記憶の欠片





「うお、天気いいなー!」
「ああ、洗濯日和だねぇ」
「なーんか、久保ちゃん。所帯じみてんぞ、その台詞」
「だって、そうじゃない。天気いいと、洗濯ものがよく乾いて気持ちいいっしょ? だいたいウチ、洗濯物多すぎなんだよねぇ」
「そうなの?」
「そうなの。お前が、よく汚すから」
「あー? わーるかったな! そういう久保ちゃんだって、この前よぉ…! お?」
「ん? どうした、時任ー?」
洗濯ものを干す手を止めて、久保田がベランダの手すりに凭れかかるようにしている時任を見た。
その視線の先で、日の光の虹色に透ける球がいくつも空に舞い上がっていく。
「久保ちゃん、ほら。シャボン玉――」
「ああ、本当だ。下の階のおチビちゃんがやってるかな?」
「へーえ。きれいじゃん。なんかこういうの見るの、久しぶりっていうか」
「童心に返るねぇ。今度、セブンで売ってたら買ってみるか?」
「げ。ヤロー二人でシャボン玉かぁ?! それもなんか、かなり怪しい光景だぞ?」
「まあ、いいじゃないの。たまには」
「たまには、ってなぁ」
それでも、まんざらでもなさそうなその答えに笑みを漏らすと、久保田が洗濯したばかりの時任のタンクトップを広げてハンガーに吊す。




「それにしてもなんかさ、シャボン玉とか見てっとさぁー…」




言いながら時任が、風に流され、そばに寄ってきたそれに、指先を伸ばしてふれた瞬間。
その指の先で、ぱちんと透明な虹色がはじけて。







――あ…?












なんだろう、この感覚。






どこかで。


だれかと。


いつか。


こんなことが。












――一瞬のデ・ジャヴ。









稀にだが。
こういうことがある。
何かのきっかけで、一瞬だけ、過去の時間に立ち返るような。


目の前から景色がなくなって。
自分だけが、灰色の世界に取り残され行くような、そんな疎外感。
そして、その中で。
自分の存在自体が、このシャボンの玉のようにぱちんと弾けて消えてしまうような、そんな言い様のない恐怖。



俺は誰だろう。
本当は誰なんだろう。
俺は、何だ。
どこで、誰のもとで生を受け。
どうして今、ここにいるのか。








トキトウミノルというのは、本当に、この世に存在する人間なのか――?















「―時任?」



言葉を切ったきり、そのまま時間を止めてしまったかのように身動きさえしなくなった時任に、久保田がいぶかしむように名を呼ぶ。


「時任ー」


もう一度呼んで、手にしていた洗濯物をカゴに戻すと、その背後に近づいた。


そして、見開いたままの瞳に気づくと背中から手を伸ばし、手すりに置かれたまま白くなっている時任の手の甲に、そっと自分の手のひらを重ねる。
そのまま指を絡めるようにし、ぎゅっと痛いほど手の中に握り込んだ。
背中にぴったりと重なるように並ぶと、今度は耳元に直接呼びかける。



「時任ー」



「……あ」



見開いていた瞳がゆっくりと視線を動かし、久保田を振り返る。
幾分、ほっとしたような顔で、久保田がそれを見つめ返した。


「…どうした? 平気?」
「くぼ、ちゃん…」
「うん」
「俺…」
「うん、大丈夫だから」
「…ん」


久保田の言葉に安心したかのように、時任がその腕の中で身体の緊張を解く。
額から、ぽたりと汗が流れ落ちた。
ベランダの手すりの上で重ねられていた手がそこを離れ、大きな手のひらが、そっと額を汗を拭ってくれる。
そして、背後から抱きしめるように、その腕が時任の身体を包んだ。
身長差があるおかげで、こうして久保田に背中から抱き竦められると、本当に体温に包まれているという感じがして、時任はひどく安堵する。



自分が、今。
ここにいるんだ、という。
そういう感覚が、徐々に取り戻せてくる。



「くぼちゃん…」
「――ん…」
「あったけぇ」
「…そう」



こういう時、久保田は何も聞かない。
どうしたのか、とか。
何か思い出したのか、とか。


もしかしたらそんな過去には、興味がないだけなのかもしれないけれど。
今だけでいいと、そんな風に思っているだけなのかもしれないけれど。



それでも。
何も言わず、何も聞かず、ただそばにいれくれる。
そして、その時々で。
時任が欲しいと願うぬくもりを、彼が望むカタチでそっとくれる。



「…久保ちゃん」
「ん?」
「もう、平気だから」
「そう。落ち着いた?」
「ん」



「なんかさ」
「うん」
「ふっと、なんか思い出しかけたような、そんな気がしたんだけどさ」
「ふぅん?」
「けど。なんかこう、何か思い出しかけっとさ。いつも、頭の中でブレーキがかかるカンジがすんだよ。 "やめとけ"って。"考えんな"ってさ。無理にそれを思い出そうとしても、かき消えるように一瞬でなくなる。なんか、"あぶく"みてーに」
「…うん」
「きっと思い出さねえ方が幸せ、ってことなんだろうな…」


「――うん」






短い久保田の答えは、それを肯定しているのか、それとも、思い出すなとそう言いたかったのか。
その意味は聞けなかったけれども。


どちらでもいいのかもしれない。
久保田にとっては。
たとえ、記憶が戻ろうと戻るまいと、時任がここに存在するというその事実さえ変わらなければ。
それだけでいいのかもしれない。



時任が思う。


そして、それはきっと自分にとっても同じはずだ。
自分が誰であろうと、どこで生まれようと、今ここに、久保田の腕の中にいる自分が確かなら。
もうそれだけで、充分なのだから。











「久保ちゃん」
「んー?」





「――腹減った」
「あらら」





「なんかコンビニ、買いに行こうぜ?」
「いいけど」
「なんだよ」
「洗濯もの、まだ全部干せてないんだけど?」
「んーなもん、帰ってからやりゃいいじゃん」
「でもねぇ」

せっかくの天気だし、早く干さないと…とのんびり答える久保田の腕からするりと抜けて、時任がリビングに戻って笑顔で手招きする。


「ほら、早くしろって! お天道様は逃げやしねぇだろー?  けどさぁ、俺様の胃袋には我慢の限界があんの! ほら早く、くーぼーちゃん!」

「…はいはい」 

せがまれ、思わず笑みが漏れる。
元気になってくれたなら、それが一番。
まだ洗濯物に未練はあるものの、時任に続いて居間に入る。



財布を持ってばたばたと玄関に向かうその背中を追いかけて。
久保田が、目をさらに細めて言った。



「シャボン玉も買うか?」



にやりして、時任が答える。

「おう! 負けねーかんなっ」
「ってねー。シャボン玉は競うもんじゃないっしょ?」
「いいんだよ。一回吹いて、たくさん出た方の勝ちな!」


「…やれやれ」






肩を竦める久保田の前で、時任が玄関の扉を開く。
晴天の空から、差し込んでくる光がまぶしい。





――いつかこんな風に、
時任の記憶の扉も開かれることがあるんだろうか。
そこはこんな風に、晴天の青空が広がっているだろうか。

いや―。
もしかしたら、この世の終わりのような酷い嵐かもしれない。




思い、久保田が扉を支える。








それでも、まぁいいかとも考える。
その嵐にたとえ飲み込まれようと。


何があっても。何が起きても。
たとえば、目を覆いたくなるようなBAD ENDが待っていようとも。









――二人一緒なら、問題ないっしょ?








心でこそりとそう呟くと、久保田は外で待っていた時任の肩を守るように引き寄せ、外からその扉をそっと閉じた。













END











・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
いつか時任が記憶を取り戻す時。
いったいそこにはどんな展開が待ってるのやらと想像しては、どきどきしてしまいます。
でも久保ちゃんにとっては、世間一般にバッドエンドと思われる結末でも、時任といっしょなら、もうそれでいいのかも。
というか、どこかでそういうものを望んでいるような、そんな気がしてならないのです…。(涙)




←novel