やさしい嘘・2





 ブリタニア軍、黒の騎士団双方から向けられた執拗な追っ手を掻い潜った蜃
気楼は、危ういところで最後の障壁を突破した。



 だが……文字通り、三界に帰る場所を失ったルルーシュに、この先身を寄せ
るべき拠点はない。エリア11を抜け、大国ブリタニアの勢力の及ばない僻地ま
で逃れようにも、補給地点もなく、事前に遠征を見越した整備を行っていない蜃
気楼の動力では、不安要素が多すぎた。

 それになによりも、こうしている間にも、自分に身をもたせかけるようにして
強制的な眠りに落ちているロロの容体が気にかかる。
 恐らくはその心臓を止める最後の一打となっていただろう、ギアスの発動は
辛うじて食い止めた。だが、それでも既に限界を超えた困憊状態にあったロロ
が、その命の危険に晒されていることに変わりはない。


 医術を専門に師事したわけではないルルーシュに、ロロの容体を好転させる
施療の術など分からない。それでも、このまま機体の振動を直接に被るコック
ピット内に彼を置いておくことの危惧は瞭然だった。


 方々に広げられているだろう監視網の中、どこまでが敵でどこまでが味方か
すら判別できない状況であちこち動き回るのは危険だったが……とにかく、一
度蜃気楼をどこかに下ろし、ロロの体を休ませなければならなかった。



 コンソロールパネルに内蔵されたナビゲーションシステムは、通信電波を傍
受される恐れもあることから、既にハードに記録されているルートしか使えない。
その限られた選択肢の中から、包囲網の拠点であるトウキョウ租界から適度
な距離を置いた、そして病人の安静が望める程度に周囲の耳目が介入しない
場所を、身の内から沸き起こる焦燥を抑え込みながらルルーシュは立て続け
に検索した。

 そして―――幾度目かの検索結果が、望む条件に最も適するだろう場所を
弾きだす。


 富士山麓に面した広大な霊廟……かつて、エリア11史上初の特区計画が
進められ頓挫した、ルルーシュにとって深い因縁をもつその場所を、正面に臨
む奥深い森林地帯。
 磁場の影響を受けないブリタニアの製図測量技術が普及し、明確な公図が
示されるまで、樹海とも呼ばれ土地の者にも恐れられていたという、その果て
もない森林のさらに奥深くへと、巡らされた監視の目をかいくぐり、蜃気楼は吸
い込まれていった。





 身を隠した森の中は、外界の喧騒の一切を遮断する、どこか神憑り的な静
寂に支配された場所だった。

 今こうしている間にも、忙しなく富士山麓上空を飛び交っているだろう探索
機の起動音も、この森の中では聞こえない。蜃気楼の機体を完全に覆い隠
すほどに深く生い茂る木々の間からはそれでも充分な木漏れ日が射し、開
放されたハッチの上から、コックピット内を柔らかく照らしていた。


 人の耳目を逃れるということは、それだけそこが生活の場から離れている
という意味で、そういった不自由な場所にいつまでも身を潜め続けることは
できなかったが……ロロの容体が安定するまでの時間稼ぎとしては、ここは
理想的な隠れ屋だった。捜索の手が入るにしても、上空からの視界を一切
遮ったこの森の中ではその全てを人手に頼るしかなく、この奥まった場所を
人力で探り当てるのは容易なことではない。



 万が一の見落としなどないかと、何度も周囲を警戒し―――ようやく人心
地ついたルルーシュは、それまで肩にもたれかけさせていた弟の体を、リク
ライニングさせた操縦席の上へと、慎重に横たえた。

 できることならこの狭いコックピットではなく、森の柔らかな草地の上に寝か
せてやりたがったが、その為にはロロの体を蜃気楼から降ろさなければなら
ない。


 循環器の最たる器官である、心臓は非常に緻密で繊細な臓器だった。生
命維持を司るその器官は平時急時問わず様々な役割を担っており、それだ
けに、いったん欠陥を認められた際に全身に及ぶ弊害は計り知れない。

 例えば、血の循環に対しての弊害も、その一つだ。
 正式に機能することが困難な状態にまで弱った心臓は、その体内に流れ
る血液を正しく循環することができなくなる。常に正常な循環を維持するた
めの血圧の調整も困難になり、結果、些細なことで急激な血圧の低下を引
き起こし、最悪死に至った症例もあるという。

 プロの看護士、介護士の介助があっても、そういった事故事例は散見され
るという話だった。今ロロの置かれている状態がその症例に当てはまるもの
であるかどうかは分からないが、素人判断で手を出すには、今のロロには不
安要素が多すぎる。

 そしてなにより……ロロの体を動かすどころか、もっと深刻で早急な問題が、
今のルルーシュには残されていた。



 あの生きるか死ぬかの脱出劇の中、多くを語る余裕のなかった自分は、対
象であるロロに、自分がいいと言うまで眠れとギアスをかけた。
 つまりそれは、自分がいいと言うまでは、その体が覚醒を望もうと、ロロは
眠り続けるということだ。意識を戻さねば危険だと体が判断したとしても、ギ
アスに支配されたロロはけして目覚めない。

 実妹のナナリーも心臓に欠陥は見受けられなかったから、長い間妹の介助
をしてきたルルーシュも、その方向には本当に心得がなかった。



 どこか途方に暮れたような表情で、ルルーシュは傍らに眠る弟の幼い顔を
眺めやった。


 呼吸そのものは、落ち着いていると思う。規則正しく吐き出される呼気も、そ
れに合わせて微かに上下する胸元も、平時と全変わらない。先刻よりは容色
に血の気も戻りつつあり、閉ざされた眦を彩るように刻まれたままの隈がなけ
れば、先刻のあの騒ぎなど思い起こすこともできない程に、ロロはただ眠って
いるようにしか見えなかった。


 急変を思わせる兆候も見せず、安静状態で眠ることができているのなら、今
はせめてその体力が困憊状態から回復するまで、このまま眠らせてやる方が
いいのだろう。
 それでも、このままではけして目を覚まさない弟と、完全に外界の喧騒から遮
断されたこの静寂の中で、ただ向き合っているのはルルーシュの予想以上に
焦燥を煽られる行為だった。



 このまま強制的に眠らせることで、ロロの心臓にかかる弊害はないのか、門
外頼であるルルーシュには確証が持てない。しかし、この場にギアスキャンセ
ラーの能力を持つジェレミアが同行していない以上、かけ直しのきかないギア
スの効力は一度だけだ。迂闊な判断で、ロロを起こしてしまうわけにはいかな
い。

 逡巡の末、ルルーシュはあと少しの間、この現状を維持することに決めた。
どのみち、陽のある内はここを抜けだすことはできない。夜陰にまぎれて監視
の網の隙を突くにしても、今は自分も待機を余儀なくされているのだ。
 それならば、容体の変化に注意を払いながら、行動を起こすまでの時間、ロ
ロの体力を回復させるためにも眠らせておくべきなのかもしれない。


 せめて日が傾くまでの時間は、このまま眠らせておこう―――そう自分に言
い聞かせたのと時を同じくして、頭上の木立が大きく葉鳴りの音を立てた。
 ついで、纏う衣類が空気抵抗に孕みを見せるほど、勢いを得た風が開かれ
たコックピット内を吹き抜けていく。

 眠るロロに直接風を当てないよう、ハッチの開き加減を調整しながら、ルルー
シュは、その細身の体を自身のマントで緩く覆った。

 時に強くなりすぎる木漏れ日を調整できるように、太い梢を庇代わりにできる
位置に機体を停めている。飲用に耐えると判断できる水場も、近場に見つけて
ある。一端指針を定め、現状で打てる手をすべて打ってしまうと、後はただひた
すらに、待機の時間だった。
 他に話す相手もないままに、傍らに眠る少年の幼い容色をぼんやりと眺めや
る。



 こうして見ていると、無防備な状態で眠るロロの表情は、実にあどけなかった。
その稚さと、これまで間の当たりにしてきたさまざまな追想が、ルルーシュの中
でいびつな像を結ぶ。



 その幼い頃から否応なく裏稼業に馴染まされた、ロロの価値観や倫理観は、
常人とはそのあり様がどこか違っていた。日常の一環として意識することなく繰
り返す些細な生活習慣と同列の感覚で、彼は必要に迫られればためらいなく人
を殺める。そうやって、自分の抱える秘密に近づきすぎた少女を、必要だからと
彼はその手にかけた。


 シャーリーの死を契機に、形を変えてしまった自分達の関係。自分に向ける純
粋な好意の結果、命を落としてしまった彼女に対してあまりにも顔向けできない
と、以来自分はロロを疎んじ憎んできた。そのはずだった。

 だが……そうして切り捨てようとした少年の、その命までなげうとうとする賭け
値のない思いが、自分の命を繋いだ。
 対極に位置するかに見える、その表情のどちらもが、同じロロのものなのだ。
それを思おうと、眠るロロを見やるルルーシュの双眸に、複雑な色がよぎる。



 「……ロロ」


 それが覚醒を促す合図になりはしないかと束の間逡巡しながらも、伸ばした手
で少年の額にかかる癖毛をかき上げる。そのまま埋めた指で軽く頭髪を乱しな
がら、ルルーシュは、その胸襟を塞ごうとするものから逃れるかのように、重く嘆
息した。



 「俺は……お前に、どうしてやればよかったんだろうな…」



 人と同じ倫理をもたない、いびつな出自の少年に。そのくせ人に向ける思慕を知っ
ている、このあまりにも未分化な発育を遂げてしまった、この少年に。
 自分は一体……どう接してやるべきだったのだろう。
 どう接していれば、自分達のこの相関は、ここまでいびつな像を結ばずに済んだ
のだろう。




 他に向き合うものもない森の静寂に、答えを求めない独白がぽつりと落ちる。
 それきり、続く言葉を発することなく、ルルーシュは強制的な眠りの只中にある
少年の幼い寝顔を、ただ眺めていた。







                         TO BE CONTINUED...



 



 コードギアスR2の小部屋