影つ面左京八条、平の館の北の対。 この家の次男である十歳の少年が、青褪めた顔をしている彼の母親を上目遣いに睨んでいた。 「なぜそなたがここにいるのです!」 目の前で怒りをあらわにしている母親を前に、勝真はそれでもためらわずに答えた。 「ちい姫が泣いてるって聞いたから、様子を見にきたんです」 そういう勝真の背後では、五歳になる彼の妹姫が怯えた表情を浮かべて、彼の水干の裾をしっかりと握り締めている。 彼らの母親はちらりと幼い姫を見ると、すぐに視線をそらす。 「姫が泣くのはいつものこと、そなたが気に掛けることではありませぬ」 「でも、母上、ちい姫は何か悪しきものを見たと」 「勝真!」 息子の言葉をさえぎり、平家の北の方は叫び声を上げた。その顔に浮かんでいるのは恐怖。 「そのようなこと、口にするではありませぬ・・・ これ、誰ぞ姫を部屋へ連れ申せ」 「はい、ただいま」 この屋敷に古くから勤める女房が答え、姫、すなわち千歳を連れて行こうとする。 千歳はいっそう力をこめて勝真の衣を握りしめた。 「おい、そんなに引っ張るなよな」 勝真が思わず振り返ってそう言うと、千歳は彼の顔を見上げてぱっと手を離す。その目にみるみる溜まる涙を見て、勝真はまずい言い方をしたと即座に理解する。 「ああ、怒ったんじゃない。ただびっくりしただけだ。それにあんまり引っ張られるとくしゃくしゃになってしまうだろう?」 彼の言葉にもかかわらず、幼い姫君の瞳から涙がぽろりと零れ落ちた。 常日頃、その「見えぬものを見る力」ゆえに実の母には疎まれつつ恐れられ、乳母や女房たちにも腫れ物にさわるように扱われている千歳にとって、この五歳上の兄は唯一その力を気に留めずに接してくれる存在であった。であるから、たとえその兄が少しばかりがさつでぶっきらぼうで、言葉遣いが悪くてよく怒鳴り、違う意味で恐い人であったとしても、千歳は「二の兄さまにだけは嫌われたくない」、と幼いなりに必死で願っていたのだ。だから少々大声を出した勝真に、自分がもしかしたら兄を怒らせてしまったかもしれない、嫌われてしまうかもしれない、と思った千歳は心底悲しくなってしまったのである。 「おい、俺は怒ってんじゃないんだって・・・ しょうがないなあ」 十歳の少年には涙をこぼす幼い妹をどう扱ったらいいのかわからない。しかしその場にいる彼らの母ははっきりと不快げな表情を浮かべて沈黙し、女房たちは遠巻きにしたまま見ているだけだ。 彼は無意識に自分の頬をぽりぽり掻きながら少し考えたのち、ふと思いついて手を伸ばし、自分の年下の仲間によくやるように千歳の頭に手を置くと、わしわしと彼女の髪をかき回した。 びっくりして見上げた妹に笑みを浮かべて勝真は言った。 「これであいこだからな。もう泣くんじゃないぞ」 「・・・はい、兄さま」 「よし。じゃあ松枝と一緒に部屋にもどって、絵物語でも見せてもらえ。松枝となら、いいだろう?」 勝真は比較的千歳が慣れている女房の名を上げた。 「兄さまは?兄さまも一緒に」 「俺は今日は行くところがあるんだ。だからまたな」 いくら泣いている妹が気にかかっても、一緒に絵物語を見ようとまでは彼は思わない。とくに今日はこれから乗馬の練習をすることになっているのである。 「では姫様、お部屋に参りましょうか?」 松枝というその女房が言うと千歳はこっくりと頷き、差し出された手を握ると兄の方を振り返りつつ部屋を出て行った。 「じゃ、俺も・・・ あっと、私も失礼させていただきます、母上」 言い直して踵を返そうとした勝真を、彼の母は止めた。 「お待ちなさい。そこへお座りあれ」 「・・・はい」 しぶしぶ勝真が従うと、平家の北の方は上座に座りおもむろに口を開いた。 「姫に関わるのはおよしなさい。あれは忌むべき力を持っておる。そなたにまで悪しきものが力を及ぼすようになってはと思うと、この母は心配で夜も眠れませぬ」 勝真は思わず反論した。 「ですが母上、千歳は何かを見るだけなのでしょう?べつに見たくて見ているわけではなし、ましてやちい姫が怨霊を呼んでいるわけでは」 「勝真!そのような言葉、口に出すではありませぬ。言の葉には魂が宿るのをお忘れか?」 身震いをしてそう言った母を見て、勝真は唇を尖らせはしたが何とか口ごたえをするのは留まった。 勝真も、母や女房たちが怨霊の類を恐れる気持ちはわかる。ただ彼にしてみれば、自分自身が怨霊を見るわけではないから、見えぬものを恐れたって何になるんだ、という気持ちが先にたってしまう。そんなことよりも、現実に目の前で泣いている幼い妹姫を安心させてやる方がよっぽど大事じゃないかと思うのだ。 「お分かりになりましたわね?もうよい。お下がりなさい」 そう言って扇子を振った母に、床を睨んでいた勝真は黙って一礼をすると、そのまま北の対を退出した。 その日の午後。 日の暮れつつある庭を、千歳は一人、御簾越しにぼんやりと眺めていた。 彼女の相手をしてくれていた松枝も先ほど呼ばれてどこかへいってしまい、まだ戻ってきていない。 ふと異質な気配を感じて振り返った千歳は、部屋の片隅、鬼門の方角にうずくまる黒い影に気付いて目を見開いた。 思わず悲鳴を上げかけたが、今朝の騒ぎを思い出してかろうじてそれを飲み込む。 その黒い影の塊はよく見る怨霊や悪霊の類とは異質な気を放っていた。もっと静かで冷たく、それでいて怨霊などから感じるような悪意は感じられない。そしてそれは圧倒的な存在感を伴っており――― 引き込まれるように千歳はそれを見つめる。 結局のところ彼女も子供なのである。相応の好奇心は持っている。 しかし向こうもこちらを見ている、ということまではまだこのときには彼女も感じていない。 どれだけそうやっていたのだろうか、もしかしたらたいした時間ではなかったのかもしれない。 庭を駆けてくる足音に千歳ははっとした。 足音は階の下で止まり、どうやら沓を脱いでいるらしい間が空いたあと、今度は簀をどたどたと歩いてくる音に変わる。そして御簾がめくりあがった。 「お、泣いてなかったみたいだな」 いきなり乗り込んできた勝真に、千歳は驚いて見上げる。 「今日はちょっと遠くまで行ってきたからな、ほら、これやるよ」 差し出された左手に握られているのは秋の草花。 おずおずと受け取った千歳はしばらくそれを眺めてから再び兄を見上げる。 「あ、ありがとう、兄さま・・・」 そこへ女房の松枝が入ってきた。 「申し訳ございません、姫様、お一人にして・・・ あら、若君、こちらにいらっしゃるとは存じませんでしたわ」 「ああ、ちょっと様子を見に来ただけだ。母上に見つかるといけないから、庭を通ってきたんだ」 勝真が答えると、苦笑を浮かべた女房に千歳は手にした花束を見せる。 「兄さまが、くださったの」 「まあ、ようございましたわね、姫様」 勝真が持ってきた花は、萩、藤袴、尾花、菊、山菅と、とにかく目についた秋の草花を全て採ってきた、というのがありありと伺えるものである。この少年はとにかく妹姫を喜ばせたかったのだろう。 「では、あとでお水に入れて飾りましょうね」 こっくりと頷いた妹を見て、勝真は笑顔になって「じゃあ」と言う。 「もうそろそろ夕餉の時刻だから、俺は行くよ。遠出したから腹減ってんだ」 そうしてまた千歳の髪をくしゃりとなでると、勝真は再び騒々しい足音を立てて出て行った。 御簾に近寄り、あっという間に見えなくなっていく兄の後姿を見送った千歳は、自分の円座に戻った。 ふと先ほどの黒い影の存在を思い出して見回すが、いつの間にか消えたのか、それはどこにも見当たらないし、気の名残も感じられない。 「どうかなさいましたか?」 首をかしげた千歳に、花器を持って戻ってきた松枝が尋ねた。 千歳は黙って首を振る。 「それならばようございますが・・・ ではそのお花をお貸しいただけますか?」 松枝は草花一本一本の根元を切り落とし、いらぬ葉を落として花器に生けていく。 室内に野の香りがはじけて広まる。 「・・・さあ、これでいかがでございましょう?」 文机の上におかれたそれを見て、千歳は嬉しそうに頷いた。 この幼い姫がそのような表情をするのを見るのは久しぶりなので、女房の松枝も思わず微笑んだ。 「それはようございましたわ。では今夕餉をお持ちいたしますわね」 その夜、千歳は久しぶりに怨霊に悩まされることなくぐっすり眠った。 それが部屋に漂う野の花の香りのせいなのか、それとも八葉となる素質を持っていた勝真が、無意識のうちに悪しき気を散らして出て行ったせいなのか、千歳自身考えてみることはその後一度もなかった。もっとも考えたところで判るものでもなかっただろうが。ただ、その日初めて現れた黒い影はその後もたびたび現れ、それは次第にそこにいるのが当たり前になっていく。まるで京に広まる絶望が京の人々にとって当たり前になっていったように。 それでも。 秋になると千歳はその日勝真が差し出した草花を、自分の髪を乱暴にかき回した手の暖かさとともに思い出すことがあるのだ――― 了 |
海の賢者様・・・5000HIT記念フリー創作。
勝真ったら、ガキ子供なのに面倒見が良くて、やたらと優しいお兄ちゃんではないか!
ふふふ、格好良くて惚れ直すわ〜〜〜♪
こんな素敵な創作をフリーにして下さり、有難う御座います!
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