「DeepBlack 2」
      



あの時。
バビロンの頂まで共に昇り詰めながら、結局何もしてやれなかった。
何をしてやれるでもなく、ただ、手をこまねいて見守るしか術がなかった。
銀次を征かせるために、悪魔の腕を解放しつづけたとして禁を破ったその咎を受け、肉体を崩壊させようとしていた蛮と。
それから、そんな蛮の身代わりになるべく、自分を差し出した銀次と。
その二人のどちらにも。
共に傷つき、互いが互いを庇って消えようとしている時でさえ。
無力感を、ただ噛み締めるだけだった。


そして。その結果として。
今も、無限城はまだこの裏新宿にある。
有り続ける。

『神の子』の喪失により、失われた刻を抱きこんだまま、アーカイバのCLOCKが眠りに落ちた後も。







そして。銀次は今。
6歳以降の記憶をすべて失ったまま、S市にいる。
奪還屋だったことも、無限城でのことも、自分が『雷帝』と呼ばれていたことも。
そして、何より、蛮のことさえ。
すべて忘れて。
前述の『天野家』の二男として、やさしい家族に囲まれ、幸福に暮らしている。


――にも、関わらず。


偶然S市で再会を果たした銀次は、失われた自身の記憶を奪り還して欲しいと、あろうことか蛮に奪還を依頼してきたのだ。
まったく。
記憶をなくしていようがいまいが。
そういう予測不可能な行動に出るのが銀次なのだと、蛮はまざまざと思い知らされた。
そんな経緯で、こうして『よろず屋』の手助けを借りているというわけなのだが。

「しかしなぁ。どうする気だ」
「あ?」
「銀次の依頼をよ。夏実ちゃんの啖呵に、俺らもついのせられちまったが」
「あぁ、まったくよ。テメェらが無責任に、引き受けてやれだの何だの言うから、こんなややこしい事になっちまったんじゃねえか」
「そりゃあ、そうだがなあ。あぁ、ならいっそ、ビーストマスターに譲っちゃどうだ、この仕事。やっこさんも銀次のためなら、喜んで一肌脱ぐんじゃねえか?」
揶揄するように言われ、蛮がギッと鋭く波児を睨みつけた。
返す口調は平然としていたが、内心ではかなり業腹なはずだ。
そんなことが出来るわけがないと、蛮も、言った波児もよく判っているから。
「ヤロウなら、まだS市のターゲットを追いかけてやがるぜ。結局、やっと足取り掴んだ時にゃ、男はコッチに引き返してたらしくてよ。よりにもよって地下に潜んじまったとかで、面倒なことになってやがる」
「地下たぁ、そりゃあ確かに面倒だな」
「ああ、ったく。これだから、ヘヴンが受けてくる仕事はろくなのがねえ…」
ふいに、その言葉を遮るように、蛮のズボンのポケットで携帯の着信音が鳴り響いた。
それを取り出し開いて、相手を確かめ、蛮がわかりやすく瞠目する。
着信ボタンを押す指は、即座だった。

「…あぁ、俺だ」

落ちついた低めの声で、電話を取る。
蛮の一声に、相手が答えた。
途端に、蛮の瞳がすうっと細められる。
恐ろしいものだと、それを見て波児が思う。それだけで、相手が誰なのかが容易に知れてしまう。
他の誰が相手でも、蛮は絶対こんな目はしない。
コーヒーを煎れながら、やれやれ、まったくなあと苦笑する。
「で。どうしたよ?」
だが、蛮の静かな問いに電話の向こうから返ってきたのは、どうやら抗議のそれのようで。
みるみるうちに、蛮の眉間には深い皺が刻まれた。
「あぁ、うるせえ! 電話に出るなり、キャンキャン喚くな!」
怒鳴って、蛮が耳から少しだけ携帯を離す。
そこから漏れてきた声に、やはりなあと波児が口の端を持ち上げた。
「だーから! 別に忘れちゃねえっての! …おう。そろそろコッチから連絡を入れようと思っていたところだ。あぁ、本当だ。しつけえ!」
蛮の眼差しが言葉とは裏腹に、格段にやさしげに細められている。
無意識か。すげえもんだ。
波児が思う。
表情も、次第にやわらいでいく。
声も、心なしか甘ったるい。
指摘すれば、きっと烈火の如く怒るだろうが。
「へいへい、ちゃんと仕事してたぜ。今? あぁ。いや、今はHonky Tonkだ。……ああ!? うるせえ! ツケで悪かったな! てめえに言われる筋合いはねえっての!」
蛮の怒号に、波児がくっくっと笑いを漏らす。
だが。
いつもこのカウンターに肩を寄せて並んで座り、ともすれば顔がくっつきそうな至近距離で会話をしていた相手の声が、機械の向こうから聞こえてくるというのは、どんな気がするものだろう。
最初は蛮も、どうにも慣れられない様子だったが。
今は、少しは解消されたようで。
(といっても。実際、ここで電話をしているのを見るのは、まだ2度目だが)
携帯を耳に当て談笑している様は、どう見ても、恋人と通話中のそれのようだ。
「ん? あぁ、そうだな…。また機会があったらよ。…わかった。あぁ、伝えといてやるよ」
頃合いを見計らって、波児が蛮の前にブルマンを置く。
蛮がやや視線を上げると、そこに波児がいたことをやっと思い出したように『何、見てやがる』と一睨みを返し、スツールの上で身体の向きをくるりと変えた。
視界に入れたのは、店の窓から見える夕闇の街と、無限城。
「…あ? そう、だな。お前、明日バイト入ってんのか?」
訊ねて、ブルマンを一口含む。
慣れた心地好い苦味に後押しされたように、口元が笑んだ。
「…そっか。なら、丁度いい。明日でどうだ?」
蛮の誘いに、相手が驚いて嬉しげにはにかむ様が目に浮かぶようだ。


まったく。どこにいようと離れようと。
変わらず相思相愛か、お前らは。


波児が蛮に気付かれないように、顔を新聞で隠して笑みを漏らす。
「俺なら構わねえ。仕事は今朝で終わったからよ。…おうよ。なら、十時に迎えに行く。S駅の東口の方で待ってろや。…あ? いや、テメエは来んな! 迷子にでもなられちゃ、ややこしいからよ。――別にいいっての。車で何時間かかろうがその方が早い。こっちでテメエが来んの待ってたら、日が暮れちまうだろうがよ、方向音痴! …あぁ、わかった。だから、大人しく待ってろ。おう、そうだ。いいな。あぁ。…じゃあ、明日な。……ん? バーカ、何くだらねぇ心配してんだよ。大丈夫だ。…おうよ」
話は、どうやら無事ついたらしい。
果たして、蛮が持ちこまれた依頼をどうする気なのか、そこまでは判じ得ないが。
「…じゃあな」
用件の済んだ電話を切りかけて。
蛮の両眼が、少しつらそうに眇められた。
いつまでも聞いていたい愛おしい声に、つい、名を呼ぶ。

「――銀次」

引きとめるように呟いた名の後に、はっと自身で気付いて、自嘲のような苦い笑みを浮かべる。
「……いや、悪ぃ。何でもねえ」
それでも。
切りたくない電話なのは、どうやらお互いのようで。
二言三言、体調の話でもして。
しばしの沈黙の後。
蛮は再び、『じゃあな』と相手に告げると、躊躇するより早くボタンを押し、乱暴に二つ折りの携帯を畳んだ。

長い吐息が漏らされる。
かける声を拒絶するような、沈黙。


ややあって。
まだカップにコーヒーが残っているにも関わらず、蛮がスツールを立ち上がった。
カウンターの上の封筒を脇に抱える。
代わりに、ブラックジーンズのポケットから茶封筒を取り出し、カウンターに置いた。
「大して入っちゃねえがな。まあ、足りねぇ分は、もうちっと調べてもらってからだ」
情報料のツケはきかねぇぞと、随分以前に釘を刺されていたのを覚えていたらしい。
無論、波児の方は、銀次に関する調査に金を取るつもりなど毛頭なかったのだが。
よりにもよって、何もこんな時に金払うこともねぇのによ、と思いながらも、それが蛮のやり方なんだろうと納得し、『まいどあり』と有り難く封筒を受け取る。
できればそれよりも、食事代の方の膨大なツケを先にどうにかしてもらいたいものだが。
「…にしても。いいのか、明日デートなんだろ? 金、いるんじゃねえか? 別に今日じゃなくても俺はいい…」
「あぁ?!」
波児の言葉が終わらないうちに、扉に向かって歩き出していた蛮が肩越しに猛然と振り返る。
「誰がデートだ!」
「ちがうのか? 銀次とよ」
「バカ抜かしてんじゃねえよ! ヤロウ相手に何がデートだ。仕事だろうがよ!」
相手が相手だから、似たようなもんじゃねえかと内心思いつつ(これもおかしな言い様だが)、波児が両の肩を大袈裟に竦める。
「へいへい。けど、さっきの。何だかまるで、付き合ってる女との電話みてえだったぞ」
面白がっているような波児の言葉に、ケッ!アホ臭ぇと吐き捨て、蛮が忌ま忌ましげに店を出ていく。
カウベルがけたたましい音をたてた。