出逢い |
夕暮れのリビングに、電話が鳴った。 いつにない素早さで、久保田の手がそれを取る。 まるで一回でも多く、そのコールを部屋に響かせまいとするかのように。 受話器をとった一瞬だけ、久保田の意識は寝室に向く。 大丈夫、起きた気配はない。 自分の中で独りごちた時、よく知った声が潜ませるような低音で、受話器の向こうから久保田に呼びかけた。 『よう、誠人』 「…ああ、葛西さん。どーも」 飄々といつも通り答えながらも、足は自然とベランダへと向かう。 起きた気配は確かに無いにしても、眠っている”彼”にさえ、電話の内容は聞かせたくない気がした。 『元気にしとるか?』 「ええまぁ、何とかね」 答えながら、相手の意図を伺うように久保田が瞳を細める。 一度"彼"を"見舞って"もらった後、葛西からは数度電話があったが、さらにその後となると連絡が取れたのは久しぶりだったから。 『ところで、な』 「うん」 何か、"彼"について、わかったことでもあるのか。 眼鏡の奥で、久保田の瞳が微かに剣呑となる。 『どうだ? この前お前が拾ってきた例の野良猫の様子は―。相変わらず、荒れとるか?』 その問いに対し、瞳はそのままに、口調だけはのんびりと答える。 「んー。そうだね、最近はちょっとはマシかな。ま、とりあえずは噛み付かれなくなったしね」 『最初はヒドかったからなあ。まあ、少しは落ち着きを取り戻してきた―ってとこか』 「そんなカンジかな。――で?」 『あぁ?』 「用件は? それだけ? 言っておくけど、まだ事情を聞くとかは無理だから」 早々と防衛策を取る久保田に、電話の向こうで葛西が思わず低く唸って苦笑した。 『わぁっとるよ、そんなこたぁ。…いや何、また例の死体が出たもんでな…。とはいっても、あんな状態のガキに無理矢理話を聞こうたぁ思っちゃいねーよ』 「だったら、いいけど」 そう言いながらも、久保田の言葉はどこか冷ややかだ。 葛西に対してだけは、あまりそういう口調をすることはなかったのだが。 電話口から、自嘲のような葛西の笑いが漏れる。 藁をも掴む、と、まさにそんな気分だった自分を、自ら嘲笑ったようだった。 何かあの少年に手がかりに繋がることはないか、と考えなかったといえば嘘になる。 『いや、悪かった。邪魔したな』 「――うん」 久保田の方こそ、何か"彼"のことでわかったことはないのかと聞くべきなのかもしれないが、捜索願いも特に出ていないという話だし、根本的に、彼がどこの誰でということにはあまり興味が湧かなかったから、敢えてそれを口にすることはしなかった。 それより、寝室の方が気になる。 『それにしても、誠人』 「はいー?」 『どうしたよ』 「何が?」 『お前らしくもねぇ、エラく執着しとるじゃねえか?』 「誰に?」 『例の野良猫に決まっとるだろ』 「そうかな。別に執着ってほどでもないけどねー。ま、けど最近になって、ようやく俺の手からでも食べ物を口にしてくれるようになったもんで。また、変に警戒されて、何も食べてくれなくなっても困るっしょ?」 『まぁな。ありゃ、見てるコッチの方がつれぇからなあ。毛逆立てて、威嚇しまくって。この世の何も信用できるもんがねぇって顔してよー。…で? 今はどうしとるんだ?』 「よく寝てる。っていうか、一日のほとんどを、まだ寝てるんだけどね。あ、夜泣きはするけど」 『夜泣きだぁ? まさか、元の飼い主を恋しがって、とかじゃあねえだろな?』 「それは違うと思うけど。どっちかっていうと、逆、かな?」 『…逆、か』 「うん。―虐待されてた。っぽいかなって」 『…そうか』 「うん」 『ワケありなのは、あの右手を見りゃわかるがな。』 葛西の言葉に眉を潜め、それからふと、久保田は視線を室内へと動かせた。 ―起きたか? 「じゃあ、葛西さん」 『おう。ま、なんにせよ。気ぃつけてやれや。それと体調に変化があったり、何か他にもやべぇ状況になりそうになったら、必ず俺に連絡しろよ。面倒臭がらねえでよ』 「はいはい。わかってます」 『じゃあな』 「どーも」 電話を切るなりベランダからリビングに入り、ソファの上に無造作に受話器を投げ出すと、久保田は真っ直ぐに寝室に向かった。 ここ数ケ月。 寝室のベッドは、すっかり占領されたままだ。 ――猫を拾ってきたあの日から。 もっともベッドで寝るという習慣も、元々あるような無いような久保田だったから。 それはさして気にはならなかった。 それより拾ってきた時の衰弱ぶりと、怪我と、それから右手――。 興味は、一時そちらに向いた。 が、それすら長続きしなかったのは、やっと意識を取り戻した"彼"の、警戒心剥き出しの反応の凄まじさだった。 あの眼――。 相当な目に遭わされ、人間がすべて信用できなくなっているのは何となく理解できた。 が、それでも。 その目が脅えではなく、強い光を孕んで威嚇してきたことに、久保田は少なからず衝撃を覚えたのだ。 人が堕ちるのはたやすい。 そしてその様を、澱んだ裏社会の中にまざまざと見てきた久保田にとって、その瞳のきつさ、そんな環境下でさえ失われなかったプライドの高さは、意外としか言い様がなかった。 驚きさえした。 そして、新鮮、とも映った。 差し伸べられる手に噛み付き、爪を出し、牙を剥く。 まさに野獣のような"彼"に、かなりの興味を惹かれつつも、それでも久保田はいつものペースを乱すことなく、飄々と語りかけた。 "あのねぇ。そんなに威嚇しまくらなくてもね。別に、お前をどうこうしようなんて、思ってやしないから。…けど、食事くらい食べてくれないとねー。俺の部屋で餓死されちゃっても、困るしなあ。ほら、俺が犯罪者みたくなっちゃうっしょ?" それでも最初の頃は、その言葉にすらまったく耳を貸そうとしなかったが。 けれども、いつも変わりない、そんな風におっとりとした態度の久保田に、やがて少しずつだが”彼”の警戒心も薄れてき、最近ではどうにか少し話もできるようにまでなっていた。 多量の薬物を使われていた加減で、身体の方はなかなかベッドから起き上がることすら出来ず、しかもその時の恐怖からか、悪夢に魘されることも多々あったが。 人間らしさは、徐々に取り戻しつつある。 そんなところだ。 寝室に入ると、久保田はベッドのある窓側と反対の壁にもたれ、そのままそこに腰を下ろした。 ベッドにいる彼の様子を伺う。 寝室の扉が開いても、過剰反応することはもうなくなった。 小さく呻いて、毛布の中で身じろぎをする。 そんな様子に、"ああ、今日も生きているな"と妙に安堵している自分が可笑しい。 葛西の言うように。 確かに、執着しているかもしれない。 その瞳が開いて自分を映す瞬間に、どこか歓びめいたものを感じている。 それが、その証拠かもしれない。 「…起きた?」 「………ん」 「よく眠ってたね」 「……」 「平気?」 「……うん」 「夢は?」 「……見てねぇ、と思う」 「そりゃあ何より。魘されてもなかったしね?」 「……ん」 短いやりとりの後、ごく自然な動作で足下の雑誌を取り、ベッドに誰がいたなんて忘れたように、それを開いて読み始める久保田に、彼がベッドからしばしぼんやりとそれを見つめる。 少し躊躇った後。 掠れ気味の声で言った。 「あの…さ」 「…ん?」 「――いや…。何でも、ねぇ…」 「うん」 雑誌から上げられ、視線が自分に向いた途端に思わず口ごもる彼に、久保田がまたゆっくりと視線を雑誌に戻す。 それに一息ついて、しばし瞳を閉ざした後。 再び彼は口を開いた。 「…何で?」 「何?」 「何で……なんも聞かねぇんだ?」 「…うーん。そうだねぇ」 その問いに久保田が、答えを考えている風でもなく、煙草を取り出し口に咥える。 ライターを探していると、彼が視線で床に放り出されたリモコンの横を示した。 "あぁ、どーも"と答え、それを手にとり火を点ける。 紫煙が上がるなり、久保田が笑みを浮かべてやっと答えた。 「聞いてもどうせ、教えてくれないっしょ?」 「え…」 「だったら、無理に聞くことでもないかなあって」 その答えに、少々彼が驚いた顔になる。 「…そんで、いいのか?」 「いいんじゃない?」 「え。でも、よ…」 「聞いてほしい?」 ふいにからかうように言われて、彼がさらに驚いて瞳を見開く。 「…えっ! いや。それは…」 「ふぅん?」 「つーかさ…」 「うん」 「俺も、なんかよく、思い出せねぇんだ…。どうして俺が、こんな、なっちまったのか…とか」 少し苦しそうに、呟くようにそう言って、”彼”が伏し目がちになる。 「うん」 「だから」 「うん」 「…うん、ってよ」 「ん?」 久保田の反応に戸惑っている風に、”彼”は再び瞳を上げて久保田を見ると、しばし間を置き、先ほどよりさらに苦しそうに再び告げた。 「もし、事情知りてぇとか、そういう話期待して、ここ置いてくれてんだったら…」 "悪ぃから"とでも後に続きそうな物言いに、それを遮るように久保田が口を挟む。 「――そーねぇ、別に」 「えっ」 「そういうのはさ、この際ドッチでもいいんだけど」 「ど、どっちでもいいって… あの、よ」 「そういうのより、俺はね。…あ、格ゲーとか得意?」 「―はぁ? わ、わかんねぇけど」 「そっか記憶…。じゃあ、起きれるようになったら教えるから。ちょっと練習してみてくれないかなぁ」 「――へ? てか、あの」 「いや、一緒にやってくれる相手いないから、しばらく対戦とかしてなくてねー。腕なまっちゃって」 「…はあ」 「いい?」 「か、構わねぇけど」 「そ、よかった。そいつは楽しみだぁね」 笑んでそう言い、また視線を雑誌に戻す。 彼は、困惑した様子でしばらくそんな久保田を眺めていたが、ややあって小さく呟くように言った。 「…てか、さ」 「なーに?」 「なぁーんか、お前」 「ん?」 「…変なやつ…」 「お互いさまv」 あっさりと返されて、黒い瞳がぱちりと見開かれる。 そして、それを見守るように、フ…と久保田が目を細めて笑みを向けた瞬間。 そのきつそうだった黒い瞳は、それにつられたかのようにゆっくりと細められ――。 そして初めて、その口元にひどく照れくさそうな笑みを浮かべた。 その一瞬だけ。 独特の空気が満ちてこの世界を包み、まるで自分ともう一人しか世界に存在しないような。 そんな奇妙な感覚が生まれた。 ――ほんの、一瞬だけの事だったけれど。 何かが止まり、そして動き出した。 そんな感覚。 たぶんお互いにだけしかわからないだろう、他人には理解不能な微妙すぎるニュアンス。 久保田が立ち上がり、そして、ベッドの傍らに腰掛け直して、かなり近くに来てその瞳を見つめる。 黒い瞳はもう、逸らされることはなかった。 「…名前とかは? 思い出せる?」 「え?」 「一応、あった方が呼ぶのに便利っしょ? あぁ、適当でいいんだけどね。無かったら、俺が勝手につけちゃうけど?」 「…え、どんなの?」 「そうだねー。猫みたいだったし、じゃあスタンダードなとこで、タマとかポチとか?」 「あ゛? …あーのな。俺を、犬猫と一緒にすんな! つか、ソレ。今時スタンダードじゃねえし、全然」 「気にいらない? そっか、じゃあねえ…」 「時任、稔――。 そういう名前だった、と思う。…たぶん、だけどよ」 「そっ…か。時任、か――」 「…あぁ」 「ふん、いいねえ。時任、ってなんかいい響き」 「そっか?」 「うん。時任ー」 「な…んだよ」 「いや、呼んでみたんだけど」 「き、気色悪ぃこと言うなっ」 「時任ー」 「もういいって」 「ときとー」 「ああ、もう、うるせえっ」 照れて、毛布をすっぽり頭から被ってしまう時任に、久保田が思わずといった風にほくそ笑んだ。 手負いの獣のようだと思っていたが。 一皮剥けば。 根は、なかなか素直にできているらしい。 もっとも、気が強くて、かなり手がかかりそうなところは変わりそうにないけれど。 「ねえ時任。おなか空いてる? 何か食べられそうかな」 「……ん」 「じゃあ、何か軽いものでも作ろっか」 毛布の中で、小さくくぐもった返事が聞こえる。 おかしなもので。 名を呼べば呼ぶほど、彼の存在が自分の中で確かなものになっていく。 先ほどまでの距離が嘘のように。 不思議な感覚。 どこか懐かしいような。 なぜか、そんな気がした。 そして、久保田は考える。 時任は、どんな風に自分を呼ぶだろうか。 ――”久保田”? それとも名前で? それとも――。 時任のための食事を用意すべく立ち上がりながら、久保田はふと、それをひどく愉しみしている自分に気がつくと、丸まった毛布を見つめて小さく笑った――。 END ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「出逢い」というより、もう出会ってしまっている二人なんですけど。 最初はどんな風だったのかしらと想像すると、つい顔がにやついてしまいます(笑) 人間を信じられない時任と、人間が好きになれない久保ちゃん。 そんな二人がどうやって心を通わせ合うようになったのかなあとかv 未だ原作で語られることの少ない部分なので、自分解釈で勝手に書いちゃって大丈夫かしらと悩みつつ(汗) こういうのもまたアリかなーと、少しでも思っていただけたら嬉しいです。 |