出会いという名の始まり


 自警団第三部隊隊長代行、デアリング・デッキサイドと、公安維持局を休職
し、彼の手伝いをしているヴァネッサ・ウォーレン。本来、対立組織である自
警団と公安にそれぞれ所属する2人が、所属組織における人間関係以上に良好
な友好関係にあるのは、ある意味奇妙な話と言える。
 だが、無能な味方より有能な敵に対しての方が、尊敬や信頼の念を抱きやす
いように、こんな話は奇妙ではあっても珍しいとは言えない。ましてや、2人
共、有能だが組織の規格から外れてるがゆえに浮いている、という共通点もあ
る。奇妙ではあっても、不自然な話ではないのだ。
 もっとも、そのような友好関係を築くには、それなりのきっかけが必要であ
る。この2人の場合、それは出会いの時に起こったのだった・・・。

「荷物はこれで終わり、っと・・・」
 ヴァネッサ・ウォーレンは、手をはたきながらそう言った。彼女はエンフィ
ールドの公安維持局に赴任するための引っ越しを終えたばかりである。と、言
っても、単に荷物を運び込んだ、というだけで、荷ほどきはこれからなのだが。
「さてと・・・」
 荷ほどきにかかろうと、手近なダンボール箱に手をかけると、正午を告げる
鐘が鳴った。
「もうお昼なの?」
 誰にともなく呟くと、ヴァネッサは愛用の赤いジャケットを引っかけた。こ
の状況では、外食する以外にない。ついでに、この街の事も聞いてみよう。彼
女はそう決めたのだった。

 時間は20分ほどさかのぼる・・・
「ついてないなぁ・・・」
 自警団第三部隊、隊長代行にして唯一の隊員であるデアリング・デッキサイ
ドはため息をついた。彼はついさきほどまで、旧王立図書館で第三部隊の存続
について上申書を書いていたのだ。ようやく書き上がったので提出しようとし
た矢先に、立てこもり事件に出くわしてしまった、というわけである。しかも、
その場にいる者の中で最先任であったため、事件解決の指揮をとるように命じ
られたのだ。
(そう言えば、今日の当直責任者は第四部隊のオーウェル隊長だったっけ。私
 に押しつける気だな・・・)
 失敗したら、存続問題でゴネる自分を免職にでもする気だろう。ウマの合わ
ない部隊長の思考を、偏見と承知の上でそう判断した。
 話を戻す。事件自体は典型的なまでの居直り犯のたてこもりであった。一仕
事終えた空き巣がその場から離れようとしたところを、たまたま通りかかった
巡回中の自警団員に発見され、現場に立てこもった、という次第である。
「さてと・・・どうしようかねぇ・・・」
 駆けつけた第一、第四、両部隊の隊員を出入り口、窓などの見張りに付けた
彼はひとりごちた。犯人が突きつけてきた脅しにより、強行突入は今のところ
不可能。だからといって、いつまでも包囲する気はさらにない。何らかの方策
が必要だが・・・。
(しょうがない、あの手でいくか)
 方針を決めたデアリングが、同期のアルベルトを呼ぼうとした時、第一部隊
のヤンが困惑の表情を見せながら話しかけてきた。
「あの、デアリングさん」
「どうしたの?」
「アルベルトさんが公安の人と言い争っているんです。ちょっと来てもらえま
 せんか?」
「捜査主導権での言い合いなら、まかせておけばいいんじゃないか?」
「いえ、それが・・・説明しづらいんですよ。とにかく来てください」
「分かった、行こう」
 ヤンの顔に尋常ならざる事態の存在を感じたデアリングは、他の団員に犯人
が逃走を図った時以外は動くなと命じて、ヤンの後に続いた。

「センスがないんだよ、お前の化粧にはよ!!」
「何ですって!!汗で化粧が崩れかけている男に言われたくないわね!!」
「・・・ああ、なるほどね・・・」
 アルベルトと公安局員の言い争いを一目見るなり、デアリングは納得してし
まった。赤い髪、赤いスーツ姿の女性が、自警団の中では唯一おしゃれに気を
使う男、アルベルトと化粧の事で言い争っていた。いや、最初は違うことで言
い争っていたのだろうが、今では「化粧論争」以外の何物でもなくなっている。
「・・・で、私にどうしろと?」
 いささか疲れた口調で呟くと、ヤンは困惑しきった口調で、
「とにかく止めて下さいよ。私たちでは止められないんです」
 と言った。やれやれ、とため息をつくとデアリングは髪をかき回しつつ2人
に声をかけた。
「もしもし、お二方。ケンカはご遠慮願いませんか?」
 これに対するアルベルトの反応は「イノシシ」という評価をさらに強固にす
るものであった。
「うるさい!お前は黙っていろ!この公安の雌狐に化粧のなんたるかを・・・」
「今は化粧じゃなくて、事件解決の方が先だろうに・・・」
 呆れたデアリングの突っ込みに、先に冷静さを取り戻したのは女性の方だっ
た。
「・・・そうね。こんな所でケンカしている場合じゃないわね」
 1つ息をつくと、未だ冷静になりきれないアルベルトを無視して、デアリン
グに向き直った。
「公安維持局、ヴァネッサ・ウォーレンです。担当者の方にお会いしたいので
 すが」
「私です。自警団のデアリング・デッキサイドです」
「え?」
 あっさりと言ってみせたデアリングを前に、ヴァネッサはあっけにとられた。
どう見ても、自分より年下にしか見えない。
「ちょ、ちょっと、からかうのは止めてよ!」
「冗談を言って遊ぶ趣味はないんだけどな・・・特にこんな時に・・・」
 真剣なデアリングの表情を受けて、ヴァネッサはまじまじと彼を見つめた。
一方の彼は、らちがあかないとふんだのか、逆に問い質した。
「それで、何の用?」
 その問いで、彼女もひとまずは疑問を眠らせる事にしたらしい。表情を改め
て、姿勢を正した。
「この事件を共同して解決することを提案します」
「共同・・・ね」
 デアリングは考え込んだが、それもほんのわずかな時間の事だった。彼は、
ヴァネッサが思っていた以上にあっさりと、彼女の提案を受け入れた。
「いいよ」
「お、おい、デアリング!」
 驚いたアルベルトが思わず叫ぶ。が、デアリングはそんな友人の驚きをあえ
て無視した。しかし、驚いたのはヴァネッサも同じだ。
「ほ、本当にいいの?」
「何かまずい?」
「私はかまわないけど・・・キミが良くないんじゃないの?」
 事件解決に公安の手を借りたとなれば、後々自警団内部で叩かれかねない。
その点に配慮しての発言だが、彼は気にするそぶりさえ見せなかった。
「かまわないさ、要は解決すればいいんだから」
「・・・お前ってホント、無頓着だよな、その辺」
 一緒に来たアルベルトが、呆れ半分に言う。
「頓着したところで、事件が解決するわけじゃないからね。こういうつまらな
 い突発事はさっさと片付けて、のんびり本を読みたいんだ」
 考えようによってはとんでもなく本末転倒した発言に、ヴァネッサは呆れた。
目の前の男が、事件解決には手段を選ばない有能な男なのか、それとも単に無
責任な男なのか、彼女には見分けがつかない。
(なんなのよ、この人は?)
 心の中で叫ぶが、それで回答が見つかるわけではない。そんな思考の迷宮に
捕われていると、不意にデアリングが声をかけてきた。
「あれが、犯人が立てこもっている場所」
 彼がゆび指す先には、1階が作業場になっている2階建の家があった。窓の
たぐいには2人の自警団員が張りつき、犯人の逃走に備えている。それ以外に
も、突入に備えて数名が待機している。ごくごくオーソドックスな包囲体勢で
あり、隙がない。
 その辺を、ヴァネッサは素早く見て取った。
(こういう事はちゃんとやっているんだ)
 隣で説明をするデアリングが、いささか無責任な部分を持つにせよ無能とは
程遠い男なのだと、彼女は判断した。
「それで、人質とかはいるの?」
「いない。犯人1人だけ、さ」
「いないの?じゃ、何で突入しないのよ?」
 人質がいないのなら、何の心配もなしに突入して犯人を逮捕すればいいはず
である。そうしない理由を問うと、デアリングは再び家を指して、一見無関係
に思える問いを発した。
「あの家、誰の家か知ってる?」
「まだ、この街に来たばかりだから・・・」
 ヴァネッサは首を振る。そんな彼女に頷いて見せると、デアリングは答えを
言った。
「花火職人の家なんだ。1階はその作業場」
 彼の一言で、ヴァネッサは1つの可能性を見つけだした。
「まさか・・・犯人は!?」
「鋭いね。突入したら、火薬に火をつけるって言っているんだ」
 そうなった場合の惨禍が、彼女の脳裏を駆けめぐった。たてこもった建物が
跡形もなく吹き飛ぶ。そして、周囲に林立する家屋がその余波で倒壊し、その
残骸が燃え上がる。いささか寒い光景だ。
「なんてことを・・・」
「まぁ、なかなか機転のきいた脅しではあるよね。火薬をこんな形で盾に使う
 なんて」
「感心している場合じゃなわよ!大体、どうしてこんな住宅地に、危険物を取
 り扱う建物があるの!?」
 落ち着き払って感心するデアリングに、ヴァネッサが叫び声を叩きつけた。
いたってもっともなその指摘に、デアリングは肩をすくめた。
「元々、あの家が建てられた頃は、この辺、街外れで住宅地じゃなかったんだ。
 周りの家が後から押しかけて来たってわけ」
「だったら、家が建つ前に防護壁でも・・・」
「役所にはそんな予算がないんだ」
 デアリングの明快な答えに、ヴァネッサは今度こそ絶句した。
「呆れた・・・」
「ま、こんなものさ。いつだって、悪化するまで問題は放置されるものだしね」
 一方のデアリングは悟っているのか、それとも既に見放しているのか、平然
たるものだ。そんな彼を、ヴァネッサはまじまじと見つめた。彼の瞳には、世
の中の出来事、ことごとくを突き放している観察者的な冷たさと、それがもた
らす悲観的なものを感じさせない温かさとが混ざり合った、複雑な光をたたえ
ていた。
 一体、彼は何歳なのか?彼の瞳を見たヴァネッサは、そんな疑問を抱いた。
見た目は彼女と同じくらい(実際、その通り。ヴァネッサ22、デアリング2
1)なのに、その瞳は年を経た者だけが持つ深みがある。
 そんな困惑を抱いている間に、デアリングは付け加えた。
「だから、仕事がなくならないですむ。ありがたく思うべきなんだろうね。ク
 ビがつながるんだから」
 辛辣な皮肉にも、そらっとぼけたおふざけにも取れる一言。今度こそ絶句し
たヴァネッサに声を立てない笑いを見せると、デアリングは表情を改めた。
「ま、そういう訳で今のところにらみ合いって所なんだ」
「このまま待つの?」
「まさか、犯人がヤケをおこすよ」
 あっさりと断言する。確かにその通りである。いつ仕掛けてくるか分からず、
常に注意をしなければならない犯人側と、仕掛けるタイミングだけを計ればい
い包囲側。精神の消耗度は、圧倒的に犯人側の方が大きい。
 そうであるがゆえに、長時間に渡る包囲は、犯人が自暴自棄の状態に追い込
み、無用の被害を生み出しかねない。出来れば避けたい所だ。
 デアリングの一言は、それを端的に示したものである。そして、アカデミー
を卒業したばかりのヴァネッサにも理解できる判断であった。だが、それでは
どうすればいいのか、彼女には見当もつかなかった。
「それじゃあ、どうするつもりなの?」
「ああ、もう策はあるんだ。アルベルト」
「何だ?」
「悪いんだけど、第五部隊の所に行って、消火用の放水器を2台借りてきてく
 れ。人付きでね」
 にっこり笑って言うデアリングに、アルベルトはぼやいてみせた。
「おいおい、俺を伝令に使うなよ。他に適当な連中がいるだろ?」
「一番近くにいるのが君なんだ。ま、運がなかったと思ってあきらめてくれ」
 明るく言ってのけると、自分より頭1つ分は背の高いアルベルトの背中をポ
ンと叩いた。
「ったく、しょーがねーなー・・・」
 頭をかきつつぼやいてみせると、アルベルトは走り出す。長身ゆえの歩幅の
広さも折り重なって、伝令役にふさわしい俊足ぶりであった。
「いいか、俺抜きで突入するんじゃねーぞ!!」
「しないって。切り込み役は君と決めてあるんだから」
 去り際の一言を聞いて、デアリングは苦笑混じりにつぶやいた。そして、さ
らに隣であぜんとなるヴァネッサに笑ってみせた。
「勇敢だし、信頼出来る奴なんだけどね。少し短気な上に頑固でねぇ」
(少し、で済むレベルかしら?)
 デアリングの評価に疑問を抱いたヴァネッサだったが、口に出して質したの
は別の疑問だった。
「放水器なんて、何に使うの?」
「ちょっと犯人の頭を冷やしてやろうと思ってね」
 いたずらを企む子供のような笑顔を浮かべて、片目を閉じてみせるデアリン
グ。一体どういう意味か、重ねて聞こうとするヴァネッサ。2人の耳に、突然、
耳障りな金切り声が飛び込んで来た。
「ちょっと!!責任者を出しなさい!!」
 この、ややヒステリックな叫びに、ヴァネッサは軽く眉を寄せ、デアリング
はため息をついた。続けてつぶやく。
「うるさいのが来た・・・」
 そんなつぶやきをかき消すように、またまたヤンが叫びつつ駆け込んできた。
「デアリングさん!公安の人が指揮権をよこせって・・・」
 さらに、その叫びに押し重なるように、先程の金切り声が響き。発言者が姿
を見せた。
「今からこの事件は、我々公安維持局が解決します。役立たずの自警団は引っ
 込んでもらいましょうか?」
 皮肉というより質の低い悪口というべき事を言ったのは、褐色の公安の制服
を着用した女性であった。緑のソバージュヘアに薄いサングラスをかけている。
全体的な顔のつくりは悪くないのだが、人を見下す目つきと、つまらなそうに
「へ」の字に曲げられた口とが、「嫌な奴」という印象を与えている。後ろに
続く2人も程度の差こそあれ、彼女と同じ印象を与える男達であった。
「まったく、たかが犯罪者1人を捕まえるのにこんな大勢が必要とはね・・・」
 2人のうちの長身で肩幅のある男が嘆かわしい、と言わんばかりの態度で首
を左右に振った。そんな3人を横目に、ヴァネッサはデアリングに問いかけた。
「ねぇ、この人達、誰なの?」
「君と同じ公安局員。確か、パメラと・・・ボルだかジルだかと・・・それに
 ジャランだったかギャランだったかな?」
 憂鬱そうに、それでも律義に説明するが、名前をいいかげんに覚えているあ
たり、あまり会いたくない相手であるらしい。その点はヴァネッサも同感であ
った。さらに彼女にとって憂鬱な事に、彼らが公安の人間であるとするなら、
これから否応なしにつき合って行かねばならないのだ。彼らに好意を抱くとま
では行かずとも、嫌悪感を抱かないようにするには、相当の精神的消耗を余儀
無くされるであろう事が想像された。
 が、相手はそんな事情を斟酌する気はないらしい。相変わらず耳障りな声で
ヒステリックに言い立てる。
「何をぐずぐずしているの!?早く自警団を解散させなさい!邪魔なのよ!!」
 いちいちカンにさわる言い方である。さすがに周囲の自警団員が何か言い返
そうとした時、デアリングが先手を打った。
「こちらも仕事だからね。で、そちらはどういう方法で犯人を捕まえるつもり
 なのか教えてくれないかな?そうしたら、まかせてもいい」
 あれだけ言われたにしては、いたって穏やかな口調である。だが、口調とは
裏腹に、うとましげな表情が彼の顔に浮かんでいた。誰でも気付くような露骨
なものではなかったが、ヴァネッサのようにカンのいい者ならすぐに分かる、
そんな表情である。
 だが、彼と相対しているはずのパメラは気付かない。それどころか、鼻を鳴
らして一蹴した。
「何であなたに話さなくちゃいかないのかしら?」
「話せないのなら、まかせられないな。私たちは、事件発生からずっと犯人を
 見張っていたんだ。今頃ノコノコやってくるような手合に無条件でまかせる
 ほど無責任にはなれないね」
「くっ・・・」
 言い返しようのない一言に、パメラは憎らし気にデアリングをにらみつけた。
が、柔和な外見のこの男は、その程度では小揺るぎ一つしない。それどころか、
まっすぐに見つめてくる。威圧するでもなく、皮肉る風でもなく、だが、決し
てごまかせないと思わせる何かを感じさせる、そんな雰囲気を黒い瞳にたたえ
て。
 沈黙が辺りを支配したが、それは1秒しか続かなかった。パメラが吐き捨て
るように言い放ったのだ。
「たかがコソ泥1人、大した事ないわ。問答無用で突入すれば、簡単に捕らえ
 られるわ。あなた方はどうだか知らないけどね」
 予想範囲内の情報収集能力に、デアリングは小さくため息をついた。治安維
持に当たる組織に限った話ではないが、この手の事態に対処するには緻密な情
報の収集と分析、そしてその分析結果に基づく、迅速な判断と行動とが不可欠
なのだ。どちらか一方が欠けても、治安維持組織としては非難に値するという
のに、パメラ達は両方共欠けているのだ。非難するより、呆れる方が先に来る
であろう。
 だが、呆れるよりも憂慮せねばならない立場の人もいる。今のヴァネッサが
まさにその人で、彼女は鈍い頭痛を覚えながらも、それでもこの先任の局員達
に事情を説明し、計画の変更をさせようと説得を開始した。
「ちょ、ちょっと待って!!」
「何なの、あなたは?」
「明日付けで公安維持局に着任するヴァネッサ・ウォーレンです」
「まだ着任してはいないのね。なら、そんな人の言う事を聞く必要はないわ」
 居丈高な発言に、デアリングは再びため息をつき、ヴァネッサは絶句した。
それでも、一瞬後には立ち直った彼女は伝えるべき事を言う。
「でも、誤解している事があるわ!犯人は人質こそ取っていないけど、火薬を
 まいて、いざとなったらそれを爆発させるって言っているのよ!!」
 この一言に対するパメラの反応は、あまりに無神経な代物だった。彼女は鼻
を鳴らすと傲然とした態度で言い放ったのだ。
「ふん、それがどうしたと言うの?」
「なっ・・・!」
「たかが犯罪者1人、建物もろとも吹き飛ぼうと知ったことではないわね。ど
 うせ、周りの建物も無人でしょう?」
「い・・・!!」
 あまりの暴言(一抹の真理を含んではいたが)にヴァネッサが感情を爆発さ
せた直後、デアリングが彼女に肩にそっと手を置いた。別に大した事はない動
作だが、彼女の精神におよぼした効果は絶大であった。
「デアリングくん?」
 その動作に何かを感じ取ったヴァネッサは振り返り、デアリングの黒曜石を
思わせる瞳に浮かぶ光に思わず息をのんだ。彼はどこまでも静かであった。だ
が、それは雪山の峻厳さを伴った静かさであり、不心得者が迂闊な事をすれば、
すかさずその者を抹殺するであろう事が想像できた。そして、この彼女の想像
は正しかった。デアリングは静かに、あくまでも静かに公安局員達を排除しに
かかったのだ。
 もっとも、そんな事に気付く眼力を持たないパメラは、金きり声で叫ぶ。
「さっさと引き上げさせなさい!!邪魔なのよ!!」
「お断りする」
「何ですって?」
「お引き取りいただこう」
 デアリングの声はいつもと同じ穏やかで静かなものであった。だが、どこか
冷ややかで、そのくせ妙に力強いものを感じさせた。そんな声で彼は続ける。
「自警団にせよ、公安維持局にせよ、その存在は住民の生活を守るためにある。
 その程度の事が理解できない輩に事件解決をまかせる気はない」
「わからない人だなぁ。僕たちの方が優先権を持っているんだから、そんなど
 うでもいい事をごちゃごちゃ言わずにさっさと明け渡せばいいんだよ」
 小馬鹿にしたような口調で、公安の3人の中で最も若そうな男−ギャランが
高圧的な態度に出る。自分達の方が優れていると信じ込んでいる者特有の傲慢
な態度だ。
 彼らの一連の態度に、デアリングも意を決したらしい。無言で目を閉じると、
小さくため息をついた。それがいかなる決意の表われなのか、彼の横顔を見つ
めるヴァネッサには分からなかった。相手の心情を推し量る事をしない公安の
3人は、自分の都合のいいように解釈し、一歩踏み出し、さらに何か言おうと
した。
 デアリングが一番近くにいた第一部隊の隊員の名を呼んだのは、その直前だ
った。
「ヤン」
「はい?」
「この3人を逮捕してくれ」
 さらりと出てきたその一言に、最初、誰も反応できなかった。それくらい、
予想外な命令であった。だが、デアリングは淡々とした口調のまま、さらに罪
状を告げる。
「容疑はサボタージュ、及び公務執行妨害」
 ゆっくりと目を開けると、公安の3人をひたと見据えた。
「彼らは住民の生活を守るための努力を怠っているばかりでなく、そのために
 必要な行動を妨害しようとしている。これは立派に逮捕に値する」
 口を閉ざすと、沈黙が辺りを支配した。デアリングは他の者の行動を待つの
みであったし、その他の者はと言えば、彼のあまりに強烈な反撃に全く反応を
起こせずにいる。30秒ほどの沈黙の末に、ようやく反応を起こしたのはパメ
ラだった。
「な、何をいきなり・・・」
「逮捕が嫌なら、お引き取りいただこう。今なら、見逃すけどね」
「ふ、ふざけないで!事件捜査については私たちの方が優先権を持っているの
 よ!それを・・・」
「公安維持局に優先権があるのは知っている。だけどその優先権は、同階級の
 場合に適用されるものじゃなかったかな?そちらに隊長と同格の課長がいる
 のかい?」
 ちなみに、自警団は団長の下に各部隊隊長、そして部隊内のチーフがいてそ
の下に平隊員がいる。公安は局長、各課の課長、課内の主任、平局員、という
階級順になっている。
 つまり、代行であるとは言え隊長であるデアリングは、主任であるパメラや
平局員のギャランやボルより、上位の立場にあり、パメラ達の優先権も及ばな
いのだ。
「くっ・・・」
「そんなに優先権をうんぬんしたいなら、住民課の課長を連れてきたらどうだ
 い?」
 半年後、同じような論法を公安維持局局長に使われる事になるのだが、無論、
デアリングはそんな未来を予測してはいない。ただ、この時点で彼らを封じ込
める、最も手っ取り早い論法を使っただけである。
「・・・・・・」
 階級の事を言われ黙り込むしかないパメラ達は、憎しみを込めてデアリング
をにらみつけた。一方のデアリングは彼らを無視するようにきびすを返し、ヤ
ンに命じた。
「後を頼む。突入組から人を割いて彼らを見張らせてくれ」
「はい」
 頷いたヤンが自分を含めた4人で見張りにかかるのを横目で確認すると、彼
は現場の方に向かった。その背中に、パメラが怒りを込めて捨て台詞を叩き付
ける。
「覚えてらっしゃい!後悔するわよ!!」
 その一言に、ヴァネッサは一瞬だけ眉をひそめた。だが、すぐに身をひるが
えして、デアリングの後を追う事を選んだ。
 そんな彼女がデアリングの横に並ぶと、彼はゆっくりと口を開いた。
「悪かったね」
「え?」
「彼らに対して、さ。嫌な思いをさせたな、と・・・」
 やや自嘲気味の言葉に、ヴァネッサは小さく首を振る。
「そんな事ないわよ。あれじゃ、話し合いにもならないもの」
 彼の心情に配慮した軽い口調で、彼女は笑ってみせる。
「それよりも、公安維持局にあんな人がいるなんてね・・・」
「君には悪いと思うけど、公安の半分くらいはあんな感じだよ」
「・・・嘘・・・」
 あぜんとなって、ようやくそれだけを口にするヴァネッサ。そんな彼女に、
デアリングはため息混じりに説明する。
「どういう訳か、あんな妙なエリート意識だけを持った連中がいるんだ。おか
 げで摩擦が絶えなくてねぇ」
 苦笑を浮かべ、その後に軽口を続けるのは、先のヴァネッサと同じように、
彼女を落ち込ませないためだ。
「だから、君のように話の分かる人が配属されるのはうれしいのさ。私にとっ
 てもね。だから、早く偉くなってああいうのと顔を合わせずにすむようにし
 てくれないかな?」
 冗談としては笑えない、本気だとしたら問題のある発言ではある。それでも、
ヴァネッサの気をそらす程度の事は出来たらしい。何か突っ込みを入れるため
に口を開く。
「あのねぇ・・・」
「おい、戻ったぞ」
 が、アルベルトの大声にかき消された。デアリングは苦笑を消して彼を迎え
る。
「お帰り。放水器は持ってきてくれたかい?」
「ああ。今、第五部隊の連中が準備している。もうすぐくるはずだ」
「じゃあ、突入組の指揮よろしく。ちょっとゴタゴタがあって人数が減ってい
 るけど、何とかしてくれ」
「おう」
 嬉々として突入組の方へ向かうアルベルトを見送るデアリング。入れ替わり
に、第五部隊(前身は災害対策センター、各種公的機関の再編で自警団に編入
された)の隊員(災害対策センターの制服を着ている)が姿を見せた。
「放水器、準備できました。指示をお願いします」
「ああ。あそこに作業場用の大きく入り口が空いているだろ。1器はそこから
 作業場に向けて放水して、作業場内部を水漬けにしてくれ。残りの1器は犯
 人を狙ってくれ。放水のタイミングはこっちが手刀振り下ろして知らせるか
 ら。で、アルベルト達が突入したら放水は中止。そんな所かな」
「分かりました」
 1つ頷いて、その隊員は放水器の所へ戻った。集まっている第五部隊の隊員
に指示を伝えるためだ。一方で、デアリングはヴァネッサに頼んで、包囲組の
隊員に放水と同時に突入するように伝えてもらった。突入組のアルベルト達に
は、彼自身が同じ事を伝える(ヴァネッサにやらせて、「化粧論争」を再燃さ
せる気がなかったので)。
 こうして全ての準備を整えると、彼はヴァネッサを連れて、犯人との交渉を
開始した。
「お〜い、ちょっと伝えたい事があるんだ。出てきてくれないかい?」
「何だ!!」
 呆れるほどのんびりとしたデアリングの声とは対照的に、苛立った声が作業
場から返ってきた。
(気が立っているわよ。大丈夫なの?)
 犯人が姿を見せない事に対し、ヴァネッサは不安を覚えた。もし、このまま
犯人が火を放てば・・・犯人もろとも、この家も自分達も吹き飛ばされる。
 だが、デアリングはそんな危険性を微塵も感じていないような悠然とした、
あるいはのんびりとした、態度を、少なくとも表面的には、保っていた。
「君の要求なんだけどね。受け入れられないってさ」
「ふざけるな!!ここを吹っ飛ばされてもいいのか!?」
「そうは言うけどね、いくらなんでもちょっと要求が大きすぎるよ。御者付き
 の馬車1台に、各種武器に10万Gなんて。もう少し、下げてくれよ」
 犯人の要求と同程度以上に、デアリングの言い草も図太い代物である。その
態度に、ヴァネッサは思わず絶句したが、犯人も同様であったらしい。極めて
疑わしげに、声を押し出してきた。
「てめぇ、本気か?」
「今のままじゃ、交渉にもならないじゃないか。まぁ、出来れば投降してくれ
 るのが、一番いいんだけどね」
「ふざけるな!」
 かっとなった犯人が姿を見せた。目は血走り、態度には落ち着きがない。ど
ことなく、追いつめられた小動物を思わせる態度だ。手には、着火用の魔法ア
イテムを持っている。
「ようやく来たね」
 対照的なまでに落ち着いた態度で、デアリングは微笑む。
「てめぇ・・・」
「で、真面目な話、投降する気、ない?今なら、罪も軽いよ」
「やかましい!!馬車と10万G用意するか、ここを吹っ飛ばされるか、どっ
 ちかだ!!」
「あのさぁ、もう少し要求下げてよ。馬1頭と1万Gぐらいにさ」
 真面目な口調で言うデアリング。そんな彼の態度に、ヴァネッサは感心して
いた。犯人は彼との交渉に気を取られて、周囲を見ていない。他の自警団員の
動きは、よほど大きなものでない限り気取られる事はないだろう。
 そんな彼女の感心をよそに、デアリングと犯人の交渉は続いている。
「よし、馬車は馬に変えてやる。だが10万Gは駄目だ。こっちはゆずれねぇ」
「う〜ん、せめて5万G」
「10万Gだ。それか、ここを吹っ飛ばされるかだ!!」
「あのさ、そんなことすると、君も吹き飛ぶんだけど、いいの?投降した方が
 いいよ」
「やかましい!捕まるなんざ、まっぴらごめんだ!!早く10万G、用意しろ
 い!!」
「本当に、捕まるくらいなら、吹き飛んでもいい?」
「おう!!」
「仕方がないなぁ・・・」
 彼は茶色の髪をかき回すと、ため息をついた。その口調は、諦めの色がある。
それを察した犯人は、自分の要求が通りそうだと、わずかに気を緩めた。
「じゃ、吹き飛んでくれ」
 短く言うと、一瞬の間を置かず手刀を振り下ろした。直後、放水器が指示通
りに、強烈な水流を叩き付ける。
「どわぁぁぁぁっ!?」
 叩き付けられた犯人は、全身ずぶ濡れになって転倒した。無論、水は犯人に
だけかかったわけではない。火薬のまかれた床にも平等にかかり、火薬を役立
たずにし、水びだしにした。これで、犯人はこの家を吹き飛ばすための準備を
無効化された。
 無論、別個に保管された火薬はまだ使えるが、そのためには保管場所にたど
り着く必要がある。だが、放水器による水攻めで行動の自由を失っている犯人
に、そんな事は不可能だ。
「よーし、行くぞ!!」
 そして、アルベルトら、突入組、待機組も突入を開始する。それを確認した
放水器の操作員達は放水を止め、突入組が犯人を捕らえるのを待った。
「私も行くわ」
 今まで何もしていない事に我慢できなくなったヴァネッサが、隣で悠然とた
たずむデアリングに一言告げて、作業場へと走り寄る。無論、拳銃を手にして、
だ。
 だが、作業場の中では激しい罵声が飛び交っている事に、彼女は気付いた。
「この!ちょこまかすんな!!」
「大人しく捕まりやがれ!」
(ちょ、ちょっと、まだ捕まえていないの?)
 ヴァネッサは思わず呆れてしまった。突入したのは合わせて6人ほどである。
1人の犯人を捕らえるのには十分すぎる人数のはずだ。それなのに、まだ逮捕
していない現実に、ヴァネッサはため息をついた。
 が、現実は、悠長に考える時間を彼女に与えてくれない。アルベルトの怒鳴
り声が響く。
「デアリング!そっちに行った!!」
「!!」
 さっ、と緊張するヴァネッサ。素早く拳銃を構え、作業場の出入り口に銃口
を向ける。直後、はた目にも明らかに逆上した犯人が駆け出てきた。
「そこまでよ!止まりなさい!!」
「!?」
 足を止め、ヴァネッサと拳銃を血走った目で見ると、犯人は彼女目掛けて突
進した。
「なっ・・・!?」
 冷静さを失い、逆上した犯人の行動は、彼女にとって計算外の事だった。そ
して、射殺の危険をあえて冒してでも発砲すべきか、それとも別の手段をとる
か、彼女は判断に迷った。彼女がアカデミーで教わった中に、このような状況
に対する対処法は確かにあった。しかし、犯人の背後にいつ自警団員が出てく
るか分からない状況など、存在しなかった。そして、何より、彼女は人に向け
て発砲した経験を持っていないため、ためらいがあったのだ。
「うおぉぉぉぉっ!!」
 そういった事情から迷っている内に、雄たけびと共に襲い掛かってくる犯人。
それを目の前にして、彼女は一瞬ひるみ、発砲のチャンスを失ってしまった。
 だが、その直後には、対処法を決めていた。いや、正確には選択肢がなくな
ったので、迷わずにすんだ、と言うべきだろうか・・・。
 とにかく、彼女は行動をおこした。まず構えを解き、突進する犯人の右腕を
左手でつかむ。同時に右手で拳銃の安全装置をかけ、続けざまに肘打ちを打ち
込む。そのまま右肩を犯人の腕の付け根に押し当て、その流れの中で曲げたひ
ざを勢いよく伸ばし、身体をはね上げた。
「うおっ!?」
 犯人の身体は自分の突進の勢いと、ヴァネッサが付けた上方向への力とで宙
を舞い、半回転ほどすると、背中から地面に叩き付けられた。
「ぐっ・・・」
 一瞬だが息が詰まる。そんな犯人に、彼女は拳銃を突き付けようとした。だ
が、またしても、犯人の行動は彼女の予想を飛び越えた。
 犯人は拳銃を突き付けられるよりも早く跳ね起き、再び逃げ出そうとしたの
だ。
「そんな・・・!?」
 ヴァネッサには信じられなかった。あんなに勢いよく地面に叩き付けられれ
ば、すぐに動く事などありえないはずなのだ。驚き、絶句する彼女の視界に、
デアリングの姿が入り、悠然と犯人に近づいた。
「はい、そこまで」
 そう言うと、彼は犯人の足を払いバランスを失わせる。間を置かずに、いつ
の間にか手にしたトンファーを犯人の後頭部に叩き込んだ。犯人は顔から地面
に突っ込み、ようやく動きを止めた。脳震盪でも起こしているのか、短くうめ
き声を上げている。
「やれやれ」
 それを確認して、ようやく安心したらしい。デアリングは1つ息をついて、
実は伸縮式のトンファーを縮め、いつものように口の広い袖に戻した。
「逮捕するよ。不法侵入と恐喝の現行犯、それに窃盗の容疑でね」
「悪りぃ、デアリング。こいつ、押さえた奴の手にかみつきやがった」
「いいさ。明日、さくら亭でランチをおごってくれ」
 デアリングが微笑んでそう言うと、アルベルトは憎らしげに犯人をにらみ付
けた。
「にしてもこの野郎、てこずらせやがって。すまきにしてやろうか」
「ちょっと待って。さっき後頭部をトンファーで殴っているのよ!そんなこと
 したら・・・」
「なに言ってやがる!!こいつ、目が覚めたらすぐに逃げ出そうとするに決っ
 ている!!」
「だからって乱暴よ!!」
「うるせぇ!何もしなかった奴は・・・
「はいはい、2人共そこまで」
 ケンカになりそうな2人の会話を、デアリングは苦笑混じりに止める。犯人
をつつきながら、彼はのんびりと言った。
「まぁ、逃げる気力はないだろうけど、念のため手首と足首を縛っておこうか。
 逃げられると困るし・・・目が覚めたら連行しよう」
「おう」
 アルベルトが第四部隊の隊員から捕縛用のロープを借り、手首と足首を縛る。
 発生から1時間で、犯人は逮捕され、事件は解決した。

「デアリングくん、ちょっといいかしら?」
「ああ。どうしたの?」
 現場の片づけの指示を出し終えたデアリングに、ヴァネッサが話しかけた。
「聞きたいことがあるんだけど・・・」
「何?」
 無造作に問い返すデアリングに、ヴァネッサはわずかなためらいを見せつつ
も、気になっていた事を彼にぶつけてみた。
「自警団って、逮捕して連行する時、何か決まった手順とかないの?」
「特にないけど」
 デアリングは、あっさり答える。それだけでは不親切と思ったか、さらに説
明を加える。
「まぁ、逃げれないようにしてはおくけど、これは当然だしねぇ」
「じゃ、何か規則とかはないの?」
「ない」
 またまた明快な答えに、ヴァネッサは鈍い痛みを訴えるこめかみを押さえた。
「・・・呆れた・・・」
「そう?」
 デアリングは軽く首を傾げる。そんな彼に、ヴァネッサは思わず叫んでいた。
「だってそうじゃない!『こうすれば大丈夫』、って言う手段を決めておかな
 いなんて!!」
「そうは言うけどね・・・そもそも、逃げようとしない人を縛り上げたって無
 駄だし、逆に、抵抗する人をそのまま連れて行くのは危険じゃないか。要は
 その時必要な事が何であるか理解して、それに必要な方策を考えればいいん
 じゃないの?」
「でも、そんな大雑把な・・・」
 呆れ顔の彼女に、デアリングは穏やかな微笑みを浮かべて言ってみせる。
「大雑把だからいいのさ」
「え?」
「細かく決められていると、決められていない事が発生すると判断がつかなく
 なる。『こんな事、想定してないぞ!』って具合にね」
 それでも、ヴァネッサには納得がいかないらしい。真剣な表情で、さらに突
っ込んで聞いてくる。
「でも、全員がそんな風に考えられるわけじゃないでしょ?」
「うん。だから、考えられるように訓練もするし、指揮を執る人間はやりやす
 い環境を整えるんだ」
 そして、目を閉じて彼は続けた。
「それに、言われた事以外は何も出来ないんじゃ、いざという時困るだろ?」
「・・・・・・」
 ヴァネッサは何も言えなかった。彼女にとって、彼の考えは今までの自分が
教わった事とまるで異なる物であった。
 ありとあらゆる対処法の理論をアカデミーで学んだ彼女にとり、今日の彼の
解決策は十分に意表を突かれた。それのみならず、彼は細かく決められた事は
かえって弊害になると言う。過去、彼女が学んできた事が正しいのか、それと
も彼の主張が正しいのか、彼女には分からなかった。
 そんな困惑を見抜いたのか、デアリングが知性と優しさを感じさせる目で彼
女を見つめつつ、ゆっくりと言った。
「いい言葉を教えてあげる『様々な理論は道具に過ぎない。だから、上手く使
 うには潤滑油が必要だ』」
「潤滑油?それって・・・」
 いまいちピンと来ないヴァネッサは、デアリングに問い掛ける。
「さて・・・私にも上手く説明できないんだ。意味は分かっているんだけどね」
 そう言うと、今度は苦笑しながら説明する。
「実を言うとね、これは受け売りなんだ。私の前の隊長の、ね」
 その声に、何か寂しげなものを感じて、ヴァネッサは彼の顔をじっと見つめ
た。その視線が意味する事を理解していたものの、彼はあえて無視して続ける。
「言われた時には、私にも何の事だか分からなかったけどね・・・」
「今は、分かるのね」
 デアリングは、黙って頷く事で返答に代えた。続けて、全く違う話題を切り
出した。
「ところで、ヴァネッサはこういう事件に出くわしたの、初めて?」
「!!」
 思わず絶句した彼女に対し、彼はにこりと微笑んだ。
「なら、大丈夫だね。場数さえこなせば、君にも分かる時が来る。必ずね」
「それって・・・」
 どういう意味か、聞こうとしたのだが、デアリングはそれよりも早く、肩を
叩きながらぼやいた。
「やれやれ、これから報告書書きか・・・誰か代わりに書いて欲しいなぁ。そ
 うすれば、楽でいいのに・・・」
 困ったことに、8割方本気の口調である。この一言に、ヴァネッサは頭が痛
くなってきて、思わず彼が立ち去るのを見送ってしまった。
 ただ、彼の投げかけた言葉が、彼女の価値観に微妙な影響を与えていた。

 その後、ヴァネッサは、デアリング・デッキサイドという男が自警団では例
外的存在で、自警団のほとんどはアルベルトに代表される大雑把で荒っぽい連
中の群だという事に、4日ほどで気付くことになる。もっとも、公安維持局が
プライドばかりの不精者の群である事に気付くのには、もっと短くたった2日
間であったが。
 そして、いくつかの事件を経て、自分の所属する組織に対する絶望感と、自
分の価値観に疑問を覚えた彼女は、この一ヶ月後に公安維持局を休職する。そ
して、デアリングの要請を受け、自警団第三部隊で活動することで、その疑問
を解こうとする。
 これらの原因の一部に、デアリングから投げかけられた一言があるのは、間
違いない。あの一言を投げかけた彼との出会いが、ヴァネッサにとっての「始
まり」であった・・・。

                                END


後書き

 松です。「出会いという名の始まり」をお届けします。

 私が書いた初の悠久2SSです。
 今回はヴァネッサをヒロインにして、「彼女がなぜ主人公の誘いを受けたの
か?」、の布石を置いてみました。まがりなりにも対立組織なんですから、そ
れなりに彼女の心が動くことが2人の間にあったはず・・・と、私は思ってい
ます。
 で、ああなりました(苦笑)。

 別に悠久2SSは、彼女がヒロインというわけではないです。重要な位置を
占める予定ではありますが・・・。はっきり言って、ヒロイン(=主人公とく
っつく娘(笑))が決っていないんです〜;個人的にはイヴをヒロインにした
いのですが、由羅もヴァネッサも捨て難いし・・・。本気で迷っています。

 主人公、デアリングは本編以上に「知略の人」と化しています。ついでに、
「ぬらりひょんのお化け」(fromデルフィニア戦記)にも・・・(笑)。
なにせ、基本モデルがヤン・ウェンリー(銀河英雄伝説)なもので・・・(^^;
さすがに「年金をよこせ」とごねたりはしませんが、ね(笑)。
 ちなみに、彼は「全ての始まり」に登場しています。つまりは、彼を主人公
にした悠久2SSとグローウォームを主人公にした悠久1SSは1つの世界と
してつながっているんです。
 時間関係としては、悠久1終了から1年の時間をおいて悠久2が始まること
にしています(でなきゃ、公安の設立やヘキサの召喚が出来ない;)。もちろ
ん、あいだの1年にもごたごたが起こる予定ですが・・・(いろいろあるんで
す。エルが誘拐されたり、デアリングが襲われて負傷したり・・・)。
 ちなみに、このSSは悠久2開始の約1ヶ月前、2月の半ばという設定です。
このSSの2週間後にリカルドはヘキサを召喚します。また、1ヶ月後には、
魔獣騒動(ラジオドラマのあの話です)が起こって、由羅、ディアーナ、ルー
が公安を嫌うことになります。

 感想、ご意見などをお待ちしています。

 E-mail:GZL06137@nifty.ne.jp 松

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