当日配布した資料です

2010年 福島演劇鑑賞会 第359回例会「静かな落日」

鑑賞を深めるための記念塔見学   

 この資料は「松川裁判から、いま何を学ぶか」(伊部正之著一岩波書店)・「戦後謀略事件の背景と下山・三鷹・松川事件」(伊部正之著一福島県松川運動記念会)から引用しています。

▼ 事件発生

 1949年8月17日午前3時9分(夏時間、通常の2時9分に相当、このカーブ地点で青森発の奥羽本線回り上野行き上り第412号列車が脱線転覆した。この普通旅客列車は、C51型機関車を先頭にして、炭水車、2両の荷物車(当時は旅客が持ち込む委託手荷物=チッキや鉄道小荷物を運ぶ貨車も連結されていた)、1両の郵便車に続けて9両の客車(定員720人、約630人が乗車)を連結し、後方からはD51型機関車が補助動力車として押していた。真夜中の事件現場では、先頭の本務機関車と炭水車が線路をはずれてほぼ仰向けに転覆し、2両の荷物車はこの機関車・炭水車に横付けする形で線路にほぼ直角に平行して脱線し、これに続く郵便車と客車2両は くの字に脱線したものの、路肩に留まって転覆は免れていた。

 先頭のC51型機関車には3人が乗務していた。機関士の石田正三(48)と機関助士の伊藤利市(27)は全身打撲と全身火傷のショックのため即死した。同じく機関助士の茂木政市(22)は右半身複雑骨折と全身出血のため救出中に亡くなった。この他、10名ほどの乗客・乗務員が軽傷を負ったが、機関車から客車までに間があったので、一般乗客の被害は少なくなったといえる。

 現場では、外軌つまりカーブ外側のレール(長さ25メートル、重さ1トン近く)が1本、継目板前後のレールをつなぐもの)や犬釘(枕木に固定するもの)などがはずされて、ほぼ原型のまま13メートル左前方に跳ね飛ばされていた。このレールの取りはずしが脱線転覆の原因となったことは明らかであるが、これだけの線路破壊を行うには、それなりの人員と時間が必要なはずだった。しかも、この現場を午前2時過ぎに通過する予定であった下りの第159号貨物列車が、なぜか70キロほど手前の白河駅で運転休止になっており、その決定は16日午後1時頃になされていた。

 事故列車の後部補助機関車には2人の乗務員(機関士、機関助士、荷物車と郵便車にも7人の乗務員、さらに客車にも車掌が1人乗務していた。彼らは、一方では乗客の安全確保、転覆機関車の監視、乗務員の救出にあたるとともに、他方では事故の通報と救援依頼のために800メートルほど手前の浅川踏切番舎から福島駅の当直助役に連絡を入れ、乗客に依頼して松川駅に応援をあおいだ。その結果、4時40分には松川駅から保線係員や警防団員が現場に到着し、福島からの救援列車が5時6分に金谷川駅に到着して、遺体の収容などにあたった。現場の復旧作業には約21時間を要し、不通区間は丸1日で回復した。

● 松川裁判の第1審は、12月5日に福島地裁で統一公判として始まった。第1回公判で赤間自身が赤間予言・赤間自白を否定したことは、その予言・自白が事件全体に占める重大性からしても、決定的に重要であった。

 検察側の主張する起訴事実(列車転覆致死罪)の基本点は、8月12〜16日に11回の順次共謀(一連の前後関係をもった共同謀議)が行われ、国鉄側3人と東芝側2人が現場付近で落ち合い、17日午前2時ごろから20分余りで、バールと自在スパナ(東芝側の3人が松川駅の倉庫から窃取)を使って線路破壊を行った、というものである。

 しかし、公判を通じて検察側の主張は次々と崩壊していく。

@ 線路破壊の基本と手順を決めたとされる13日〜15日の連絡謀議(国労事務所)の 不存在・両日とも東芝側からは出席不可能(松川で団交などに参加)であった。13日の中心人物とされた国鉄の斎藤千は郡山市署での差し入れ(後出)で不在であり、15日の中心人物とされた国鉄の鈴木信は共産党の活動で不在であった。

A バール・自在スパナ …これらの道具は松川駅構内の保線区線路班倉庫から窃取されたことになっていた。自在スパナでは継目板外し(ナットの緩解)は不可能であり、 本来は別な道具=片ロスパナ(これに補助パイプを継ぎ足すこともある)で緩解し、ボルトはハンマーで打ち出して取り外す。しかし、検察側はあくまでも自在スパナだけによる取り外しを主張した。なお、保線関係者の中には、継目板のナットが緩んでいる場合は自在スパナ(これに補助パイプを継ぎ足せばさらに力が出せる)でも外せる場合があると指摘する者もいる。ただし、現場で発見された自在スパナには使用の痕跡がなく、検察側が主張する「自在スパナによる緩解」は成り立たない。さらに、 自在スパナは、紛失(窃取)を装う数合わせのために国鉄側から警察側に引き渡されていた。すなわち、60年7月5日盗まれたはずの自在スパナが、金谷川村の中心部にあった金谷川巡査駐在所の棚の上から発見された。また、バール(主に犬釘を抜くために使用)にはXY字状の刻みがあり(国鉄のものではない)、草色がかった特殊な塗料(出所は占領軍関係か?) が付着していた。つまり、この2つの道具はいずれも外部から持ち込まれたものであった。現場で使われた道具類はおそらく真犯人の一味が持ち去り、ニセの道具類が玉川警視の予言通りに現場脇の水田から発見された。

B真っ直ぐに跳ね飛んでいたレール(37s×25m=925s) …跳ね飛ぶには両端の継目板を外す必要があるが、バール1本・自在スパナ1挺・5人で30分以内という想定作業時間では1組しか外せないことになる。このため検察側は手前の1組のみを提出し、残りの2組目は第2審第26回公判(52・2・16)に渋々提出した。

C 被告のアリバイ証拠 …赤間の帰宅(現場には行けない)を証明する祖母ミナの証 言調書の改作(祖母の文盲を悪用)、斎藤千の郡山市署行きを示す来訪者名簿の関係分を抜き取って秘匿、鈴木信の活動記録(鈴木ノート)を秘匿、東芝松川工場での団 記録「諏訪メモ」(国労事務所での8・15連絡謀議に出席していたはずの佐藤一が 実際には団交に出席して発言していたことを工場側が記録)を検察側が秘匿していた。

検察側はこうした無実の証拠を隠し、法廷での無実の論証を無視したままで、50年8月26日、死刑10、無期懲役3、懲役15年3、13年3、16年1を求刑した。その後の判決の経過は次の通りである。

第1審(福島地裁、50・12・6)…死刑5、無期5、有期10。被告側が控訴

第2審(仙台高裁、53・12・22)…死刑4、無期2、有期11、無罪3.17被告が上告

上告審(最高裁大法廷、59・8・10)原審破棄・高裁差戻し(評決は7対5)

差し戻し審(仙台高裁、61・8・8)全員(17人)無罪。検察側か再上告

再上告審(最高裁小法廷、63・9・12)検事上告棄却=無罪確定(評決は3対1)

● 1審全員有罪に直面して      挫折からの回生への苦闘

第一審の敗北に直面して、被告・弁護団、そして救援活動は事態の重大さを思い知らされ、活動の全面的な改善が必要となった。

▽ 「四つの誓い」を掲げて  被告たちの決意

 第1審判決の法廷から退廷を命じられた被告たちは、そのまま裁判所内の仮監房に2つに分かれて収監された。彼らは判決への怒りに震えながら、早くも第2審に向かって準備を始めた。そこで確認したのが「四つの誓い」であった。

  第一、第二審では必ず勝つ。

  第二、真実は最後まで守る。

  第三、身体を丈夫にきたえる。

  第四、家族たちをはげまし、共にたたかう。弁護人の労苦にたいしてなぐさめる。

▽「松川事件被害者一同」の名で発表した「全人民に訴う」

 われわれは、全く関係のない事件で逮捕されてから1年3ヵ月、「真実は必ず勝利する」

ことを信じ、判決の本日を喜びをもって出廷した。しかるに日本の現実はどうか。真実が否定されたのであります。われわれは組合運動をやっていたがため、夢にもみたことのない事件で殺されようとしているのです。全国の労働者諸君!世界の人民諸君! われわれは、日本の独立を要求したがゆえに、自由と平和を要求したがゆえに、殺されようとしているのです。

 われわれは無実の罪で死刑の判決を受け、われわれの周囲はピストルと棍棒で幾重にも包囲されているのです。しかし、われわれは世界の平和を、全人民の力を信じています。

 われわれは「真実は必ず勝利する」ことを確信し、最後の一瞬まで闘います。

 真実を守ることは、平和を守ることであり、われわれは世界の全人民の力によって、地球上から真実を奪おうとするファシズムが必ず打倒され、事実は事実として、無実は無実として判決される日の、一日も早からんことを願うものであります。

  1950年12月6日

                              松川事件被害者一同

                              (『松川運動全史』137頁)

▼… 広津和郎「真実は訴える公川事件・判決迫る」

    『中央公論』 (52年10月号)その冒頭部分

 松川事件の第二審の判決が近づいた。

 被告達から第一審の判決の不当を鳴らし、彼等の無実を訴える手紙を貰ったのは、一昨年であったと思うが、正直に云って私は最初はそれ程関心を持たなかった。・…

 大体政治というものについては、左右のいずれを問わず、その消息に通じていない私達は、つい新聞記事に頼って、一つの漠然とした見解を持つようになる。この松川事件はあの当時三鷹事件、下山事件に続いて起った事件であったが、これ等三つの事件の起る暫く前から、日本の各地で共産党がいろいろ鉄道妨害をするという報道が各新聞に頻々として載った。そこに、この三つの事件が起り、それが総て共産党の陰謀によるというように説かれると、私達はついそう信じ勝ちになる。事実私なども一時は「共産党も実に愚かな戦術を用いるものだ。これでは人心が去る事になるだろう」と眉をひそめたものであった。…・

 私が松川事件に関心を持ち始めたのは、第一審で死刑、無期、その他の極刑の宣告を受けた被告達が、獄窓から彼等の無実を世に訴えるために綴った血のにじむような文章を集めて出版した『真実は壁を透して』を読んでからであった。

 この本は私よりも宇野浩二の方が先に通読していた。私がそれを読み始めた話を彼にすると、 「あ、あの事件は全くひどい。無茶だ。あの被告達は可哀そうだよ」と宇野は云った。

 その後で私は全部を通読したが、なるほど、宇野の云う通り、これはひどい事件である。私は傑然とし、且つ烈しい憤りを感じた。

文化人による門田裁判長あて要請書

 仙台高等裁判所 門田実裁判長殿

 日本のみならず世界の注視の的となっているこの世紀の裁判とも云うべき松川差戻し審を担当された貴下並びに陪席裁判官各位の御努力に対して、私共は心からの敬意を表するものであります。裁判の公正こそは歴史の正しい指針であることを信じている私共は、万民の納得できるような判決を下されんことを連署をもって切願する次第であります。

    昭和36年7月24日

 志賀直哉  里見弓享   佐藤春夫  吉川英治  野上弥生子   井伏鱒二  井上靖   

丹羽文雄  宇野浩二  広津和郎

▼   下山・三鷹・松川事件 ・鉄道上の一連の謀略事件

○47年12月13日の正午前、東海道線函南犬二島間(丹那トンネルの西側、三島市の東部)で、下り線外軌(外側のレール)の継目板のボルトと犬釘が抜かれているのが、 沼津保線区に所属する保線区長によって発見された(三島事件)。

○48年4月27日、奥羽本線赤岩〜庭坂間(福島駅西方9キロ付近、現在の福島市西部) で午前O時4分ごろ、上り旅客列車(11両編成)が脱線転覆し、機関車内の3人が死亡した(庭坂事件)。現場は奥羽山脈から福島盆地に下り降りる急勾配・左回り急カーブの難所で、近くに人家はなかった。トンネルの多い山脈越えの場合、機関車の煤煙が運転室を襲うのを避けるために、機関車を後向き(煙突が後になる)にした逆行運転が行われ、そのため先頭になった運転席が真っ先に湿田に突っ込む形になった。カーブ外(右)側のレールの継目板が外され、犬釘が抜かれ、レールが内側にずらされていた。現場では23時ごろに下り貨物列車が56分遅れで通過していた。問題の上り列車は、通常ダイヤであれば23時ごろに現場を通過するはずであったが、手前の米沢駅でのヤミ米一斉検査(列車の遅れを少なくするために通常では10〜15分で終了) のために何故か50分遅れとなり、結果として1時間ほどの空白時間が生じていた。実行犯はこの空白時間を事前に知っていたはずであり、このダイヤ変更の権限はGHQ のCTS民間運輸局)またはRTO (鉄道輸送事務所)だけが握っていた。線路破壊の手口は、その後の松川事件と酷似していた。

○49年5月9日、四国の愛媛県(現在の松山市北部)で予讃線事件が発生した。この日の午前4時20分(夏時間のため現在の3時20分)ごろ、今治と松山の中間付近に当'たる浅海〜伊予北条間(現在の浅海〜大浦間)の小さな岬の付け根の手前で、高松桟 橋発の宇和島行き下り準急旅客列車(7両編成)が脱線転覆した。

○この3つの事件はいずれも未解決に終わった。

 この3つの事件の共通点

@     夜間の犯行、標的は旅客列車 ・目的は犠牲者の大量発生、国民の恐怖と反感の醸成

A     現場は難所で人目につきにくい…犯人の安全逃亡のため

B     B列車ダイヤの急な変更…権限はGHQのCT SかRTOのみ

C犯行時間は1時間以内…比較的少人数で迅速に行動(現場へのアクセスに制約あり) 

Dカーブ地点で継目板を外し、犬釘を抜き、レールをずらす …確実な転覆を狙う

E主たる捜査対象 …共産党員、組合幹部・活動家(事件に政治性を与えるため)

FいずれもCICの重点配備地区 ・:捜査にも関与、地元警察と密接な関係

G犯行に占領軍の影 ・:現場に遺留品(ただし捜査の対象外)

この他にも、48年10月ごろに、札幌〜小樽間の函館本線朝理トンネルの西側(小樽側)出口を爆破して、これを共産党の秘密指令による破壊工作として宣伝しようとする計画(未遂)であり、その構図は下山・三鷹・松川事件に驚くほど似ていた。

●  「評伝 広津和郎」 190pより

 松川裁判に疑念を抱き、友人宇野浩二と共に裁判批判を開始し、 「文士裁判」 「素人裁判」という嘲罵に耐えながら、裁判の誤りを正して行き、最後に無実の人々を救った。ここに「文学者と裁判一広津和郎氏の場合」 (昭33・8・30文化放送)で語った廣津の言葉を引用して本稿を閉じよう。

 「第一審、第二審の判決文に表れているような人間生活に対する考え方でもって、本当に証拠のない人間が死刑にされるということは、もうじっとしていられなかったのです。人はいろんな点で正義感が持てると思うんですよ。戦争なんかしていると、人を殺してもいいという正義感が浮んだりする。それから思想の問題ではイデオロギーが違っていれば相手をやっつけていいと考えている。そういうところに一つ一つ正義感がありますが、そういうものはみんな低い正義感だと思うんです。けれども裁判というものは、われわれの考えられる最高の正義感であってほしいわけです。われわれの考えられる公平、われわれの考えられる最高の正義であってほしいと思うんです。何よりも、裁判の正義はいちばん絶対に近いものであってほしいと思うんです」(本田昇『松川事件と廣津和郎先生のこと 無罪確定30年に』より)

参加者の中には子供のときに偶然、転覆の次の日に通りかかり現場を見た人から、初めての人など沢山の参加者でした。また地元松川からの参加者も多数あり、貴重なお話しを聞くことが出来ました。
参加者全員益々例会への期待を高めあいました。
見学終了後金谷川集会所にて今日の感想等を話し合いました。
塔の裏側に在りました
二度と松川をくりかえさせないために1964年9月12日これを建てる。
碑文は下記↓
松川の塔の遠景
転覆現場と亡くなった方の慰霊塔です
福島大学松川資料室で伊部先生のお話しを聞く、膨大な資料の整理に大変苦労されているようです。
この資料室の管理、運営も大変なようです。国、や大学等でこの資料室を守り存続していけるように、世論を高める必要を感じました。

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2010年3月6日「静かな落日」運営サークルで、、地元でも塔の存在を知らない人や、現地を訪問したことがないという声があり、
記念塔見学と福島大学に在る、松川資料室を、見学することにしました