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「今宵、桜の樹の下で」
〜2006.4.19 銀次お誕生日記念SS〜





「あれ?」


『Honky Tonk』から、公園に駐車しているスバルに戻る道の途中で、蛮から半歩ほど遅れて歩いていた銀次が、ふと立ち止まり、いきなりポケットの中をごそごそと探り始めた。
気づいた蛮も、数歩前で足を止める。

「何やってんだ、銀次?」
「うん? 何かね、ジャケットのポケットに…」
言うが早いか、はらはらとそのポケットから溢れてくる花びらを見下ろし、蛮が怪訝そうに眉を顰める。
「なんだ、テメエ。俺様が必死でビラ配りしてる間、サボって桜の木の下で昼寝でもしてやがったのか?」
「ええっ、そんなわけないでしょ! 蛮ちゃんこそ、俺と分かれてからパチンコとか行ってたりしたんじゃない!?」
「馬ー鹿言ってんじゃねえ! 俺様は、至極真面目にだな…!」
「あっ?」
「あ゛ぁ? 今度は何だ」
再びポケットをごそごそやりつつ、銀次が、今度は小さく折り畳まれた紙片を取り出した。
「何だろ、これ。何か手紙みたいだけど。えっと…? 今…、こん?? うう、蛮ちゃん、この漢字…」
情けない顔で"読めない…"と紙切れを差し出す銀次に、蛮がやれやれと眉を下げつつ、それを受け取る。
「どら、貸してみろ。――あぁ? 何だ、こりゃあ」
「何なに? なんて書いてあんの?」
興味津々に蛮の手にある手紙らしきものを覗き込む銀次に、蛮がその内容を読んで聞かせる。


「『今宵、十字池のほとり。桜の樹の下で待つ。今宵は、桜が満開。是非、来られたし』―だとよ。花見のお誘いってか?」


「…十字池?」
今度は、銀次が怪訝そうな顔になる。
「知ってるのか?」
「え、うん。ロウアータウンの西ブロックの端に、そんな名前の小さな池があったけど…。でも、そこ。あんま、いい思い出なくて…」
「銀次?」
「あぁ、ううん、何でもない! あー、でも確か、池のそばには桜の樹なんて無かったけど?」
「…そっか。まあしかし、どっちにせよだ。新宿界隈の桜は、ほとんどが散った後だってのに、わざとらしく"満開"だの書いてくるあたりで、既にかなり胡散臭ぇてえの」
「だね。じゃあ、やっぱ悪戯? それとも、俺らをおびき寄せるための罠とか?」
「さあてな」
「うーん」
蛮の手からその手紙を受け取り、銀次が首を捻るようにしながら少々考えた後、ふいに蛮を見て言った。

「ねえ、行ってみる?」

「あぁ?」
「行ってみようよ、蛮ちゃん。もしかして、本当に誰か待ってるかもしんないし」
「はあ?」
「だってさ。もし悪戯だったにしても、このまま放っておくのも、なんか気になるじゃん。それに。もしも、本当に俺たちのこと待ってる人がいるんだったら、すっぽかすの悪いし」
「…何をまた、お人好しな事を。すっぽかすも何も、別に行くと返事をしたわけでもねえだろうが」
「でも、だけどさ。あ! ほら、もしかして、奪還のお仕事の依頼したくて、とかさ! そういうのもアリかもしんないし!」
尚も言い募る銀次に、蛮がさも呆れたような口調で返した。


「あのなぁ…。――明日の朝。早くに出発してぇんだろうが?」


確かにそのために、今夜は早めに『Honky Tonk』を引き上げて、とっとと車に戻って寝ることにしたのだが。
蛮の言葉に、思わずうっと応えに詰まりつつ、それでも、さらに銀次が言う。
「う。そ、そうだけど…! でも、ちょっと行って、誰もいなかったら、すぐ帰ってきたらいいんだしさ。ねっ」

「…ったく、テメエは」


相変わらず、言い出したらきかない。
見た目よりずっと、この相棒は頑固なのだ。
それを誰よりもよく知っている蛮は、肩を落として、深々と息を吐き出す。


「まあいい。俺らGBを誘き出そうなんざ、命知らずのフザケたヤロウ共の、ツラぐれぇ拝みに行ってやるのも悪かねぇか」
「うん!」


蛮の言葉に嬉しげに頷く銀次に、まったくテメエはと軽く舌打ちをして、蛮が”そんじゃあ行くか”と踵を返し、スバルから無限城へと行き先を変更して歩き出す。
「あ、待ってよ!」
ぱたぱたと小走りに追いつく銀次を肩越しに振り返りつつ、だが、蛮は少々厭な予感も抱いていた。



仮に、実際手紙の主が待っていたとしても。
どうせ、大した用じゃないだろう。
気に入らないのは、呼び出された場所だ。

"結果的には、またしてもテメエか"と、蛮が夜の闇に高く黒く聳え立つその城を睨む。

まったく、忌々しい。
いや、気にくわないのは、手紙の主も一緒だ。
こんなふざけた手紙を、ヒトの相棒に慣れ慣れしく送ってくるヤツなど、放っておけるワケがない。
二度とこんな身の程知らずな真似の出来ないよう、いっちょシメといてやらねぇと。


本心ではそんな事を考えつつ、蛮は、咥え煙草のまま、さらに大股で歩き出した。
















「うわあ…っ」


その光景を見るなり、銀次が思わず歓声を上げた。
夜を彩るかのような、桜、桜、桜……。
数えきれないほどの桜の樹が、丘の上に向って連なり、風にその花びらを散らしている。
溜息が出るくらい、妖艶で美しい光景に、蛮もしばし佇んでそれを見上げた。

「こいつは――。バーチャルか? ってことは、ご招待の主は、またしてもパソコン坊やかよ」
「うーん、でもなんか違う感じ。第一、マクベスだったら、普通に招待してくれると思うんだけど」
「そいつは、招待したのがテメエ一人だったらの話だろうが」
「うん?」

きょとんとする銀次に苦笑を漏らし、蛮がその丘を仰ぎ見る。





確かに、銀次の言った通り。
十字池のそばには、桜の木どころか、雑草すら無かった。
だが、誘われるようにそのそばに近づいた途端。
二人は、まったく別の空間へと、瞬時に運ばれてしまったのだ。






そして、今、此処にこうして居る。


無限城の内部は、もともと現実とバーチャルが入り混じって成されてる空間なのだから。
こんな事が起こっても、特に珍しい話ではないのだが。
それでも此処は、誰かの手によって、人為的に意図的に作られたにしては、どこか趣が違う気がする。




広大な丘。
夜空には、大きな青い月。
大きな花びらがまるで雪のように降り注ぎ、薄桃色の花の嵐のように風に流れて、髪や体に纏わりつく。
もっと上へおいでよと、まるで誘っているかのように。



上等だ。
心で蛮が一人ごちる。


「上の方まで登ってみるか」
蛮が、丘の上を親指で差して言う。
「うん! そうだね」
答え、足元にまとわりつく花びらを、踏んでしまわないように注意しながら、銀次が蛮の後をついて、ゆっくりと歩き出した。



丘はなだらかではあるが、それでも、少々歩きにくい。
風に散らされては視界を覆う花びらと、むせ返るような花の匂いに、何だか酔ってしまいそうになる。



ふいに目の前に差し出された掌に、銀次が”え…っ?”と訊ねるように蛮を見上げた。
そんな琥珀に、蛮の紫紺が、ふっと細められる。
「遅ぇ」
「あ、ごめん。何か、ちょっと歩きづらくって」
「…ほら」
だったら、とばかりに差し伸べられる手に、銀次がやや躊躇いがちに自分の手を重ねると、あたたかな掌がそっとその中に銀次の手を握ってくれた。
「蛮ちゃん…」
銀次の顔に、はにかむような笑みが浮かぶのを見、蛮の瞳がさらに細められる。
どうやら照れ臭いのか、そのまま視線を逃すと、銀次の顔は見ず、蛮はぶっきらぼうに繋いだ手だけを引き寄せた。
「おら。行くぞ…」
「うん」






そして。
無言のまま、静かで、おごそかで、ただ美しい夜の中を二人で歩いた。
まるで、幸福な夢の中を歩いているかのように。
だけど、繋がれた互いの手の確かな温もりが、これが、夢の中の出来事ではないのだと語っている。
不確かな空間の中での、リアルな感覚。







ゆっくりと丘を登っていくと、立ち並ぶ桜の木々が次第に眼下へと下りて行く。
そして、目前の丘の頂きには、1本の大きく見事な枝ぶりの桜の樹が在るのが見えた。
咲きこぼれるような花の一つ一つが、眼下に見下ろすどの樹の花よりも、かなり大きく、そして色鮮やかだ。

「うわあ、すごいねぇ、蛮ちゃん…」
「あぁ」
その真下にやっと辿り着き、銀次が感嘆の声とともにそれを見上げる。
「なんて、きれいなんだろう。他の桜とは、また種類が違うのかな?」
「だろうな。俺も、こんな桜の種は見たことがねぇが」
「ふうん…。でも、きれいだ。とても」
「あぁ、そうだな」
「春に桜が咲くのを見るとさ、日本っていいなって、しみじみ思うよねえ」
「テメエの楽しみは、どうせ桜餅とか食い気の方だろうがよ」
「む。失礼だなぁ。俺だって、お花を愛でるとか、そういうのも…! あれ」
「あ?」
突然あたりをきょろきょろと見回す銀次に、蛮がなんだという顔でそれを見つめる。
「ねえ。そういえば、誰も来てないよね…? やっぱり、ただのイタズラだったのかな」
少々残念そうに蛮を振り返って言う銀次に、その背後で、にやりと蛮が応える。

「だったら、好都合なんだがよ」

「え?」
「おあつらえ向きじゃねえか。」
「へ…?」
「いや。もしかすると、俺らに気を利かしてくれたのかもな?」
「え…! な、何それ。どういう意味っ」
「さあて?」
”わかってて、しらばっくれてんじゃねえよ”と含み笑いを一つこぼして、蛮が桜の樹に、銀次の背を凭れさせるように立たせ、両の頬を手の中に包み込む。
「ちょ、ちょっと蛮ちゃん。こんなとこで…!」
「こんなとこだから、いいんだろうが」
「そっ……」


言葉は、口付けによって中断された。
月の青い光を受けて、銀次の閉ざされた瞼が震える。
はらはらと淡い桃色の花びらが、二人の廻りで風に踊り、小さな花の嵐を起こした。





恰好のシチュエーションの中で。
口付けは、殊の外、長かった――。










「…もうっ」

樹に軽く凭れて立ち、煙草をくゆらせる蛮の隣に腰掛けて、銀次が口を尖らせるようにして、小さく抗議の声を漏らした。
蛮がそれを聞きつけ、喉を鳴らして低く笑う。


もう少し手紙の主を待ってみようということになったものの、相手はどうやら、このまま姿を現す気はないらしい。
と、いうことは。
ただ、この満開の桜で彩られたあでやかな空間を、銀次に見せたかっただけなのだろうか?
それも少々納得しかねるが。
思い、蛮が薄桃色に煙る丘の向こうを遠く見つめる。



どこまでも続く桜の木立は、二人の視界の下で、風に煽られ、薄桃色の花びらを雪のように散らしている。
夜空には、ぽっかりと大きな丸い月。
さざめく星は僅かばかりで、月だけがその下界に光を投げかけている。
この世のものではない、不思議な空間。




……でも。


何かこう。
こういうのって、なかなかロマンチックでいいかも。



静かで、きれいで、ふたりきりで。


なんか、たまにはさ。
こういうのも、いいよね?



こういうとこに、静かにふたりっきりでいるのって。


うん。
なんか、いいよね。
すごく、いいよね。



少し乙女な発想かなと思いつつ、銀次が一人笑みを浮かべ、蛮の脚に甘えるようにコト…と頭を傾ける。
蛮の紫紺が驚いたようにそれを見下ろし、そして、やさしげにすうっと細められた。

煙草を持ち替えた蛮の手が、銀次の頭の上に降りてきて、金色の髪をくしゃくしゃと撫でる。
それにくすぐったそうに首を縮め、銀次が微笑み、蕩けるような琥珀の瞳で蛮を見上げた。
しあわせそうだ。




「蛮ちゃん」
「ん?」
「静かだね」
「…ぁあ」
「それに、とてもきれいで」
「…そうだな」
「蛮ちゃんと、二人っきりだし」
「ああ」

「俺ね」
「…おう」






「しーあーわーせ」






「アホ…」
「…へへっ」






嬉しそうに頷く銀次を、この上なくやさしい紫紺で見下ろして、蛮がやわらかな金色をそっと撫でる。
内心で想った。





確かに、至福というんだろう。






静かで、
きれいで、





いや、そんなことはどうでもいい。








ただ、
銀次がいる。

俺は、それだけでいい――――。











「ねぇ、やっぱ、来ないよね?」
「ん? あぁ、そうだな」
「がっかりだなぁ」
「そう言うな」
「でも、まあ。おかげで、蛮ちゃんとゆっくりお花見できたんだし。それはよかったv」
「まぁな。しかし、こんなことなら、缶ビールと摘みでも買ってくるんだったな」

「そうだよねぇ。あ! 何だったら、俺、今からでも買いに行っ…! ――痛っ」

勢いよく立ち上がろうとして、ふいに銀次が顔を顰めて、驚いたように頭上を見上げた。
「どうした?」
「う、うん。ちょっと」
「何やってんだ、テメエ」
「んあっ! いたた…。なんか、髪の毛が枝にからまっちゃって」
「トロ臭ぇヤツだな、テメエは。あぁ、コラ! 無理に引っ張るな」
「痛ぁっ! 蛮ちゃんの方が乱暴すぎだよ、もう〜っ!」
「取れたぜ」
「いたた、ありがと…。って、あれ? 変だな。さっき、こんなに下の方まで、枝が下がってなかった気がするけど」
不思議そうに、自分の頭の上に覆い被さるように伸びる、細い枝を銀次が仰ぎ見る。

確かにさっき坐った時は、一番近い枝でも、もっとずっと高い位置にあったような…? 
今、目前にある花も、さっきはもっと遠くに見えていたような。



ふと。
大輪の桜をじっと見つめていると、意識が次第にぼんやりしていくような、奇妙な浮遊感に襲われた。
大きな花びら。
およそ、現実世界ではお目にかかれないような、類稀な桜の種。


風が丘を吹き抜けていき、花びらが枝を離れてひらひらと降り注いでくる。
その1つが銀次の腕に触れ、チカ…と微かな痛みを残して地に落ちた。

「あ……? 何か、今」
「銀次?」

どうしたかと問うように銀次を見下ろす蛮の紫紺が、ふいにその視界の隅に何者かの気配を捉え、一瞬で鋭い光を放った。
威嚇のように、ギリッ…と何もない一点を睨む。

そんな蛮の殺気にすら、なぜか気づく事なく、銀次は不思議そうに自分の腕をじっと見つめると、蛮に言った。
「赤くなっちゃった」
「あ?」
「ほら、ここ」
「どうしたんだ?」
「桜の花びらが触れてっただけなのに、なんか、こんなになっちゃって」
「花びらが?」
腕を見つめ、小首を傾げるようにしながら、銀次が蛮にそれを見せた。
蛮の表情が、にわかに険しくなる。


まるで、朱色のインクを滲ませたような、赤い痣。
蛮がいつも銀次の身体に刻む、赤い印にもそれは酷似していて。


「こら! テメエなぁ」
「ん?」
「俺以外のヤツに、こういうの、つけさせるんじゃねぇ!」
「え? ななな、何言ってんの、蛮ちゃんってば! だからこれは、桜の花びらが……! ア…っ」
真っ赤になって喚きかけた銀次の両肩が、突然ぴく!と大きく跳ね上がった。
蛮がいきなりその腕を引き寄せ、同じ場所に唇で触れ、きつくそこを吸い上げたのだ。

「ば、蛮ちゃ…っ」

「おし。これで良し、と」
「うわあ、これで良しじゃないよ。もう〜! こんな目立つ場所に思いきりキスマークつけたら、恥ずかしいじゃんか!」
「文句抜かすな」
「文句も何も、だって、これって、ほんとにいかにもキスマークだしっ! 誤魔化しにくいしっ。夏実ちゃんとか、見かけによらずにスルドイのに、追及されちゃったらどうすんの〜!」
「あぁ、うるせえ。喚くな」
「だって…! あ。わかった。もしかして、蛮ちゃん。桜さんにヤキモチ妬いちゃったとか?!」
「……あ?」
「えっ!? ねえ、そうなの? ほんとにマジで蛮ちゃん、桜の樹にシットしちゃってんの? ねえ、蛮…」


「――なあ、銀次」


蛮が瞳を懲らすようにさらに険しい顔つきになると、その一点を睨み付け、一人盛り上がる銀次を遮るように名を呼んだ。
「え?」


「そこから見えるか?」


「…な、何が?」
「見えねぇか?」
「え、何……?」

やけに厳しい面持ちの蛮に、その視線を辿って銀次が振り返る。


だけども、そこにはただ静かに、見事なの大輪の桜があるだけで。
夜の景色に、桃色の大きな羽を広げたように、見事な枝を四方に開いて。


「桜の樹…が、あるだけだけど…?」


少し不安げな銀次の答えに、蛮がふっと険しい表情を解くと、やおら銀次の肩を抱き寄せ、その耳に囁いた。
「知らねえか? 昔から言うだろうが。桜の樹の下には魔物が棲むだの、その根元には死体が埋められてるだの、よ」
怪談を話すように低く不気味に言われ、ビク!と瞳を見開いて、銀次が思わず蛮の腕の中に潜り込むようにしながら、恐る恐る桜の根元を振り返る。
その怯えたような顔を見、蛮がくくっと笑いを漏らした。

「怖えのか? ガキだねぇ」

その言葉に、カッと真っ赤になって、銀次がぱぱっと素早く蛮から身を離す。
「ばばば蛮ちゃんっ! やめてよね、こういう状況で、そういう事言うの! 本気にしちゃったじゃんかっ」
「いや、別に冗談のつもりじゃねえが」
「余計悪いよ、俺、そういうの、マジで苦手なんだからね!」
「ああ、がなるな。わかったわかった」
「もう、ただでさえもね! あの十字池のあたりって、俺がまだ子供の時、下層階の人が一度にたくさんベルトラインの奴らに殺された場所で…! その後ずっと、池の水が…真っ赤になってて……。俺、すごく怖くて」
「銀次…?」
思わず語尾を震わせる銀次に、蛮が驚いたようにそれを見つめ、そして、右手でその頭をそっと自分の肩口へと抱き寄せる。
宥めるように、やさしく金色の髪を撫でた。

「そっか、悪ぃ…」





あまりいい思い出がないといったのは、そういうワケか。
蛮が思う。




だとしたら。





"あれ"はその中の、迷える魂のうちの一つだろうか?




…いや。違うな。
あれは、そういう類のものとは、まったく別の。
そう、どちらかといえば、魔性だとか、物の怪の――。





「悪かった。冗談が過ぎたか」
「…あ。ううん。俺の方も、つい怒鳴ったりして…。そんなつもりじゃなかったのに…」
「わかった。もういい」
「蛮ちゃん…?」
「もう、黙れ。銀次…」


「蛮、ちゃん…?」


やさしい紫紺に至近距離で見つめられ、銀次は静かに、応えるように瞳を閉じた。

しっとりと口づけられ、やさしく舌を絡めとられる。
先程のキスとは、また違う。
甘さも、深さも。



何度も何度も重ねられる口づけと、むせかえるような花の香りに酔うように、銀次は、次第に頭の芯がぼんやりと甘く痺れていくのを感じていた。



ひときわ強い風が、また丘を吹き抜け、桜の枝がそれにしなって、ざわざわと音をたてた。












「あ…」

ジャケットをはだけられ、Tシャツを胸の上までたくし上げられ、月明かりの下に鮮やかな白い肌を晒して、銀次が少し困ったような顔をする。
「…ねえ」
「ん?」
「ここでするの…?」
「不満かよ」
見下ろして、蛮が笑う。
桜の樹の下でなんて、ロマンチックじゃねえか。と言われて、確かにそうだとは思うけれど。

外でなんて、初めてだよ?

でもさすがに恥ずかしくて、それはちょっと口に出来なかったけれど。
「なんかちょっと、怖い、かも」
「誰かに見られんじゃねぇか、ってか」
「うん…」
「ま。パソコン坊ややらホスト野郎やら、ここにゃ覗きの得意そうなヤロウが、うじゃうじゃいやがるがな」
「うわー…」
「ま、別にいいじゃねえか。見てぇのなら、見せときゃいい」
「な、なんか、蛮ちゃんにしては、めずらしく太っ腹というか――。いや! そんなこと言ってる場合ではなくて、ですね…! よくない、よくないです! 蛮ちゃんはよくても、俺は全然よくないから!」
「ちゃんと、テメエもヨくしてやってるじゃねえかよ。いつも」
「ン…! ちょっ、蛮ちゃん、そういう、ヨくじゃなくて、ですね…! 俺が言いたいのは……! ア…!」
「どうせ見てるだけで、何も出来やしねぇんだからよ」
「え、何…? やっ……! ば、蛮ちゃん…っ」
「せいぜい指咥えて、そこで大人しく黙って見とけや。覗きヤロウ」







――コイツが、俺のものだって事を。







「――蛮ちゃん…?」

もしかして、そういうのって、すごく悪趣味って言わない?と、やや抗議のように銀次が言うと、蛮は”そうか?”と喉の奥でくくっと笑い、草の上に横たわらせた銀次の唇を、その不敵な唇で熱く塞ぐ。

一度離してはまた口づけて、幾度も幾度も、じゃれあうようにキスを繰り返す。
蛮の唇が、銀次の前髪と額にふれ、それから掠めるように頬に口づけると、耳から首筋を辿って降り、鎖骨を舐め上げ、夜風に微かに震える胸へと唇を寄せた。
淡い桜色に舌を絡ませると、そこはたちまち隆起して、ぴく!と可愛いらしい反応を蛮に返す。
その傍らをきつめに吸って、所有の印を刻むと、銀次が甘く微かな悲鳴を漏らした。
蛮が、ほくそ笑む。

右手が、しなやかな身体のラインを辿って下に降り、既に固く熱を帯びた場所に布越しにふれると、途端にビクリ!と銀次の全身が震え、きれいな曲線を描いて、その背が大きくしなった。


「あ……ぁ………!」





そのまま。

ひたすらに、
存分に、

銀次を甘く啼かせながら、
蛮はその身体の上から、ふいに睨むように桜を見た。







――目が合う。






既に、蛮の施す愛撫に夢中になっている銀次は、その視線にすら気づくことはない。
ひゅうう…という泣き声のような風の音ともに、枝のしなる音がして、花びらが多量に宙を舞う。
その一つが銀次の胸に落ちると、先程と同じように、微かに触れただけのそこに、小さな赤い痣を作った。
蛮が殺気立って、「それ」を睨む。


(テメエ――。ヒトのものに、勝手に痕なんぞつけやがるんじゃねえ…!)


心の内で吐き捨てて、その痕に、嫉妬のように上から口付け、再び己の所有の印を刻む。
忌々しげに「それ」は蛮を見下ろすと、しかしそこからはどうしたって動けないらしく、ただ佇んで、想い人の、快楽に次第に薄桃色に染まっていく肌をじっと見つめた。

















――あれは、いつの頃だったか。

遠い記憶。







まだ小さかった手で、君は、
手折られた痩せた枝を、可哀想にと拾い上げ、
そっと土に戻してくれた。




この無限城で。
血と殺戮しかない、この世界で、君は。



たったひとつの。
「やさしさ」をくれた。







あれからずっと。
僕は、君に焦がれていた――。







そう、君が。
『雷帝』と呼ばれるようになった後も、ずっと。







ずっと、ずっと、もう一度。
君に、会いたかったんだ……。
















墜ちていこうとする銀次の、意識の深く、深くにその声が届く。





声というより、音のような、
音というより、風のような。










「……?」
薄く瞳を開いた銀次は、どうした?と蛮に問われ、"ううん、なんでも、ない…"と、また瞳を閉ざした。
それでも両腕が蛮を探して伸べられ、甘えるように縋るように、その首へと絡みつく。
"大丈夫だ、此処にいる"と、応えのようにキスを返すと、銀次が小さく頷き、微笑みを浮かべた。




その後はもう、ただ熱に浮かされるばかりで、何も考えられなくなってしまったけれど。











「あ………あ…っ………んぁ……あぁ…っ」



途切れ途切れに漏れる喘ぎを、自分の手で口を押さえてなんとか堪えようとする。
その手を開いて草の上に押さえつけ、蛮は、甘く絡みついてくるその体内へと熱を撃ち込みながら、まるで聞かせるかのように、ただひたすら、銀次を奔放に啼かせ続けた。



その背の下で。
まるで薄桃色の絨毯を敷きつめたような花びらが、律動に合わせて、ふわりふわりと宙に浮かぶ。






――こいつは、俺のものだ。 絶対に、誰にも渡さねえ――





蛮の、心の声を聞きながら。
呼吸さえも奪うような、口付けを受けながら、

きつい快楽に、息をきらしながら昇りつめて、
その意識を失う瞬間。




銀次は、桜の樹の下に立つ、白い人影を見たような気がした。
…まるで、魔性のもののような。




それは、真白な長い髪と、透きとおるような蒼白の肌の美しい男のようで。
少し切なそうな顔をして、ただじっと、銀次を見つめていたようだった。








それさえも。
もしかしたら、夢だったのかもしれないけれど。

























気がつくと、そこは、見慣れたスバルの車内だった。

サイドシートで目覚めた銀次は、数度瞬きをして、ゆっくりと辺りを見回した。
「あれ? いつの間に眠っちゃってたんだろ…?」
首を傾げる銀次に、同じように運転席で目覚めたらしい蛮が、身を起こしながらかったるそうに、窓からそよいできた風に乱れた前髪を掻き上げる。
「て…ッ! くそ、寝違えたのか。首が痛ぇ」
「大丈夫? 蛮ちゃん」
「…あぁ。なんだ、テメエ。起きてたのか?」
「うん、今、起きた。っていうか、でも、あんまり寝てたって気がしないんだけど」
「あぁ? 何寝ぼけたこと言ってやがる」
「だってさ。なんか、今までどこかに行っていたような、そんな感じがして」
「はぁ?」
「うーん。うまく言えないけど、なんか、すごいリアルな夢見てた気がする」
「夢?」
「うん。ええっと。……思い出せないケド」
「何だ、そりゃあ。おら、つまんねぇ事言ってねぇで、とっとと寝ろ。何だよ、まだ、さっき寝てから一時間も経ってやしねぇじゃねえか。朝、早ぇんだからよ、さっさと――」
言いかけて、蛮がふと車内の時計を見た。
「ん? どったの、蛮ちゃん」
「――0時40分、か」
同じように時計を覗こうとする銀次の額を、指先で軽く弾いて、蛮が笑った。
「いたっ! それがどうしたの?」



「19日になっちまったな」


「あ」


想わず驚いたような顔になる銀次に、照れ臭ささがこみ上げてしまう前にと、蛮がさらりと口にする。

「誕生日、おめでとう」

ぶっきらぼうに、それでもあたたかく発せられた言葉に、銀次が一瞬で嬉しそうに頬を染めた。
「…ありがと、蛮ちゃん」
薄暗がりの車内でさえ、はっきりと見てとれる幸福げな笑みに、蛮が満足そうに笑みを返すと、その金の髪を愛おしげにくしゃくしゃと撫でる。


「さ、寝るぞ! 誕生日は、海見にいくんだろうが。このクソ寒いのによ〜!」
「だって、毎年恒例だもん」
「テメエが、勝手に恒例にしたんじゃねえかよ」
「いいじゃんか、蛮ちゃんも海好きでしょ! あ、また行く途中の、海が見えるレストランでモーニング食べよ。あそこのサンドイッチがさー…。あれ?」
「ん? どうした?」
ふいに自分の腕の上に花びらのようなものを見つけ、銀次が不思議そうに、それをやんわりと指に挟むと、逆の手のひらの上へとそっと置いた。
「桜か?」
「うん。そうみたい。でも、なんでこんなとこに?」
「車の窓から入ってきたか、テメエがどっかでくっつけてきたんだろが?」
「でも、この辺の桜って、もう散っちゃってるのに」
「車走らせてる時にでも、どっからか風に飛ばされてきたんじゃねえのか」
「あ、そっか。きっと、そうだね」
「あぁ」
納得したらしい銀次が、その花びらをどうしようかと考えて、ふと、ダッシュボードに置かれていた文庫本を取り上げると、その間に大事そうに挟み込んだ。


誕生日の記念に。
などど、胸でこっそり想いながら。


「おし、寝るぞ」
「うん! おやすみ、蛮ちゃん! あぁ、海楽しみだなぁ。晴れるといいね」
「天気予報は、晴天だとよ」
「本当? やったあ」
「だーから。とっとと寝ろ」
「うん、わかった。今度こそ、おやすみ」
「――おぅ」






















そして。
その誕生日の前の日の、不思議な夜の出来事は。
後からぼんやりと、少しだけ思い出したりもしたんだけれど。

でも、それが本当のことだったのか、夢の中でのことだったのか。
俺には、やっぱりよくわからなくて。


だから、俺一人の秘密にしておこうと、そっと胸の奥にしまい込んだ。















ただ、翌朝。
気がつくと、俺の腕には、いつのまにか小さな赤い痣が出来ていて。
それは幾日かが過ぎても、なかなかそこから消えることはなかった。








――そして、それが消えるまでの間。

痣を見る度、蛮ちゃんは、
なぜかひどく機嫌が悪くなった。













END








・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

銀ちゃん、はっぴーばーすでいvv
なんだかどうなるかと思ったけど、なかなかにしあわせなお誕生日話だったような気がします。
よかったよかったv
(蛮ちゃん、ちょっと大人気ない気もしましたが、ははは)
よかったらご感想や、銀ちゃんおめでとうメッセージなどいただけると嬉しいですvv