虚礼廃止条約締結。

- 2005.02.04 -

▼試験時間の数倍かけて問題作成中。 ▼戻る

▼試験問題。 (2005.01.24) 

 今年は作成する側です。やる側も大変でしたが作成するのはそれ以上に大変だと痛感。というのも、学生にとってみれば、この試験ひとつの結果如何によって、人生を左右されるようなことも生じうるという現実があるということを考えると、そう気軽にちょいちょい作成というわけにはいかないからです。しかし、だからといって安易に全員が合格できるように問題を簡単にしたりするわけにもいきません。となると、作成する側ができる誠意ある対応というのは、だいたい以下のことに絞られてきます。

1) 出題内容

 まあ、これは当然ではありますが、講義の目的に則している、というのが大前提です。そして、それは講義をしっかり受けていれば解答可能なものでなければなりません。時々ですが、講義内容を無視したいわば自己否定するかのような試験問題を出す方がいますが、こういうのは論外というやつです。おそらく、数年後には学生からの授業評価など、今までは考えられなかった圧力により、淘汰されなくなっていくとは思いますが。出題者がきちんとこの点を理解しているのであれば、講義要綱、シラバスに書かれている、講義の目的をよく理解した上で対策すれば、比較的簡単に及第点は取れるはずです。

2) 出題形式

 多くは論述式でしょうが、大問1題のみですと、講義内容を代表するものとしてふわさしいものはなかなか作成できません。そこで、場合によっては小問をいくつか用意し、その中から選択して解答するという形式をとったりという小技を用いることがあります。論述形式は採点に時間がかかるという欠点はありますが、講義の理解度を総合的に見ることができるので、一問一答式、多肢選択式よりは学生からみてもそう批判はないと思われます。まあ、論述式はとにかく講義内で強調され説明された、重要語句、重要概念を中心に肉付けしていくという作業をしていけば、及第点は取れます。

 記述量が他と比べてあまりに少ないものは、それだけで評価が下がる場合も多々ありますので、一問のみの出題であれば、少なくとも表面いっぱいは解答できるように努力してください。もちろん、だらだら書くのを嫌う方もいますが、一年間学んだものを吐き出すつもりでトライするのが吉かと。

3) 採点

 人によって差別をしないためにも、名前欄は隠して採点していくのは原則ですし、採点の順序によって評価基準が変わるのも好ましくないので、まずは全体を通し読みし、おおよその出来をつかむ、その上であらかじめ定めておいた採点基準と照合しつつ、採点を進めるというのが定石です。まあ、点締めが基本的に一週間後なので、時間的都合もありますが、少なくとも二回は読むようにする必要があります。特に「D」評定の答案はじっくりと読み、「D」をつけた正当な理由をきちんと説明できるようにしておかないと、成績表到着後の問い合わせに際して、大きな問題を引き起こしかねないので、要注意です。 

4) 評価

 期末試験一発勝負で評価決定という状況下では、不正行為も多発します。そこで、何か学生にとっても保険となるようなレポート、小テストを行ったりしておくことも方策としてよいことです。日ごろの学習成果の確認にもなりますし、自身の授業進展にもよいフィードバックになりますので、手間はかかりますが一考して損はありません。

5) その他

 救済措置をまったく考えないというのもある意味正しい選択ですが、誤りであるともいえます。というのも、試験の出来が悪いのは単に学生の出来が悪いということだけではなく、授業の質が悪いということも考えられるからです。相対的に出来が悪い場合は、その点を加味して、ゲタをはかせるなどの措置を取ることも場合によっては必要になります。

 答案返却がない、試験後の講義がないなどの理由から、しっかり採点されているのか、なぜこの評価なのか、ということについて学生が知る機会はほとんどありません。となると、当然この仕組みに甘えて、しっかりと採点しない方も必然的に出てきます。成績については知る権利は当然学生にはありますので、是非、採点された答案を一度は問い合わせてみて、確認されてみてはいかがでしょうか。担当者には保管義務があるので、応じてくれるはずです。逆に応じてくればい場合は、隠さなければならない理由があるのかなー、なんて勘ぐりたくなります。

 このような問い合わせが恒常化することにより、評価の透明性に対しての意識が教員側にも生じてくるのではないでしょうか。

 …それでは、がんばってください。


▼日常言語の世界。 (2005.01.13) 

 おそらく学問研究により得られた知見を一般社会へと還元する際に、必須なものでありながら、同時に大きな障壁となっているものが「言語」であろう。何かを語る際には当然言語が必要であるが、その使われ方に共通理解があれば大きな問題はないにしても、互いに異なる理解をしていた場合には、対話できているようでできていないという奇妙な現象が生じることになるからである。

 自然科学、特にその中でも基礎研究と称される分野においては、実のところこのような問題はそう多くは生じ得ない。とうのは、そこで用いられている言語はいわゆる「専門用語」というものであり、特定研究者間では了解可能な、一般社会ではほとんど用いられることがない、なじみのないものがほとんどだからである。量子力学の論文を読んでもピンとこないのも、聞きなれない言葉が大量にあり、その分野の素養がないと解読(というよりは翻訳か)できないためである。

 では、社会科学、人文科学ではどうか。確かに「専門用語」というものは存在する。しかし、それらの多くは日常的にも「異なった意味」として用いられている場合があるものである。また、研究内容それ自体も、日常空間からそう乖離したものではなく、むしろ密接に関わっている。このような性格が災いしてか、その分野の素養がなくても、ある程度の内容が理解(推測)可能となってしまい、往々にして「誤読」が生じてしまっている。

 実践に近ければ近いほど、このような傾向は強く、また、これは同時に学問のヒエラルキーを意味している。つまり、自然科学、とりわけ物理学を頂点とし、底辺に曲がりなりにも素人でも語ることができる学問分野(いわゆる社会科学)があるという構造である(いわゆる学問の自然科学志向というやつ)。

 実践と関わる学問(いわゆる基礎研究に対しての応用研究としてもよい)の価値が相対的に低いとは到底思えないが、日本の教育水準を考えた際に、たとえば誰もが評論可能な社会現象、教育問題について、その専門家とされる研究者の言がどれだけの説得力をもっているのか。そう考えた際に、実に情けない現実が見えてくる。

 いわゆる評論家のが、(その真偽は定かではないにしろ)万人を納得させている論を持ち合わせているという現実があるのである。そして、専門家はこの学問のヒエラルキーに囚われているのか、とかく実践への関わりを軽視するきらいがあり、専門用語の誤読をしている評論家は馬鹿だ、とだけ自身の研究を顧みることなく述べる。決して自身で評論家の言の間違いを正すことはなく、必死に専門用語を多用した、自分とそのごく周辺のものにしかわからない、ゴミを生産する。

 評論家と同じ言語(*表面的には)は使いたくない。そのため、より複雑で限定的な意味の専門用語がどんどん生まれ、いつしかそれら互いの関係を整理するだけでひとつの研究が成り立ってしまうという状況が生じた。専門用語多用症候群。とでもいうべき病理が、実践に近い分野の研究者の中に流行しているのである。そして、罹患者の本質的な問題として、彼ら自身が日常用語と専門用語とを混同してしまっていることがあげられる。

 同じ言葉であっても日常言語世界で用いられる場合と、学問研究で用いられる場合とで意味が異なるという、その区別ができないのは大問題である。しかし、この区別がしっかりとできた上で、より実践へとコミットし、専門用語を可能な限り使用せず、自身の研究の内容、意義を伝える術を有するということは、特に社会科学の分野においては、本来大いに評価すべきものなのではないだろうか。

 自身の研究意義を忘れ、研究している学問の本来の使命を忘れ、ひたすら実践から引きこもっている方々の時代はすでに終わった。

 …とかなんとかいう説教をされたような気がした。まあ一言で言えば、「自分の使っている言葉に慎重になりなさいな」ということですか。


▼神秘体験…なのか。 (2005.01.13) 

 えー、実は今年の年賀状。はがき買うのすっかり忘れていたため、誰にも出しておりません。ということで、送っていただいた方には申し訳ないのですが、春先に別の形で連絡しようかと。というか、今年は2日配達の影響なのか、軒並み3日以降の到着でした。元旦はマジで「CIRCUS」からだけですよ、来たの。しかも2通…。

 まあ、そんなことはどうでもいいことです。

 実は、先日とても奇妙な夢をみました。というのも、「7」という数字が頭の中でいろいろと形を変えて現れてくるという言葉にすると単純なものですが、宇宙の歴史をこうなんというか一瞬で体験したというか、そんな感じでした。とにかくいろいろなイメージが大量に頭の中に流れ込んでくる。でも、それらはすべて「7」という数字だということが直感的にわかるものでした。

 目が覚めると、それらのイメージは消え、ただ「7」という数字があった、という感覚だけが残りました。

 あれは、なんだったんだろうなー。「7」に深い意味があるのでしょうか?もしかしたら、これがいわゆる選ばれた研究者のみが体験することができるという高次の神秘体験だったのかもしれません。となると、この「7」は私の研究上に大きなヒントを与えてくれるものに違いありません。

 ま、実際はそんなわけはなく、単に寝る前にやったドラクエ8のカジノで「777」が出たということが大きな影響を及ぼしているだけなんですけどね。

 …そろそろ試験前恒例のネタの時期ですか。


▼お年賀。 (2005.01.03) 

1) 定型

 あけましておめでとうございます。

 本年もよろしくお願いいたします。

2) 本年の抱負

 引き続き「がんばらない」、「無理しない」、「楽にいく」ということで。全然抱負になっていないような気もしますが、これらの言葉の背後にある「何か」を探ろうとするとそれなりに意味深いメッセージがあるかと。

3) おみくじ

 と抱負を掲げたところまではよかったのですが、初詣先のおみくじのありがたい言葉。

 「勤労」…磨かざれば光なし 明るく楽しく勤めましょう

 だそうです。つーか、これは高度な嫌がらせか?新年早々心の中を見透かされた気がしてどうにもいい気がしません。

4) 近況(11月−)

 ・三田祭見学。今年もなかなか面白い研究がありましたね。
 ・ドラクエ。ゼシカの話題で盛り上がる。ぱふぱふ。
 ・神谷弁護士とお話し。エロゲはほどほどにイラク問題など久しぶりにマジメ路線。
 ・麻雀を覚えようかと。おでん缶ごちそうさまでした。にゃうーん。
 ・年内講義無事終了。後4回ほどあるけど、どうすっか。
 ・来年度の仕事が不安定なので困った。
 ・クリスマス。搾取されることなく無事終了。
 ・ホワイトコミケ。麻雀牌買ったのは失敗だったかも。その他いろいろと。
 ・二日目。同人ゲーム、音楽と評論関係を中心に。次回は久しぶりに参加するか。
 ・気がつけば大晦日。
 ・年賀状はエロゲ会社からだけ。しかも机の上に放置されてた。
 ・お年玉破産の危機。

 …まあ、いろいろと大変です。

▼採点時間は想像したくもない。 ▼戻る