「月の揺り籠 銀の繭」
Breathless Love







「あの、いつから?」

唐突な問いは、別にシャワーの事を聞きたいわけじゃなくて。
いつから其処にいたのだろうと、ふとそう思ったからだ。
あまりにも気配を感じなかった。
「気がつかなかった」
「あ?」
「そこに居たって」
「ああ。そりゃあ、また。えらく無防備なこって」
「無防備?」
「おうよ。ちったぁ警戒しろ」
「どうして」
ここは無限城じゃないのに?と、琥珀の瞳はそう問いたげだ。蛮がにやりとする。
「あのなあ、テメエ。そんなじゃ、あっという間に襲われて、風呂場の床に押し倒されるぞ」
「誰に」
「あぁ?」
蛮が、呆れたように返し、やれやれと両の肩を持ち上げる。
「俺に決まってんだろうが。視線感じなかったか? 大概熱心に見てたんだがな」
もっとも、別に驚かせる気も、襲う予定だった訳でもなく(いや、後者はどうかわからない。怪しいもんである)、単にシャワーが長く流れっぱなしになっていたせいで、もしや風呂場で気絶でもしてるのではと、そんな危惧を抱いて扉を開いたのだ。

そうしたら。
光の中で水を弾くその肢体は、かなりな目の保養で。
様子を伺うだけの筈が、つい、そのまま身惚れてしまっていたのだ。
まったく。オトコの身体を、まさかそうも熱心に見つめる日が来ようとは。
これまでの女好きを思えば、自分でも信じ難い話だと蛮が思う。

「どうして。声、かけなかったの」
「…さあて?」
率直な問いに意地悪く答えられ、銀次がやや困った顔になる。
どうも、こういう真意の見えにくいやりとりは苦手らしい。
銀次の手が、いきなりシャワーのコックをきゅっと閉じた。
水が止まる。
琥珀がふいに真摯になり、蛮の紫紺を見つめた。
視線が交じ合う。
口調は、少し固かった。

「確かめようと思った?」
「何をだ」


「俺が。本当に、ちゃんと人間のカタチをしているかどうか」


「―どういうこった」

意味深な応えに、蛮が瞳を眇める。
俄に、紫紺が険しくなる。
冗談にしてはタチが悪いぜと思ったが、すぐさま思い直した。

コイツは、そんな風に器用じゃない。
嘘も冗談も言いはしない、こんなことで。

見つめる蛮から、やや視線を外して、自嘲のような笑みを微かに浮かべて銀次が言う。


「人間に化けてるって。そういう噂も、無限城ではあったから。人の目のないところでは、密かに化け物の姿に戻ってるんじゃないかって」


…まるで、人ごとみたいに言いやがる。

蛮の内心が、腹立たしげにごちた。
それよりも。
いったい銀次はどうやって、それを耳にしたのだろう。
その時。どれほど辛く、やるせない気がしただろう。
そんなことを言われるために、身を呈して、自らを殺して戦ってきたわけじゃない。
己の目前で、もし銀次以外の誰かがそれを口にしたら、間違いなく毒蛇の餌食にしてやる処だ。
聞き捨てならないにも程がある。
込み上げてきた怒りを露にして、蛮が吐き捨てる。
「下層階のために、身を粉にして戦ってる"救世主"に向かって、それか」
「"悪魔"と呼ぶ人もいたよ」
睫毛を少し落として、仄かに笑んだまま銀次が応える。
それに内心で大きく舌打ち、蛮が即座に銀次との距離をつめた。
これ以上、言わせる訳にはいかない。言わせたくない。
「銀次」
叱りつけるように、呼称する。
同時に銀次の両の手首をきつく掴み、浴室の壁へと少々乱暴に押しつけた。俯いていた銀次が、はっと視線を上げて驚いたように蛮を見る。
そして、厳しい表情の蛮に気づくと、だが、それでもどこかほっとしたような表情を浮かべた。
「…うん。ごめん」
ぽつりと言って、小さく首肯く。
蛮の言いたいことは、瞬時に理解したらしかった。
どうやら自虐的に言ったわけではないと知り、自然と蛮の声のトーンがやわらかみを帯びる。

「…馬鹿が」

「うん…」
「テメエは違うだろ」
「…うん」
"たぶん、今は"と、銀次が内心で加える。
雷帝になることも、もう、ないのなら。
「だったら。そんな風に言うんじゃねえ」
「…うん」
言葉に、琥珀が微かに潤む。蛮を見つめた。
「うん、そうだね」

ただ、こんな風に今は。
傷ついた胸の内を見せられる相手がいる。
そのことに深く安堵しているからと、瞳はそんな風に告げているようにも思えた。
応えのように蛮の掌が、金色の頭を自分の肩へと抱き寄せる。
無抵抗にされるがままになりながら、逞しい肩にそっと頬を置き、遠慮がちに銀次が呟いた。


「濡れちゃうよ」
「構うか」








「銀の雨」より一部抜粋
出逢ったばかりで、まだそんなにでれでれじゃない美堂蛮(これでも/笑)