つめきりと右手





「あ。もしかして、やべぇ…?」


寝室で、セーターを脱ごうと袖から手を抜いたあたりで、右手の手袋が何かに引っかかって床に落ちた。
ま、あとから拾えばいっかと、そのままセーターを裾からたくし上げ、頭を抜こうとした瞬間。

――時任は、固まってしまった。



ヤバイ。
右手の爪がひっかかった。たぶん、セーターの胸のあたり。
しかも、人差し指と中指の爪が同時に。


動きを止めたまま、うーんと考える。
このまま強引に頭を抜くと、爪がひっぱられて、買ってもらったばかりのセーターがほつれてしまうような気がする。
なんとかしようと左手をごそごそと動かし、セーターに絡まった右手の爪を何とか取ろうと藻掻くけれど、頭を覆われているので、どこがどんな風に絡まっているのかさっぱりわからない。
しかも、絡まっているのは獣化した右手。
爪は、時折久保田が手入れしてくれるが、それでも人間の爪に比べれば伸びるのも早く、なんといっても鋭く長い。
簡単には外れそうにない。

「〜〜〜〜っ!」

藻掻いているうちに、なんだか余計にひどいことになってきたような気がする。
見えないから、わからないけれど。





ったく! なんで取れねぇんだよッ! 
もういっそのこと、無理矢理ひっぱっちまうか?
…けどなぁ、このセーター。
久保ちゃんが、買ってくれたばっかのモンだし。
冬物が足りねえからって一緒に買い物行って、俺が肌触りが良いからって気に入ったコレを、結構いい値だったってぇのに、バイト代入ったばかりだからってフンパツして買ってくれたんだよなー。


………やっぱ、無理矢理引っ張るの、よそ。



けどなぁ。
焦れってえ!。
ああ、クソ!!
もうどこがどーなってんのか、わかんねえっつーの!
ああ、イライラする。畜生っ!


――…久保ちゃん、呼ぶか?

 
けど、なんか笑われそーだし。
第一、カッコ悪いよな。んなことで、呼ぶの。


あ゛ー! 
でも取れねえ!!

くそー…・。



「――久保ちゃん…」


一応、声に出して呼んでみる。
ぼそっと独り言みてぇに呼んだだけだし、どうせ聞こえやしねーだろうけど。
久保ちゃん、今、何やってたっけ。
あぁ、リビングでテレビ見てたな。そりゃ聞こえねーわ…。




―あ、ヤべ!

今なんか、ピッとか変な音したぞ!
やべぇ、ぜってえヤベェって!
穴、開いちまうかも!! 
どうしよ――!



「く、久保ちゃん…っ!」



ああもう! 聞こえねぇかなあ!
マジ、やべぇんだって!!




「久保ちゃ…!」









「時任? 何やってるの、ソレ。なんか、新しいプレイ?」








「――ぁあ゛!?」









背後のドアのあたりから聞こえたのんびりした声に、時任がセーターの中で思わず首を捻って振り向く。
もちろん、そんなことをしても見えないから、何の意味もないのだけれど。
「相変わらず、お前見てると飽きないよねぇー」
「久保ちゃん!? いつの間に?」
「いつの間にって、お前が呼んだから来たんだけど? けど、お前、お着替え中で忙しそうだしー。声かけちゃ悪いかなぁと思って」
「忙しいワケねぇだろっ! セーターに、爪が引っかかって取れねえの!」
「あーあ、そゆことね」
「あぁッ、今笑ったなー!?」
「笑ってないよぉ。ただちょっと、可愛いな〜って」
「思うな!」
「いいじゃん、俺の自由っしょ」
「もぉ、そんなのどうでもいいから! 久保ちゃん、とリあえず、これ何とかしろよッ!」
「はいはい」

言って寝室に入ってき、ベッドの脇で立ち往生している時任の傍に久保田が立つ。
そして、いったいどうなっているものやらと、うーんと観察する。

「…そうだね、ちょっとコッチの手上げてみて」
「ん、と。こうか? って、うわ!! ば、ばかっ、どこさわってんだよっ!」
「どこって。ちょっと脇さわっただけなんだけど? すごい反応だねぇ、結構お前くすぐったがりやさんね?」
「面白がるなよ。知ってるだろー、そんくらい!」
「んー? そうだっけ」
「あー、いやその…。つーか、だから脇とかさわんな!!」
「けち」
「ケチじゃねえって! いいから、久保ちゃん! もーぉ早くー!」
「あ、いいね、今のv もっかい言って?」
「はあ?!」
「"もぉ早くー"っていうの」

「……く〜〜ぼ〜〜ちゃ〜〜ん、いいっ加減にしねぇと〜〜!」

「…はいはい」
「"はい"は、一回ッ」
「ほーい」
「……くそ、バカにしてんな? 俺様の事」
「そんなワケないデショ。ほら、腕上げて。とりあえず、先に頭抜かないと」



「うん。 ――ぶわぁっ…!」




「はい、脱出成功」
「は〜参ったぜ。畜生」



久保田の手に助けてもらいながら、どうにか頭だけは抜けて、時任がほっとした顔になる。
もっとも問題はこの後なのだが。
「で、どうなってるって?見せてごらん」
右の爪先は、見えないままじたばたしたせいで、どう考えても最初よりひどくなっている気がする。
「あらら〜。まぁ見事に引っかかっちゃってるねえ。」
「取れっかな?」
「そうねー。まぁ何とかなるっしょ。ちょっとコッチおいで」
「ん」




誘われるままに寝室を出て、リビングまで行き、そして、並んでソファに腰掛ける。
久保田は、獣化した時任の右手に自分の手を添え、少しずつ丁寧に、引っかかった毛糸を時任の爪先から外していく。
器用な指先。
だが反して、時任の右手の感覚は、その左に比べてどうも曖昧だ。
皮膚が厚く、さらには毛むくじゃらなせいで感覚が鈍い。
久保田の手に包まれているというのに、その感触がひどく遠くに感じられる。
時任が、ちらりと久保田の顔を見た。
それから次第に、眉間を寄せていく。
視線を上げてもいないのに、そんな時任の表情がわかるのか、ふいに久保田が訊いた。
「んー? どうした?」
「あ。いや、何でもねーけど」
「そう? もうちょっとだから、我慢しなよ」
「ん」
普段は革手袋の下にある獣の手が、そうやって明るい光の下で曝されているというのは、自分的には正直あまりいい気はしない。
どうにもこう、落ち着かないというか。
それに。

「久保ちゃん…」
「ん?」
「…あ、いや。やっぱ、なんでもねぇけど」

それに、そんな手なのに、見つめてくれる眼鏡の奥の瞳はやさしげで。
こんな目、いつもしてたっけか?と、つい考える。


「はい、取れたよ」
「おおッ、すげえ」
「ちょっと、ほつれちゃったかな」
「ん。まぁこんくれぇなら、ほとんど目立たねぇし」
「そうだね。とりあえず、後で洗濯機入れといて。あ、手洗いかなコレ。メンドーだなぁ」
「ネット入れときゃ、洗濯機でもいいんじゃねえの」
「ふーん、そうかも。あぁ、ほら着替え。そんなままじゃ風邪ひくよ」
「おう」
久保田が、着替えのトレーナーを手渡してやると、素早く時任がそれに袖を通し、笑顔になる。
「サンキュな! にしても。やっぱ久保ちゃん器用だよなぁ」
「そうかなぁ。――あ、ついでに時任」
「ん?」
「爪、伸びてるから切っとこうか」
その言葉に思わずぎょっとしたような顔になる時任に、久保田が、だいたい予想のつく返答は待たず、さっさと爪切りを取りに寝室に向かう。
「え゛!? ま、まだいいぜ?」
「うーん。けど、ほら、セーターに引っかかったせいで、ちょっと先の方割れかけてるっしょ。怪我しそうで危ないし、手袋するのにも、これじゃあまた引っかかりそうだし?」
「…う、ん。けどさぁ」
盛大に眉間に皺を刻む時任に、爪切りを手に戻ってきた久保田が、笑みを浮かべながらソファに腰を下ろす。
「爪切りぐらいで、がたがた言わない。別に痛いコトしないっしょ?」
「べ、別に、痛いからどーとかって事じゃなくてよー」
「はいはい。いいから、ちょっとここ座りな」
「うー」
「唸ってもダメ」
問答無用の口調に、どうも久保田のこういう物言いには逆らえない時任が、もそもそと久保田の坐る前まで、猫のように四つん這いで移動する。
久保田の足元で、思わず上目使いになる時任に、久保田が愉しげに言う。
「はい、どーぞ」
「どーぞ、ってよー」
「ほい、照れない」
「て、照れてねぇけど!」
言いつつも、久保田の足の間に腰を下ろすと、自然と仏頂面になる。
やっぱりどうにも、照れくさくてしようがない。
目で"早くね"と急かされて、仕方なしに久保田の方に背中を向ける。
「も少し、後ろに詰めようね。さすがにそんなに離れてちゃ、俺もやりづらいから」
「つーかよ。向かい合ってじゃ、出来ねぇの?」
「俺、そんな器用じゃないからねー。自分の手と同じ方向じゃないと、やりにくくって」
「…なんか、嘘くせぇ気がする」
「気のせいっしょ? はい、右手出して」
言われるままに右手を差し出せば、再びその手は久保田の手に捕らわれて。
また、あのなんともいえない落ち着かなさを味わうのかと、時任がはぁと大きな溜息を落とす。
それより何より、もっと落ち着かないのは、何と言っても、この深い密着度のせいで――。

久保田の足の間に坐らされた時任は、それこそ久保田に背中から抱きつかれるような格好で、爪を切られているのだ。
このスタイルじゃないとどうしても駄目なのかよ、と何度か抗議も試みたが、それはいともあっさりと却下されてきた。
自分の手と同じ方向じゃないと、深爪してしまいそうで切りにくい、と反対に主張されて。
まあ、向かい合ってならいいのかと言われると、それも大概こっぱずかしいので、顔が見えない分この方がマシなのかもしれないが。

時任の右手の爪は、人の爪と違って爪の中に血管が通っているせいで、誤って深爪をすれば出血してしまう。
さらには、人用のものでは扱いづらかったため、久保田の提案でペット用の爪切りハサミを買ってもらったまではよかったが、それも自分ではどうにも使い難くて。
結局、こうやって毎度久保田にしてもらう羽目に陥っている。

「けどさ、そのハサミ。なんで猫用なんだよ」
「犬用のがよかった? けど、時任といえば、やっぱ猫かなぁと思ってさ」
「どういう理屈だっての、そりゃあ。…けど、なぁんか。俺様、久保ちゃんのペットになったみてぇでさ」
「いいねぇ、ペットかぁv」
「嬉しそうにすんな!」
「あ、動いちゃ駄目だよ、時任。血管切っちゃうから」
「う。…怖ぇこと、さらっと言うなっ」

それでも、さすがにそれは御免こうむりたいので、時任は大人しくする事にした。
久保田の手は、先ほどと同じように繊細な動きで、慎重に時任の爪を切っていく。
時任の肩口から覗き込むようにして爪を切る久保田の髪が、頬に当たり、少々くすぐったそうに時任が肩を竦めた。
「あれ? 痛かった?」
耳元で、心地よい声が響いて、時任がどきりとしたような顔になる。
「や。そうじゃなくて。…耳んとこで喋んな。くすぐってえっつーの」
「ああ、そっか…」
「そっか、じゃなくてよ。だから、くすぐってえの」
「はいはい、ちょっと我慢」
簡単にあしらわれ、時任が、ぶぅとむくれる。
それでも、またさっきと同じようなやさしげな視線を感じ、すぐにその表情を戻した。

あんな目で見られているのだろうか。
あんな包み込むような目で、また――。


「なあ、久保ちゃん?」
「んー。なーに?」
「久保ちゃんはさ、その…。俺の手さ」
「うん」
「気持ち悪ィとか、ねえの? さわってたりとかしててさ」
時任の言葉に、肩口で明らかに、久保田が驚いたような表情になったのがわかった。

「なんで? 触り心地いいじゃない?」
「―えっ」

あっさりと返され、今度は時任の方が驚く。
久保田が愉しそうに続けた。
「あぁ、このあたりにニクキュウとかあったら、もっといいんだけどねぇ。あのプニプニしてるの、さわってて気持ちよさそうだし?」
「はあ? 何ソレ。俺様、それじゃあマジで猫みてぇじゃん」
「いや、でも。このままでも充分、ふさふさしてて気持ちいいけど。時任の手」
「……そう、なのか?」
「うん。俺は好きだけど?」
「――久保ちゃん…」

久保田の言葉に、時任の眦が微かに赤みを帯びる。
それを知ってか、時任の右手の甲に久保田の手が重なって、指を絡めてぎゅっと握り締める。

「俺は、気に入ってるけどね」

耳元で囁かれた久保田の言葉に、時任の目元と口元が、同時にやわらぐ。


「…そっか」
「うん」


流れる空気が、どことなく気恥ずかしい。
こうやって手を無防備に差し出してることは、己の全てを暴き出されているようで、たとえ久保田相手でも少し抵抗があったけれど。


――久保ちゃんなら、いい。


思うなり、少し緊張していたそれが解かれていく。
久保田はいいと言ってくれるのだ。つまり、ありのままでいい、と――。
深い安堵が胸に広がる。




この手はただ、自分と過去を繋ぐ、過去の自分を知るための唯一の重要な手がかりだと思ってきた。
それだけに過ぎないと。
時折発作的な激痛を伴うこともあって、いっそ切り落としたいとも何度も思った。
獣化がもしこの腕から進み、全身がこんな風に毛むくじゃらになる、そんな時が来たら。
自分も、過去に見た死体のように、内臓をはちきれさせて死ぬのだろう。たぶん――。
そうなってしまう前に。
いっそ切り落とせば、同時に過去も切り落とされる。
その方が、生きてくためにはきっと何倍も楽だろう。
そんな風に考えたこともあったけれど。


けれど。
けれど、今はまだ。

そして、今はただ――。


そんな手でも愛おしんでくれる人の腕の中で、その胸に凭れ、ひたすら安堵に包まれている。
そして、こんな手でさえも掴める未来があるかもしれない―と、今はそう思っている。



俺って、やっぱ結構単純かも。







「久保ちゃん」
「なーに? あ、もうすぐ終わるから」
「なんかー、気持ちイー…」
「ん?」
「久保ちゃん、俺、なんか眠くなってきた…」
「んー? いいよ、このまま寝ても」
「このまま? 重くねぇ?」
「全然」
「そっか…。じゃあ。このままで―」
「うん。このまま、ね―」
「ん」



すー…。



言うが早いか、腕の中に重みがかかり、淡い息がその口元から漏れる。



「おやおや、お早いこと」



背中を久保田の胸に預け、まだ自分の膝の上に置いてあったままのセーターを、時任が毛布とでも間違えたのか、無意識にもぞもぞと引き上げる。
そして、左手で胸に抱くようにして顔を埋め、そのやわらかな感触に幸せそうに笑みをこぼした。
久保田が、眼鏡の奥の目をさらに細め、そんな時任をやさしげに見下ろす。

「猫は、毛糸がお好き―ってね?」

そして、微かに笑いを漏らすと、手触りのいい黒髪をそっと撫でた。
セーターに顔を埋めて、自分の足の間で丸くなっていこうとする時任を背後から抱き寄せ、そうしながらも自分で楽な姿勢が取れるように自由にさせる。
眠りやすい体勢に落ち着くと、また、すー…と寝息がこぼれた。


爪切りを終えて、久保田の膝の上に置かれた時任の右手に、もう一度久保田が自分の手を重ね、指を絡ませる。
そして、愛おしむように持ち上げ、そっとその甲に口づけた。





微睡みながらも、意識の片隅でそれをぼんやりと感じ、時任が思う。


久保ちゃんが、気にいってくれてる右手なら。
二人きりの時は、少し手袋を外してみようか。

こんな風にさわってくれんなら。
それもまた、悪くねぇかも。


――と。










END








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また無駄に長いお話を(滝汗)
でもなんか、幸せに浸りつつ書いてしまいましたv
時任の右手を愛おしむ久保ちゃんが書いてみたかったのですが、いや、ここまでしなくてもいいんだよ、久保ちゃん(笑)とそんな感じで。
私の意志とは関係なしに、どんどん趣味に走られていってるような気がしますv
また感想などありましたら、ぜひぜひお聞かせくださいませー。

このお話は、大変お世話になってしまいました、麻巳さん&麻生さんへvv 
捧げさせてくださいねv 本当にありがとうございますvv
そして、どうぞこれからもヨロシクお願いしますv(笑)













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