やさしい嘘・エピローグ





 人手の届かない、閉ざされた樹海の静寂に、その景観にそぐわない無機質な機械音が
浸透する。


 日没を迎え、コックピット内の様相すら満足に把握できない夜陰の中、ルルーシュは、起
動させた蜃気楼の操縦卓が発する僅かな明かりを頼りに、最小限の動力で機体を発進さ
せるべく、慎重にプログラミングを重ねていた。

 あの後、結局互いの気がすむまでその身に抱える激情を吐きだしてしまった事で、この
森を抜けだそうと当初予定していた時間を、大幅に超過してしまった。この先何が起こるか
解らない以上、少しでも後れを取り戻しておきたいところだったが、しかし完全に監視の目
が離れたわけではないこの状況下で、慌てて蜃気楼を駆って森を飛び出していくわけにも
いかない。

 それに、自分以上に取り乱し、思うさま慟哭したことで、もともと発熱状態にあったロロの
容体が悪化していた。命にかかわる状態は抜け出したとはいえ、ここで後先考えずに飛び
出せば、いざ急場に直面した時、本調子にはほど遠いロロを満足に庇ってやることもでき
ないだろう。


 せめて、ロロの様子がもう少し落ち着くまではと、曝け出した激情に煽られた熱を冷やし、
水を飲ませて鎮静を促す。そうして何くれとなく世話を焼くうちに、梢をぬって僅かに届く月
光が、その角度を変えたのが分かった。



 「……ロロ」

 さすがにそろそろ動かなければ脱出の機を逃すだろうと、操縦席にぼんやりと横たわった
ままの少年に声をかける。一応水で冷やしたものの追いつかず、激情の名残を思わせるよ
うに目元を腫らしたままの双眸が、幾分大儀そうにルルーシュへと向けられた。

 「少しの間、我慢できるか?そろそろ動かないと、森を抜けだせなくなる恐れがある」
 「……うん」


 事細かに語らなくても、ルルーシュの立てた段取りを、ロロもまた過たず理解できているの
だろう。ルルーシュが言葉で促すまでもなく、ロロは、差し出したルルーシュの腕にしがみつ
く様にして、それまで横になっていた操縦席からゆっくりと身を起こした。

 このせまいコックピットの中で、曲がりなりにも休息をとれる唯一の場所から敢えてロロを動
かす事は心苦しい。それでも、これからどれほどの邪魔立てが入るか解らない場所へと出て
いく以上、いつ戦闘になっても不思議はないのだ。その危惧を思えば、いざという時自力で
自分の身を庇えない程に困憊しているロロを、操縦席の上でこの腕に抱えたままにしておく
訳にはいかなかった。

 ナイトメアのパイロットがその操縦の一切を行うコックピットは、いざ戦闘となれば真っ先に
狙われる。操縦卓に接して配置された操縦席が、その中でも最も命の危険にさらされる場所
であることは言うまでもなかった。
 そんな場所にロロを抱えたまま座り、、片手間な操作でやり過ごせるほど、向けられた追
手がたやすい存在であるとは到底思えない。それならばこそ、視覚が与える痛みがどれほ
ど自分を責めようと、操縦席にもたれさせるようにしてコックピットの床に座らせた方が、まだ
しもその身の安全が図れるというものだった。


 それまで掛け布代わりにしていたマントを、せめてもの敷き布にしようと、コックピットの床
に落とす。酷使され、そこここに皺を残すその上に、ルルーシュは、支える少年の体を慎重
に促し腰下ろさせた。

 やはりまだ辛いのか、支えを失った上体が、ぐったりと傍らの操縦席にもたれかかる。い
まだ疲弊の色濃いその顔を覗き込みながら、ルルーシュはもう一度、我慢できるかと繰り
返した。


 「何事もなければそれにこしたことはないが……追手に見つかれば、その場で戦闘にな
  る。そうなったら、お前の事を庇ってやれないかもしれない。……体が辛いだろうが、な
  んとかここにしがみついていてくれ」


 できるな?と念を押せば、まだぼんやりとした風情を見せる少年は、疲れきった顔で、そ
れでも微かに笑ってみせる。

 「…大丈夫。僕の事は気にしなくていいから……兄さんは、操作の事だけに集中して?
  今の僕じゃ、何の戦力にもならないけど。でも、邪魔にだけはならないようにするから」
 「ロロ…」


 軽い口調で返された言葉は、しかし確かな芯を残し、その言外に込められたロロの覚悟
の程を、ルルーシュに感じさせた。
 大丈夫と繰り返すロロの語調に含むものを覚えたルルーシュが口を開くよりも先に、彼は、
このまま出発してくれと言葉を続ける。


 「戦うことはできないけど…少しだけなら、兄さんのサポートはできるよ。広範囲には無理
  でも、向かってくる機体を一つ一つ止めることくらいは……」
 「ロロ、よせ」


 それは、漸く互いに向き合うことの叶った、自分達のこの新たな相関を懸命に守ろうとする、
ロロの覚悟が言わせた言葉だったのだろう。切ないほどにまっすぐに自分に向けられたそ
の思いを、素直に愛しいとルルーシュは思った。

 だが……あれほどの愁嘆場を互いに許し、その自意識を蹂躙しかねないギリギリのとこ
ろまで、互いに覚悟の上で踏み入ったのは、こうして辛くも繋いだ少年の命を、脱出の盾
代わりになど使うためでは、けしてない。
 床に座るロロの前へと改めて膝をつき、疲労の色濃いその顔を、正面からのぞきこむ。
そうして相手の視線と注意をこちらに向けさせたうえで、ルルーシュは、おもむろに口火を
切った。


 「この先どんな急場に陥っても、ギアスは絶対に使うな。何が起こっても、俺が何として
  でも切り抜けてやる」
 「兄さん、でも……」
 「完全に体調が戻るまでは、自分の体の事だけを考えろ。脱出の戦力にするために、死
  にかけていたお前を、あの時止めたわけじゃない」


 何事かを反駁しかけたロロの機先を制して、それに、と言葉を繋ぐ。同時に伸ばされた手
が、少年の癖のある頭髪をぞんざいにかき乱した。

 「それに……ここまできてお前に何かあって、お前を失うのも…お前に置いていかれた後
  に、一人でお前の墓を造るのも、絶対にごめんだ」

 俺は、体力がないんだ―――どこか作った響きを感じさせる、不貞腐れたような声音が、
ぶっきらぼうに言い捨てる。思わず呆気にとられた表情を浮かべたロロを見遣る若紫色の
虹彩が、ややして、微苦笑の色に滲んだ。


 「……だから、ギアスを使うな。絶対に、死ぬな。お前はお前の命を、全霊で守れ。お前
  の為だけじゃない……俺の為にもな」
 「兄さん……」
 「生き延びるぞ、ロロ」


 短く言い放った声には、これまで彼を雁字搦めにしてきた柵のすべてから、吹っ切れた
かのような響きがあった。


 「ブリタニアにも、黒の騎士団にも、もう俺達は帰れない。何の後ろ盾もない状況で、ブ
  リタニアの勢力圏から逃げ切るのは本当に難関だろう。……それでも、俺達は生きる
  んだ。生きて、俺達が誰憚ることなく暮らしていける未来を作って……そして、俺とお
  前とナナリーの三人で、これまで遠回りした時間の分だけ、俺達は幸せになるんだ」

 まるで自分自身に言い聞かせているかのようなその言葉には、しかし、聞く者を無条件
に頷かせてしまうだけの語勢があった。
 それまでルルーシュの真意を伺うように言葉を噤み、緊張した面持ちでルルーシュを見
遣っていたロロの双眸に、僅かに感傷を思わせる光がよぎる。程なくして、まだ子供の面
影を残したその容色が、ゆるやかに浮かび上がってきた笑みに溶けた。


 「……うん」


 疲弊した顔にそれでも笑みを浮かべたまま、短い諾意の声と共に、ロロが再び、その
上体を操縦席にもたれかからせる。それを契機としたかのように、ところどころ奔放に跳
ねる柔らかな癖毛を一撫ですると、ルルーシュは立ち上がった。

 出力を最小にした、蜃気楼の起動音が機内に響く。センサーでコックピット外の様子を
うかがい、慎重に操作を続けながら、視線はそのままに、背後の少年へとルルーシュが
呼びかけた。

 「……とりあえず、ここを出たら、ヒダエリア付近まではノンストップだ。迂闊に海上には
  出られないから時間がかかるが、夜が明けるまでに、主要な包囲網を抜けださない
  とな。辛くなったら、すぐに言えよ?」
 「うん……ねえ、兄さん」
 「ん?」

 背中にかけられた呼ばわりの声に、計器に意識を集中していたルルーシュはすぐには
振りかえらなかった。返事をしたものの、なかなか言葉を続けないロロを不審に思い、よ
うやく背後へと視線を流す。
 かちあった視線の先に―――それまでルルーシュが目にしたことがないほどに充足を
感じさせる、衒いないロロの笑顔があった。


 「……ありがとう。あの時、僕を引きとめてくれて。あのまま死んでいたら、兄さんとこう
  して生きていける未来なんて、一生知らないままだった」
 「ロロ……」
 「僕も……愛しているよ、兄さん」
 「……っ」


 それは、鬩ぎ合う自らの矜持と底意との葛藤の中で、ようやくの思いで喉奥から吐き
出す事の叶ったあの吐露に対する、ロロからの返礼だった。
 予想もしていなかったその言葉に、振り返った体制のまま、ルルーシュが総身を強張
らせる。

 そういえば、自分がそうであったように、ロロもまた、自分に向かって一度でも、そん
な言葉を口にしたことはなかったのだと思いいたる。
 自分がどちらつかずの態度を取り続けていたものだから、ロロとしてもこれまで飲み込
むよりほかになかった、それは言葉であり思いであったのだろう。

 今更のように、むごいことをしたという悔悟の念が胸を焼く。そしてそれ以上に、初め
て少年から告げられた言葉が、息が詰まる程に嬉しいと思った。


 胸の内から湧き上がってくる衝動に、こみあげかけたもので鼻の奥がツンと痛む。そ
れでも兄の沽券にかけて、今更先刻の醜態を繰り返すわけにはいかないと、ルルーシュ
は、意図して浮かべた笑顔の下で、きつく奥歯を噛みしめた。


 「……今更だろ、そんなの」
 「兄さん?」
 「知ってるよ。……もう、一年以上も前から」


 感傷を振り払うように瞼をしばたたかせ、自分に得難い好意を寄せてくれた少年に、思
いの丈をこめて笑いかける。
 一瞬怪訝そうな表情を見せたロロの口元にも、ややして、つられたように笑みが浮か
ぶ。そして、彼は、心底満ち足りた顔で、ルルーシュに向かって頷いて見せた。

 惜しげもなく向けられた、その満面の笑顔を後押しするように自分も一つ頷くと、敢え
てそれ以上ロロに言葉をかけることなく、ルルーシュは、踵を返すと蜃気楼の発進に備
えて、無人の操縦席へと腰をおろした。



 もしもあの時、ギアスの乱用に耐えきれず、ロロがその命を落としていたとしたら……
そして、否応なしにその最期の時を看取り、先刻のタチの悪い揶揄の通り、その亡骸を
葬って、この手で墓標を建てる羽目になっていたとしたら……

 けして頑丈にはできていない、自分のやわな精神は、きっと、自己崩壊の寸前まで
追い込まれていたことだろう。その挙句、自棄を起こした自分は、せっかくロロに救わ
れたこの命を、自滅の道程を辿る事に費やしていたに違いない。
 今となっては幸いにも、仮定の話として想像を巡らせるにすぎない事態であるとは言
え、それがもし現実のものとなっていたら、ロロやシャーリーのみならず、この戦いの犠
牲を強いた多くの存在に対して、自分は文字通り、死んでも顔向けができないところ
だった。

 その全てを、仮定の話に食い止めて、新たな現実を自分に与えてくれたのが、生き
延びたロロの命だ。それを思えば、この少年に対する謝辞も詫び言も、いくら言葉にし
ても尽きない。
 だが、それは今この場でどれほど言葉を尽くそうと、そんな自らの焦燥を癒したいが
ための、自己欺瞞にしかならなかった。

 本当にロロに報いたいと思うなら、言葉よりも何よりも、自分は今、ロロを無事に生き
延びさせなければならない。



 だからこそ……去来する万感の思いを敢えて胸の内に押しとどめて、ルルーシュは、
ただひたすらに、前を向いた。
 今はとにかく、この場を生き延びる。生き延びて、ロロの体調が完全に懸念ないとこ
ろまで回復したら……その時こそ、自分は改めてロロに向き合うのだ。
 早く楽になりたがる心がどれほど自分を急かしても、これまでロロが耐え抜いてくれ
た生殺しの時間を思えば、その程度何ほどのものだろうか。
 それを耐え凌げないようなら、その時は、今度こそ本当に自分がロロの兄を名乗る
資格はないと、ルルーシュは、自分に改めて言い聞かせた。



 それきり、交わされる言葉もなくなったコックピット内の静寂を、蜃気楼の起動音が断
続的に震わせる。傍らの少年に、改めていいかと問いかけることなく、ルルーシュは、
発射準備の整った蜃気楼に、最後の指示プログラミングを入力した。




 機体の上昇に必要となる射出エネルギーの噴射音が、森の静寂を乱しながら高まっ
ていく。
 そして……僅かな起動音と振動で、周囲の梢を揺るがせながら飛翔を果たしたした
蜃気楼は、逃亡者達の身柄を乗せたまま、夜陰に包まれた樹海の空を、虚空へと遠
ざかって行った。



 この先二人が辿ろうとしている前途を表すかのように、僅かな月光すらも雲居に覆い
隠した夜空は、見通しも利かない心許なさで、浮上した蜃気楼を押し包む。
 だが、それでも―――そんな夜陰をぬって進む蜃気楼の滑空は、そのパイロットの境
地を物語っているかのように、一切の揺らぎも感じさせはしなかった。








                       ご愛読、本当にありがとうございましたv



 
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