「シークレットコードはzero」




傍らの兄を見上げて頷くと、ロロは再び鞄の中身と格闘を始めた。
 どうやら荷物を纒めるという作業は、あまり得意ではないらしい。先程から出しては入れてを繰り返し、自然と眉間が険しくなる。
そんな表情を覗き見たのか、細い肩に背後からそっとあたたかな掌が置かれた。
ぴく…と、小さくロロの肩が跳ねる。
「どうしたんだ? 何か困っていることでもあるのか。もしそうなら、俺に」
「いやだな。大袈裟だよ、兄さん。一人で出来るよ、着替えを詰めるくらい」
「そういうことじゃないだろ?」
 たしなめるように言われ、ロロは兄を見ずに苦笑を浮かべた。
「ないよ。本当に兄さんってば心配性なんだから」
「…だったら良いが」
「平気だってば。ちょっと緊張してるだけなんだ。兄さんと離れて、クラスメイトと二泊なんて、はじめてだし」
「ああ、それはそうだが」
「でも、3年になったら修学旅行だってあるんだものね、慣れないと」
「修学旅行までは、まだ2年近くあるだろ?」
「うん。でも今から練習のつもりもいいかなって」
「それもいいが。急がなくても、だんだんに変わるさ」 
「…人は?」
「…あぁ」

――そう、人は。

 互いの胸で同じ言葉を反芻する。
「そう、かな」
「そうだよ」 
 呟くように言い合って、互いから視線を逸らした。
 そうだ、人は変わるものなのだ。状況によって、いくらでも。
 ロロがゆっくりと瞳を伏せる。長い睫が濃い影を落とした。
「…うん、そうだね。きっと」
 ずっと変わらず同じだなんてことは、あるはずがない。永遠に続く時間はないのだ。すべてに終わりが来るように。変化は絶えず訪れる。そう。永遠なんて、ない。
 たとえば、昨日まで愛していた人を、今日憎むことだって出来るのだ。
 そういうものだ、人なんて――。
 考えて、苦しくなる。ロロがきゅっと唇を噛み締めた。
「けどな、無理に変わることはないんだ」
「え…?」
 意外とも言うべき兄の言葉に、ロロがはっと顔を上げる。
「お前は、ずっとそのままで良い」
「兄さん…?」
 恐る恐る振り返るロロの傍らに膝をついて、伸ばされた兄の両腕がロロの薄い背に回される。抱き寄せられた拍子に、ロロの手からきれいに畳まれたTシャツがぱさりと落ちた。
「兄さん…」
「今のままのお前で良いんだ」
 宥めるようにやさしく髪を撫でてくれる手に促され、、ロロがためらいがちに兄の肩の上へとおずおずと額を置く。甘えるようにそこで目を伏せれば、腕の中へと、きゅっとさらに強く抱き竦められた。
 抱きしめられることは心地よいことだと知ったのは、いつからだったろう。最初はただただ驚くばかりで、同じ腕の中で、じっと身を固くしているだけだった。
なのに、今ではこんな風に、自然と目を閉じてしまう。兄の体温をより近くに感じたくて。心地よくて。
 だけども、夢見心地に目を閉じるロロの安らぎの時は、長くは続かなかった。
(ロロ…)
 低いトーンで耳元で囁かれる声。ずっとロロが兄と呼んでいた人は、今まで一度もこんな低音を発したことがない。
(心配するな。俺にまかせておけばいい)
 ロロの肩がぴくりと強張る。天井の隅の監視カメラから、表情を隠すように、尚項垂れた。
 抱き寄せられた理由は、これだったのだ。
 互いに接近することで、口元を隠すことが出来る。密談には好都合。ただ、それだけのことだったのだ。
 決して、ロロに安らぎを与えるためなんかじゃない。
(お前は、V.V.の言う通りに任務を遂行しろ)
(…だけど、僕の代わりの新たな監視役が兄さんにつくよ?)
(そっちも俺が何とかする)
(うん…)
(お前は何も心配しなくていいんだ)
 すべて俺に委ねれば良い。耳朶に唇を寄せ、甘く噛むようにして、兄だった人がこそりと囁く。
 蜜のように甘く、毒のようにやさしく。
 言葉とは裏腹に、ロロの背を抱く指先が、ほんの微かに布の上で爪を立てた。勿論、ロロに気づかせない程度に。
(…いいな。ロロ?)
 そう言われれば、従うより他はない。今、ロロに命令を下せるのは、V.V.じゃない。目の前にいる、この人だ。
 覚醒したルルーシュ・ヴィ・ブリタニア。
 別の名を、【ゼロ】。
 強くて、賢くて、やさしくて、少し怖い。今のロロの兄。
(うん。わかったよ、兄さん…)
 決意をして肯けば、「いい子だ」と囁いて、ロロの耳元で笑みが漏らされる。
 そして、わかったらもういいとばかりに軽く両の腕を掴まれた。ロロがはっと瞳を開き、つらそうに一度伏せ、ゆっくりと自ら身を遠ざける。
 あれほど接近していたにも関わらず、一度の視線の交歓もなく、離れる時は、寧ろ逸らすようにして俯いた。
「それに。そんなに早く一人立ちされては、俺が困る」
 話と口調を元に戻して、弟の自立はまだまだ到底歓迎できないという過保護な兄の顔で、ルルーシュが微苦笑を浮かべる。見事な変わりようで、弟の髪をやさしく梳いた。
「…淋しがり屋なんだから」
 震える声でからかうように言って、ロロが笑む。恐る恐る自分と同じ色の瞳を見上げれば、怖いほど鮮やかに笑みが返された。
「お前もだろ?」
「…そうかな」
「そうだよ」
「…うん、そうだね。似た者同士、かもね、僕たち」
「あぁ、兄弟だからな」
「…うん、兄弟だから」
 血も心も繋がらない2人を結びつける唯一の呼称を、まるで呪縛のように互いに口にして。
 そして、部屋には、ささやかな沈黙が訪れた。