その時……手渡されたものへと及び腰に落とされたロロの視線には、どう贔屓目
に見ても、好意的な意味合いには受け取れない情動の色が滲んでいた。
一端は手渡されるままに受け取った携帯電話を、眺めやる幼い容色が、恐怖さ
え覚えているかのような表情に歪む。どうしたのかとルルーシュが声をかけるより
も先に、その歪んだ表情のまま、彼はゆるゆるとかぶりを振って見せた。
「兄さん……これ…」
「あの脱出騒ぎで、あちこちぶつかったみたいだからな。傷がついてしまったけ
ど……」
震えを帯びる声で自分に問いかけようとする、ロロの思いは解っていた。それで
も、その思いと正面から向き合うにはまだ自分の中の勇気がたりず……ルルーシュ
は、今少しの間だけだと自分に言い訳しながら、意図して方向を変えた話題を口
にした。
「なあ、ロロ……」
それこそ天気の話でもするかのように、気安く向き合って口にするには、すり替
えた話題もまた、相応の思い切りをルルーシュに強いるものだった。自らを後押し
するかのように一つ息をつきながら、続く言葉を待つロロに相向かう形で膝をつく。
「…このロケット……中身もないのに、どうしてあそこまで、人に触れさせたくな
かったんだ?」
「……っ」
「悪い……拾った時に、見てしまったんだ」
色を失い、弾かれたように自分へと向き直った幼い容色に向かい、けして責め
ているわけではないのだと、機先を制して言い繋ぐ。これをどう扱うもお前の自由
なのだと重ねて言い置きながら、それでも、とルルーシュは幾分及び腰に言葉を
続けた。
「…ただ……俺には、解らなくてさ。空のロケットを、どうしてお前があそこまで
人に触られるのを嫌がっていたのか。……俺に触らせたくなかった気持ちは、
なんとなくなら解るけど……」
これまで曲がりなりにも繋がれていた互いの手を、先に断ち切ったのは自分の
方だ。それを自分自身で肝に銘じればこそ、このロケットの一件について余計な
詮索はすまいと、一端は自分に言い聞かせたはずだった。
だが、こうして互いの腹の底まで、曝け出した今となっては……それが自分を
安堵させたいがための身勝手な追求であることを知りながら、それでも、この疑
念を口に出さずにはいられない。
できることなら聞かせてほしいと、せめて詰問めいた語勢にだけはすまいと意
識した口調で再びロロを促す。
それは、ロロにとっても極力触れられたくない琴線であったのだろう。それまで
向き合っていた視線を虚空へと逸らしたロロは、明らかに続く言葉をためらう素
振りを見せたが……それでも、僅かに震えを帯びるその唇から、拒絶の言葉は
紡がれなかった。
この一件について、ロロが自分を遠ざけようとしているわけではない事は、そ
の態度から伝わってくる。その上で、自分の気持ちに整理をつけるための躊躇
いなのだと解ればこそ、ルルーシュは、ロロを急かさない代わりに、自ら仕向け
た話題を取り下げもしなかった。
互いに押し黙ったまま、どれほどの時間をそうやってやり過ごした頃だろうか。
それまで所在なさげに辺りをさまよっていたロロの視線が、意を決したように、
ようやくルルーシュへと向けられた。
微かに空気を震わせただけの、ロロが己の吐息を呑みこむ音が、やけにはっ
きりとルルーシュの耳朶を打つ。
そして……ロロはようやく、その重い口を開いた。
「……これが、僕の為に用意されたものじゃないんだって解ってはいても……
人から何かを贈られるってこと自体、僕には経験がなかったから。始めは驚
いたし、僕の為に選ばれたのものじゃないって思うと苦しかったりもしたけど
……慣れてみれば、これを持ち歩くのは、それはそれでいい気分だったんだ。
いきさつはどうでも、今はこれは僕のものなんだって思うと、嬉しくて。自慢で」
「ああ」
「でも、そうやって気楽にどこにでも持ち歩いているうちに、それが機情の連中
の目にとまってしまって……その時は、おおごとになんてならないだろうって
思って、聞かれるままに、兄さんからのプレゼントだって言ってしまって……
そしたら……」
切りだすまでの長い沈黙を思えば、その告白はルルーシュが意外に思う程に
すんなりと続けられたが、そこで一端言葉を切ったロロの表情が、僅かに曇る。
先を促すようにその名を呼べば、その幼い容色に浮かんだ困惑のようなもの
が、ますます色濃くなった。
「ロロ?」
「……これ、ロケットでしょ?オルゴールもついてたし、写真も入ってたから……
そのどれかに、兄さんが記憶を取り戻した痕跡でも残されてないか、専門機
関で解体して調べるって…取り上げられそうに、なって……」
「…っ」
「その時の僕には、それがどういう感情なのか、よく解らなかったけど……とに
かく、これを取り上げられるのが嫌で……そう思ったら、他の誰かに、これに
触られるのが我慢できなくなって……」
だから、これに触った人間を片端から遠ざけた―――
語り進む内に、当時の感情が追憶に引きずられたのだろう。眇められた若紫の
双眸に、束の間、当時の無感情な暗殺者を思わせる不穏な光が浮かんだ。
だが、それに気づいたルルーシュが何か口にするよりも先に、追って浮かび上
がった、どこか途方に暮れたような表情が、その場を支配しかけた後ろ暗い空気
を引き戻す。
「僕も機情の人間である以上は、任務を放り出すわけにもいかなくて……それ
でも、もうこれをどこか人目に触れない場所にしまい込んだままになんて、出
来なくなってた。だから、人目についても必要以上に怪しまれたり、興味を持
たれたりしないように、人前でこれを開くのをやめたんだ。写真も……その時
に、変に勘ぐられないように抜いた。そのうち、ほとぼりが冷めたら元に戻そ
うと思って、それだけはしまいこんで……」
「……ああ」
「……でも…始めは、気軽に考えていたのに……一度中身を空にしてしまう
と、それをもう一度元に戻す事が、考えていた以上に重くて……あの頃の、
作られた関係の中で笑っている僕達の姿が、本当に重くて……結局、写真
はそのままにしてしまったんだ。それで……いつか…兄さんの記憶が封印
されていたころの、僕達の関係が、嘘じゃなかったって…僕達にとって重い
ものなんかじゃなかったって、そう思えたら……その時は、きっとロケットを元
に戻そうって……」
途切れ途切れに言葉を繋げていたロロの顔が、その時、はっきりとした後悔
の色を浮かべた。
「……重くてもいいから…あのままに、しておけば良かったな……」
「ロロ?」
「あの写真……クラブハウスの、僕達の部屋に隠してあったんだ……フレイヤ
からは免れていたとしても…もう…今更取り戻せない…」
どこかぼんやりと、独語のように言葉を繋げるロロの双眸に、涙はなかった。
だが、途方に暮れた子供のように頼りないその表情が、言葉以上に雄弁に、そ
の内に抱える思いを物語っている。
ロロの未練が、失われた写真そのものにのみ向けられているわけではないこと
に思い至ればこそ、ルルーシュは、そんなロロに気安く言葉をかけることができ
なかった。
ロロが未練を残しているのは、写真と共に置き去りにしてきた、あの捏造され
た記憶の中で共に過ごした自分達だ。たった一枚の写真を携帯することにすら
耐えられなかった、臆病な彼自身だった。
そんなロロの言葉にならない思いは、ルルーシュにとってもまた、馴染みのあ
る衝動であったから……写真などこれからいくらでも用意できるだろうと、そんな
風に、言葉面だけの慰めを口にすることは、ルルーシュにはできなかった。
口にできなかった言葉の代わりのように、胸襟をじわりと浸していく自らの感傷
を知覚する。その思いを過たず言葉に置き換えることもまた難儀に思えて……逡
巡の末に、彼は居住まいを正すと、改めてロロへと向き直った。
「…ロロ……それ、少しの間だけ、俺に預けてくれないか?」
「に……っ」
「お前から取り上げるつもりはない。ほんの少しの間、預かりたいだけだ」
このロケットを巡っての、斑鳩内での愁嘆場を思い起こしたのだろう。瞬時に身
を固くして手の中のものを握りしめたロロの怯えた表情に、それを彼に強いたの
は自分なのだという自責の念に駆られながらも、ルルーシュは、ロロの懸念を払
拭するために敢えて笑って見せた。
重ねて言葉で促せば、きつく握りしめた手を自身の胸元に引きよせ、総身を縮
こまらせたロロが、それでも諦めたかのように、その手をおずおずとルルーシュ
に差し出す。
意図して気安い仕草で携帯電話ごとそれを受け取ったルルーシュの手の中
で、ストラップで繋がれたロケットが小さく揺れた。
頼りなさそうに左右に揺れるそれを、添えた自身の掌で受け止めながら……
束の間の追憶に、ルルーシュの視線が僅か、遠くなる。
『どうしてこれを、お前が持っているんだ!』
『これは、ナナリーにあげようと思ってたんだよ……っ』
叫んだそばから、もう後悔していた、あの時ロロにぶつけた言葉を思い出す。
後悔する自分と、それもまた自分の本心の一つだったのだと訴えたがる自分と
の間に板挟まれ、身動きも取れなくなっていた自分の指針を……手にしたロケッ
トが、指し示してくれたような心地がした。
ひたすらに自分を求めたこの少年に、今の自分が報いてやれる事を、腹の底
で指折り数えてみる。それは自身の足場すら奪われた、寄る辺ない身の上には
数えあげるまでもないほどに、本当に限られたささやかなものでしかなかったけ
れど。
だからこそ……そんな限られた選択肢を自ら選び取るために、一端受け取っ
たそれを、ルルーシュは、所在なさげに空をつかむ、ロロの華奢な掌へと戻し
た。
「……にい、さん?」
「これを……改めて、お前に」
動揺からか、受け取り損ねて床へと落ちそうになったそれをロロの掌ごと押し
包み、受け取ってほしいと、言葉を添える。
改めて戻されたものをようやくしっかりと手の中に収めながら、それでも、ロロ
は戸惑いを顕わにした顔で、どこか逃げ腰にルルーシュを見上げた。
「……いいの?」
吐息のような問いかけに言葉を返す間もなく、語勢を強めた声音が、同じ言葉
を繰り返す。
「いいの?……これを…このまま、僕が持っていても……」
言葉を繋ぐそばから、縋りつくかのようにこちらを見据えてくる双眸に、新たな
情動の滴が薄幕を作る。そんなロロの姿に、自分がどれほどの傷を彼に与えて
いたのか改めて思い知らされたルルーシュは、身の内から湧き上がる自責の思
いを、奥歯を噛みしめてその喉奥に飲み下した。
あの時自分が投げつけた言葉は、叫びは、どれほど言葉を尽くそうとも、なかっ
たことにはけしてできない。あの瞬間に、自分達の相関を穿った亀裂は、それが
本心からの叫びであった以上、完全に修復することは叶わなかった。
その上で、それでも互いを求めて新たな関係を築こうと願うなら、自分達はそれ
までずるずると半端にもたれ合ってきたこれまでの相関を壊し、新たな関係を始
めるための、再生の痛みに耐えなければならない。
自分一人を憐れんで、身勝手に自ら断ち切った絆なら……それを再び繋ぐ為の
譲歩であり呼び水でもある始めの一歩は、自分が負わなければならなかった。
笑え、と自分に言い聞かせながら、向き合う体勢を調整して、自分の言葉を待
つ少年と視線の高さを合わせる。
せめて、いびつな顔になっていなければいいと胸の内で願いながら、ルルー
シュは、総動員した矜持と自制で、ともすれば緊張に震えを帯びそうになる自ら
の口角を持ち上げた。
「……あんな言い方をしておいて、今更だと思うだろうな。それでも…今、これ
をお前にと、そう思う気持ちも、本当なんだ。お前さえ許してくれるなら……
持っていて、ほしい」
「……でも…だって…これは……」
「……愛しているよ、ロロ」
その言葉を口にした時―――それまでずっと長い間、自分の中でわだかまり、
積もりに積もって内側から自分を埋めつくそうとしていた交々の鬱積が、箍が外
れたかのように、奇麗に霧散したような気がした。
これまで偽りの兄としての擬態を続けながら、それ故に、ただの一度でも眼前
の少年にかけることのなかった言葉。彼がどれほど自分の情を欲していたのか
を承知の上で、それでも頑なに目を背け続けてきた自らの衝動に……今、やっと
向き合えたのだと、ルルーシュは思った。
「弟のように……本当の家族のように、お前を愛している」
双眸を大円に見開き、自分の言葉に身を固くするロロの姿が……この身に抱く
矜持も負い目も関係なく、素直に愛しいと思う。
ロロへと向けられた自分の感情を、一度でも正面から認めてしまえば、それま
で頑なに飲み込み続けてきた言葉を、自ら解放することは、たやすかった。
「…ロロ……そばに、いてくれ」
「…っ」
「お前の事が……必要、なんだ」
けして認めることがあってはならないと、自分自身で目を背け耳を塞いできた思
いと向き合うことは、敵対者に自ら膝を折る、降伏宣言にも似ていた。自身の全て
を曝け出し、相手の許しを乞うために額づく恥辱が、常に相手の優位に立とうとし
てきた矜持を、根幹から叩き砕く。
だが……それは、なんと気安く心地よい、敗北だったことだろう。
含むものを残さず、感情のままに相手を求めることの明け透けな開放感を、これ
まで頑なに互いを隔てる敷居を積み上げ続けてきた眼前の少年に対し、ルルーシュ
は、この時初めて意識していた。
人の情というものから遠ざけられ、世の同世代の少年達と比べ酷く偏った成長を
遂げたこの少年は、それが具現する確証すらなかった危惧の為に、罪もない知己
の少女をその手にかけた。
生まれて初めて味わった、「家族」という居心地のいい居場所に執着するあまり、
それを己から取り上げるかもしれないという一人合点の焦燥の為に、彼は、ともす
れば自分の実妹にすら、その殺意を向けようとしていた。
この少年と、どう向き合い、付き合っていけば、自分達の関係が再構築できるの
か、正直なところ、ルルーシュにも解らない。
ロロの抱える思いはあまりにも一本気で重すぎて……それを一身に向けられる
立場にあるルルーシュには、彼を煽る焦燥の全てを受け入れ受け止められるほど
に、自分が揺らがずにいられる自信は持てなかった。
それでも……手探りの状態からでもいいから、この少年とこの先作り上げていく
未来を、諦めてしまいたくはない。手の届くところにあるそれを、自らの尻込みで、
手放してしまいたくはないと思う。
だから―――そんな彼の兄でありたいと思った自分の、せめてもの矜持で、ルルー
シュは、ロロに笑いかけた。
ひたすらに自分を求めるこの少年の、切ないほどに追い詰められた思いを受け止
めることもできない甲斐性なしだとは、自分で自分を認めたくなかった。
言葉を失ったロロの、衝動に強張った容色を眺めながら、そんな風に自らの思い
と向き合っていた時間は、果してどれ程のものであったのか。
それまで、呆然とルルーシュを見つめていた少年の唇が、俄かに小刻みな震え
を帯びた。
「……僕……」
口を開くと同時に、それまで辛うじて眦にとどまっていたものが、筋を描いてその
すべらかな頬を伝い落ちる。それが呼び水となったかのように、後を追って次々と溢
れ出した情動の滴に容色を濡らしながら、ロロは、持ち上げた両の手で、握りしめた
携帯電話ごと、自身の半顔を覆った。
「…僕…僕……あの時本当は…ナナリーを……殺してしまおうと…思って……」
「ロロ……」
「でも……できなくて……兄さんの気持ち、考えたら…最後の最後で、躊躇って
……そんな自分の事が…自分で、信じられ、なくて……」
嗚咽交じりに続けられたその吐露は、ルルーシュに向けられた告解というよりは、
想定外の行動をとった自分自身を疑問視した、自己解析の為の独語のようにルルー
シュには聞こえた。
そんなロロの精神構造にはやはり特異なものを感じ、ごく当たり前の兄弟として、
互いに完全に向き合えるようになるまでの道のりの長さを思って、どこか暗澹とした
気分になる。
だが……そんな覚悟を胸の内で再認識したルルーシュの耳朶に、続く少年の言
葉は、思いもよらなかった形となって、飛び込んできた。
「……良かった……殺せ、なくて……」
「ロロ?」
「こ…っ…こんな…こと……もう、絶対…兄さ…から言ってもらえな…って…おも…
思って…った…のに……っ」
言葉を重ねるごとに呼吸を荒くするロロの独白が、せり上がる嗚咽に阻まれては
語調を乱す。それでも、幼い子供のようにしゃくりあげ、ともすれば全身を痙攣させ
るほどの衝動をルルーシュの前に晒しながらも、ロロは、続く言葉を呑みこむことだ
けはしなかった。
「…言ってもら…もらえな、くても……にいさ、んの家族…僕だけに、なれば……
それでいいって…だから……ナナリー……っ」
「ロロ……」
「あ、そこで…迷わな…ったら……もう一生…兄さんの、弟になれなか……っ」
「……っ」
「…ころ…殺せな…て……よか…た……っ」
思いの全てを振りしぼり、腹の底から吐き出したのであろうその吐露は、呼吸を
阻むほどに激しさを増した嗚咽に阻まれて、ついに明確な言葉を象ることが出来な
くなった。
それきり、声を放って泣きじゃくるばかりになったロロの姿を……ルルーシュは、
かける言葉もなく眺めやった。
これほどまでに自分を失い、体裁をかなぐり捨てて慟哭する少年を、共に過ごし
たこの一年あまりの時間、ルルーシュは、ついぞ目にしたことがなかった。
作られた偽りの兄弟としての日常の中で、自分を主張するということが殆どなかっ
た、控え目な弟。捏造された記憶があるべき形へと戻り、監視者としての素顔を
曝け出したその後も、ルルーシュと家族であることを望んだロロは、いつでも穏や
かで、従順だった。
時に枷の外れたその思いが、予期せぬ事態を引き起こすことになっても……そ
れでも、暗殺者として育てられたロロは常に理知的であり、彼がその理性の枷を、
自ら壊したことはない。生まれ育ちの特異さもあり、彼はそういう人間なのだと、
そうルルーシュは自分を納得させてきたのだ。
だが……それならば、今、自分の前で頑是なく泣きじゃくるこの少年は、一体
誰なのか……
常に冷徹であることを自らに課すことで、ルルーシュにとっては想像の域をでな
い過酷な裏社会を、ロロは、ここまで生き抜いてきたのだろう。そんな彼が纏う理
性の鎧を、今、彼は恐らくは初めて、自ら壊したのだ。
それほどの衝動を、自分を前に明け透けに曝け出して見せた、ロロの追い詰め
られた心情を思う。
面識すらないナナリーにその殺意を向けた程に、自分から傾ける情に彼は飢え
ていた。それは、彼がそんな不安定な状態にあったことを承知の上で、意図して
彼を生殺しの状態に追い込んできた、自分が責任を問われるべき不始末だ。
この状況を作り出した自分こそが、事態を収めるべく動かなければならない事は
解っている。実際に彼がナナリーをその手にかけたわけではない以上、仮定の話
にそこまで取り乱す事はないのだと、そう言って、自分は慟哭する彼を宥めてやる
べきだった。
だが……
「……ロ…っ」
一度はその名を口に乗せかけて……それでも、時を同じくして身の内で膨れ上がっ
た衝動に、ルルーシュは、続く言葉を口にすることが、出来なくなった。
気に病むなと言わなければ。そこまで自分を追い詰めるなと、そう宥めなければ。
それでも、ナナリーを殺せなくてよかったと、そう泣きながら繰り返すロロの思いが
あまりにも胸に痛くて……喉奥を塞ぐ衝動に、言葉が出なかった。
紡げなかった言葉の代わりのように、それまで自制で飲み込み続けてきた思いの
発露が、滴となってルルーシュの双眸から溢れ出す。
せめて嗚咽だけは漏らすまいと、口元を覆うように持ち上げられた震える手を、箍が
外れたように零れ落ちる情動の滴が、後から後から濡らしていった。
複雑に感情が入り混じった己の思いを、一語で表す事は出来なかった。それでも、
ロロが自分に初めて見せた、その意外な一面に……ルルーシュは、確かに安堵をお
ぼえていた。
実妹が暗殺される危険にさらされていたことへの、衝撃もある。それを一度は実行
に移そうとしていたロロに対して含むところがないと言えば嘘になったし、そんな彼の
心の動きを理解できていなかった自分自身の迂闊さに、腹立たしく思う気持ちもあっ
た。
だが……それでも結局は、ロロは、その殺意の手をナナリーに向けては伸ばさなかっ
た。
その上で、躊躇ってよかったと涙を流す少年の姿が……これまでどうしても、色眼
鏡を通して彼の為人を捉えてきたルルーシュには、俄かには信じがたいほどに、「普
通」であるように思えたのだ。
その出自と育ちを思えば、互いの抱く価値観に齟齬が生じるのは、しかたがないこ
とだとどこかで思っていた。自分達の間に残されたその溝を埋めることが、これまで彼
と向き合うことを避け続けてきた自分の払うべきツケなのだと思いはしても、そうやっ
て、敢えて暗部を覗き込もうとすることは、やはり気を滅入らせる行為で……
だからこそ、思いもかけず目の当たりにすることとなったその姿は、ルルーシュを安
堵させずにはいられなかったのだ。
何故、人を殺めてはいけないのか。罪を犯した者が、なぜ咎められるのか。
暗殺を生業にしてその半生を生き抜いてきたロロと心底向き合うためには、そんな
至極当然の倫理を問答することから、自分は始めなければならなかった。
物心ついた時分には、施された「教育」によって、そういった常識を捻じ曲げられて
認識させられていたであろうロロに、この手の倫理を理解させることは、門外頼であ
るルルーシュにとっては難門だった。ひどく困難であるように思えるその命題に、向
き合う自分を想像するだけで、気が重くなる。
どれほどの言葉と時間をかければ、彼の中に根付いた価値観を変えられるのか…
…それは、終わりすら見通す事の出来ない、途方もない道程だった。
そんな、いっそ投げ出したくなるほどの難題に―――当のロロが、今、確かな光明
を与えてくれたような気がした。
恐らくは生まれて初めて、人を殺めるという行為を躊躇った少年。それは、この少年
がその身の内に残していた、人間としての情の証だった。
後ろ暗い出自と育ちによって、歪に凝り固められてしまったその倫理と価値観は根
深い。十有余年に渡って形成されてきたそれを、一朝一夕で変えられるとは思わな
かった。
だが、それでも。自分はロロの中に、自分との確かな共通項を見つけたのだ。
必要に駆られてその手を染めることを、他人事として人並みに咎めるには、この手
も汚れすぎている。だから、行為そのものに対して、自分がロロを云々できる資格な
ど始めからなかった。
ただ、意図して犯した罪に、一切の迷いも後悔も覚えないというのなら、その心の
ありようは、既に常人のものであるとは言えない。それこそが、自分とロロを隔てる
壁の最たるものなのだと、自分はどこかで、この相関の根本的な修復を諦めていた。
だが……
行為を躊躇ったというのなら。自分で自分を、振り返ろうとする心があるのなら。
自分と彼の内面は、少しも変わらない。それどころか、自分に対してこれほどまで
に思いを傾ける少年の方が、むしろ、自分などよりよほど情深かった。
ただ一つでも契機を掴めれば、自分達は歩み寄れる。
やり直せると……腹の底から、そう思った。
両手で顔を覆い、激しく嗚咽するばかりとなった少年に向かって、手を伸ばす。
身の内から湧き上がるものに意気地なく震え続ける指先は、結局ロロに触れるこ
とはできず、自らの行為に反って衝動を煽られたルルーシュは、コックピットの床に
膝をついたまま、眼前の操縦席へと少年の体を抱え込むようにして突っ伏した。
「ロロ……っ」
その困憊の度合いも忘れ、きつく腕にかき抱いてしまった細身の体は、かけたマ
ント越しにもはっきりと解る程に、上がる嗚咽に合わせて震えている。つられて臆面
もなく泣き叫んでしまいたくなる衝動を歯を食いしばってこらえながら、ルルーシュは、
思いの丈をこめて腕に抱く少年の名を呼ばわった。
やり直せる……自分は彼を、愛してやれる……
本当の家族のように。血の繋がった弟のように。この身の内に巣食い、名付ける
ことすら自ら否定し続けてきた感情を、今なら素直にこの少年に注いでやれると……
せり上がりかける嗚咽を喉奥で飲み下しながら、ルルーシュは、この時ようやく、自
分自身に認めることができたのだった。
あの時、ナナリーを殺めなくてよかったと、そう繰り返して泣きじゃくる、まだ子供の
面影を残した未分化な少年。彼の涙は、吐露は……かつて腹の底からの憎しみに駆
られながら、それでも彼を「始末」することを躊躇った、自分自身のものでもあった。
ヴィンセントに仕込んだ起爆装置を、激情のままに作動させなくてよかった。文字通
り、この手の中に握られていた少年の命を……ほんの一瞬でも、躊躇い惜しむ気持
が当時の自分の中に残っていて、本当に良かった。
ロロの供述通り、ナナリーがあのフレイヤから生き延びていたとしても―――もし、
それが彼の「遺言」となっていたら、その喪失感は、ナナリーに向けられた希望を以
てしても、けして埋められはしなかっただろう。
だから……いつのまにかそれほどに深く強く、自分の中に痕跡を残していたこの
少年に……それと気づきもせずに、あの時、手を下さずに済んで、良かった―――
「……お前を…愛している、ロロ……」
身の内で膨れ上がる衝動を持て余して、子供のように激情を晒す弟を宥めることも
できないまま、ただその体にしがみついて涙することしかできない自分は、傍から見
ればさぞかし滑稽で、不甲斐ない「保護者」だろう。
もうじき、森の陽も完全に翳るはずだ。上空から探索を続けているだろう追手も一端
は引き上げるだろうが、森が夜陰に閉ざされる前に、交代要員が近辺まで分け入っ
てくる恐れは十分にある。
いまだ逃げ切れたわけでもないこの非常時に、いつまでもこうして自らの激情に囚
われてなどいられない事は解っていた。
それでも……ようやく掴めたと思えた互いの手を、今振り解いてしまうことは、ル
ルーシュにはできなかった。
これまで向き合うことを避け続けてきた、その不毛な相関を一からやり直すために
……頑なに自分の中に封じ込めてきた腹の底からの吐露を、ルルーシュは、繰り返
さずにはいられなかった。
エピローグに続く
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