■ STAIRWAY 1
見上げた無限城の上の空は、どんよりとした雲に覆われていた。
それを睨みつけるように見上げるなり、一筋のいかづちが貫くようにして遠くに落ちた。
もう、ここには戻らない。
固く思いながら、踵を返した。
振り返るな。
オレは、皆を裏切って出てきたのだから。
行くアテすらない、外の世界に。
かつて、ふらりと外に消えてしまった天子峰も、こんな気持ちだったのか。
裏切りと、自責の念と、畏怖と、それでも、渇望してやまない外への思いと。
いや。
渇望しているのは、外へ、ではない。
自分の場合は、あの男へ、だ。
・・・・美堂、蛮。
ここに、あの男が、しばしば姿を現すと聞いて「HONKY
TONK」という店の扉をくぐった。
たちこめる、コーヒーの香りと木の匂いの・・。
その慣れない暖かさに、ふいに心に痛みが走った。
暖かさやぬくもりに慣れない者にとって、それは時に刃となることもある。
それを見抜かれたのだろうか?
それとも傍目にそれとわかるほど、心は凍えていたのだろうか?
店のマスターは、カウンターにつくオレに、「凍えそうなんだろ?」と暖かいコーヒーを差し出した。
冷たい雨に打たれたような目をしている・・・?
この、オレが?
そんな風に言われたのは、初めてだ。
いや、もしかしたら、ずっとそうだったのかもしれない。
仲間たちの中に身をおいても、心の底から笑ったことなど一度もなかった気がした。
淋しい?
そんなことも、考えたことがなかった。
哀しい?
いや、それすら、わからない。
たぶん、今の自分はそうなのだろうと思う。
人の心を覗いたことはないが、自分に「淋しくて、哀しい」という感情がもしあるなら、これがきっとそうなんだろう。
誰かが傷つき息絶えた時も、自分の中にあったのは、これではなく、「怒り」だったから。
こういう感情を持つのは、自分が「雷帝」と呼ばれるようになってからは久しい。
もっとも、なぜ哀しいのか、淋しいと感じるのか、それは自分でもよくわからなかった。
その答えが欲しくて、
あの男を追って、何もかも捨てて、ここまで来た。
けれど。
会って、それでいったいどうするつもりなのだ。
追ってこいと言われたわけでもない。
ただ、闘って闘って、拳が割れて、肉が裂けて、血がどす黒く乾いた地面を覆い尽くし。
互いに差し違え同然まで、追いつめて傷ついて。
ただ、あの男と闘うことしか、自分の中にはなかったはずなのに。
血まみれの状態で気がついた時には、もう男の姿はなかった。
それがひどく心細いことのように思われて、それからずっと無限城にその姿を探したが。
もう、2度とあの男が現れることはなかった・・。
だから、こうして、自分から出てきた。
せめてもう一度、会わなくてはいけない気がしたから。
このままもし、再び無限城で会うことになれば、また自分は闘うことしかできなくなる。
だが。
もう、あの男とは、闘いたくはない。
できることならば。
外の世界なら、守らねばならない仲間も掟も縄張りもない。
少し、話もできるかもしれない。
話す・・。
何を、話せばいいのだろう。
目の前に置かれたコーヒーの褐色をしばし見つめ、虚ろになっていく意識を取り戻すように、カップを手にとり口元に運ぶ。
あたたかい、コーヒー。
人の心も、外は、こんなふうな温度なのだろうか?
街は平和で、どこでも誰も、殺し合いなどしていない。
無限城が特別な無法地帯だとは知っていたが、これほどまでに違うとは。
物心がついた時から、あそこで育った自分には、信じがたい世界だ。
そのせいか、身体が鉛のように重く感じる。
環境との不協和音を、身体が感じているのだろう。
それが、「おまえは、ここにいてはいけないのだ・・・! 異端児なのだ!」と誰かに告げられているようで、ふいにいたたまれない気分に襲われた。
この感覚は、いったい何だろう。
思わず、オレは席を立ち上がった。
気がつけば、もうこの店のカウンターで数時間が過ぎている。
あの男は、もう今日は現れないのだろう。
落胆とともに、どこか安堵している自分もあった。
「ごちそうさまでした・・」
言って、もう店を出ようとカウンターを離れようとした途端、新聞を広げていたマスターの声に呼び止められた。
「待ちな」
「え・・?」
「もう、そろそろ来る時間だからな」
「えっ・・」
「アンタ、美堂蛮を待ってるんだろ? アイツなら、そろそろ腹減らして来る頃だ。もうちょっと待ってりゃ・・・・お? 噂をすりゃあ・・・」
煙草をくわえたまま、マスターが店の扉を顎で指し示す。
次の瞬間。
カランという音とともに、扉が開いた。
「おう、波児ー! なんか食わせてくれやー」
言いながら入ってきた男を見るなり、ドン!と心臓を拳で直接たたかれたような衝撃が走った。
体内の血が、がっと沸点まで温度を上げたような。
灼けつくような。そんな感覚。
美堂、蛮・・・!
心の中で叫んだが声にはならなかった。
ぐっと握りしめた拳が、じんわり汗ばむ。
しかし、そいつはちらっとオレの方を見ただけで、顔色も変えずに3つ,4つ離れたカウンターの席についた。
「あー、くそー! 煙草がもうねぇや!」
ポケットから取り出した、空になった煙草の箱をぐしゃりと握り潰してぶつぶつ言うと、アイツはマスターに軽口を叩く。
「あ、波児! 飯はツケでいっからよ」
「ツケでいいからよ、というのはコッチがお情けかけて言ってやる台詞だろうが! なんだ、この前からヤケに金回りがいいと思ったら、また派手に使い切っちまったのかぁ?」
「べっつに、使いきる気はなかったんだけどよ、愛しのジェニファーちゃんの調子が悪くてよー」
「また、競馬かい。おまえ、またアパート、そろそろガス・水道止められるぜ?」
「ああ、その前にそろそろ出てけって言われる頃かもなー。あのツルハゲ、ちょっと家賃が5ケ月滞ってるからってよ。うっせんだよ」
「はーぁ。・・・よく、おまえみたいのを置いとくよ。俺にはそれだけで、そのツルハゲがよく出来た人だって思うがなー」
「そっかあ?」
マスターと美堂蛮の会話を突っ立ったまま聞いていたオレは、無性に惨めな気持ちになっていた。
こういう風に、軽い話し方をしているのを見ると、あの時と同じ男だとは到底思えない気がしてくる。
あの凄まじい殺気もプレッシャーも、今はまったく感じない。
そうか。
普段はこんな感じの男なのか。
だからと言って、闘いを挑みに来たわけじゃないオレにとって、それは別に失望するようなことでもなんでもない。
ただ・・。
そうか、こいつは、オレのことなど覚えていないんだ・・。
無限城でやりあったことなど、別に取り立てて、どうということでもなかったのか。
何のためにあそこにいたかは知らないが、目的の前に立ちはだかったオレを、ただ倒そうとしただけなのだ。
幾度も死線を彷徨ってきたこの男にとっては、別に他とさして変わらない、取るに足らない闘いだったのだ。
取るに足りない、相手だったのだ、オレは。
馬鹿だ、オレは。
なんのために、仲間を裏切り、あそこを捨てて、こんなところまで・・・!
くっと唇を噛み締めて、その後ろを足早に通り過ぎようとした瞬間。
「・・・・・・!」
全身が、硬直した。
後ろ手に、突然、あいつがオレの腕をつかんだのだ。
「待ちな」
言うなり、肩越しに振り返る。
「雷帝」
「・・・・・・!!」
お、覚えていた?
覚えていたのか・・・?
オレのことを?
その通り名に、マスターが微かに表情を変えた。
腕を掴んだままあいつは、あの時のような殺戮の眼差しではなく、ちょっとおどけた子供のような目をして、オレに言った。
「じゃなくて、銀次!だっけか」
「あ・・・」
どうしてだろう。
身体が震える。
こんな風に、名前を呼ばれたことが今までにあっただろうか。
もしかすると、初めて、かもしれない。
こんな風に、自分にも名前があったのだと実感できたのは。
唇が震える。
目頭が熱い。
頬を伝うものは、いったい何だろう。
ぽつり、と落ちたものに、自分の拳が濡れたのは、どうしてだろう。
声も、唇さえ動かないのはどうしてだ?
そんなオレを、何1つ動じることなく見つめ返して、あいつが笑う。
「んだよ? オレに惚れて追いかけてきたか?」
笑って、そうしてコドモにするように頭をポンポンと叩かれた途端、オレは。
オレは。
気がついたら、その首にむしゃぶりつくように腕を回して抱きついていた。
きっと、迷子の子が、親を探して探して心細くて泣き喚いて、その挙げ句にやっと見つけた、
やっと会えた、そんな感じに近いかもしれない。
切なくて、痛くて、ただ、泣きたかった。
「って、おい・・・」
さすがに面食らったのか、声が少し動揺している。
扉を開けて入ってきた新たな客は、男同士のラブシーンまがいの抱擁に、それ以上に面食らって、慌ててまた店の外へと後ずさって行った。
それでも美堂蛮は、迷惑がることもなく、オレの腕を振り払うこともなく、じっとそうさせてくれていた。
「重ぇよ・・」と、ちょっと笑いながら。
心の声に引かれて、ここまできた。
命を奪い合う闘いのさなかに、殺気の向こうに、自分と同じ淋しさが見えた。
何1つの確証もあったわけではなかったが、確かに、美堂蛮は、あの時オレを呼んだんだ。
オレが、この男を呼んだように。
ちゃんと、聞こえた。
だから、ここまで追ってきた。
「オレのヤサに来っか?」
「え・・」
「どうせ、行くあてもねーんだろ?」
「あ、」
「やめとけ、やめとけ。あと2,3日もすりゃ、電気も水道もガスも止められるぞー。ま、それまでに追ん出されるかもしれないけどな。家賃払ってねーから、この男」
「うっせえな、波児! おーきなお世話だ。・・・どうする? 来っか?」
「・・・・うん」
「そっか、んじゃ、ついてきな。銀次」
言って、オレの肩に手を回すようにして歩き出す。
そのまま引きずられるようにして店を出ると、外はもうすっかり人通りも少なくなっていた。
肩を並べるようにして、街中を行く。
同じ道を、1人で歩いてきた時は、ネオンの色にさえ不安を募らせたのに、今は違うものが胸の中にある。
あたたかい、何か。
「どうして・・・。何も聞かない・・?」
「何を?」
「なぜ、あんたを追ってきたのか・・」
「この前のケリをつけようってか? 殺し合いの決着」
「そ、そんなんじゃ・・!」
「わかってるさ。ここは無限城じゃねえ。おまえが闘う理由もねえさ。仲間を守るためにな」
「・・・・・・・ああ」
「オレもない。・・そんでいいだろ?」
「・・・・・・・うん・・」
「オレが呼んだ。オマエが答えた。それだけだ」
それだけで、いい。
美堂蛮は、そう言って笑った。
バゴッ!!
「おあっ!!?」
「いい加減、起きやがれ!!」
「いったいよー、何すんだよぉ、蛮ちゃん! 人がせっかくいい気持ちで寝てたのにー」
言いながら、オレはカウンターで思いっきりぶたれた頭を抱えた。
「んが〜」
「んがあじゃねえ! ったく、おら行くぞ」
「わ、待ってよ、ねえ、蛮ちゃん! もお、起き抜けにー。待ってったら!」
慌てて転がりおちるようにイスから降りて、ヨダレ出てなかったかなあ?と口もとを拭いつつ、波児に「じゃあ、またね」と手を振って、さっさと行ってしまった蛮ちゃんを追いかける。
走って追いつくと、「遅せえ!」とまた頭をはたかれた。
でも、遅いとかグズグズすんなとか怒りつつも、オレが追いつくまでは結構歩く速度を緩めて、待っててくれたりするんだよねー。
「んああ〜 まだ眠い」
「テメエ、3時間も店のカウンターで寝てやがったんだぞ。それでまだ眠いのかぁ?」
「だってさあ。フア〜・・・ あれ、じゃあ、3時間も、蛮ちゃん待っててくれたんだ?」
「べ、別にテメーが起きるのを待っててやったわけじゃねえ!」
「そうなの? んじゃ、何してたのー?」
「何って別に。新聞読んだり、コーヒー飲んだりよ・・」
「ふーん」
何となく、眠りが浅い時に聞いたような気がする、蛮と波児の会話が頭の中に甦ってくる。
『しかしまあ、よーく寝てるなあ。そろそろ起こすか?』
『ま、いいや、寝かしといてやらぁ。せっかく、んなにキモチよさそーに寝てやがるんだしよ・・』
『・・・なんか、こいつが初めてこの店に来た時のことを思い出すなあ』
『あ?』
『淋しそうな、つらそうな顔して、ここに坐ってよ。おまえを待って』
『そうだっけか?』
『ああ。あの後、貴重なもんを見たよ』
『・・なんだ?』
『男に抱きつかれて振り払いもしないオマエとか、絶対自分の部屋に他人を上げないはずが、初対面に等しい男を自分のアパートに連れ込んだオマエとか』
『・・連れ込んだつーのは何だぁ? だいたい、貴重なモン見せてもらったっつーなら、ありがたく金でも払えよ』
『そんなこと言う前に、ツケ払え』
『・・・・ちっ』
『あン時から・・・・。既におまえにとって、トクベツだったんだな、こいつは・・』
『・・・・・かもな』
「・・・・・・・・」
「んだよ!」
「いで〜! なんで殴るの! ちょっと顔見ただけじゃんー」
「キモチ悪ィんだよ、じっと見るな!」
「あ、蛮ちゃん、照れてるv」
「バカか、おまえは!」
「いだだだ・・・! 顔掴まないでよ、痛いよ!」
ふざけあいながら、スバルの駐車場所まで並んで歩く。
あの時、初めて並んで歩いた時のことがふいに頭を過ぎり、そういや、店のカウンターでうたた寝している時、そんな夢を見ていたなあと思い出した。
今思っても、何の約束もなかったのに、ただ蛮ちゃんに会いたいだけで無限城を家出のようにして出てきたオレは、結構大胆だったと思う。
会いたくて、ただ、もう一度会いたくて、それだけだったのに。
でもって、結局、蛮ちゃんちに泊めてもらったのは、1週間にも満たなかった。
家賃滞納してるくせにトモダチまで引きずり込んで、と大家さんの逆鱗にふれ、追い出されちゃったから。
でも、無限城を出たせいで、心も体もバランスを崩して不安定になってしまってたオレが、蛮ちゃんになついて、すっかり元気いっぱいになるまでには、充分な日数だったけれど。
「ねー蛮ちゃん」
「あ?」
「オレのさ。第一印象ってどんなだった?」
「は?」
「無限城で初めて会った時とかさー」
「聞いてどうすんだ?」
「どうするってわけじゃないけど、ちょっと聞いてみたいなって」
「・・・・雷しか芸のないバカ」
「・・・・・・・・・それだけ?」
「おう」
・・・それって、ちょっと・・・・・ヒドクないかなー・・?
気を取り直して、もう一度聞いてみる。
「じゃ、じゃあさ、今のオレはどんな??」
「・・・元気と雷しか取り柄のないアホ」
「・・・・・・・・・・・・???」
そ、そんなもん?
バカとアホはどう違うの? どっちが上なのかな?
後の方が、元気がついているだけ、よくなってんの??
なんだか1人で首を捻ってるオレを横目で見て、蛮ちゃんは思いきり笑い出した。
「おめー、本当にバカだなー!」
「な、なんだよ、人が真面目に考えてるのに! 笑うなんてひどいよ、蛮ちゃん!」
「いやー、飽きねえヤツだぜー、ま、そういうトコがイイんだけどよ!」
さらっと言われて、思わず立ち止まる。
え、今?
・・・イイって、オレ?
立ち止まってしまったオレを、少し歩いてから気づいて、蛮ちゃんが振り返る。
「銀次!」
一番大好きな声が、オレの名前を呼んだ。
待ってよ!と、その声に弾かれたように走り出す。
蛮ちゃんの背中を追いかけて。
あの時と同じように。
そうして、オレは思い出した。
初めて、蛮ちゃんに自分の名前を呼ばれた時。
オレは、生まれてはじめて、自分の名前が、
「銀次」という名前が、好きになれたと思った。
ずっと、そうじゃなかったから。
でも。
あれから、蛮ちゃんの声で呼ばれる度に、
オレは、どんどん自分の名前が好きになったよ。
そのことがオレは、とても、とっても嬉しかったんだ。
END
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