■ 自転車 ■ 「信っっっじらんねぇぇぇぇぇ!!!」 緩いカーブが続く上りの山道の途中で、心身ともに限界を訴える蛮の声が木々に木霊した。 彼らが乗っているのは、見慣れたスバルの運転席とサイドシートではなく。 マウンテンバイク一台。 汗だくになりながらペダルをこぐ蛮の後ろに立ち乗りをしている銀次は、そんな蛮の揺れる髪を見つめながらぼそっと呟く。 「・・・・・・・・・自業自得だよ、蛮ちゃん・・・・・・」 「うるせぇっ!!! 大体、普通逆だろうが、逆!! ぬわぁぁんで繊細でか弱い俺様がこんな事しなきゃなんねぇんだ!!」 「それは蛮ちゃんが駐車場代ケチったからです」 「ちげぇだろ!! そうじゃねぇだろボケカス!! てめぇがチャリに乗れねぇとかなんとかほざいたからだろーが!! 幼稚園生かっつーの、使えねぇなマジで!!!」 「・・・・・・・・・だって無限城に自転車なかったし・・・・・・」 「だぁぁぁぁぁっっ!!! 背後で陰湿なオーラ出してんじゃねぇよ、だったらせめてタレて少しでも体重を減らすとかなぁ!!!」 「だってタレたら足届かないしつかまるとこないし!!」 「じゃーいっそサドルに括り付けっか!? 紐で縛ってぶら下げてもいいけどよぉ!!」 「・・・泣くよ?」 「うぉぁぁぁぁぁぁ!!! クソッたれっっっ!!!」 怒りにまかせて蛮がペダルを踏み込む。 こんな状況にいたってしまったのは、ほんの些細な不運が集結してしまったが故であった。 それは、久々に高収入が期待できる依頼者の所持する、別荘という名の豪邸を尋ねなければならない日の朝のこと。 依頼の為に多少揃えなければならないものを見繕っていた二人が、十数分止めておいたスバルの元に戻ってみれば。 忽然と姿を消したスバルと、地面に書かれた見慣れた白いチョークの文字。 毎度毎度ご丁寧にも、彼らを始終監視でもしているかのような素早さでレッカーされてしまったスバルを引き取りにいった二人だったのだが。 いかんせん所持金が足りず、当てになるのはとりあえず波児か、とHONKY TONKに向った二人に悲劇が襲い掛かった。 「・・・・・・臨時・・・休業・・・?」 入り口に無造作に貼られた紙は、文字通り蛮を真っ白にさせ。 えーー!! 波児お店やめちゃうの? と、どう見ても『臨時』という漢字が読めなかったのだろう銀次の絶叫を呼んだ。 取りあえず、銀次に『臨時』の意味を教えるのは後回しにし、ヘブン、卑弥呼と手当たりしだい連絡を取ってはみたものの。 こういう時に限って、お約束のように全滅。 誰一人として連絡のつかない状況に加えて、刻々と迫り来る依頼者との約束の時間。 無駄に山奥に立てられた別荘に向うには、徒歩では無理がありすぎる。 ロードランナーでもあるまいし、走っていくのは更に無謀だ。 結局、駅前の自転車置場にあった、一番山道に適してそうなマウンテンバイクのチェーンを、2台引きちぎるという暴挙にでた蛮だったのだが。 『俺、自転車乗ったことないんだけど、どーやって乗るの?』 『・・・・・・・・・は?』 『うん、乗ったことない』 『・・・・・・・・・う、嘘だろぉぉぉぉぉぉ!!!!』 無邪気な銀次の問いかけは、蛮を地面に崩れ落ちさせた。 結果。 銀次を後ろに立ち乗りをさせて、健康な男二人分の重みを一手にうけながら山道を爆走するといった、現在の状況にいたるわけなのだが。 「あ、蛮ちゃん蛮ちゃん!! すごーい、海見えるよ海!!」 「海じゃねぇよ海じゃ!! サイクリングじゃねぇんだ、話しかけんな、無駄に体力消耗させんなアホ!!」 「だって、海見えるのスゴイじゃん!! てか、自転車ってそんなに疲れるの? なんかみんなすごいスイスイ乗ってるじゃない。もしかして蛮ちゃん持久力ない?」 「振り落とされてぇかっ!?」 「・・・・・・ゴメンなさい・・・」 これ以上何か言うことは、蛮の怒りを煽るだけだと悟り、銀次は大人しく流れる風に身を任せる事にした。 景色が過ぎ去るスピードは、初めて体験するもので。 徒歩よりは断然早く、スバルに乗っている時よりは格段に遅く。 目線も、突き抜ける風も何もかもが新しい。 振り向けば、遠くの方に広がっている水平線がどうしようもないほどに綺麗で、見とれる。 スバルの中で見るのと全く違って見えるのは、自然の匂いを肌で感じているからだと、銀次は思った。 ガラス越しではない、生の感覚。 日の光を受けて、キラキラと輝く青い波が、あまりにも眩しくて。 かすかに目を細めた瞬間。 視界がぐらりと揺れた。 「おわっ!!!」 「んあっ!?? え?」 「バッ!! てめぇちゃんとバランスっ・・・!!」 カーブに差し掛かっているのに、気が付かなかった銀次がバランス調整を怠った為に、その体重を支えきれなかった蛮がサドルをとられたのだと気付いたのは。 ほとんど斜めという状態で停められたマウンテンバイクから、とっさに飛び降りて何度か目をぱちぱちさせた後のことだった。 「な、何?」 「ただ乗ってるだけもできねぇのかてめぇはよ・・・」 もはや疲労困憊で起こる気力も消えうせた蛮が、サドルに上半身を預けながら呻く。 「あ、ごめん!! 俺、なんか海に見とれちゃって」 「あーもー死んだ。動けねぇ、もうこげねぇ」 「ごめんってばー・・・」 「うるせぇ」 「・・・ホントに、もう余所見しないから・・・って、蛮ちゃん? なんで自転車降りちゃうの?」 「ちっとブレイクオフ」 ブレイクオフの意味はおろか、その言葉自体を知らない銀次は首を傾げる。 「ブレーコフ?」 「何の意味だ何の」 「・・・ちょこっとブレーコフさん?」 「誰だブレーコフさん。てめぇの知り合いか!!」 「・・・・・・いたっけ?」 「いたらビックリだわな!!」 マウンテンバイクをズルズルと引きずって、道路沿いに根を張っている大木の側に放り、どっかりと腰を下ろす蛮。 汗ばんだシャツの胸ポケットから煙草を取り出して一本咥え火をつけようとするが、息が上がっている為に思うようにいかない。 それどころか、口の中もカラカラに渇いて、唾さえ飲み込めない状態だ。 「銀次」 道の真ん中で、少し落ち込んでいる様子の銀次を手招きすれば。 それだけでパッと顔を明るくして銀次が飛んできた。 「何?」 無邪気に覗き込んでくるその顎を捉えてにやりと笑うと。 食いつくように口付ける。 「ッ!! んっ・・・」 乾ききった舌を差し入れて。 湿った口内をかき回し、唾液を吸い上げた。 押しのけようと突っ張ってくる手首を片手で掴んで一まとめにし、腰を引き寄せて密着すれば、火照った身体に銀次の体温が気持ちいい。 暫くそうして、散々なぶってから唇を解放してやれば、上気した顔で銀次がぷぅっと頬を膨らませた。 「んな顔すんな、ただの水分補給だ」 「水あるじゃん水!! ペットボトル持ってきたじゃん一応!!」 「あー? へー? 知らねー」 「自分で買ったんじゃぁぁぁぁん!!」 「ギャーギャー騒ぐなこれぐれーで。それとも」 顔を銀次の真っ赤に染まった耳元に寄せ、感じたかよ、と囁いた瞬間。 最近どこか遠慮のなくなった銀次の、それでも威力は最小に抑えてある電撃を食らって、蛮は降参の姿勢をとった。 多少息切れが収まったのを感じ、再び煙草を咥えて火をつける。 「・・・約束の時間に遅れちゃわない?」 「バーカ、時間キッカリなんざ全く仕事がねぇみてぇで足元見られんだろーが。ちっとくらい遅れていく方が、それっぽいんだよ」 「あー、なるほどー!! 蛮ちゃんすごいねー、頭いいねー」 ほとんどやけくその発言に、こうまで真剣に感心されると、複雑な境地に陥るものの。 木の葉をざわめかせて吹き抜ける風の心地よさに、口を噤んだ。 無言で紫煙を燻らす蛮を、銀次は上目遣いでそっと見つめ。 おずおずと、尋ねる。 「あのさ、あのさ。蛮ちゃんが休んでる間だけでいいから、自転車乗ってみてもいい?」 「好きにしろ。但し、壊したらぶっ飛ばす」 「大丈夫だもーん」 満面の笑みを浮かべて、マウンテンバイクを起こすと道の中央に移動させる銀次。 その顔を察するに、おそらく乗ってみたくて乗ってみたくて仕方がなかったのだろう。 ガキ。 そう胸の内で呟いて、蛮は唇の端を持ち上げる。 この歳で初めてチャリに乗りますなんざ、無知すぎて・・・。 そこまで考えて、蛮はほんの少し顔を曇らせた。 このご時世で。 こんな歳まで、チャリに乗ったことがないなんて。 異常。 それは、仕方がないとか、そんなレベルの問題ではなく。 『普通』のことを『普通』として得られなかった身の上を。 そんなものを背負わされた生い立ちを。 恨んだところで、誰がそれを責められようか。 正午を少し過ぎた時間帯であるため、太陽はジリジリと銀次とマウンテンバイクを照らし続け。 鋭い日光が、無機質な車体を時折キラリと光らせる。 同時に、風が吹くたびに、金色の髪がふわりと空に溶け。 その姿が、なんの汚れも知らない子供とだぶり、蛮の胸にチクチクと痛みを呼び起こした。 泣き叫んだことも。 もう一人の自分を作り出さなければ、生を維持することさえできなかったことも。 受け入れて、前を向く強さ。 再び、先程よりも強く吹き抜けた風が蛮の前髪を揺らして。 蛮は、胸の内に湧き上がったどうしようもない感情に、ただ苦笑した。 こんな風に胸が痛むのは。 生きているから。 ただ、銀次が生きているから。 単純で、バカバカしいほどに。 それだけの理由。 「う、うわっっっ!!」 ふいに放たれた銀次の悲鳴が、蛮を我に返らせた。 どうせ転びでもしたんだろうと思い、目をやると。 「・・・・・・・・・は?」 咥えたままの煙草から、長くなった灰がポロリと落ちる。 「うわー、うわー、乗れちゃった!! うわー、楽しー!!!」 多少よろよろしてはいるが、しっかりとペダルをこいでいる銀次。 初めて自転車に触りましたという人物が、事もあろうに坂道で僅か数分のうちに乗りこなしてしまったその光景に。 もしかして、駐輪所でちっと教えりゃ、こいつ乗りこなせたんじゃねーのか・・・? そもそも、頭の回転は鈍いが運動能力には人一倍長けている銀次である。 疑いもようもなく湧き上がった考えに、蛮は今までの苦労を思い起こし。 次の瞬間、本日何度目かの絶叫があたりの木々を震わせた。 「間に合ったかもしれねぇじゃねぇかぁぁぁぁぁぁ!!!!」 両手をわなわなとさせて叫ぶ蛮に、銀次は数秒考え込み。 「す、少し遅れた方がそれっぽいとか、それって蛮ちゃんが休みたかっただけなの? だけなの? もしかして!!!」 「あったりめぇじゃねぇか!! 信用第一の仕事で時間厳守は当然の義務だろーが!!」 「何それ何それ!!」 「あーもームカツク!! てめぇは後から走ってこい!! って、つーか最初からそーすりゃよかったんじゃねぇかチクショー!!」 「じゃあ、この後は蛮ちゃんが後ろ乗ればいいじゃん、うん、そうしよう」 「ヨロヨロしながら乗ってる超初心者の後ろに、平気な顔して乗れるような鉄の心臓は持ち合わせてねぇんだよ、俺はよ」 「だーじょーぶだってばぁ」 「その絶対的な自信はどっからくんだどっから!! チャリかせ!! こうなったら俺だけでもたどり着く」 「え? ちょっ・・・俺は?」 「走れ」 有無を言わさず銀次の手からマウンテンバイクを取り上げた蛮は、振り返りもせずに一人山道を登り始め。 完全に置いてきぼりをくらった銀次が、蛮ちゃんのぶわぁかぁぁぁぁぁっっ!!! と叫び声をあげるのを、背中で聞いた。 ちらりと背後を見やれば、半べそをかきながらも、懸命に追ってくる姿が目に飛び込んでくる。 それを見ながら、蛮は知らん顔を決め込み。 再び前を向いてマウンテンバイクを疾走させながら、ふいにこみ上げてくる笑いを隠し切れずに肩を震わせた。 この胸の痛みも。 こんな風に笑いがこみ上げてくるのも。 この存在なしでは有り得なくて。 こんな日は、単純に思う。 今ここにいる理由は。 君が生きているから。 << END >>
|