2025年
1月1日(水)今年の相手
 
 批判すると「怖い人」と言われたり、質疑応答があると「怖い授業」と言われたりしますが、批判が禁じられていたり(そのくせ、禁止しているやつだけは批判してもよいことになっている。もっとも、そんなやつの言説はちっとも批判ではなく、たんなる反論を受付けないおだべりにすぎない)、質疑応答なんぞあるわけがなく、自己表出とそれを受けてのどっこいしょ大会しかないような空間の方が、よほど怖いのですが、きっと臣民としてはそちらの方がはるかによいのでしょう。そんなものは不正以外のなにものでもないですけどね。



1月2日(木)
『権力に告ぐ』
 
 長いものに巻かれて不正に加担すれば、知り合いは告発されず、同僚の生活は保障され、なにより自分には破格の収入が約束される。まあ、映画であっても、それを蹴る主人公のことをバカだと考える頭のいい人はいることでしょうけど、多くの人は、主人公の生き方に賛同するのではないかと思います。ところが、現実になると、ほとんどの人が主人公のような生き方をバカだと考え、そんな選択肢はとらないでしょう。皇国屋なんぞに魂を売り渡すくらいなら、ちまちまと生き続けた方がいいに決まっている、と考える人はごくごく少数です。皇国屋からカネをもらって研究するくらいなら、研究しない方がましだ、と考える人もごくごく少数です。どれだけ言い訳を用意しても、しかし皇国屋は皇国屋です。忘れてはいけません。 



1月3日(金)
つぶれてくれてもいい
 
 組織の運営を人治主義ではなく法治主義で行おうとすれば、文書主義は必須のはずで、会議でも何でも議事録を残さないと人の記憶をあてにすることになり、それは結局声の大きい者の物覚え、要するにそいつの思ったままが通る世界になってしまうわけで、およそ近代主義からはかけ離れた存在様態だと思います。ある学会では、春の委員会の議事録も秋の委員会の議事録もなく、まさに人治主義が支配しています。まあ、金輪際運営にかかわることはないし、なんならソッコーで退会してもいいくらいなので、あとは野となれ山となれですけどね。



1月4日(土)
続:つぶれてくれてもいい
 
 上記とは別の学会は、いったい何にそんなに支出があるのか知りませんが、大幅な赤字が続いているそうです。そこで、会長名の「提案」がメールで届きました。どうやら年会費をあげたいようですが、メールの件名にもメールの本文のタイトルにも「提案」とあるのに、本文では会費を○○円と「いたします」って書いてあります。会長が「いたします」って書いてるんだから、これは「報告」なんじゃないかと思いましたが、しかしメールの件名もメールの本文のタイトルも「提案」です。ひょっとして、わしの提案は決定事項じゃ、とかそういうことなんでしょうか。学生からの抗議にしかとシカトするような学会は、退会してもいいくらいなので、あとは野となれ山となれですけどね。



1月5日(日)
相変わらず
 
 イスラエルのデモが見出しになっているドイツの放送局の記事をみると一瞬だけ、「おぉ」と思いますが、すぐにそれが「相変わらず」の代物であることがわかります。一瞬だけ、「おぉ」と思うのは、言うまでもなく、やっとイスラエルでもジェノサイドに反対するデモが行われるようになったのか、遅すぎるけど、ないよりかはましか、と思うからで(「一瞬」の設定なのにもりすぎ)、「相変わらず」の代物というのは、ガザで人質となっている自国民の解放を訴えるデモの記事で、イスラエルもイスラエルなら、ドイツもドイツだ、と思うからです。永遠に反省し続けるのはいいとして、だからといって虐殺をなきことにしていいわけがないことくらい、臣民共同体の成員じゃないんだからわかると思うのですが、まあこれもひとつの道徳主義であり、要するに自己自身との一致だけが重要だってことでしょう。



1月6日(月)
ポエム
 
 コンクリート殺人の準主犯格の犯罪者が孤独のうちに死んだからと、哀切たっぷりにこれが人間だ的なポエムを垂れ流している人がいて、こういうメンタリティは結局、戦争のプロパガンダではあったが思想としては深いものがあったとか、眉間に皺を寄せて言ってのけるぼんくらのメンタリティと同じなんだろうと思う。「早すぎる死だった」とか、さも残念であるかのように言うのだが、そりゃもちろん残念だ。準主犯格として、こんなに早々消えてもらっては困るわけで、最低でも500年くらいは自分がやらかしたことを反省し続けてもらわないといけないからね。



1月7日(火)伝統芸能
 
 そのさっさと死んだ準主犯格の犯罪者について、肉親が「本来は明るくて、物静かで、優しい子です」とか言ってるのをそのまま垂れ流すのは、もう共同正犯じゃないかと思うほど。だったらあれか、本来明るくて物静かで優しい子なら、やらかしたことは軽くなるのか。はぁ? そんなことを言うのであれば、むしろ、本来明るくて物静かで優しい子なのに、あんなことをやらかすとは、こいつとんでもないやつじゃないか、って話にだってなりうるだろう。そっちの方向性をとらないのは、はじめっから、そいつを免罪してやろうって魂胆があるからじゃないか。こういう個人の内面に問題を落とし込もうとする伝統芸能があるから、この臣民共同体において道徳を信奉するカント屋みたいなやつはうんこなんだわ。



1月8日(水)
ゴミ擁護
 
 NHKの大河ドラマなんて、もうずっと前からイデオロギー丸出しだったわけで、しかしだからといって、そのたびに批判しなくてもいい、ってことにはならず、そのたびに批判し続けなければいけないでしょう。今回のぼんくらぶりについては、例によって例のごとく、現代の視点から過去を裁くな式のゴミ擁護があるそうですが、現代の視点から過去を裁くのだって何が悪いんだと思いますが、少なくとも今回多くの方が批判しているのは、現代の女性差別のあり方であり、そこに働いているイデオロギーです。だから擁護したければ、当該イデオロギーを正当化しなきゃいけないのであって、過去のことは問えないという定型句は、まったく無意味です。



1月9日(木)
子役もクソ
 
 演出家がやたらと「感じさせる」だの「感じてもらいたい」だのを多用しつつ自己正当化を図っていて、まあ言ってることはろくでもないのですが、演出家とは、感じさせる人だったのかと思いました。「美化するつもりはない」って、そんなことは言わなくても当たり前なので、わざわざ言うと怪しく聞こえるわけです。どっちみち、あなたの「つもり」はどうでもいいことです。そして最近よくある言い分である「現実としてある」というやつ。そう言えばすべてが免罪されるかのようですが、「現実としてある」のがわかっているのなら、その現実を問うたらどうなんだ、という方向には進まないわけで、ここでもはじめっから免罪が前提とされているわけです。



1月10日(金)あらら
 
「民主政治とは『説得』であって、決して『自己表現』ではないのです。リベラルが本気で右派からこの国を奪い返したいと願うのであれば、今すぐに説教壇から降り、人々の話に虚心坦懐(たんかい)に耳を傾けるべきです。」これは、クソ朝〇新聞デジタル版に掲載されたある方の論考からの一節。あらら。政治とは、自己が何者であるかを広場で示すことだとおっしゃった方もいたような気がしますが、気のせいですか。そうですか。あるいは、どこぞで行われていると言われている自己開示祭りは、非政治性を装うことをもって、その実きわめて現状肯定保守主義的非民主的政治性を明確に帯びていると言えるでしょう。狙い通りじゃん。



1月11日(土)クソい
 
 しかし、「耳を傾けるべき」とか言うやつがもっとも人の話を聞かないということも、少なくとも経験則のレヴェルではかなりあたっていることのひとつでしょう。たとえば、「聞く力」がどうしたこうした言ってるやつは、自分の言うことを聞く力を人にもたそうとしつつ、人の言うことを聞く力を自分自身もとうとはしないわけです。同じように、「ここでちょっと立ち止まって考えましょう」とか言うやつも、クソい。あたかも自分はひとり冷静だよ、と言わんばかりですが、この手のやつは自己との一致が何より重要なだけで、要するに人のことなどどうでもいいわけです。そりゃあんたは立ち止まれるわな、ということです。



1月12日(日)フランクフルトの大学
 
 ドイツ、オーストリアの大学などの機関がXの使用を中止するそうですが、理由は、アルゴリズムに反映されているマスクの価値観を受け入れられないことにあるとのこと。まあ、極右政党への投票を呼びかけたりして、極右政党の宣伝メディアと化している側面はたしかにあるでしょう。ただ、ある大学は自分たちこそが自由やら多様性やらの担い手であると主張していて、それはどうだろうと思いました。なんといってもその大学は、HPのトップページでウクライナ支持を明確に宣言しており、ということはNATOだって支持するということでしょうが、同時にその大学の付属機関のHPでイスラエルとの連帯も高らかに謳っているのです。マスクを批判するのはいいけど、自分たちだってそれほど変わるところがないなんて、まったく考えていないわけです。



1月14日(火)ぐりぐり
 
 昨日は大学のサーヴァーがダウンしていたため更新せず、今朝は熱っぽくて36.2℃あり、やっばいと思っていたら出かけるときには36.7℃に上昇。こんな日は休んでおけばいいものを、金曜に来るはずだったのにすっぽかした業者が今日来ることになっているので行かないわけにはいかない。実はこの人、1か月前にもすっぽかしてくれた。もう20年以上付き合いのある業者だけど、こんなことがあったのは初めて。今日は朝一でやってくるに違いないと思ったので9時前から部屋で待機していたら、15時くらいに行きますというメールがきて、もうなんだか生きててごめんなさい、って思わされた。そうこうしている間に熱は38℃になり、かかりつけ医へ。早すぎるからまだ陽性でも陽性反応が出ないかもしれないと言われつつ、あの鼻の穴ぐりぐりをやられて、自然と涙が出てきた。結局どっちも陰性だったけど、明日朝37.5℃以上あったら、もう一回ぐりぐりをやりにこいと言われてしまった。頼むから、さがって欲しい。そのためだけに。別にインフルだのコロナだのに感染していても構わない。ぐりぐりだけはやめて欲しい。



1月15日(水)ぐりぐり回避
 
 昨日はぐりぐりの後、かかりつけ医のところから自宅まで、寒い中、悪寒を感じながら30分くらい歩き、「こんなことをしていたら風邪引くわ」と思ったが、いや、もはや風邪を引くことはないか、と思い直した。そこから連想で、柄谷が、この臣民共同体について、ファシズムに陥る危険性はない、なぜならすでにファシズムだからだ、と言ったのを思い出した。そんなわけで、帰宅後ソッコーで食事をして薬をのみ、震えながら眠ったら、今朝はすでに36℃台になっていて、36℃台だって十分に熱っぽいのだけれど、医療関係者たちは口をそろえて「それは熱ではない」と言うので、朝から熱はなかった。ぐりぐりは回避できた。



1月16日(木)『うっせぇわ』
 
 ビリーバンバンのひとりが『うっせぇわ』という歌を歌っていて、それは非常に趣のある歌だし、とても『さよならをするために』を歌っていた人と同一人物とは思えないほどですが、それをテレビでとりあげていて、歌っている動画などを見ながら論評が行われているのですが、どうしてあんたみたいな人が「素晴らしい」とかって上から言えるんだって人が「素晴らしい」を連発していて、一気に不快にしかならなくなってしまったというお話。おまえが「うっせぇわ」。



1月17日(金)9,000円て
 
 9,000円のお食事をいただきつつ情報を交換するという、年に1度のとっても場違いな会合がありました。何年か前は、この会合が開かれる少し前に、税金を大量に、しかも予告をはるかに上回る額を支出する税金博の開催が決まり、よかったよかったと大いに盛り上がって、はあ、そういう世界もあるんですねー、と思わされた会合です。そして昨日は、示談金が支払われているのに口止めがなされず、とんでもねーだの、法と道徳は異なるぞーだの、やっぱお金持ちのホモソーシャルはこうなるんですねーと思わされました。会合に出る前まで参加していた研究会の思想性とのあまりの違いに、3歩歩めずでした。歩んだけど。



1月18日(土)ろくでもない
 
 ある書籍のキャンセルに積極的に賛成し、個人情報ばら撒いた人が主導した差別反対声明賛同者に名を連ね、それについても積極的に発言していたのに、候補になった途端にそれら発言を削除された方が、見事に当該文学賞を受賞されたそうです。これに関連して批判を行った人に対しては、「安心して下さい、あなたがたは文学から選ばれてませんから。」とおっしゃる書評者がいらっしゃるそうで、世の中には文学から選ばれる方と選ばれない方がいるらしいことを知りました。こういうのを選民思想とか権威主義とか言って、文学ってそういうものを批判するというポーズをとる芸能だと思っていたのですが、皇国屋が絡んだりしてくると、もはやそういうポーズすらとらなくなるのかもしれません。ろくでもないな、皇国屋。



1月19日(日)
 
 あまりいい気分のしない夢を見てしまいました。目が覚めて、夢でよかったと思うような夢でした。だれか知らない人でしたが、殺してしまいました。まあ、人を殺す夢は以前にも何度か見たことがあって、それ自体はどうってこともないのですが(いや、本来どうってことがなきゃいけないのですが)、いい気分がしないのは、人を殺しておいて、その後しらばっくれているところです。なんなら、その知らない人がいなくなって、捜索に協力したりするわけです。今回新しかったのは、きっと捜査の手が突然伸びてくるに違いないので、そのときにどうやって死のうかと考えていたところです。いくつかシミュレートしているところで目が覚めました。ほんと、人を殺しておいてしらばっくれてバレそうになったら死んで逃げようとするなんて、サイテーだわ。



1月20日(月)バイデンにはできなかったこと
 
 一応、停戦している。バイデンにはできなかったことだ。言うまでもなく、トランプがいいだの立派だの言ってるんじゃない。ただ、バイデンにはできなかったことだ。就任式までに停戦しろよ、と脅しをかけるだけで、停戦したわけだ。バイデンにだって脅しくらいかけることはできたろうに、脅しはかけなかったということだ。脅しなんかかけて停戦させていいのかよ、と立派なことをおっしゃる方がいるのは存じ上げています。でも、少なくとも停戦中に虐殺はないってことをご存知でしょうか。もしいまも虐殺が行われているのであれば、それは停戦状態ではないということです。もしそうなら、言うべきことは、停戦なんかしていない、という指摘であって、トランプなんてくそだ、と言ってさえいればいいってわけじゃないです。くそだけど。



1月21日(火)名前はないのか
 
 ドイツの公共放送の文字による報道では、「テロリストハマスによって囚われていた」3人のイスラエル人の人質が解放されたことが伝えられ、その3人の氏名とそれぞれがどんな人であるのかが詳細に明らかにされています。他方、パレスチナ人の人質については、名前などまったく報道されていません。いや、ことによるとたまたまそういうページを目にしてしまっただけなのかもしれません。しかし目にしたページではそんな差別化が堂々と行われていました。こんな報道の仕方で、薄々、ちょっとおかしいんじゃないかとか、だれも思わないものなんでしょうか。思わないものなんでしょう。「始めたのはテロリストハマス」というのが、決まり文句ですが、因果の連鎖をどこから始めるかは任意だってことを少しも考えたことはないのでしょうか。考えたことはないのでしょう。



1月22日(水)言うまでもない
 
 イスラエルの刑務所に収監されていたひとりのパレスチナ人が、交渉によってもうすぐ出られるのかと尋ねたところ、ブチ切れた看守たち20人に撲殺されたとのこと。イスラエル側も発表しているので、いろんなところで流行っている「意に沿わないことはデマ」という手は使えません。だから「始めたのはテロリストハマス」という次の手が使われることでしょう。始まりをどこに定めるかについては、任意性がつきまとうわけですが、それに加えて、だったらその後なにが行われようと、すべてはその「始まり」に帰されるのか、という問題があります。撲殺した看守たち20人は、わざわざ言うまでもなく無罪ではありません。



1月23日(木)なるほど
 
 今日は教授会の後、FD(けっしてフロッピー・ディスクでもなければ、ふ○ばくん大好きでも、ふ○ばくん大っ嫌いでもありません)研修があって、ハラスメント防止のお話をうかがいました。ハラスメントと言っても、大半がセクシュアル・ハラスメントのことであり、しかも男性教員が加害者として想定されているお話に特化されていたと思います。加害者に対しては、反省など求めない、という講師の言葉は非常に納得がいくものでした。加害者はすぐに「反省しました」と言うそうです。知り合いも、反省文を書いてすぐまた繰り返してましたからね。



1月24日(金)加害者属性
 
 では、求められるのは何か。レクチャーのなかで提示されたのは、謝罪と説明責任と賠償でした。このなかで、説明責任というのが非常に厳しいものでした。説明責任とは、起きたことについて被害者が言うことをすべてそのまま覚えて口にすることとされていました。いやぁ、それはいくらなんでもないんじゃないの、被害者だって自分にとって都合の悪いことは言わないだろうし、脚色だってするだろう、それをそのまま繰り返すことが説明責任とは、あまりにも厳しくないか、と思いましたが、しかしそう思うのは、きっとこちらが加害者属性をもつ側にいるからなんでしょう。そんなわけで、非常に厳しいFDとなりました。



1月25日(土)イタコの時代
 
 選挙で選ばれた大統領が就任式に際して神の加護を口にするのもたいがいだと思いましたが、その大統領に対して神の使いがほにゃらら説教垂れるというのもたいがいでした。さらにその神の使いの説教を称賛してしまう人たちもいて、そういう人たちってひょっとして選挙権とかいらない系の人たちなんでしょうか。もはや主権は人民ではなく神にあるのでしょうか。これからはイタコの時代なんでしょうか。



1月26日(日)またしても伝統芸
 
 まあ、古典的と言えば古典的、伝統的と言えば伝統的なんですが、性犯罪者や性加害者のほとんどには家族や同僚がいて、それぞれの仕事をちゃんとこなして仲間思いだったりするわけで、だからそれらの人々は悪人ではないとか、バ○丸出しコメントをする人がいるそうです。家族や同僚がいて、それぞれの仕事をちゃんとして仲間思いだからって、犯罪や加害が帳消しになるとでも思ってるんでしょうか。アホなんでしょうか。こういう発想って、結局すべてを心に還元するやつであり、敵意を終結させれば永遠平和がやってくるとか言っちゃうのと同じです。



1月27日(月)「そんなことくらいで」
 
 「そんなことくらいで」というのも、性犯罪や性加害を免罪する古典的−伝統的やり方であり、また普遍的でもあります。普遍的ということは、アカデミズムにおいてもあるやり方だということで、ある大学で性犯罪もしくは性加害で告発された人物について、「そんなことくらいで」その人物が研究者としての道を断たれてしまうのはもったいない、と真顔で言ったカント研究者を知っています。さすが、法規範よりなにより道徳を大切にし、清い心を大切にする人だけのことはあると思いましたが、だからこそ、道徳やら清い心やらはクソなんだと再確認しましたお。



1月28日(火)「いい人たち」
 
 その人たちの言説を批判しているのに、その人たちのことを知っているかどうか尋ね(今回も、その人のことを知らないやつらが騒ぎ立てていると言う、靴ペロ男たちがわいています)、「知らないよ」と答えたら、「いい人たちですよ〜」と、それがあたかもその人たちの言説の擁護になるかのように言ってのけた突撃隊隊長みたいなのもいました。そんなものをもち出した時点で、その人たちの言説そのものが与太であることを証明してしまったことになるなんて、きっと知る由もないのでしょう。だからこその突撃隊隊長なんでしょう。渡辺真知子なら、「まるで喜劇じゃない〜の〜」と歌うところです。



1月29日(水)大阪選出なんだよなぁ
 
 国会で行政府の長に対して、「さっさと辞めてもらっていいですか。いつ辞めるんですか」とかって迫った元号党(!)の議員がいるそうです。これまでの政府与党の政策にご不満で、その党に所属する行政府の長の発言を批判された成行でこうおっしゃったのですが、この方は、ある種の予測される出来事を怖がる人々に対して「気にするな!」っておっしゃった方です。怖がる人々にすら「気にするな!」で済ませるのですから、ご不満くらいなら、それこそ気にしなきゃいいんじゃないですかね。「怖がるおまえらが怖い」のなら、「ドン引きしかありません」と言うあなたについてこそ、ドン引きしかありません。



1月30日(木)総合判断
 
 「気にするな!」「怖がるおまえが怖い」の方が所属する、頼まれたわけでもないのにみずから進んで元号を党名に含ませている党の代表は、行政府の長に対して、楽しいヌッポソを作ろうとか言ってる「張本人が、疲れ切って毎日、苦虫をかみつぶすようでは、楽しい」ヌッポソ「をつくれません」とおっしゃったそうです。どうしてなんでしょうか。楽しい○○を作ろうとしている人が、苦虫をかみつぶしているようでは、楽しい○○は作れない、って、総合判断ですね。けっして分析的ではないです。だったらなぜそうなのか、説明が必要なはずですが、まあ、カレー食人にそんなことはできないでしょう。



1月31日(金)『クロコダイルの涙』
 
 ノーマン・フィンケルシュタインの演説『クロコダイルの涙』の動画がまわってきました。「クロコダイルの涙」を流す連中のことを批判した演説です。その連中が出すのと同一の切り札をフィンケルシュタインももっているわけですが、しかしその使い方がまったく逆であることに眼目があるのでしょう。それは言うまでもないことだと思います。もちろん気になるのは、フィンケルシュタインはその切り札をもっているからこそ、こうした演説ができるのではないか、ということ、そしてこうした演説に賛同する人が得られるのではないか、ということです。だとするとこれはやはりアイデンティティ・ポリティクスではないのか、そしてひょっとすると、もはや説得力をもつのはアイデンティティ・ポリティクスしかないのか、というようなことを思い、ちょっと息苦しくなりました。



2月1日(土)承前
 
 フィンケルシュタインが「クロコダイルの涙」を流す連中を批判してもよいのは、フィンケルシュタインがユダヤ系アメリカ人であり、両親がホロコーストサヴァイヴァーだからではないのか、ということであり、そうした出自をもつ人じゃないとしたら、当該の批判は暴力の発動だと言われるのではないか、ということです。発言を正当化するのが発言者の出自だとしたら、それはもうアイデンティティ・ポリティクスに他ならないでしょう。それじゃあダメだろうと思いつつ、しかし「〇〇はみんなもの」言説にもそうやすやすと与するわけにはいかないとすると、いったいどうすればよいのか、判断がつきかねるところがあります。



 
 
 

                      戻る