき、眠り続けるロロの耳元に顔を近づける。内心で膨れ
上がる動揺を宥めるように我知らず息を呑み込みながら、彼は語調だけは穏や
かに、ギアスの効果切れを誘う言葉を解放した。
「……もういい。目を覚ませ、ロロ」
絶対遵守の効力からの解放を意味する囁きに、それまで静かに寝息を漏らす
ばかりだったロロの体が僅かに身じろぐ。覚醒を促されたその意識が、昏睡か
ら現実へと呼び戻される前兆だった。
強制的な眠りの淵からその意識を浮上させるのは、被験者の精神にも思う以
上の負担をかける行為なのだろう。意識のないロロの体は何かに抗うかのよう
に硬直を見せ、無防備に閉ざされていた眉宇が微かに眇められた。
そうして、深すぎた眠りと現実との間を行き来しながら覚醒に向かっていくロロ
の姿を、それ以上言葉で促すことなくルルーシュは見守る。
それまでその寝顔を前に、答えの出ない自問ばかりを繰り返してきたルルー
シュにとって、いよいよ訪れるその瞬間は、否応なしに突きつけられる自身の後
ろめたさとの戦いだったが、それでもようやく、この焦れるような忍耐の時間から
解放されるのだという安堵の思いがそれに勝った。
随分と無駄な回り道をしてしまったが、これでやっと、自分はこの少年と向き合
うことができる……
だが……ようやく自らに引導を渡したかのような安堵感に大きく息をついたル
ルーシュの容色が、時を待たずして、焦燥の色に曇った。
「……ロロ?」
体のそこここから反応を返しながら、眼前の少年は確かに覚醒へと向かってい
る。眠れと命じた自分のギアスが解けたことは確かだった。
だが、体は確かな反応を返しながらも、ロロの覚醒はそこから先へと進まない。
とうに眠りの束縛が解け、意識が現実に浮上してもおかしくないはずなのに、そ
の閉ざされた両の瞼は、かすかな痙攣を繰り返すだけで、いまだに開かれては
いなかった。
「ロロ?もういいんだ、目を覚ませ」
不審に思って再度解術の言葉を繰り返せば、閉ざされた瞼が震え、横たわる
体に力が入る。その体が、ルルーシュの言葉に従い覚醒を果たそうとしている
のは明らかだった。
だが……それでもその先へと、ロロの意識が進まない。覚醒へと導く最後の
一押しが足りていないかのように、彼の双眸は閉ざされたままだった。
「ロロ……おいロロ……!」
呼ばわりの声に、まさかの思いを抱えた焦燥の色がよぎる。相手の体調も忘
れてゆすり起こしたい衝動に駆られた自分を辛うじて抑え込みながら、ルルー
シュはその耳元で何度も少年の名を呼んだ。
どれほど死ぬなと叫んでも、自分の腕の中で次第に冷たくなっていった少女
の姿が脳裏をよぎる。
死ぬな、生きろと自分が口にするごとに、「命令」を遵守しようと懸命に生体活
動を繰り返す心臓が血流を早め、結果として、シャーリーの負った銃創からの出
血を自分は助長してしまった。結果的に助けようのない命であったとしても、あ
の瞬間の背筋が凍りつくような恐怖と後悔を、きっと自分は生涯忘れられない。
これ以上の悔恨は二度と味わうまいと腹の底に刻まれた、あの日の衝動がよ
みがえる。
命運の潰えた命を、その絶対遵守の力で以てしても救うことなどできはしない
のだと、骨の髄まで己の無力を味わわされた、あの日の追憶が、ルルーシュの
背後で大きく口を開いていた。
己を飲み込もうとする過去の傷跡から逃れようとでもするかのように、きつく歯
を食いしばり、かぶりを振る。
これは違う。既に死を免れられないほど命の残滓をその体内から解き放ってし
まった彼女と、今のロロが置かれた状況は似て非なるものだった。
ロロの容体は安定していた。どうにかしてそのギアスの発動をとどめようとした
自分の焦りが、必要以上に深い眠りへと、彼を誘ってしまっただけのことだ。
ロロは、すぐに目覚める。ギアスの効力は既に切れているのだ。その覚醒を阻
むほどの心身の困憊が回復すれば、彼は何事もなく意識を取り戻すはずだ。
大丈夫だ、問題ないと……そう自らに言い聞かせるように腹の底で繰り返しな
がら、ルルーシュは眠る少年の名をひたすらに呼ばわった。
やっとの思いであの修羅場をくぐりぬけ、そしてこの場所までつないだ命だ。自
分達の新たな道行きがこれから始まろうとしているこんなところで、この先共有
するはずだった時間を、今更自分は諦められない。
自分達は、これから始めるのだ。歪な形に凝り固めてしまった関係の何もかも
を、ここから自分達は再構築していくのだ。
その再生の痛みがどれほどこの胸襟を抉ろうとも、これは自分に残された最
後の希望だ。その希望を眼前にちらつかされたこの現状で、ロロを諦めてしまう
ことなどできない。
「ロロ、目を覚ませ!戻って来い!」
その体に与える負荷を憚り、ギリギリの自制で押しとどめた両の手が、眠る
少年の華奢な双肩をグッと掴む。ややもすれば自身に嗚咽を許してしまいそう
な衝動を堪えながら、ルルーシュは間近に向き合った幼い容色に向かい、戻
れと繰り返した。
「戻って来い!…俺の許まで、戻ってきてくれ…っ」
我知らず、懇願の形を取っていた自らの語調も、もはや気にならなかった。
形振りを構わないことで変えられる事態があるのなら、自分は最後の矜持で
も躊躇いなく投げだせる。あの生きるか死ぬかの瀬戸際で、ロロが全てをなげ
うって自分を救い出してくれたことを思えば、己の自意識など、しがみつくだけ
の何ほど価値があるだろうか。
と、刹那―――
「……っ」
「っロロ!」
それまで一向に容態の進展を見せなかった少年の閉ざされた双眸が、微かな
呻きとともにきつく眇められた。同時に、それまで操縦席の上に投げ出されたま
まだった右手がピクリと反応し、何かに耐えるかのようにシートの上に爪を立て
る。
程なくして……頑なに閉ざされていた両の瞼が、震えながら持ち上げられた。
「ロロ…っ」
自分と同じ色合いに染められた、若紫色の双眸。ようやく開かれたその眼差し
を覗き込んだとき、自分がどれほどこの目と向き合うことを切望していたのか、総
身を震わせるほどの安堵と共に、ルルーシュは骨の髄まで思い知らされた心地
になった。
「……ロロ…気分はどうだ?どこか辛いところはあるか?俺が解るか?」
呼びかける声が衝動に掠れる不覚にも、頓着する気持ちにすらならない。
逸る心のまま、矢継ぎ早に言葉を掛けながらその顔を覗き込んだルルーシュ
の腕の中で、ロロは覚醒直後のぼんやりとした様相のままその双眸を二、三度
しばたたかせ……そして、二呼吸ほどの間をおいた後、その口元を微かに綻
ばせてみせた。
「……に…さん……怪我…なかった……?」
「……ああ。俺も蜃気楼も、無事だ。ここは富士の樹海で……お前のおかげで、
安全な場所まで逃げ延びられたんだ」
「そう……よかった……」
いまだに深い困憊状態にあるであろう少年から、逆に自身の体を気遣われ、
向けた笑顔の下で、せりあがってきた情動がルルーシュの喉奥を塞ぐ。それで
も辛うじて平静を装った声音で言外にロロの「功績」を称えてやれば、耳慣れた
平時のものよりも語勢を失った声が、振り絞るようにして、良かったと呟いた。
同時に向けられた、満ち足りたような少年の笑顔に、あれほどの愁嘆場を繰り
広げた自分に対する含みは感じられない。自身を偽るほどに余力の残された状
態ではありえないだろうロロの言葉は、ルルーシュに向けられた底意からの思
いが紡がせたものだった。
どこまでもひたむきで一本気な、寄せられた惜しみない厚意に鼻の奥がツンと
痛む。込み上げてくるものを振り払うかのように、ルルーシュは潤みを帯びた自
身の双眸を幾度となくしばたたかせた。
追憶の日、向けられた刺客から命を投げ出して、妹をかばった母の姿を思い出
す。あの日の母の守護があったからこそ、自分達兄妹はこの齢まで命を繋ぐこと
が叶った。
自分を生み育ててくれた庇護者であればこそ、それは得られた忘我の慈愛なの
だと思っていた。もはや心を預けられる身内を失った自分には、この先生涯得るこ
との叶わない思慕なのだと思っていた。
だが……
眼前に横たわる少年は、自分の言動を監視させるためにブリタニア本国から送
り込まれた、暗殺者だ。その脛傷をつき、籠絡し懐に取り込んでからも、彼は自分
にとって利便性の高い手駒であると同時に、最後の砦をけして取り払ってはなら
ない、怨敵であったはずだった。
偽りの兄弟としての関係を続けていく月日の中、絆されかけては結局裏切り、
裏切られ、築き上げつつあった相関を互いの手で壊してしまった自分達。
そんな愛憎混濁した複雑な感情の対象であったはずのこの少年から……ルルー
シュは、あの日の母と同種の思慕を、紛れもなく感じ取っていた。
「……ロロ…」
困憊による発熱から、平時よりもぬくみを帯びたロロの手を伸ばした自らの両の
手で挟みながら、上がりかけた呼吸を幾度となく整える。そうして自制していなけ
れば、嗚咽すら自分に許してしまいそうだった。
身の内で膨れ上がる衝動を宥めるかのように大きく息をつきながら、乱れかける
呼吸の隙をついて眼前の少年に声をかける。
意志の力を総動員して形作った笑みは、向ける少年のためというよりは、いまに
も取り乱しかねない自らへの抑止のためだった。
「……何故…俺を、助けた?」
それは、あの命からがら逃げ出した脱出劇の最中、幾度となく口にしようとした
疑念の言葉。明確な言葉を形どる前に、断続的に発動したロロのギアスに遮られ、
結局は空に四散してうやむやになってしまった問いかけだった。
直前に、あれほどの暴言を自分に叩きつけられながら、それでも反駁一つなく
命がけで自分を救いだしたロロの思いは、よくやったとその頭を撫でてやるには、
あまりにも重すぎる。
こうして互いの命を繋いだ今、あの時口にできなかった思いがあるなら全て吐き
出させてやりたいと……自分にとって、分の悪い話題を誘発することを承知の上
で、ルルーシュは自らあの時の問答を再現した。
だが……
束の間こちらの意図を量りあぐねるような表情を見せた後、気を取り直すように
意図的な瞬きを繰り返したロロが、その首を僅か巡らせて、改めてルルーシュに
向き直る。
開かれたその口から発されたのは……ルルーシュの想定を、ことごとく裏切る
類の言葉だった。
「…にい、さんは……嘘つき、だから……」
「え…っ」
自分の暴言に対する罵倒でもない。この大きすぎる「貸し」を盾に、関係の修復
を迫る恐喝の言葉でもない。
それは、聞く者の胸を抉る程のやるせなさを触発する、独語めいた呟きでありな
がら……ひどく静かな響きを以て、二人を取り巻く空気を震わせた。
覚醒後の気だるさと、わだかまる困憊を振り払おうとするかのように、どこか焦点
の定まらない若紫の双眸が、意図を感じさせる動きでしばたたかせられる。
そして……
「……嘘、だよね…?…僕を…殺そうとしたなんて……僕が、嫌い…なんて……」
「…っ」
思わず言葉を失ったルルーシュへとまっすぐにその視線を据えながら―――
口元を形作る、消え入りそうな笑みはそのままに、情動の揺らぎを見せたロロの
双眸から……溢れ出したものが筋を作り、その頬桁を伝い落ちて行った。
TO
BE CONTINUED...
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