「そばにいるよ」
yamato×takeru
                     



顔を見るのは、たぶん2年ぶりくらいだと思う。
大学に入るなり一人暮らしを始めた兄を、そのマンションに訪ねたのは一度きり。
それからは、高校生になったということもあって、新しい生活に慣れるのにともかく精一杯で。電話もメールの返信も滞ったままだった。
高一の終わりに何気なく立ち寄った書店で、偶然二人連れのところを見てしまった時は、目も合わさないまま、逃げるように店を飛び出した。
その後。
連絡も取り合わないまま、母から兄がアメリカに留学したと聞かされた時はショックで声も出ず。
しかも、その事実を知ったのも、兄が旅立って随分と経ってからだった。


そして。我ながら薄情だとは思うけれど。
今度は、帰国していたことも知らなかった。
今日。此処に来るまでは。





ガラス張りの礼拝堂は、光に満ちていた。
祭壇の向こうには、青い海が広がっている。
何とも素晴らしい眺め。
3月なのに礼服が暑いと感じるほど、外の気温は高いようだ。
さすが、沖縄。
その青い海よりもずっと深く青い瞳をふと思い出して、タケルの胸の奥はちくりと痛んだ。
もうとっくに過去の思い出の中に封印した筈の想いだけれど。こうして実際本人を前にすると、やはり気持ちは波のようにさざめく。
できれば知らないふりをしたまま、いっそ他人のふりでもしていたかった。

『ねえ、タケル。石田の親戚の結婚式に招待されているのだけれど、急な取材の仕事が入って、母さん、明後日からタイに行くことになったから』
『…なったから?』
『だから、このとおり! お願い、タケル! 代わりに出席して頂戴っ!』
『――はい?』

そう母に両手を合わせて拝み倒されたのは、つい五日前のこと。
なんで今更、石田の方の親戚の結婚式に母さんが招待されるのさ?と尋ねれば(何せ、十年以上前に離婚した父方の親戚である)、父の従兄弟の奥さんとは元々友人関係にあり、今も交友があるらしい。
その息子さんが結婚するというので、二つ返事で式の出席を快諾したらしいのだけれど。
こんな時に限って、他にはどうしても譲れない仕事が入ったのだという。
けれど、それだったら、自分で仕事のスケジュールの方をどうにかすればいいのに、と思ったけれど。そうも言えず。
(相変わらず、そういうことをはっきり言える性格ではないらしい)
特に予定がなかったこともあって、いいけど…と、渋々了承した。
当然、石田方の他の親戚にも会うだろうから、少々気まずい感じはあったけれど。もう父と母が別れて随分になるし。
きっと誰も、僕のことなんか覚えていないだろう。
何せ小さい頃は親戚に会っても、兄の後ろに隠れてばかりいるような子だったから。たぶん印象は薄い筈。
ただ運ばれてきた料理を黙々と口に運んで、しあわせな人たちに拍手と笑みを贈っていればいい。
ただ、それだけ。
そんなにむずかしい事じゃない。
うん。僕にだってできるよ、そのくらいなら。
自分を励ますように、内心で自身に言い聞かせた数分後。
だが、タケルは、猛烈に後悔する羽目に陥った。

『ついでにゆっくりしてきなさいよ。ちょうど春休みだし、卒業旅行だと思って。追加のホテル代とかは私が持ってあげるから。あぁ、一泊分はあちらで出してくれるって』
『え?』
『向こうは暑いくらいらしいわよ。まだ3月なのにねぇ。もう半袖のTシャツで過ごせるくらいなんだって』
『……え、え? あの、母さん。ちょっと待って…』
『あ! おみやげは泡盛がいいなあ』
『え、あの、け、結婚式って…。都内じゃあ…?』
『あら言ってなかった!? それがね、沖縄なのよ!』
『お……』

――――沖縄!?
なんでそんなところまで行って、結婚式!?

それが、今流行りのリゾートウエディングというものだとは。
世間の動きにすこぶる疎いタケルにとって、まさに寝耳に水な話だった。



しかも。
まさか、こんなオプションまでついているなんて。



父も仕事の都合で、止むをえず欠席するかもしれないとは聞いていたけれど。
まさか、代理を立てるなんて。
しかもそれが、あの兄だなんて。
冗談にしても、タチが悪過ぎる。
エイプリルフールにだって、まだ数週間早い。
式の参列者の中に、ひときわ目立つ長身と金髪を見つけた時の衝撃は、タケルの心を大いに揺さぶった。
動揺の余り、沖縄の青い空と海が上下を入れ替えて見え、その場で卒倒してしまいそうだった。
(踏み留まれたのは、奇跡に近い)

あぁ、だけど。
どうしよう。本当。

内心で未だパニックを起こしつつ、前列にいる兄・石田ヤマトの背をちらりと見上げる。
兄は気付いているのだろうか。すぐ後にタケルがいることに。
それとも、まったく気づいていないのか。
もしくは、気付かないふりをしているのか。
もし、後者なら。
自分も気付かないふりのまま、式も披露宴も切りぬけてしまえるのに。
――それにしても、と。
一度落とした視線を上げて、ヤマトの肩のあたりに目線を合わせる。
相変わらずの長身。
高校でもバスケはずっと続けていたから、タケルもかなり背が伸びた筈なのだが。
それでも、兄には未だ追いつけないらしい。
追い越したいと思っているわけじゃないけれど、大学生になったら、せめて肩を並べるくらいにはなるかなあと思っていたのに。
身長差は、2年前と同じくらいでほぼキープされている。
そして、この長身にして、あの容姿。
当然のように、礼拝堂の中でもかなり目立っている。
下手をすると、新郎新婦以上に人目を惹いているかもしれない。
本来ならば、髪と瞳の色のせいで、ヤマトがいなければ悪目立ちするのはかなりの確率でタケルだったかもしれないから。そう考えれば、ある意味、助かったりもするのだけれど。

だけど。
この後。どうしよう。
話しかけられたりしたら。
いったい何を話せばいいんだろう。
今更。


そうこうしているうちに式は滞りなく終わり、礼拝堂から隣接したホテルへと移動する。
披露宴の席は、幸運なことにヤマトとはかなり離れていた。
しかも背を向ける形だったので、タケルは安心して、久しぶりに会う(顔も覚えていない)親戚と談笑し、はなやかな宴と豪華な食事を楽しんだ。
実際は、皿の上を滑るフォークやナイフの動きがぎこちなくなるほどには、動揺していたようなのだが。
兄の存在を意識し過ぎるあまり、それさえ自分で気がつくことが出来なかった。
礼拝堂からホテルへの移動の間も、タケルはひたすら足早で、まるで後方にいる兄の追随を拒んでいるみたいだった。
そのせいかどうだか知らないが、ヤマトの方もまた、自分からタケルに話しかけてくるようなことはなかった。
だから、助かった。
――が。
おかげで、気詰まりだ。
2年振りの兄弟の再会が、こんなだなんて。
傍から見れば、かなり不自然だと思う。
勝手なことをいうようだけれど。
あちらから話しかけてくれたら、それはそれで無視するわけにもいかないのだから。
そうしてくれてもいいのに、というのが、自覚なしの本音かもしれない。
もしそうしてくれたら、取り繕うくらいは出来るのに。何でもないふりくらい出来るのに。
内心で、タケルがそうこぼして重い溜息をつく。
そう、それが出来るくらいには、タケルも大人になったのだ。
だから、構わないのに。
仮にそれが、表面上だけだったとしても。

よく味のわからないまま食事は進み、気がつけば宴もたけなわ。
そして、披露宴も終了し、海岸へと続く階段を降りてくる新郎新婦を外で迎え、ライスシャワーが注がれる。
タケルも拍手で二人を迎えた。
ふと視線を寄越した花嫁に、タケルが「おめでとうございます」と微笑むと、彼女が「ありがとう」と花が咲きこぼれるような幸福げな笑みを浮かべる。
面識はないけれど、彼の両親から話くらいは聞いているのだろうか。
新郎側に立っていた兄は、どうやらもともと交友があったらしく、新郎と固い握手を交わしている。
それをついついぼんやりと眺めていたタケルは、ふいにこちらを向いた兄の瞳に、どきっ!と慌てて目線を逸らした。
心臓が一瞬だけ。胸を突き破りそうなほど大きく打つ。
と、同時に。
ブーケが光の中を飛び、花嫁の友人へと投げられた。
わーっと歓声と拍手が起こる。
その声にはっと我に返ると、タケルもまた、皆に合わせるように手を叩き、笑みを浮かべた。
だけど。
降り注ぐ眩しい太陽の光と青い海は、どうしてだか、タケルを何ともいたたまれない気持ちにさせた。




浜辺で写真撮影が行われる間、ロビーでしばし休憩。
そして、パーティ会場で、着替えを済ませた新郎新婦を迎え、今度は2次会。
なかなかのハードスケジュール。気疲れで、既にくたくた。
軽く頭痛もあったけれど、それ以外に特に断る良い言い訳も思いつかず、結局出席することになってしまった。

まあこういうのも、言ってみればいつものこと。
人の集まる場には、行くのも断るのも苦手。
だから、誘われる度に困惑する。
行ってもつまらないと思うのなら、断ればいい。
断るのが悪いと思うのなら、行って、少しは楽しめるよう努力すればいい。
そうは思うのだけれど。
人間、そうそうには変われなくて。
相変わらず、どちらも上手にはこなせない。
そうして、どっと疲れる羽目になるのだ。

パーティ会場の席について程無くして、、主役の二人を囲んで賑々しく乾杯が行われた。
既に披露宴からアルコールが入っているため、皆、盛り上がるのも早い。
もっとも、タケルはまだ未成年なので、当然口にしたのはソフトドリンクのみ。
実は、いつも帰宅の遅い母が、ごくたまに早く帰って一緒に夕食が取れる時などには、少しだけ晩酌に付き合ったりもしているのだけれど。
どちらかといえば体質的に、アルコールは得意じゃないらしい。あまり美味しいとも思えない。
「ねえねえ」
「…え!?」
突然、目前ににゅっと顔を近づけられ、タケルはぎょっとしたように上体をやや後ろへとのけぞらせた。
「やだなあ、そんなに驚かなくてもいいじゃない。ね、キミ、大学生?」
「え、あ、そうです、けど」
まだ3月のうちは高校生の筈、と続けようとした言葉は、あっさりと遮られた。
「ねえ、隣。いいかしら」
「え! えと、あの」
「私も私も! きゃーん、かわいい!」
「じゃ、私は前陣取っちゃおー」
「え、あの」
答える間もなく、花嫁の友人らしき女性がグラスを抱えて両側と向かいの席に腰掛け、露出の多いドレスで誘惑するように接近してくる。
なんというか。
まさしく、逃げ道を断たれた感じ?
内心でたらりと冷や汗を流しながらも、かと言って、即座に"じゃあ僕はこれで失礼"と立ち上がるワケにもいかず。
なんとか適当なところで言い繕ってホテルの部屋に戻ろうと、早々に画策しながら、ひきつり笑いを浮かべつつ、ウーロン茶のグラスを口許へと運ぶ。
助けを求めるというわけでもないけれど、ちらりと奥の席の兄を見遣れば。
あちらはまた、こっちよりもさらに大勢の美女に回りを取り囲まれ、機嫌よくグラスを傾けている。
まるでそういうお店みたい。
やや嫉妬も含まれているような呟きを内心で漏らし、諦めのような溜息を漏らす。
(兄さん。バンドやってた頃から、すごくモテたからなぁ…)
考えて、ちくりと胸の奥が痛んだ。
古い噂話を、つい思い出す。
(そういえば、空さんと別れる度。とっかえひっかえ色んな人と付き合ってたって聞いたけど…)
もっともそれが噂だけじゃなく、事実だったこともタケルは知っている。

その中の一人に。
自分がいたことも。

胸をせり上がってきた苦い想いに、タケルはきゅっと唇を噛んだ。
もうとうに忘れたと思っていたけれど。
いや、本当に忘れていたのだ。
過去のこと、過去のこと。
自身に暗示をかけるように、胸で呟いているうちに、本当に。
当時の記憶も想いも、もう忘却の彼方。
もう済んだ事だ。まだ子供だった頃のこと。一時の気の迷い。
そう自分に思い込ませた。

一度目の後。拒絶したのは自分。
そして。
ニ度目の後。逃げたのは兄。
そう、だから、お互い様。

決着のつかなかった想い。
だけど今更もう、どう決着をつけるというものでもない。
どうにもなりはしない。

それに。
――結婚するのだと噂に聞いた。

相手までは知らないけれど、もしもそのために帰国したのだとすれば、たぶん相手は空に間違いないだろう。
二人は中学の頃から、幾度か別れたり、よりを戻したりしながら付き合っていて、ヤマトが留学した後もその留学先にまで会いにいったらしいと、太一から聞いた。
なら変わらず、今も付き合いは続いているのだろう。

――だったら。
もしかしたらヤマトは、今日の花嫁に、空の花嫁姿をダブらせて見ていたかもしれない。
自分の花嫁となる、彼女のウェディングドレス姿を。

「ねえ、タケルくんってば!」
「えっ」
親しげに耳元で名を呼ばれ、タケルははっと現実へと意識を戻した。
どうやら、ぼんやりしたまま彼女たちと会話を交わし、いつのまにか名前まで教えたらしい。
「あの人ってさあ」
「あの人、って?」
「ほら、奥の金髪の」
指差された方向を見て、ぎょっと固まる。
慣れた手付きで酒の入ったグラスを口許へと運び、美女たちと談笑する兄を一瞬瞳に捉え、タケルはすぐさま視線を逸らせた。
「う、うん」
「タケルくんと、どういう関係?」
「ど、どういうって」
「二人、なんかさぁ、似てない? 髪の色もそうだけど、キミたち、瞳の色まで一緒でしょ? カラコンじゃないみたいだしー」
「タケルくんはぁ、もしかして、ハーフとかクォーターだったりするの?」
「あ、はい、実は」
「わ! やっぱそうなんだ〜!」
「祖父がフランス人で」
「フランス! うわー、それ、なんかスゴクない!?」
「いや、別にすごいってことは」
「うそ、凄いよソレ!」
「あれ? ってことは、じゃああっちの彼もそうなの!? タケルくんとは従兄弟同士とか!?」
「あ、従兄弟じゃないけど」
「えー、じゃあどういう関係?? ねぇねぇ、もっと詳しく聞きたいわぁ」
「そろそろココもお開きになるし、この後、私たちのお部屋にこなーい?」
「…え!」
いきなり首に廻されてきた細い腕に、タケルがますます硬直する。きつい香水の匂いに頭がくらくらした。
「こらこら、あんたたち。健全な青少年をたぶらかしちゃだめよー」
向かい側の女がたしなめるように言いながらも、テーブルの上のタケルの手にそっと掌を重ねてにっこりする。
目が逃げられないわよ?と言ってるようで、相当こわい。
「だってタケルくんってば、大人しくて超可愛いんだもん! こういう子、最近なかなかいなくてさぁ」
「本当イイよねぇ。もー、おねえさん、今すぐココで食べちゃいたいっ」
「うわ! あの、ちょっと待…!」
思いの外強い力で引き寄せられ、タケルが赤面しながらも、なんとか身を離そうとわたわたと藻掻く。
近づいてきた赤い唇に、本当にがりがりと食べられてしまいそうな気がして恐ろしかった。(事実食べられた経験アリ)
「さ、行こっv お部屋で飲み直して、もっといろいろお話ししましょーよっ」
「なんなら、あたしたちの部屋にそのままお泊りしてもいいわよーv」
耳元で囁かれた台詞に、思わずタケルの背に悪寒に似た戦慄が走った。
それが何を意味する言葉かなんて、タケルにだって、さすがにわかる。もう子供じゃないんだから。
(一番最初はわからなくて、気がついたのは事に及んでからだったけれど)
「あの、僕。ちょっと、さっきから頭痛がしてて、すみませんが、あの。自分の部屋で休…」
「なら、私たちの部屋で休んだらいいわよ。ちゃんと看病してあげるから、心配しないでv」
「や、あの! 困ります、僕…!」
「きゃ、"困ります"だって! あぁんもう、かわいいわ、この子ったら!」
「ちょっ! やめ、どこさわって…!」
「やん、そんなこわがらないでよv 大丈夫、やさしくするからv ねえ… ――痛っ!?」
突然、強い力でタケルに抱きつく腕を剥がされ、女が悲鳴のような叫びを上げた。
タケルが、女が見上げると同時に、一緒になって頭上を仰ぐ。
長身が上から影を落とすように、タケルたちを見下ろしていた。

「すみません。弟が気分が悪いようなので、俺がつれて行きます」

「えっ?」
「来い、タケル」
「え、ちょ、ちょ、ちょっとあの…!」
放り出すように女の腕を離し、面食らっている彼女たちを完全無視して、タケルの腕をぐいと掴んで歩き出す。

「――に、兄さん…!?」

「「兄さん!?」」
兄弟だったの!?という驚愕の叫びを背中で聞きながら、兄に腕を掴まれ、引きづられるようにしながら、パーティ会場を後にした。
「あの、兄さん。う、腕、いたいよ」
何も言ってくれない兄に、何と言っていいかわからず、怒っているような背にタケルがか細く訴えるように言う。
その声にやっと立ち止まり、ヤマトがタケルの腕を解放したのは、エレベーターホールに辿りついてからだった。
「お前は、相変わらず…」
背を向けたままの声は、ややくぐもっていてよく聞き取れず、タケルが不安げに問い返す。
「兄さん…?」
「お前な…! 嫌なら嫌って言えよ! なんでそのくらいのことが言えねえんだよ!」
「――え…」
肩ごしに振り返るなり怒鳴られて、タケルがびくりと背をこわばらせ、呆然と瞳を見開いた。

―どうでもいいけれど。
2年振りに再会した、第一声がそれって。
なんだか、酷くない?

どこか冷静に心で呟き返しながらも、表情は固まったまま。
そんなタケルの顔に、ヤマトは苛立ちを押さえ切れないように、薄い両の肩を掴んでホールの壁へと押しつけた。
「聞いてるのかよ!」

うん。聞いてるよ。
兄さんの声だなあって。

ぼんやりとした頭の中で、そう答える。
言葉の中身より、現実にそこに兄がいるんだということが、タケルには不思議な感覚だった。
ついさっきまで、視線さえ合わせなくて。
そこにいるのに、お互い、見えていないみたいな。
そんな時間の緊張が長く続いたから、どうやら感覚が麻痺しているみたいだった。
麻酔を打たれて傷口を開かれているように、血は流れているのに痛みはない。そんな感じに近い。
「あんな女共に、べたべた好き勝手にさわらせてんなよ!」
まるで自分のものをそうされたみたいに、悔しげにそう言った後。ヤマトはぎゅっと身体の横で拳を握ると、口を噤んだ。
2年振りの再会でこれはないと、さすがに自分でも気付いたらしい。
己を落ちつかせるように、数度深く呼吸する。
そして、悪い…と消え入りそうに呟くと、そっとタケルの肩から手を離した。
兄の体温が離れてやっと、タケルの胸がどきどきと急速に高鳴り出す。もしかすると、ついさっきまで驚きの余り、止まっていたのかもしれない。
そう思うほど、それはいきなり主張を始めたので、タケルは俄に呼吸をするのもやっと、という状態に陥っていた。
あっという間に顔色が悪くなっていく弟に、ヤマトが驚いたように、恐る恐る白い頬へと指を伸ばして訊ねてくる。
「大丈夫か? その、いきなり怒鳴ったりしてすまなかった…。俺が脅かせちまったからか?」
「…あ、ううん。大丈夫だよ。ちょっと目眩がしただけだから」
声はかすれ気味。やや上擦ってはいるものの、だけど、喉に詰まったままにならなかったのは幸いだった。
思いのほか滑らかに言葉が出て、自身で驚く。
「ええと…。部屋、どこだ? 何階?」
「十二階、だけど。あ、一人で戻れるよ。それくらい平気」
「平気じゃねえだろ。まだふらついてる。危ないから、部屋まで送ってくって」
「でも…」
大したことないからと言おうとするなり、膝がかくりとなり、それもまた自身で驚く。
口が滑らかだったのとは裏腹に、身体はてんで言うことをきかなかった。
膝を折って、まるで兄の腕の中に倒れ込むようなカタチになって、タケルの胸がさらに痛いほど早鐘を打つ。
そんな動揺を知ってか知らずか、相変わらずの痩身を腕に抱きとめると、ヤマトは弟を一度包み込むように抱きしめた。
腕の中で、タケルの身体が尚、緊張する。
ヤマトは、身を強張らせるタケルの耳元に唇を寄せると、まるでそれを解く呪文のように、昔聞いた覚えのある懐かしい言葉を口にした。
「タケル。…送らせろよ」
低音は、タケルの鼓膜を甘く震動させた。




抱きかかえられるようにしてエレベーターに乗せられ、ヤマトの指先が階を示す数字を辿る。
無言のまま上昇する箱は、どの階にも止まることなく、まっすぐに十二階をめざし、停止した。背を兄の手に促され、開いた扉を出て、そのまま長い廊下を歩く。
そして、辿りついたのは、タケルの部屋よりもいくつか手前の番号の扉の前だった。
「ここ?」
「俺の部屋」
「…え?」
どうして?と問う間もなく、ヤマトがカードキーで扉を開き、タケルを室内へと招き入れる。カードキーが壁面のポケットに差し込まれるなり、暗かった室内に明かりが灯った。
タケルが、明らかに戸惑った顔でヤマトを見上げる。
「どうして、兄さんの部屋?」
「手違いでさ。ツインの部屋なんだよ。だからお前、いっそ、ここに泊まってけば?」
「え…?」
「だいたい、そんな状態のお前を一人きりにしとけねえだろ」
確かに、そう言われればそうなのだけど。
やや強引な兄に、相変わらずだなぁと、タケルが内心で苦笑を漏らす。
タケルにしてみれば、実はこれくらいの目眩は日常茶飯事。
しかも、ほとんどが自宅で一人きりの時に起きるので、慣れっこといえば慣れっこだ。
だから、一人でも全然大丈夫なのだけれど。
だけど、それを言うともっとややこしいことになりそうなので、タケルは黙っておくことにした。
兄の心配性は変わらず健在で、それはタケルにとっては、ちょっとくすぐったく、嬉しいものだったから。
「あれ? 顔、さっきは真っ白に見えたけど、今は赤いな。…熱でもあるのかな?」
言うが早いか、大きな手のひらが額に乗せられて、タケルがさらに真っ赤になる。
熱の原因は、間違い無く、兄さん。
そう言いたいけれど、勿論言えず。
心配そうな顔をされて、少し困る。
「やっぱ。ちょっと熱あるかな?」
「ないってば、大丈夫。火照ってるだけだから。冷やせば平気」
そう返して、タケルは窓の方に視線をやると、自身のシングルよりは断然広い部屋を横切り、バルコニーに続くガラス戸を開いた。
少し開いた隙間から顔を出し、顔の火照りを風で冷ます。
「そういう冷やし方かよ」
笑いを含んだ声で呆れたようにヤマトが言い、それにほっとして、タケルは兄を振り返った。
「風、気持ちいいよ。波の音が聞こえるし。外に出てみてもいい?」
「あぁ。もう暗いし、足元気をつけろよ」
「兄さん、僕、もう小さい子じゃないんだから」
苦笑混じりの抗議に笑みで返し、ヤマトがやっと表情を崩したタケルに、同じく安堵したような顔になる。
「あ、外にテーブルあるだろ? 何か飲むか? そこまで運んでやるよ」
「本当? うん、じゃあ、そうする」
嬉しげに返ってきた答えに満足げに、ヤマトが冷蔵庫を開いて飲み物を物色する。
「ウーロン茶にコーラにオレンジジュース、サワーにビール、お、ワインもあるぞ。…って、そうか。お前、まだ未成年だから酒は駄目か」
「うん、でも少しなら飲めるよ」
「ええっ!」
「って、そんなに驚かなくても」
そんなに真面目そうに見えるってこと?と不服げに唇を尖らせるタケルに、悪い悪いと笑みを返して、じゃあワインでいいかと、ヤマトが目配せ付きで問いかけてくる。
それに応えようとして。
いいの?と、タケルが胸で自身に問いかけたのは。
アルコールのことではなく、ここに滞っていていいのだろうか、ということ。
だけど、それに対する内部での返答を待つまでもなく。タケルは、兄に向かって、うんと頷き返していた。
それを確かめて、ヤマトがワイングラスとハーフボトルのワインを手に持ち、外に出ると、バルコニーのテーブルへと置く。
グラスにワインを注ぐと、椅子を引いて、腰を下ろした。
「ほら。お前も坐れよ」
「うん」
向かい合って腰掛けるなり、ヤマトから、ワイングラスが手渡される。
「じゃ、乾杯でもするか」
「うん、そうだね」
「何に?」
「そりゃあ。挙式を上げた、しあわせな二人にね」
告げるなり、幸せな二人のイメージが、タケルの中で、目前の兄と空にすり変わるけれど。
胸の苦さと痛みに耐えて、懸命に微笑む。
ともかく、今は考えない。
せっかく、二人でいるのだから。
こんな機会ももう、二度とないかもしれないのだから。
過去も未来も全部忘れて、今だけ。
今だけだと思えば、きっと何も怖くないから。
「何か、こじつけっぽいけどな」
「そう? じゃあ、何に?」
「そうだな。――じゃ、俺とタケルの再会に」
「…え」
「乾杯!」
きれいな澄んだ音をたてて合わされたグラスに、やや遅れて、タケルも呟く。
「――乾杯…」
そして、ワイングラスを口に運ぶ。
やや辛口の白はきりっとしていて、口の中がすっきりするみたいだった。
「美味しいね」
「ああ、結構美味いな…」


そうして、ニ言三言交わした後は。
しばし、無言。
沈黙を守るみたいに、ひっそりと、息を潜めるように、夜の向こうに静かな波の音を聞く。


もう眼下の海も真っ黒で、浜辺との境界さえもわからないけれど。
朝になって日が昇れば、このバルコニーからの眺めはさぞや素晴らしいことだろう。
明日の朝、青い青い海を、兄とこの場所に並んで見られたら。
もう思い残すこともなくなるだろう。きっと。

だから、今は。
今だけは。


切ない胸のうちに、呟きを落とせば。
少しずつ。
時間が、戻って行く。
過去へと。
忘れていた記憶が甦ってくる。
同時に、忘れられるはずのない想いも。

もう、たぶん。
遅いのだけれど。
今、気付いても仕方がないけれど。

今でも。変わり無く。
ずっとずっと想っている。
絶対叶えられないと知っているけれど。
それでも構わないと思うほど。
苦しいくらい。泣きたいくらい。
今も、好きだ。


――おにいちゃん……。


そう呼んでいたころから始まった、苦しいだけの片想い。
それがいきなり現実味を帯びたのは、タケルが十四の時。
当時高2だった兄が、ずっと中学の頃から付き合っていた、武の内空と別れた直後。
誘われるままに父と兄の住むマンションに泊まる事になり、父から仕事で今夜は帰れないと電話が入った時には。
既に、どこかで予感していたかもしれない。
――兄はその日、明らかに、いつもの兄とは異なっていた。
行為は、それこそ無理矢理に近かったけれど、タケルは酷く拒んだりはしなかった。
知識も充分じゃなかったし、怖くなかったといえば、嘘になるけれど。
求められたことは、嬉しかった。
たとえ、兄が空と別れた直後で、投げやりになっていたのだとしても。
ささくれだった兄の心を一時でも、少しでも自分が慰められるなら、それでいいと思った。
それだけで。

そして。
その後は、きれいに拒絶した。

まだ甘く求めてくれる兄を拒絶するのは、苦しくて堪らなかったけれど。
血の繋がった兄に恋をして、それが幸福な結末に結びつくなど、どう考えたって無理だと知っていたから。
自分はともかく、兄まで不幸に堕としたくはなかった。
ただ、その罪の重さが怖かっただけかもしれないけれど。
現実から、逃げたかっただけなのかもしれないけれど。

今まで通り、何ごともなかったように兄に接し、普通の兄弟に戻るべく、タケルは最大限の努力をした。
差し伸べられる手を拒むことは、血を吐くようにつらかったけれど。仕方がなかった。
兄はそんなタケルの態度に、"どうしてなんだ!"と激しい憤りをぶつけてきたけれど。
何度口説かれても言い寄られても、どうあっても平然とした態度を崩さないタケルに、いつしか兄も諦めたように、また兄弟として接するようになっていった。


そうして、しばらく会わない日が続いた後。
ある日、ヒカリに、兄が空と寄りを戻したらしいと聞いた。
タケルは、「そう、よかった」と。
本当によかった、と元サヤにほっと胸を撫で下ろして。
幾晩も幾晩も、枕を噛んで鳴咽を殺して、涙を流した。


大学に入って、兄が一人暮らしを始めたと聞いた時も、空と暮らすためだろうと思っていた。
確かめる勇気はなかったけれど、母から祝いを託されたので、それを理由に会いにいった。
一緒に夕食を取り、泊まっていけと言われた時は、正直、覚悟もしていたけれど。
再びそうなると、わかっていたけれど。
ただ、今度こそはっきり、自分の気持ちに決着をつけたかったから。
結局。あの後もずるずると3年も、やはり兄を忘れられなかった自分の気持ちに、今度こそ潔く最後を突き付けるつもりだったから。
タケルは、求められるままに兄と関係をもった。

そして、その後は。
お互いに、連絡を取り合うこともしなかった。
自分から連絡を取るつもりは最初からなかったけれど、一度目の時と違って、兄の方からもまるっきりアプローチがなかったことに、タケルは少なからずショックを受けた。
そして、心のどこかで、また兄が自分を追いかけてくれるのではと期待していた自身に気付いて、嫌悪さえ覚えた。

そうして、さらに1年以上が経った頃。
兄が、もう日本にはいないという事実を、やっと知った。

それから、数週間。
タケルの胃は食物を一切受けつけず、食べては嘔吐の日々が続いた。
もともと細かった身体は、あっという間にげっそりと痩せこけ、母は慌てて神経内科へとタケルを連れて行ったのだった。



――そんなことがあった兄が。
今。目の前にいる。

そして、その兄を目前にしても、ごく自然に微笑んでいる(そのはずだ)自分がいるのもまた、とても不思議だ。


これが、時の流れがもたらした産物なのだろうか。
自分も少しは大人になったと、そういうことなのだろうか。
そういえば。
兄は、かなり感じが変わったような気がする。
ぴりぴりしていたところや、尖っていたところが丸くなり、随分と雰囲気がやわらかくなった。
大人びた、というのが丁度良い表現かもしれない。
留学して、異国の人や空気にふれて、何か思うところがあったのかもしれない。
それとも、ついに身を固める決心をした、その決意の表れなのか。


「さっきは、その」
「えっ」
ようやく沈黙を破るように、ヤマトが口を開き、タケルがはっと顔を上げた。
「いきなり、怒鳴って悪かったな」
「あぁ…。うん。ちょっとびっくりした、けど、僕もいけなかったし」
素直に認めて肯くタケルに、ヤマトが苦笑混じりに返す。
「まあなあ。けどお前、マジで気をつけろよ。あんな怖いお姉さん達についてったら最後、それこそ部屋に連れ込まれて、さんざんいいように食い散らかされるだけだって」
「食い…」
「女ってのはな、お前は知らないかもしれないけど、そもそも恐ろしいイキモノなんだぞ」
しみじみと言うヤマトに、タケルがやや眉を下げて、問い返す。
「…それ。実体験から?」
「あ〜。まあ、そうとも言うかな。特にアメリカの女はなぁ」
「…凄いんだ」
「え? あ? っつうか、お前。意味わかってるよな」
バツが悪そうに頭を掻くヤマトに、タケルがくすくすっと笑んで肩を竦める。
「そりゃあ。僕だって、いつまでも子供じゃないんだから、そういう話くらいはするよ」
「友達とか?」
「そう。女の子の話とか」
もっとも、そんなに興味があるわけじゃないけれど。
と、付け加えるのは胸の内で。
ヤマトがそれにやや渋面を作って、まるで内緒話のように、タケルに顔を接近させて小声で訊ねた。
「…お前、その。今、付き合ってる彼女とか、いるのか?」
「えっ。や、今はいないけど」
「今はってことは…。前はいたのか?」
躊躇いがちなさらなる問いにも、うんと平然とタケルが応じる。
「高3になってすぐ告白されて、付き合ったんだけどね。3か月くらいしてからかなぁ。あっさりフラれちゃった」
「はあ!? 俺の弟をフるたぁ、とんでもねえ女だな! そんなヤツ、やめとけって。別れて正解だよ、お前」
「うーん。でも、その後も、いろいろ付き合ったりしたんだけど。やっぱり続かなくてねー。『タケルはどうしてメールにすぐ返事くれないの?』とか、『ほんとは好きじゃないんでしょ、私のことなんて』とかって、彼女に叱られてばかりで」
「何だそれ。ていうか、別に無理に付き合うことないだろ。そんなのと」
「そうだねえ。でも、付き合ってるうちに、その子のこと好きになるかな、好きになれたらいいなって思って付き合うんだけど。どうもね。うまくいかなくて。たぶん、そういうんじゃないんだね。きっと」
思い返すように伏し目がちになり、タケルがしみじみとそう呟く。
「兄さんみたいに、ずっと一人の人のこと想えるのって、ちょっと羨ましいかな」
「…タケル?」
どこか淋しげな呟きに、ヤマトの声のトーンが落ちる。
タケルは、たぶん無意識に、くっと唇を噛み締めた。
胸の奥が、鋭利な刃物で抉られているように、きりきりと痛む。

それでも、確かめずにはいられなかった。
だって、それが事実なら。
結婚が本当なら。
――祝福しないわけにはいかないのだから。

「あの、ね。兄さんの式の時には、僕も勿論呼んでくれるよね? あ、母さんも」
「……え?」
「なんかさ、結婚式っていいよね。する方も、祝福する側も幸せになれるっていうか」
「え? あぁ」
「あ、まだ日取りとかは決まってないのかな?」
「は?」
「やだなあ。隠さなくってもいいじゃない。あ、もしかして、兄さん、照れてるの?」
「…なんの話だ、それ」
「あれ? それとも、サプライズにしたかったのかな? あ、じゃあ僕、失敗しちゃった??」
視線を泳がせるようにしながら、早口で捲くしたてるタケルに、ヤマトがいぶかしむように眉を潜めさせる。
「待てよ、タケル。意味判んねえって」
「ごめん、でももう、僕、聞いちゃったんだ。日本に帰ってきたのも、ご両親へご挨拶とかあるからなんでしょ」
「――はぁ!?」
「だから、僕。祝福しなくちゃって、兄さんにおめでとうって言わなくちゃって…!」
「タケル! ちょっと待て! 勝手に何言ってんだよ」
「だって、やっとだもん、ずっと空さんのことだけ、兄さんは、思い続けてきたんだし、だから…」
「おい、聞けよ、タケル!!」
椅子を蹴り倒すようにして立ち上がると、ヤマトが両手にタケルの細い手首を強く掴んで引き寄せた。
タケルの青い瞳が、怯えたように震えて俯く。
掴んだ手首も、ヤマトの手の中でぶるぶると震えていた。
現状を把握できないまま、それでも堪らず、ヤマトが腕の中へと震える痩身を抱き締める。
途端に、こらえきれず、噛み締めたタケルの唇から鳴咽が漏らされた。
「…っ」
「タケル…っ」
「――ごめん、ごめん、兄さん…」
強く名を呼ばれるなり、大粒の涙がタケルの瞳を溢れる。
「…ごめん、僕。今日の結婚式に出て、きっと…。きっと実感しちゃったんだね、淋しいって…。たった一人の兄さんが、結婚するって…。なんか、淋しくて……。でも、祝福しないとか、そういうんじゃないよ? そういうんじゃなくて……」
震える涙声で告げるタケルに、ヤマトが苦しそうな表情で、なおもきつく、細い身体をしっかりと腕の中に抱き寄せた。

そして。
宣言は、唐突に。
きっぱりと。
タケルの耳にしっかりと届くように、唇を近づけて成された。

「俺はしないよ。結婚なんて」
「…え?」
「空とも、誰とも、結婚なんてしない」

明確にされた事実に、タケルの瞳が見開かれたまま、ゆっくりと兄の瞳を見上げる。
涙に濡れた瞳に見つめられ、ヤマトが困ったように笑んだ。
「まったく。早合点もいいとこだぞ、お前」
「え…。でも」
「どこでそうなっちまったのか、さっぱりわかんないけどさ。今後そういう予定もないし、もっと言うなら、一生するつもりもない。いろいろさんざん考えて出した結論だからな。もう変わらないと思うぞ」
「だ、だって、だって…」
「2年、日本離れてたのは、その…。カッコ悪い話だけどさ。失恋の痛手を癒すため、っていうか」
「――え。兄さん、空さんにフラれたの…?」
茫然としたまま発せられた呟きに、ヤマトがおいおいと眉を顰め、苦笑を漏らす。
「つうか、それ以前にだな。空とはもう高2の途中に別れたっきりだって。その後は一緒に居ても、一回もそういう関係になったことはねえし。今はいい友人って感じだな」
「…だって、空さん。アメリカに、兄さんに会いに行ったって…」
「あぁ。確かに向こうで会ったけどな。空が会いに来たのは、俺じゃなくてミミちゃんにだぞ。俺はついでに呼ばれただけだ」
「――え…」
ぽかりと瞳を見開いたまま、まるで放心状態のようなタケルを見下ろし、ますます以ってわかんねえと眉を顰めさせ、ヤマトが深々と溜息を落とした。
「あぁもう。どこでそういう話になっちまうんだよ。まったく、いないうちに何言われてるんだか、俺」
「…あの」
何か訊ねたそうに、未だ自分を見つめたままの弟に、ここまで話せばついでだとばかり、ヤマトがグラスに残っていてワインを一気に飲み干し、コホンと一つ咳払いをする。
「この際だから。酒の勢いでぶっちゃけた話するとだな。俺、高2の時にお前にフラれて荒れまくってさ。挙句、まぁヤケクソみたいにいろんな女、とっかえひっかえ付き合って、結局、空と寄り戻したりもしたけど。やっぱりうまくはいかなくて、すぐ別れて…。大学入って一人暮らし始めてすぐの頃、お前、訪ねてきてくれたことあったよな? あの時、俺、もう最後にするから、絶対これ以上言ってお前困らせたりしないからって約束で、その…。お前と寝たけど、だな。やっぱ、どうしてもお前のこと、忘れられなくてさ。それでこの際、日本離れることにして留学決めて。で、やっとふっきれた気分で帰ってきたってのに。帰国するなり親父に、親戚の結婚式、仕事で出られなくなったから代わりに行ってくれって泣きつかれてさ。タケルも母さんの代わりで出席することになったらしいけど、あいつ一人じゃ可哀想だから、お前行ってやれって。まーったく、都合のいい事ばっか言いやがって、親父のヤツ――。ま、それでも、普通にしてりゃいいか。本当にふっきれたんならどうってことないか、とかって。自分に言い聞かせて来たものの。…参った。お前、それ反則だって」
指先で額をこづかれるようにされて、タケルがきょとんと首を傾げる。不思議そうに、瞳をしばたたかせた。
「…反則って、何?」
「ますます俺好みに育っててくれちゃって! もう眩しくて、ろくに目も合わせられませんでしたよ、俺は!」
その言葉に、さらにタケルがきょとんとなる。

じゃあ。
じゃあ、全然見ようともしなかったのも。
まったく知らんぷりだったのも。
そのせい??

だけど。
お前にフラれたって、何。
そんなつもりは、ないし。
そんなこと、知らない。
でも。
そういえば。
最初の時も。

確かに。
『好きだ』っていわれた気がする…。

だけど、信じなかった。
信じるのがこわかった。
本気だと信じて、そうじゃなかった時のショックを想像したら。
信じるなんて、どうしても怖くて出来なかった。
だから。
代わりでいい、って。
その方がいいと、自分に思い込ませた気がする。

あぁ、そういえば。
二度目の時も。
たぶん、好きだって言われた。
忘れられないって。

でも、やっぱり信じなかった。
そんなはずはないと思いたかった。
その言葉をもし信じて、
そのうち、別の誰かを好きになっていく兄を、
そんな兄を見るのが、どうしてもつらかった。
だから、信じるわけにはいかなかったのだ。


そうして、すべては忘却の彼方。
想いも、真実も、すべて――。
記憶の箱に鍵を掛け、封印した。



「あ! 別に、今更お前を困らせる気はないんだ。だから、聞かなかったことにしてくれていい。何せ俺、ほら、酔ってるしな」
「――あの、兄さん。それって、もしかして、僕のこと…?」
まるで、今初めて告白を聞きました。とでも言いたげな、さも驚いた表情で固まるタケルに、ヤマトがやれやれと困った顔で頭を掻く。
「おいおい、まさか知らなかったとか言うなよ。俺、何回も言ったじゃん、好きだって。けどお前、全然信じてくんなくてさ。初めての時なんか、空さんの代わりでいいとか、慰みモノでいいとか言うんだもんな。俺、あの時はさすがにブチ切れたぞ」

『なんでわかんないんだよ! 俺はタケルが好きだって言ってるじゃんかよ! それを、慰みモノって何だよ!』

「――あ…」

「思い出したか?」
呆れたように言われて、タケルが震える両手で口を押さえた。狼狽に、声も震える。
「僕は…怖かった」
「ん…?」
「怖くて。だから、拒絶した、んだと思う…」
「何が怖いって?」

愛されることが。
愛されることに、自信のない自分が。
そして。
いくら、好きでも。
やっぱり。
『兄さん』、だから。

「…だって…。ごめんなさい」

言葉にするには苦しすぎる想いを察して、ヤマトの手がタケルの後頭部を包んで、自分の肩口へと引き寄せた。
踏みとどまらなければいけない想いだということは、嫌というほどよくわかっている。
だけど、もうそれすら不可能なことも、この何年かで思い知った。
――お互いに。
唇を一度きつく噛み締めて、タケルがやっとの思いで、ずっと言えなかった言葉を口にした。
今伝えなければ、もう一生無理な気がしたから。

「ずっと苦しかった。…でも、ずっと好きだったよ」

「俺…?」
「うん、兄さんのこと。ずっと。――今も」
「本当に?」
「うん…」
強く肯くなり、やっと告げることが出来た安堵感に、また涙が溢れた。声が漏れる。
しゃくりあげる背中をぽんぽんと叩いてあやすように宥めて、ヤマトの手が金色の髪をそっと撫でた。
――突然の、『両想い』。
ずっと想い続けた挙句、やっと一方通行ではなくなった想いに、だけども、まだ実感が湧かなくて、どう応じていいかわからない。
控えめな告白は、ヤマトの胸にとんでもなく大きな感動の嵐を巻き起こしているけれど、その激情にまかせて、また傷つけてしまうのは怖かった。
腕の中で泣きじゃくるタケルが落ち着くのを待って(無論自分も)、涙で冷えた頬を両手に包んで、ヤマトは愛おしげに笑んで告げた。
「あのさ、タケル」
「…ん」
「一人暮らししてたマンション、留学する前に引き払っちまったから。住むとこ、これから探すんだけどさ」
「うん…?」
「一緒に探すか?」
「兄さん…?」
「一緒に住もうぜ?」
「――え…」
驚きのあまり、返事さえも忘れて硬直するタケルに、ヤマトが苦笑しながら、さらに言葉を連ねる。
「何かその。このまま東京帰ってまたあんまり会えなくなったら、お前、俺のこと忘れちまいそうだしさ」
「え、そ、そんなこと」

ないよ、とは。
さすがに断言できないけれど。
というより。
確かに、あれは旅先での一時の気まぐれ、とか思い直してしまう可能性はゼロじゃない。否めない。
(というか、もしかしなくても、その可能性の方が大きい気がする)

「これからは、お前に負担にならない…っていうか、タケルが苦しくない付き合い方でいいから。けど、嫌じゃないなら、俺は、ずっとお前と一緒にいたいよ」
「…兄さん」
「そばにいてくれたら、それだけでいいから」
や、ちょっとクサかったか?と照れ臭そうに頭を掻くヤマトに、涙でぐちゃぐちゃになりながら、タケルが笑む。
「兄さんってば。なんだか、プロポーズしてるみたいだよ、それ」
「…いや。つうか、プロポーズしてんだけど」
「へ…?」
完全に裏返った声を返され、やれやれ、お前は、ホントにわかってないんだからと、肩を竦めながらヤマトが笑う。
「返事は? タケル?」
「え…。ええっと」

今も、自分に自信なんてない。
愛されることは、やっぱり怖い。
幸福感の持続は、きっと自分には難しい。
明日くるかもしれない破綻の日を想像して、きっとまた不安にかられる。
そんな日が続くだろう。
だけど。
差し伸べられた手を、むやみに拒むほど、もう子供じゃない。
その手がずっと欲しいと望んだものなら、なおさら。
簡単に手放すほど、もう愚かじゃない。

だったら。
勇気を出して。


「うん。僕も、一緒にいたい」


そう、はっきりと告げると。
今まで誰にも見せたことのないような、咲きこぼれる桜の花のような、幸福げな笑みをたたえ。
タケルはゆっくりと、まるで祭壇の前の花嫁のように、悠然と毅然と、差し伸べられたヤマトの手に向かって、腕を伸べ。
大きくあたたかな掌に、そっと自分の掌を重ねた。


「ずっと。
ずっと、おにいちゃんのそばにいるよ――」





END