「Deep Black」




ふいに。
そんな蛮に応えるかのように、隣のシートの上で携帯が鳴った。
着信の相手の名に、青灰の左の瞳を驚いたように見開き、やや惑った後、それを手にする。
無言で取られた電話に相手も少々困惑したのか、一呼吸置いてから、躊躇いがちに口を開いた。


『…もしもし』
「…ああ」
『あ…。ごめん。もう寝てた?』
「――いや」
『そう。…なら、よかった』
相手の声が、安堵の色を帯びる。
蛮は気づきながらも、努めて淡々とそれに返した。
「こんな時間に、何の用だ」
『あ…! うん。別に用ってわけじゃないんだけど。…なんだか、眠れなくて』
「それで?」
『う、うん。それで、もし起きてるんだったら、少し話がしたいなぁって』


昨日、少し話しただけの、『奪還屋』とかいう得体の知れない職業の男相手に?


蛮が、うっすらと自嘲のような笑みを浮かべ、ぞんざいに返す。
「俺は、別に話すことなんざねえ。お子様は、とっとと布団に入って寝ろ。目瞑ってりゃ、そのうち眠れる。じゃあな」
抑揚の無い、にべもない言い口調に、電話の向こうで相手が慌てる。

『あ! 待って、切らないで…! ねえ、あの、"奪還屋さん"…!』

耳に馴染んだ忘れようもない声が、耳慣れない他人行儀な呼称で蛮を呼ぶ。
蛮の瞳が、まるで痛みを堪えるかのように細められた。
胸のあたりが、冷たく凍える。
「何だ。俺は、こう見えても忙しいんだよ。テメエの不眠症の相談になんぞ、のってやれるほど暇じゃねえ」
『ご、ごめんなさい。仕事中、邪魔してるって、わかってるんだけど…。でも、あの…! 俺、どうしても、もう一度、話したくて…』



言葉と同時に、ブルーのカーテンが揺れた。
その窓に、夜目にも鮮やかな金色が覗く。
蛮のくすんだ紫紺の右目が、はっと見開いてそれを捉えた。
視力のほとんどを失い、さらに色彩の無い世界しか映さなくなった左の瞳でさえ、彼の金色だけは見える気がした。
たぶん、瞳の琥珀色も、きっとわかる。


『ねえ、そこに行っていい?』

電話の向こうでおずおずと訊ねる声に、蛮の胸と、力を失った右腕が疼くように傷む。
だが、きっぱりと拒絶した。


「駄目だ」

『どうして?』
かなしそうな声が答える。
「家のモンが心配するだろうが。んな夜中によ」
『どうして? だって、別に遠くに出掛けるわけじゃないし』
ましてや、かよわい女の子でもないし。
だから、そういう意味でも特に問題はないと思う。
そんな風にはっきりと言ってのける口調に、蛮が思わず、気づかれぬように苦笑を漏らす。

やれやれ。
いつのまにか、えらく口達者になりやがって。


しかし、だからといって。
昼間ならまだしも、こんな月もない、闇一色の夜に。
その顔を間近で見る事は、直接声を聞く事は、やはり――。堪える。
重い溜息を、それもまた気づかれぬように落として、蛮が応えた。