契丹(遼)
キタイ族の王朝。916−1125年。首都は上京(臨[シ+黄:コウ])。916−949、983−1066年間は「契丹」、949−983、1066−1125年間は「遼」を国号とする。
契丹人の姓は耶律氏と審密氏のみ。「耶律」は「イリ」「イェリ」「エリ」に、「審密」は「シャルモ」「シルモ」に近い音であったと考えられている。ちなみに金元代には、耶律氏は移剌氏、審密氏は石抹氏と称する。また、耶律氏の漢姓が劉であることは、「金史」に拠る。
阿保機の契丹音名は現在も解読されていない。タシ(大石)以降については西方の文献に記録が残っており、ゲームでも「チルク」と登場することから、当サイトでは契丹音で統一することにした。
「西遼」は、タシ以降のグル・ハン政権に対する中国側の呼称で、「カラ・キタイ」はアラブ・ペルシア側の(遼帝国時代を含む)契丹族全体をさした呼称である。
金
ジュルチン族の王朝。1115−1234年。首都は上京(会寧)、迪古乃以降は中都(燕京)。麻達葛時代、一時東京(遼陽)に遷都する。
「完顔」は「ワンヤン」と読むのが慣用だが、英字表記では「Wan-yan」「Wan-gyan」「Wan-ghiya」などと記される(統一された表記法がない)。ちなみに「ワンヤン」は「完顔」の現代中国語発音の音訳であり、当時の発音は「ワンギャ」「ワンギヤ」に近かったと思われる。「阿骨打」についても、「A-gu-da」「A-ku-da」「A-ku-ta」などと統一されていないが、当サイトでは「アクタ」を採用している。
アクタの息子世代までは女真名が確認できたため原音で記したが、合剌以降は英字表記が漢字名の現代中国語音と思われ、女真名が確認できなかったため漢字にした。
末帝承麟の女真名は「金史」に出ていない。「汝南遺事」には「小字呼敦」とあるため慣用としてそれが使われており、当サイトもそれに倣った。
漢姓が王であることは、「金史」に拠る。
明
漢族の王朝。1368−1644年。首都は初め金陵、永楽帝時代に北京に遷都する。
紅巾軍の首領であった朱元璋が江南を制し、金陵にて即位。中書省を廃し六部を直属させ、大規模な粛清を行い、皇帝独裁体制を確立する。永楽帝時代は鄭和の南海遠征を行うなど海洋政策にも熱心であったが、彼の死後は急速に保守化し、海禁政策によって宋元代以来の航海技術は衰退していった。のちに宦官・役人の腐敗や北虜南倭により財政は破綻、相次ぐ飢饉により各地に流賊が発生する。1644年、李自成により北京が陥落し、滅亡する。
ヨーロッパからは「シナ」「チナ」と呼ばれていたが、明人は自国を「ターメ(大明)」、自国人については子音のeが略され「ターン人」と称していた。
イル・ハン国
フラグを祖とするモンゴル帝国内の地方政権。正式名称はフラグ・ウルス。首都はタブリーズ。
モンケ死後、西方でフラグが自立。後継争いを制したフビライによって、正式に冊封を受ける。ウルスの当主は「汗のダルガチ(代官)」を名乗り、英文文献では「subject khan」(従属汗)とも記される。
征西時にモンゴル諸侯から供出された部隊が軍団の中核であったうえ、行政はイラン人に任せられていたため、当初から寄り合い所帯の性格が強い政権であった。
アブー・サイード・ハーンが男子を残さず死亡すると、ジャライール、スルドゥスらの有力部族がフラグの後裔を擁立、抗争を続ける。クルト、ムザッファルなど各地の土着政権も独立し、事実上ウルスは分裂した。
ティムール朝
トルコ系モンゴル族の王朝。1370−1500年(諸説あり)。首都はサマルカンド。アブー・サイード以降は各地の地方政権が半独立状態になる。
ティムールはチンギス・ハーンの後裔ハヌムと結婚したことにより、「キュレゲン(娘婿)」を自称し、チャガタイ裔のハーンを擁立。ハーンの守護者の大義名分のもと、各地のモンゴル系政権を統合する。
遊牧民的な性格が強い王朝で、君主は統治を都市の有力者に任せ、自身は郊外で遊牧生活を送っていた。王朝は自称、他称ともモンゴルとしており、後にバーブルがインドに建てた国家は「ムガル(モンゴル)」と呼ばれることになる。
ティムール死後、帝国全体を支配することができたのはシャー・ルフ、アブー・サイードの2人のみであり、後継争いや周辺部族の侵入で政権は常に不安定であった。ウズベク族により1500年にサマルカンド政権、1507年にアストラバード政権が崩壊。
人名の発音は分からなかったので、英字資料をそのまま素直にローマ字読みした。なので、間違ってるかも……(汗)。
奴隷王朝
ゴール朝のムハンマド・ゴーリーの暗殺後、インド方面の軍団長であったアイバクがインドで自立。王朝の3系統アイバク、イルトゥートゥミシュ、バルバンがいずれもトルコ系アルバリー族出身の奴隷軍人であったため、「奴隷王朝」あるいは「アルバリー朝」と呼ばれる。
歴代スルタンはデリーを本拠として北インドに領土を拡大、これにより当地にイスラム教が大きく広まる。
国内では「40人貴族」と呼ばれる大貴族が大きな権力を持ち、歴代スルタンの多くが廃位されている。後に40人貴族の筆頭格であったバルバンがスルタン位に就くと、貴族を厳しく弾圧し自身の権力を強化。その結果、彼の死後に不満が表面化し、内乱状態となる。バルバンの後継者カイ・クバードはジャラール・ウッディーン・ハルジーに暗殺され、政権はハルジー一族に移ることになった。
アイユーブ朝
クルド人の将軍サラーフ・アッディーンによって建てられた王朝。1169−1254年。首都はカイロ。
ザンギー朝の将軍シルクーフはファーティマ朝の内乱に介入し、エジプトを制圧してその宰相となる。シルクーフの後を受け宰相となったサラーフ・アッディーンはファーティマ朝の解体に着手、1169年までには権力を確立する。シーア派のファーティマ朝を追い、エジプトにスンナ派を恢復させた功績により、1175年、バグダードのカリフによりシリアとエジプトのアミールに任命される。
サラーフ・アッディーン死後はシリア領を諸子に分割相続。内乱が絶えず、歴代アミールは権力強化のためにマムルークを組織化し、これが後のマムルーク政権につながる。
1248年、ルイ9世の十字軍がエジプトに侵入すると国内は分裂。アミール・サーリフはスルタンを称し国内の再統一を図るが急死。バフリー・マムルークの働きで十字軍を撃退するも、それにより実権は全くマムルークのものになる。スルタン・ムーサーはシャジャル・アッドゥッルとマムルークの傀儡であり、アイユーブ派が一掃されたのちに廃位された。
マムルーク朝
マムルーク(イスラム白人奴隷)軍団によって建国された軍事政権。大きく前期のバフリー・マムルーク朝と後期のブルジー・マムルーク朝に分けられる。
バフリー・マムルークは、アイユーブ朝スルタン・サーリフの近衛軍団。バフルは「海(ナイル川)」を意味し、兵舎がナイル川中洲のローダ島にあったことに由来。当時のマムルークは街に繰り出しては横暴を働いていて市民から嫌われていたので、それを監視する意味で隔離されていたと思われる。ちなみにアイバグはバフリー・マムルークではないため、クトゥズ以降をバフリー・マムルーク朝とする見方もある。
ブルジー・マムルークは、カラーウーン一族がバフリー・マムルークを抑えるために編成したチェルケス族マムルーク軍団。兵舎がカイロ城塞の塔(ブルジュ)に置かれていた事に由来する。
血縁相続が定着しなかったため内部抗争が多く、総じて治安は乱れていたが、軍事力と紅海貿易による莫大な収入で政権が維持されていた。後にオスマン朝によりスルタン位は廃止されるも、マムルークの統治は19世紀まで続くことになる。
ムワッヒド朝
ベルベル人の王朝。首都はマラケシュ、1170年にセビリャに遷都する。
ムハンマド・イブン・トゥーマルトはタウヒード説(神の唯一性を主張する説)を説き、宗教教団を設立、これがムワッヒド朝の母体となる。ムハンマド死後、高弟のアブドゥル・ムーミンがアミールを自称し、王朝を創建。王朝の別名「アルモハード帝国」はカスティリャ側の呼称である。
宗教教団を母体とするため、宗教については非常に厳格であり、しばしば領内のキリスト・ユダヤ教徒を弾圧した。
ハンガリー
パンノニアに定住したマジャール人により10世紀末に建国。11世紀にはローマ・カトリックに改宗する。
俗説では国名は「フン人のガリア」に由来すると言われてきたが、現在ではトルコ系の民族「オノグル」に由来するとの説が有力である。
ヨーロッパ最大の放牧地帯であるハンガリー高原を抑え、東方遊牧民との交流も活発であったため中世ヨーロッパでは最大の騎兵を所持していたが、モンゴル軍の侵入により国土は荒廃する。ベーラ4世により国土の復興を果たすも、アールパード家断絶後は度々統治が入れ替わることとなり、貴族主義的性格が強くなるにつれ王権は弱体化。1526年、モハーチの戦いでラヨシュ2世が男子を残さず戦死したことにより王位はハプスブルク家のフェルディナントに移るも、ハンガリー全土はトルコの統治下におかれることとなった。
フランス
ヴェルダン・メルセン両条約によりフランク王国が分割相続され、西フランク王国が成立したことが起源。
カロリング王家が断絶した後、フランス地方の小領主であったユーグ・カペーが王位に推された。(「フランス」の国名はここに由来。)初期の王権は極めて限られたものであったが、12世紀以降優れた国王が出て、王領を拡大させる。
ユーグ・カペー以降も正式称号は「フランク王(rex Francorum)」であったが、ルイ9世以降は「フランス王(roi de France)」、フィリップ4世以降は「フランスおよびナヴァル王」、1791年以降のルイ16世とルイ・フィリップは「フランス人の王(roi des Francais)」と称した。
「ルイ17世」はルイ18世による呼称であり、実際には統治していない。ルイ18世の実質統治は1814年以降だが、ルイ17世の死亡時(1795年)から彼はルイ18世と自称している。
ナポリ・シチリア
ノルマンディー出身のノルマン人傭兵団を起源とする。チン4でギヨーム2世(イタリア語ではグリエルモ)がフランス語表記なのは、それが理由と思われる。
1130年、ルッジェーロ2世がシチリア王として戴冠。以降、ノルマン、シュタウフェン、アンジュー家等の支配を受ける。
1282年のシチリアの晩鐘でアンジュー家はシチリアを失陥するも、公式にはシチリア王を名乗り続ける。以降、ナポリとシチリアに2つの「シチリア王」が存在。1443年にアラゴンのアルフォンソ王によって両方のシチリア王国が統一。これにより、非公式に"両"シチリア王国と呼ばれるようになる。
1735年のウィーン条約により、正式にナポリ王国が分離し成立。ナポレオン戦争後のウィーン議定書により、1816年、ナポリとシチリアが統合され、公式名称としての「両シチリア王国」が成立する。