3月9日(水)性差があるらしい!
 先週、素晴らしいお話を聞く機会に恵まれ、感動のあまりHPの更新ができないほどでした。フェミニズムに関する私の浅薄な理解では、まず平等派が出てきて、その後差異派が出てきたけれども、この差異派の主張は平等派に対するたんなる反動にすぎなかったということについての一定の了解が、現在の理論水準ではなされているはずだったのですが・・・。今年度後期の授業でとりあげたフェミニズムによるアーレント解釈でも、編者のホーニッグをはじめ、執筆者の間ではそうした共通了解があったはずですが・・・。

 先週聞いたお話では、今までのフェミニズムは平等ばっかり口にしてきたけれども、これからは性差を強調する時代だそうです。貴重なお話なので、言葉をそのまま書き取ったりしました。「女性は当たり前に生きて、結婚し、子供を生む」そうです。だからこそ、企業と大学の施設面での優劣を、そこで働く女性が平均して何人子供をもつかを数値化することによって、実証して見せられるわけです。なるほど、結婚しないし子供ももたない人は「ばばあ」なんでしょうね。

 さらに、「女性は言語能力やコミュニケーション能力に優れ」「平和を愛し」「人を支配しようとしない」そうです。立派なことです。しかしこんなふうに本質主義的に決定されてしまっているのなら、ばかな男たちがろくに会話もできずに戦争ばっかしてたって仕方ないですよね。それが本質なわけですから。本質からはずれると、それは「異常」です。実際、2番目にお話された方は、染色体レヴェルの性と外見の性が一致する人のことを「正常」と呼んでいました。

 蛇足ながら、バトラーは90年代初めに「セックスはすでにジェンダーである」と言っています。きっと、あのお二人にはこんな<当たり前でもないし正常でもない女>の言葉は理解できないでしょう。
2月25日(土) 私、NHKの味方です!!
 「NHKは政治家の圧力に屈するダメなメディアだ」という発言が、民放の立派なキャスターたちによってなされます。だったら同時に、圧力をかけた方も批判すべきだと思うのですが、民放の立派なキャスターたちはそんなことはやりません。圧力もないのに・・・。NHKのキャスターにはそんなことはできません。何と言っても圧力がありますから。つまり、民放のキャスターたちは「自由に」ある人たちの肩をもつわけですね。そして「自由に」独裁国家を戯画化し、「自由に」危機をあおり、「自由に」ナショナリスティックなスポーツ放送をやり、「自由に」少年の実名を報道し、「自由に」極刑を支持するわけです。「イヤなら見るな」という言い方は、公共の電波を使用している以上、できないはずですが、このリベラルでデモクラティックなすばらしい共同体においては、「公共性」もまた、何か特別な意味をもつのでしょう。

 かつて、民放のあるキャスターが消費税導入に反対するコメントをしたときに、その番組のスポンサーだったあるメーカーは、政治家に注文をつけられ、その番組から降りましたが、これはきっと「自由」の証明なのでしょう。そのメーカーの関係者は、現在、「金儲けがすべてじゃない」と驚くべき発言をしています。こんな立派な人が、人類なのにサメの脳をもつあのびっくりラガーと同じ発言をしているのです。こうした「道徳的」発言が許されるなんて、やっぱ自由は重要だってことでしょうか。

 「いつも笑顔だった」「情熱的だった」ことを称揚するメディアを批判する自由はないのだろうか。きっとないのでしょう。カメラの前で悲劇の父親を演じさせてしまうメディアを批判する自由はないのだろうか。きっとないのでしょう。

 そういうお前は批判に開かれているのか? もちろんです☆☆
1月15日(土)
 前の更新から、あっという間に1ヶ月以上経ってしまいました。その間、幸いにも(あるいは、その甘言にのってる私の頭の中が幸いなのか)複数の方からHPの更新をねだられました〜☆☆
 お休みしている間に、いろんなことがありました。考えさせられてばかりです。「極刑の上の刑」っていったい何だろうとか、その主張はやっぱりIPだろうとか。ある種の犯罪を語るときに、なぜ同時にセクシュアリティまで裁くのかとか、なぜその陳腐なセクシュアリティを自信満々に「正常」と呼べるのかとか。
 審理の場で、「目つきがおかしかった」と証言できてしまう鉄道わんわん隊は、さぞや立派な目つきをなさっているのだろうなぁ、とか。あの裁判でも、勝てそうにない人たちが懸命にセクシュアリティの「異常さ」を喧伝するけれど、そのことと犯罪行為があったかどうかはまったく無関係ではないのだろうか、とか。
 客に対して執拗に「マナーを守れ」と妙な節回しで車内放送するあずき色のみなさんは、きっと立派なマナーを身につけているのだろうなぁ、とか。その麗しい車内放送自体も、やっぱりマナーなんだろうなぁ、とか。「女性専用車両」に「ご理解」を要求するのなら、せめて女性の定義くらい示して欲しいのだけれど、それは自明なのかなぁ、とか。「見ればわかる」と言うためには、まず定義ができなければいけないのではないのかなぁ、だって、「ほにゃららかどうかは見ればわかる」って言われても、「ほにゃらら」が何であるかわからなきゃ、見たってわからないもんなぁ、とか。

 人生は難解だーーっ
3月21日(月)すばらしい、自由で敬虔な方たち!!
 気がついたら、先週は更新するのを忘れていました。まあ、いろんなことがあったわけです。人生いろいろ。会社もいろいろ。

 ほんの一瞬見ました。よく知りませんが、かつて反戦歌を歌っていたとかいう人気アイドルグループ(といっても、すでにアイドルたちではないそうですが)がいます。なにしろ、「ありのままの自分が好きになれれば、世界は平和になる」そうです。すばらしい。メンバーには敬虔な方もいらっしゃるそうです。すばらしい。そのグループの番組に、自分の発言が圧力になりうることも認識できない純粋無垢なタカの政治家(らしい)が出ていました。もちろん、政治家の圧力なんかに屈することのない自由な8に。すばらしい。

 5秒ほどしか見なかったので、このネタはこれ以上続けられません。残念です。

 この前、批判的社会理論研究会というところで、その研究会のメンバーが著した『討議倫理学の意義と可能性』(法政大学出版局)という本の合評会があって、前半部分のまとめと質問を担当しました。実は、27日にもカント研究会というところで、やはりその研究会のメンバーが著した『カントの自我論』という本の合評会があり、特定質問者をやらせてもらうことになっています。非常に勉強になるのはたしかですが、しかしこうして春休みが終わってしまうのも、どうしたものでしょうか。
3月25日(金)おめでとうございます
 今日は卒業式でした。卒業されたみなさん、おめでとうございます。これまで経験してきた卒業の中で、もっともあっけない別れ方をしたのではないでしょうか。諸般の事情により、私は学部も大学院も卒業式には出なかったので、その雰囲気を経験したことはありませんが・・・。噂によると、総長は文字通りありがたいお話をされたそうですね。やっぱ文系だって、ちゃんと自然科学の知を身につけなきゃダメですよ! そこまでおっしゃる以上は、その知を基礎づけることだって、われわれとは異なって楽々できるのでしょうしね。まさかプラグマティックなレヴェルのお話がすべてだなんてお考えじゃないでしょう。残念なのは、哲学の学生ないし院生がその場で、いかにしてミュンヒハウゼン・トリレンマを解決できるのか、尋ねなかったことです。

 ある研究会で、あまりにも無意味だと思われるテーマで例会が開催されようとしたので、「出るつもりはないし、そんな例会やめたら?」と言ったら、「こないヤツが提案するな」って言われちゃいました。こういう発言はホントにとんでもないと思うのですが、いろいろ言い続けるのも面倒なので、まあどうでもいーか、ってことにしました。
4月5日(火)ま、仕方ないか?!
 今日はガイダンスがありました。大半の大学院生が出席していたのに対して、驚くべきことに、過半の学部生が欠席していました。まあ、手取り足取り説明してくれなくても、やるべきことはちゃんとわかってます、ということなのでしょうか。そりゃそうですよね、大学生なんですから。

 今、文学部前のいわゆる浪高庭園には異様な光景が見られます。桜を愛でたい方々が白のビニールテープで囲いを作り、たとえば「○○研究室4月×日」という紙をくっつけてその場所の占有を予約しているのです。そういう行為がいかに野蛮なことであるか、なんてことに関する知は、自然科学には属さないものなので、まあ向こう側の人たちがそういうことをするのは仕方がないでしょう。日々人のためになる重要な実験に勤しんでいらっしゃるのですから、そのくらいの nonsense は大したことじゃないでしょう。問題なのは、こちら側にも囲い込みに参加してしまう人たちがいることです。ああ。
4月11日(月) ドイツ観念論?!
 今日から授業が始まりました。講義では、例によって<作文コーナー>を設け、今日の題目は「カントおよびドイツ観念論って何?」でした。こんな大雑把な質問なのに、熱心に書いていただき、どうもありがとうございました。おかげさまで、ドイツ観念論はほとんど死語であることがよくわかりました。ここはもう、そのまま自然死を待つべきか、それともひょっとしたらあるかもしれない自発呼吸に期待して、とりあえず人工呼吸器につなぐべきか、判断に迷うところです。

 外国人選手にヒーローインタヴューすると、どうしてアナウンサーは「ガンバリマス」と言わせたがるのでしょう。そこには、言語と国籍を結びつけて考えるイデオロギーが反映されていないでしょうか。これでは、帰化を申請しようとすると、「じゃあ名前変えて」と言う役人と、同じレヴェルになってしまうことがわかっていないのでしょうか。もっとも、ある政治家によれば、改名は申請者のことを思って要請されるそうですが・・・。なんと慈悲深いことか!
4月18日(月)カントむかつく?!
 今日は2週目でしたが、ぬぁんと先週よりも参加者が多くてびっくりしました。しかしいきなり、センス・データがどうのこうの、悟性がああしたこうした、経験とともに始まるが経験から生じるわけではない云々、なんて話になってもなんのことやら、ですよね。それどころか、学生だったころ、表象やら形而上学やらが全然わからなかったですからねぇ。慣れてくれば適当に聞き飛ばすのですが、すべて理解しようと真面目にやってる間は辛いかもしれません。

 かつて、イラク派兵に反対するデモに悪魔のかっこうをして参加した人について「そのかっこうをすることと派兵に反対することと、どういう関係があるのか?」と尋ねて論争(というよりも、罵り合い)になったことがあります。そのとき言われたのは、「きちんと理論武装してなきゃ派兵に反対しちゃいけないなんて発想は、エリート主義だ」ということです。私はむしろ、こういう言い方こそがエリート主義だと思いました。つまり、わけもわからずとにかく派兵に反対することが重要なのであり、理論的なことは一部の人間だけがわかっていればよいのだ、ということになりますから。

 デモから帰ってきて「ああ、いい汗かいた」と言いながらビール飲んでる姿を見ると、滑稽です。しかしこういうことを言うと、現場主義=実感主義の人たちからは、「参加しないくせに何がわかるんだ」って言われるんですよね。そこで話のオチです。カントは、すべての認識は経験とともに始まるが、だからといってすべての認識が経験に基づくわけではない、と言いました。
4月25日(月)野球とハエ
 「セックスはすでにひとつのジェンダーである」と言ったのはJ・バトラーですが、ある野球選手は見事に、<男らしさ>と身体の部位の特徴とを結びつける発言というか方言というか放言というか呆言を行い、このテーゼを実証して見せました。この人によれば、どうやら野球界にはルールブック以外に法があって、投手はある状況においてある種のボールを投げなければいけないことになっているそうです。へぇ〜。初めて知りました。だったらいっそのこと、この人は打席に立つだけでホームランにしてあげるとか、あるいはもう引退してもらってそれでも試合ごとにホームランを打ったことにしてあげるとか、そういう法を作ってあげたらどうだろう、と思う。

 この立派な御仁にハエと呼ばれた人たちが、これまた立派な正義の味方だったりするわけです。今日は大惨事がありましたが、発生後2時間足らずの時刻に行われた記者会見で、「事故原因は目下のところ不明」と関係者が発言したところ、われらが正義の味方は、「そんなことないやろ。人が死んでるねんで」と上品な言い回しで見事に正義を貫いていました。きっとこの上品な日常語を用いるところもポイントなのでしょう。ところで、人が死んでいると、原因は不明じゃなくなるのでしょうか。私にはその因果関係がまったくわかりません。

 ハエの仲間は、市立体育館へ向かう社長たちに対しても正義を貫きます。「さっきポケットに手を入れてたでしょ? 謝罪する気持ちはあるんですか?」 今度は、上品な日常語ではありませんでしたが、さすがハエの目、ポケットに手を入れていたことを見逃さなかったのです。ところが、私にはまたしても、ポケットに手を入れていたことと謝罪する気持ちの因果関係がわかりません。そもそも、<気持ち>が重要なのだとすれば、ポケットは無関係なはずです。もっとも、私は<気持ち>なんてどうでもよいとは思っていますが・・・。
5月2日(月)『トラクリ』!!
 理由があって、柄谷行人の『トランスクリティーク』を読んでいます。かつて、『マルクスその可能性の中心』を読んで、<こんなふうに論文を書けたらなぁ〜>と思ったものでした。『トラクリ』では、副題が示すようにカントとマルクスが主題的に論じられています。New Left Review では、ジジェクがこの著作を題材に論文を書いています。かつてはさほど気にならなかったのですが、たとえば<超越論的>という概念の用い方などについて、近頃は少々敏感になっています。これは、こちらが以前よりも文献学的になってしまったということなのでしょうか。

 国家やネーションはそう簡単にないものとして捨てることはできない、という言い方はわかるとして、しかしだからといってこれらが<超越論的仮象>であると論じられてしまうと、かなり首肯しがたいものがあります。カントの<超越論的仮象>には、実践的には客観的実在性が保証されるわけですが、しかし国家やネーションが実践的に客観的実在性を保証されるなんて発想は、拒否したいからです。

 理由があって、医者へ行ったら、「普通の生活を送ればよいが、ただ疲れないようにしなさい」と言われました。なるほど。うすうす感づいていましたが、やっぱ働きすぎなんですよねぇ〜。もっと休まなきゃいけない。なんつっても、これは医者の命令だ。
5月9日(月)ボウリング・フォー・××
 「ボウリングへ行ってました。」「ボウリングへは行きませんでしたが、宴会してました。」「宴会へは行きませんでしたが、ブルース・ウィリスとサミュエル・L・ジャクソンのDVDを観ていました。」「ナイト・シャマランのDVDなんて観ませんでしたが、スティーヴン・セガールのDVDを観ていました。」「DVDなんか観ずに眠りましたが、楽しい夢を見ていました。」「楽しい夢を見かけたのであわてて目を覚ましましたが、息をしていました・・・。」

 マイケル・ムーアの嫌味が、嫌味にならずにそのまま生きられているこの空間は、すでにファッショと呼べるのではないだろうか。こうなったら、全社員が何をしていたかみずから逐一報告したらどうだろう。もちろん、<ボウリング>を嗅ぎつけた素晴らしいマス・メディアA放送に。何と言ってもこの方たちは、世界中で平和など訪れていないのに、平和の象徴としての<白球の青春>を放送し続けているのである。

 鉄道会社相互の過熱する競争を問題視する報道が大々的になされているにもかかわらず、なぜ同じように、ムダをなくすために競争原理を導入すべきだとする郵政民営化には取り立てて反対せず、むしろ私人として行政府の長を務める人物に与するのか、たんなるカント研究者にはわかりません。
5月16日(月)ぷ〜
 まあうすうすそうではないかと予想してはいたのですが、これほどまでに普遍主義の評判が悪いとは思いませんでした。みなさんいつの間に、これほど物分りのよい相対主義者になってしまったのだろうと思います。<われこそは普遍主義者なり>というタイプの言説がきわめて暴力的であり、<排除>と結びつく場合があることは言うまでもありません。したがってこうした観点からなされる普遍主義に対する批判には、一定の妥当性があると思われます。

 ぷ〜   
5月23日(月)<二コールは美しい>は普遍妥当性を要求する?!
 この前映画を観に行ったら、スピルバーグの新作予告編が流れていました。新作とはいっても、リメイクらしいのですが、設定は<人類よりもすぐれた存在が地球を侵略しに来る>というものでした。人類よりもすぐれているのに、なぜ人類と同じように侵略するのかまったくわかりません。もしかして、<すぐれている>の定義は<よりよく侵略できる>なのでしょうか。

 観たのは、<政治的な暴君は暗殺するのではなくICCに告発しなきゃ!>というメッセージのハリウッド映画でした。ハリウッドのある国はICCを認めていないはずですが・・・。二コールが途方もなく美しかったので、この手のご都合主義は許します。所詮、ハリウッド映画を観に行ってるわけですから。

 <売れるか売れないかわからないものに情熱を傾ける○○人は立派だ>という○○万歳のCFがあります。だれかが言うように、売り手がつねに跳躍をしているのだとすれば、売れるかどうかは当たり前ですがだれにもわからないはずです。そんなわけで、売れないことが確実にわかりきっているもの(たとえば哲学?)に情熱を傾けるのであれば、○○人は立派だと思います。まあ、そんな無益なことをあそこで言われているような○○人がするとは思えませんが・・・。

 だれか衛星放送のアンテナいりませんか? 今や国際化の時代。衛星放送も受信できないでどうしますか! 払いそびれている受信料も払えますよ!!
5月31日(火)わんわん注意報発令!
 土曜日の夕方に、裏門を出てきたところで遭遇しました。裏門を出ても、もちろんまだ大学構内です。ちょっと急いでいたので、「構内だろっ!」と教えてあげました。自転車に乗っていると、当然のように近寄ってきて登録番号を調べたりしてくれますが、そんなときは「職務ですか?」と尋ね、「総長の許可はありますか?」と訊き、「大学の自治権をご存知ですか?」と問いましょう。たぶん、犬語を体験できると思います。それにしても、なぜわんわん達はおしなべて首から下の部分のみに栄養が行っちゃってるのでしょうか。 
6月6日(オーメン)頭だいじょーぶ???
 各都道府県のガードレールに数多くの金属片が発見されたことについて、元わんわんのえらい人が、「愉快犯だとしたら、それはゲームのせいでヴァーチャル・リアリティと現実の区別がつかなくなった者の仕業だ」とおっしゃっていました。はぁ〜??? いくら元わんわんといえども、「頭だいじょーぶか?」って心配になりました。そしてこういう発言を垂れ流す8とか10とかって・・・。

 プロ野球の交流戦に関して、「毎試合毎試合、真剣勝負を観ることができるのですばらしい」とおっしゃる評論家や解説者がいます。じゃあ、選手はリーグ戦では真剣にやってない、と言いたいのでしょうか。それはそれで、大変問題です。リーグ戦に戻ったときに、この人たちにはぜひこの点を批判してもらいたいものです。
6月13日(月)マナー電車と難解なロジック
 この前ひさしぶりに、あずき色のマナー電車に乗りました。さすがマナーが浸透しており、電車内の体操着を着た中学生たちは自由で快活、元気に大騒ぎ、引率の教師らしきごま塩も、リベラルなので我関せず。ダメですねぇ、啓蒙主義者は。こんなところで舌打ちを連発して謝らせるなんて・・・。

 そして乗り換えたやはりあずき色のマナー電車で気持ちよく眠っていたら、今度は電話しちゃいますか、しかもすぐ前の座席で・・・。こういうとき、普遍主義者は実に困ります。前の座席のオペレータはたんなるおばさんなので、論理的に言い負かすことができるだけでなく、いざとなっても勝てそうな気がします。しかし、もしこのオペレータを啓蒙した後で、失うものがほとんど何もなさそうな○○生あたりが使い始めたらどうしよう、さっきは啓蒙したくせに、今度はしないのかよ、って感じになります。普遍主義者とか言っておきながら、実は暴力を前提している自分自身に嫌気がさします。とはいえ、嫌気がさしたついでに、おばさんオペレータの通話はやめさせるわけですが・・・。

 免許証の住所変更をするために、わんわんの実家へ行きました。必要なものが窓口に達筆で書かれてあります。本籍地まで記した住民票のほかに、本人だと確認できるためのものが書いてあります。住民票、保険証、郵便物。えっ??? 本籍地まで記した住民票は絶対に必要なわけです。なのに本人だと確認できるものとしてなぜ3つのものが例示されているのか、この難解なロジックはまったく解けません。尋ねようかとも思ったのですが、吠えられると怖いのでやめました。
6月20日(月)ネタ切れ
 個別的な経験をいくら積み重ねたところで、何らかの同一性とか物差しにあたるものを想定しなければ、そこから何らの観念も生み出すことはできません。そもそも、<積み重ねる>ということが不可能です。言うまでもなく、経験則なんてものも導くことはできません。そして、百歩譲って経験則みたいなものができたとしても、それはたんなる経験則なので、未知の事柄に適用することはできません。そんなことができたら、それは経験則ではないでしょう。じゃあ、経験則って何なのでしょう???

 経験主義者は、<常識>という名の伝家の宝刀をもっています。よほど自分の<常識>に自信があるのか、理論的に行き詰ると(そもそもはじめから行き詰ってるわけだけど、だから厳密に言えば行き詰ってることに気がつくと)<常識>を持ち出すわけです。理論的に考えるとこんな問題にぶつかっちゃうけど、<常識>ではこんなふうに考えないですからねぇ〜、って感じです。しかし、少なくとも哲学の議論において<常識>を切り札にしてはいけません。ただ、<常識を疑え>というキャッチコピーを使用しているマスメディアはあまりにも優秀な人たちだからなぁ〜。

 当事者性がどうしたこうしたああしたそれしたとか言う人たちも、激しさは違うとしても、理論的には個別的な経験を頼りにする人たちと同じなのですが、後を絶たないのはどうしたことでしょう。哲学はそれほどに学ばれていないということなのでしょうか。

 ネタが枯渇したので、自明にしてどうでもよく下らないことを書いてしまいました。
7月3日(日)不思議がいっぱい
 なんだか、不思議なことばかりだ。少なくとも、理性の守備範囲にあるとは思えない。死刑判決に対する上告が棄却されたけれど、そのことによって無念が晴らされる人がいるらしいのだ。まわりくどい言い方がされているけれど、端的に言えば、<人が死ねばすっきりする>ということだろう。驚きだ。この思いを正当化する論拠は普遍性をもちうるのだろうか。それとも、例によってささやかな自己の経験だけが決め手なのだろうか。確実に言えることは、かりにある人物の態度がふてぶてしく見えたとしても、そのこととその人物が罪を犯したかどうかということとは、まったく当たり前だが、無関係だということである。

 われわれとは同じ法体系に属していない人たちが<おとりになった>予定外の行動が高く評価されたりしたが、しかし重要なことは、われわれの投票によって選ばれた者が何をするかということであるだろう。「宗教活動と言われればそれまでだ」と言いつつ、「憲法違反だとは思わない」などとわけのわからないことを言い募るあれの言動こそが、注目に値するのでなければならないはずなのに・・・。

 そして今日は、ある人物が野球観戦に来るとかで大騒ぎ。あるチームの親会社である放送局が騒ぐのはまだしも(それはそれで問題がまったくないわけではないだろけれど)、他の局もこぞって「待ってました」状態なのは、どう考えてもおかしい。なんだかんだ言っても、もしかしてみんなああいうのが好きなんじゃないのか、と思えてくる。それはひょっとして、明らかに矛盾した発言を繰り返す人物を支える心性と同一ではないのか。

 挙句の果てに、都議会第一党なんですね。
7月17日(日)やっぱり大人気ない
 この前、1年生対象の講義で授業アンケートがありました。私立大学ではずっと前から行なわれていることです。そして、こうした分野ではぶっちぎりの最先端を行くR(別名Z)の館では、アンケート結果を授業中に顧客に対してきちんと伝えたかどうか、そして今後どのようにサーヴィスを向上していくのかを明らかにしたかどうか、ということについてまで報告することになっています。そしてすでにずっと前から、「窓の外に向かって説明をしないでください」とか「性格が悪すぎる」とか「大人気ない」(もちろん、<大して人気がない>という意味ではなく<ガキのようだ>という意味です)とか「ヤル気がない」とか、書いていただき、その度に反省して、「では教卓に向かって説明します」とか「性格は直りません」とか「十分におっさんです」とか「ヤル気なんて重要じゃありません」とか、応えてきました。

 今回は、回収時に何となく魔がさして、あまりにも美しすぎる文字で書かれた(言うまでもなく、美的判断は主観的なものにすぎません)自由記述を読んでしまいました。<哲学はもっと自由なものであり、言論統制には興味がない>そうです。たしかに、<哲学では何を語ってもよいのだ>などという、○○の優等生が言いそうなあまりにも素朴すぎる意見を認めるつもりはありません。何の論拠もない、ただただ自己のささやかな経験に基づく実感の吐露など哲学とは無関係である、と表明することが言論統制だというのであれば、それは言語の使用方法が間違っています、というより他にありません。

 たぶん、哲学は人生論じゃない、とか言ったのがまずかったのかな、と思います。しかし、自己にとって(のみ)それなりに大切な自己の人生をどう生きるかについて、他人の、しかもよりにもよって哲学者の言葉などを当てにしてはいけません。
8月21日(日)あれあれ・・・
 なんと、知らぬ間に8月も下旬に突入していました。前にHPを更新してから、1度わんわん体験があったので、それを書こうとしたのですが、あまりそんなことばっかしてちゃいけないんじゃないかという<善良な市民感覚>がはたらき、ボツにしました。太宰によれば、札付きの悪は札がついてるから怖くないけど、善良な市民は怖い、とのこと。酔っ払って路上に寝ている人がいたら、善良な市民は119番に通報するのではなく、110番に通報しますからねぇ〜。またのこのこやってきたわんわんは、人の名前を聞くだけでなぁ〜んの役にも立ちません。なのに<お世話になりました>ってお辞儀するかね。いえいえ、これが書こうと思ったわんわん体験ではありませんので、誤解なさらぬように。

 行政府の長は、あるときにある場所へ行くことを公約していたのに、行きませんでした。おかしいですねぇ。やはり人生いろいろなのでしょうか。それにしても、法案の是非を問うための選挙をするのなら、擁立する人はできるかぎり無名の者じゃないといけないはずですが、どうしたことでしょう。これじゃあ、得票が少なくても、法案に反対なんだか、そいつがカネのことしか頭にないデブだからなんだか、わからないではないですかねぇ。
9月3日(土)不思議なことなど何もない
 そして9月に突入してしまいました。来週、再来週と集中の仕事があるので、今日更新しとかないと次はいつできるかわからず、でも別に更新しなくたって何も問題はないって話もあるけど、ちょっと書いておこうかな、と思いました。

 昨日、昨日が上映最終日の映画を観に行きましたが、予告編で観てしまいました。ある船の話です。<彼らは英雄でも、被害者でもなく・・・>とかいう字幕が出ましたが、そりゃそうだろうよ、たんなる侵略者だろ、って思ったのは私だけでしょうか。その人たちは、愛する者を守るために戦ったのだそうです。ここにあるのは典型的な心情倫理のパターンです。目的を追求する心情が純粋であれば、その目的自体の妥当性は問わなくてもよい、もちろん目的を実現するための手段はすべて正当化される、ということです。あのゴミ映画はブラック・ユーモアとしても陳腐ですが、いまさら何を考えているのでしょうか。

 まあ、>Der Untergang<というドイツの映画も方向性としては同じでしょうか。それまで戦闘に参加し、はっきりと殺人を行っていた少年と主人公がさっそうと自転車に乗り、前からは光が差してくる、なんてラストシーンは、人を笑わそうとしているとしか思えませんから。あんなにすぐに何もなかったような顔ができるのなら、戦争も悪くないでしょうね。

 暴力行為が発覚すると、優勝が取り消される、ということの因果関係がまったく理解できません。優勝は暴力があったから可能だったということでしょうか。これからは暴力のない大会を目指すそうですが、真夏にあんなかっこでスポーツさせ、応援させ、部数を増やしていることは立派な暴力じゃないのでしょうか。
9月11日(日)末期的状況
 さっぱりわからない。いったいどうなってるんでしょうか。これほどたくさんの人たちが自由に競争したがっているとは思いませんでした。しかも、みなさん努力すればそれなりに小金持ちになれると思っているのでしょう。成功しなければ自分が悪いと思えちゃうんですね、殊勝なことです。
 争点は「郵政のみ」だったそうですから、憲法を改正したいんだったらまたそれようの選挙をやってネ!
9月19日(月)こっそりできる時間つぶしを教えてください!
 先週は先々週に引き続き金曜日まで集中の仕事をして、週末は東京で開かれた研究会に出ました。1日目の『永遠平和論』についての研究会は非常に勉強になりました。2日目は修行の時間で、迷路を作ったり、相手に必ず<30>を言わせる方法を考えたり、こっそりプロ野球速報を見たりしていましたが、まだまだそんなものでは終了の時間にはなりませんでした。

 その研究会は正式に発足してもう3年目に突入しており、実はその前からもほぼ同じメンバーで研究会が開かれていたので、会において一応の共通理解はできており、ある種の証言の重要性は(ばあさん/じいさんじゃないんだから)わざわざ何度も繰り返し言ってくれなくてもよかったのです。私や他の何人かのメンバーが知りたかったのは、その証言を他の証言に優先する理論的根拠は何であるのか、ということなのですが、それは少なくとも私には聞き取ることができませんでした。いや、例によって発言者の立場性が決め手になっていることは明瞭なのですが、同時に「IPはいけません」とも主張する発表者はこれを明確に決め手とすることができないわけです。それを指摘するとどうなるか。嫌な思いをすることになります。あ〜あ、言わなきゃよかった、と思う羽目に陥ります。

 過去における行為を、その行為が行われた時点で妥当性をもっていなかった法によって裁くことはいかにして正当化されるのか。これも非常に重要な問題だと思いますが、発表者たちから回答が与えられることはありませんでした。質問の意味がわからないのであれば、あまりにも頭がよすぎるし、意味がわかっていながらはぐらかしたのだとすれば、悪質極まりない。

 研究発表においては、ある主張の妥当性の論拠をその主張者の個人的な体験に求めるようなアフォな議論だけはやめてくださいね。
10月7日(金)ぎゃふん
 あ〜あ、いつの間にか10月に突入。もう一度9月をやり直したい心境。10月も11月も9月ということになればなぁ〜。12月くらいは我慢して12月のままでもよいけどね・・・。

 <何を今更>かもしれないけど、あれほど普遍主義の評判が悪いとはねぇ。規範なんてものは所詮、共同体に相対的な妥当性しかもたないし、ではなぜある共同体ではある規範が妥当性をもつのかを問えば、プラグマティックな答えが返ってくる。当該の規範が妥当性をもつことによって、当該の共同体のみんながそれなりにしあわせじゃん、て。なるほど、だからあれほど大勝しちゃうわけか。

 当初の予定としては、カントのGrundlegungを批判的に読もうと思っていたのだけれど、不本意ながら擁護しなきゃいけないのかなぁ。

 それはそうと、あのコント55号の片割れみたいな顔のヤツも、ルールに従って何が悪いんじゃ、って思ってるんだろうなぁ。
10月29日(土)高尚そうでごめんなさい
 昨日、ハーバーマスの読書会の後、食事に行ったらその一群がいました。どこかのゼミだか研究室だかの集団で、すでに○○騒ぎしていました。こんな元気いっぱいに○○騒ぎするのはきっと実験が大好きな人たちだろうと思っていたのですが、「効用」とかが好きな人たちでした。

 さて、ひとりが「哲学やってるヤツは大嫌いだ」と言います。「さも性欲なんかないかのような態度で、高尚そうな顔しやがって偉そうなことを言っている」からだそうです。なるほど、ご本人はご発言どおりまったく「高尚そうな顔」ではありませんでした。その隣にいて「オレもそう思う」と同意して見せた教員とおぼしき人物も、やはり見事にまったく「高尚そうな顔」ではありませんでした。立派なことです。さすが、なにより「効用」の人たちです。そう言えば、全身、「やせたソクラテス」(J・S・ミル)じゃない方を選択していました。ぶひ〜。

 まあそうでしょうねぇ、「高尚そうな顔」をもたない「やせたソクラテス」じゃない存在者は、<正義とは何か>どころか<生きる意味>なんて問題にしてられないでしょうねぇ。そんなことを問えば、自殺行為ですからねぇ。ぶひ〜。

 というわけで、哲学の研究者のみなさんは、飲み屋でバカ騒ぎしてはいけません。「金払うんだから何やったっていいじゃん」なんて単純きわまりない資本主義のロジックを垂れ流すのは、「効用」のぶひ〜たちだけに許された特権です。何と言っても、みなさんは「高尚そうな顔」をしているのです。バカ騒ぎはバカがやるものです。それが論理的一貫性というものです。
11月1日(火)主人の対義語は奴隷である
 「男女共同参画」なんちゃらとおっしゃってる青いドレスの女は、自分の夫のことを「主人」と呼んでいました。哲学史的にはほとんど自明ですが、主人の対義語は奴隷です。夫が「主人」ということは、夫の対義語が妻だとすると、妻=奴隷ということになりそうです。もちろん、論理的には他の可能性も残されていますが、もしこのような等式が成立するのだとすると、男女共同参画というのは、要するに主人と奴隷が一緒に仕事します、って話なんでしょうか。それとも、もっとラディカルに、男=夫、女=妻なんて等式を否定しようって話なんでしょうか。それならそれで立派そうですが・・・。

 「継続」とか「継続する」とかいう言葉は、叙述ミステリ向きです。たとえば、「改革を継続する」と言えば、あたかもこれまでは改革が行われてきたかのような印象を与えますからね。私的に公用車に乗るあの方がそれ以前と異なっているのは、毎年毎年何を言われようと、たとえこそこそとだろうと、あそこへ行き続けたことくらいではないでしょうか。しかし改革という言葉にはポジティヴな含意があるので、この例は改革が行われてきたことの証拠にはなりませんねぇ。
11月27日(日)お疲れサマンサ
 昨日は、4年生の卒業論文中間発表会でした。発表されたみなさん、また討論に参加されたみなさん、お疲れ様でした。夏の発表会と同様に、非常に充実したものとなりました。ハーバーマスが言っているように、発表者は遂行的矛盾を犯さないため自己の主張とともに絶対的な妥当性を聞き手に対して要求しなければいけないわけですが、その点に関して言えば、発表者のみなさんはおしなべて実に見事にコミュニケーションのルールに従っていたと言えると思います。自戒を込めて言えば、研究者は年齢を重ねるとともに細かな言い逃れを数多く配備した発表しかできなくなり、何の面白味もないモノローグを開陳する傾向があるので、その傾向とは正反対の土曜日の各発表は、それだけいっそう充実したものに感じられたのかもしれません。

 発表に触発されて、改めて、<アイデンティティが云々>とか<自分の居場所がかんぬん>とか、あるいはたぶんハーバーマスやホネットが言う<傷つきやすさ>とかいうことも、<同一性の原理>の問題なんだろうと思いました。<そんなに固定されたいのですか?>などと問えば、ある種の人たちはきっと、<あなたのような○○で××な人にはわからないのだ>と、場合によっては怒ったり泣いたりするでしょう。言うまでもありませんが、そもそも怒ったり泣いたりすることと主張の妥当性とは無関係であり(いや、むしろその種の主張は妥当性をもたない可能性が高いという意味で、関係しているかもしれない)、そしてこの種のIPの主張はほとんど何も言ってないに等しいでしょう。
12月1日(木)錯覚なのか???
 おっかしいなぁ〜、朝はたしかに「逮捕の決め手はDNAの一致」って記事がネットに出てたはずなのに、今探してみたらどこにも見当たらない。錯覚だったのだろうか。「これは大問題だよね」と思ったのだけれど・・・。この問題性にまったく触れることなく、平気で垂れ流すマスコミって、と思ったのだけれど・・・。同系列の局は、逮捕前に容疑者にインタヴューしてたって自慢げにその映像を流してたけど、そんなことしてよいのかって、思ったのだけれど・・・。

 戦争を生き延びてきたのは○○制とマスコミで、この人たちはホントとんでもないと思うのだけれど、錯覚だったらごめんなさい。
12月5日(月)ちょ〜かっこいい!
 昨日一昨日と、フィヒテ協会およびカント協会の大会が東京でありました。今年はカント協会創立30周年記念ということで、2日目には公開の記念講演がありました。記念講演では、あの柄谷行人が「カントとフロイト」というタイトルで非常に興味深い話をしました。かつてNAMの創立記念シンポみたいなのが大阪であったとき以来のナマ柄谷で、そのときに比べるとやや年をとった感じがしないでもありませんでしたが、しかしカント協会のメンバーたちが大半を占める会場では、明らかに違った雰囲気を醸し出していました。最も「やったぜ」と思ったのは、カントにとっては戦争する権利である各国家の主権なんてものが全面的に否定される世界共和国こそが目指されるべき理念なのだ、と断言したときです。なぜなら、この頃どういうわけか、各国家の主権を認めたままの同盟関係こそをよしとする意見が、私の周囲には満ち溢れているからです。講演のあと、「たとえ数多くのカント研究者と意見を異にしようとも、柄谷と同意見であればその方がはるかによい」と言ったら、「そうした言い方は他律的であって最もカント的ではない」と言われてしまいました。カント的かどうかなんて、どうだっていいもんねー

 カント屋による「悪について」(たぶん、そんなタイトルだったと思う)という講演もありました。それによれば、重要なことは自分自身に対して誠実であることであって、かりに善行をなしたとしてもそれが「本当に」(この言葉はいくつ重ねても無意味ですが)義務に基づいてなされたかどうかを問い続けなければならないのだそうです。個人の内面なんて日記でも書くときにせいぜい問題になさってくださいと思う私は、「どうぞ問い続けてください」と言う他ありません。