Deep Black ■  
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〜プロローグ〜





掟に背くとか、禁を破るとか。
そういうのは、俺にはどうにも難しすぎて。
よく理解できなかった。



『約束ごと』というのは、交わした互いのものだけれど。
そんな風に、一方的に押しつけたみたいな決め事で。
蛮ちゃんを、俺たちを、
縛ることなんて、絶対出来ない。
そんなのに、蛮ちゃんは絶対に負けない。
ずっとそう思っていた。



だけど…。
俺は知らなかった。
知らなさすぎた。
蛮ちゃんの背負っているもの。枷。
その重さを。






『蛮よ。お前は禁を犯した。そして、贖えぬ運命を背負った。邪眼を受け継ぐ者が、決して踏み込んではならない領域に、足を踏み入れたのだ』








――その禁忌の代償とは、『肉体の崩壊』――。







だのに、蛮ちゃんはそれを承知で、ワカってて、
それでも俺のために、俺を征かせるそのためだけに、
『悪魔の腕』を解放し続けた。














――そして、ついに――。

代価として。
















『右腕』は、砕けた。










俺の目前で。
蛮ちゃんの右腕は、肉体の内部から崩壊し、肉片を散らせ、血飛沫を吹き上げた。






――世界が、一瞬で真っ赤に染まった。






















最後にもらったのは。
この世の誰よりも大切で、愛おしい人の。
やさしいキスと。
頬に寄せられた左の掌。
あたたかな微笑み。
そして、言葉。


"ありがとう…な。銀次……――"





「ば、蛮ちゃん…! 蛮ちゃん…?!」










そして、世界が、彼から遠ざかっていく。










こおりのようなくちびる。
おちていく、て。
きえたほほえみ。
もう、ことばはなくて。








「嘘だ! 嫌だよ、蛮ちゃん…! いやだ、いやだ…っ! ねえ、目を開けて! 俺を見てよ、蛮ちゃん! お願いだから! 蛮ちゃん、蛮ちゃん! ねえ…っ! GetBackersのSは、ひとりじゃないって意味だって…! 先に、そう言ったの、蛮ちゃん、じゃんかぁ…っ! ひとりにしないでよ! 俺を一人にしないでよ、蛮ちゃん…! ねぇ、蛮ちゃん! 目を開けてよ、蛮ちゃん! 蛮ちゃぁああぁああ……ん!」













静寂の中。
そこにあるのは。
ただ、一面の血の赤。













こんなの、だめだ…!
こんな風に終わっちゃだめだ!
駄目だから…!





気の狂いそうな絶望の中で。
ただ、願った。
強く、強く、強く、強く――!
『生きて欲しい』と、ただそれだけ。







自分が欠けても、何もかも無くしても、
それ以上、どんなことでも、
どんな罰でも痛みでも、それが永遠でも。



構わないから。
平気だから。
何でもするから。



俺が、代わりに堕ちていいから。
そのすべての罪を背負うから。







だから、どうか、この人を。
このまま、死なせてしまわないで――。
















そして、俺は。

『声』を聞いた――。













ならば、雷神よ。
蛮とともに、その『咎め』と、
そして、『代償』を受け入れるか?













…はい。
















はい、おばあちゃん。
















俺は首肯き、微笑み、そして、闇の中へと身を投じた――。














一番最後の記憶は。






"駄目だ。テメエは来るな"とそう言って、引き上げてくれた血まみれの右腕。
切なげで、きれいな紫紺の両の瞳。
束の間、邂逅して、すれ違った。







だけど、どうか止めないで。
堕ちていく俺を、どうかこのまま、黙って征かせて。
そのくらいしか、俺に出来ることは、もうないから。
だから、征かせて。







"ありがとう"はね、蛮ちゃん。
俺の台詞だったんだよ。
ずっと、蛮ちゃんに言いたかった。



俺よか先に言っちゃうなんて、狡いんだから。
…駄目だから。









ありがとう。
蛮ちゃん…。









「ぎ…銀次…! 銀次ィィイイィイイ――――!」


















そして。
あとに、残されたのは――。


ただ、ひたすらの閑かな闇。





















† † † † † † † † †  Deep Black  † † † † † † † † † † † †




















時刻は、午前十二時を廻ったところだ。
車を降り、運転席のドアに凭れ、煙草の煙をくゆらせながら、明かりのない窓を見つめて思う。





もう眠ったか?
よく眠れているか?
怖い夢など、見てはいないか?



なんてな。
まったく。ガキじゃあるめえし。




それでも。思うことは、そんなことばかりで。
考える度に、抉られるように胸は痛むのに。
想わずにはいられない。



愛おしさは、今も変わらず。
いや、むしろ、
以前にも増して、募るばかりだ。






「…!」

見上げる蛮の視線の先で、銀次の部屋のカーテンが微かに揺れた。
蛮の両眼が、やや眇められる。


この数日。
どうやら、ずっとこの場所に留まっている蛮が気になるらしく、自室のカーテンの隙間から、何度もこんな風に様子を伺ってきていた。
だが、声をかけるのは憚られるのか、ちらちらと見つめるだけで。


それが。
今夜は、どうした心境の変化か、唐突に動いたのだ。



気配が窓辺から遠のき、しばしして、玄関の明かりが点された。
こんな時間にどうした?と内心で思いつつも、そろそろこちらも出る時間かと、蛮が時計を確認する。
そんな蛮の目線の向こうで(車の通りは少ないが、道幅はそれなりに広く取ってある)、玄関扉が横に開かれ、門扉も開かれると、家の外に勢い良く飛び出してきた姿に、蛮がぎょっとしたように目を懲らした。



夜目にも鮮やかな金色の髪。
蛮のくすんだ紫紺の右目が、大きく瞠目してそれを捉えた。
視力のほとんどを失い、さらに色彩の無い世界しか映さなくなった左の瞳でさえ、その金色だけははっきりと見える気がした。



何かを抱えて、ぱたぱたと跳ねるように駆けてきた銀次は、蛮の目前まで来ると、手に持ったそれを差し出し、強引に蛮の手に押しつけると、にっこりと屈託ない笑顔で言った。


「あげる!」


「…は?」
条件反射のように受け取ってしまった蛮が呆然としている間に、銀次はくるりと踵を返して、またぱたぱたと門へと引き返して行く。
「ちょ、テメエ…! おい!」
慌てて呼びとめる蛮に、肩越しに振り返って、銀次が再びにっこりと笑った。
「差し入れ!」
「あぁ?」
「ごはん、食べてないんでしょ? 美味しいんだ、其処のたこやき!」
「………は?」
さらに呆然としているうちに、家の中に戻った銀次が、玄関の明かりを消す。
そして、二階の自室へ戻ったらしい(まるで外でも、ぱたぱたと階段を上がる足音が響いてきそうだ)タイミングで、蛮の携帯がスバルのサイドシートで鳴り響いた。
それを、開いたままの助手席側の窓から取り、蛮が耳に押し当てながら、運転席側に戻って、そのドアを開く。


着信の相手が誰かなんて、確認するまでもない。
それでも、既に登録されているナンバーが、それが銀次であることを蛮に教えていた。
「おい!」
いきなり抗議のように電話に怒鳴りつつ、運転席に滑りこむ。
強引な行動の割には、やや遠慮がちな声が、電話の向こうから蛮の耳に届けられた。


『…あの。もしもし?』


「おう」
『あの。俺。えっと。お昼に、ピザ屋の宅配中に地図見せてもらった者、だけど』



…あのなあ。
何を今更。
というか、テメエ。
そもそも順序が逆だろうが!



思いつつ、ややぶっきらぼうに蛮が返す。
「ピザもたこ焼きの配達も、俺は頼んだ覚えなんかねぇぞ」
『え! あ、そうじゃなくて…! それに、それは配達じゃなくて、差しいれだから』



そんな事を言ってんじゃねえ。
このバカ。



「おい、こりゃ何の真似だ」
『だから、差しいれだってば』
「なんで見ず知らずの俺に、しかも、深夜にいきなりたこ焼きなんぞ」
『お父さんがさっき帰ってきて、おみやげだって。俺と妹に買ってきてくれたんだけど、妹、まだ一年生でとっくに寝ちゃってるから』




"お父さん"に、
"妹"――。




家族構成は既に確認済みだが、それを銀次の口から聞くのは、何とも言い難く、苦々しく複雑な思いがする。


「その妹の分か? てことは朝になって、自分の分が無えとか泣かれ、食った俺が恨まれるってそういう寸法か。冗談じゃねえぞ」
『じゃなくて、あげたのは俺の分。あきちゃんの俺が貰っちゃったから。それに妹は、そんなに食べないんだよねー、たこ焼き。だから恨まれたりしないから、大丈夫』
「って言ってもよ」
『だから。遠慮無く食べて』

「――お前な…」

別に遠慮してるワケじゃねえがよ。
『あ、言っておくけど、変なものとか入ってないからね! 俺も今から食べるとこだし。わ! まだ、アツアツだー。はふーはふー。うお、あっちち!』



「――気ぃつけて食え…」



舌打ちと溜息をつきつつも、仕方なくその包みを開き、突き刺さっていた爪楊枝で、大きめの丸いそれを口に運ぶ。




へえ。確かに。
なかなかに旨い。

そういえば。
旨いと感じたことも、かなり久しぶりだ。
今までは、何を食べても味などろくにしなかったから。




煙草も酒も、波児の煎れるブルマンさえ――。