□■地上の星座□■
真綿のような白いおくるみに包まれた赤ん坊を抱いて、女の人が遠ざかっていく。
お母さん、お母さん! 行かないで!
僕をおいていかないで!
お母さん、お願い、ふりむいて!
僕をおいてどこに行くの!?
お母さんーー!!
夢の中の自分の声に、はっとして目がさめる。
お台場に引っ越してきて、もう5日。
毎夜毎夜、同じ夢を見る。
夢中で呼んで、泣き叫んで、追いかけて転んでも、母さんは振り返らない。
その母の腕の中で、まだ赤ん坊の弟は、何もしらずにスヤスヤと眠っていた・・・。
「じゃあ、今日は早く帰ってくるからな」
新しい学校までヤマトを送り届けて挨拶をして、父は仕事に向かった。
5日も休んで仕事の方、大丈夫かなと思いつつ、担任の教師に連れられて、新しい学校の新しいクラスの教室へと向かう。
まだ建てられて間のないその校舎の廊下は、なんだか妙に寒々しい感じがした。
何がどうということもなく、新しい学校の一日は終わり、帰りたくもない家へと足が向かうはずもなく、ぶらりと近くの公園に立ち寄る。
きっと父が帰ったら、真っ先に聞かれるだろう。
新しい学校の感想を、どう言おうかと考える。
「うん。普通だよ」
それ以外、別に何もない。
・・ああ、ゴーグルした変なやつがいたっけ・・。
でも、どうせきっと、友達にはならないだろうから関係ない。
広い公園のベンチに腰掛けて、ぼんやりと、目の前の砂場を見つめた。
・・小さい手で、いっしょうけんめい、山つくって、
トンネル掘ってたな・・。
スコップ使えよって言ってもきかなくて、
爪の中まで真っ黒にして。がむしゃらに堀り続けてた。
“できたよ! おにいちゃん!”
頭の中に響く声に、思わずはっとなって周囲を見渡した。
・・わかってる。そうだ。あの子はもういないんだ・・。
どんなに呼んでも帰ってこない。
母さんに手を引かれて行ってしまった。
・・振り返って、オレを見てたあの子。
振り返らなかった母さん・・。
にゃあ!と足元で声がして、ベンチの下を覗くと子猫がいた。あれ?と見ると、少し離れたところにダンボール箱がある。
首輪のあとのある子猫。
無邪気な瞳でヤマトを見上げ、足元に擦り寄って、みゃあと鳴いた。
抱き上げようとして、さっきの箱をちらりと見る。
「かわいそうに・・・。おまえ、捨てられたんだね・・」
そう声をかけた瞬間、ぐっと胸がつまって、掻き毟られるような痛みが走った。
捨てられたんだね・・・捨てられたんだ・・・。
猫を抱き上げようとした手をひっこめて、足元に甘えるその小さな身体を振りきるように走り出す。
公園を出た所で、前からきた老婆にどん!とぶつかった。
「あ、ごめんなさ・・・」
「ああ?」
思わず見上げたヤマトの瞳に、老婆の目が言う。
“かわいそうに、あんた、捨てられたんだね”
母さんに――
ちがう、ちがう、ちがう、ちがう―――!!!
階段を駆け上がって、マンションの2階の自分の部屋のドアに乱暴に鍵を突っ込んで扉を開く。
中に入って後手にドアをバン!と閉じると、まだダンボール箱がいくつもそのままになっているリビングが目に入った。
「ただいま・・・」
“おかえり、ヤマト”
“おかえりなさーい! おにいちゃあん!”
飛びついてくる子をよいしょと抱き上げ、靴を脱いで部屋に入り“いいこにしてたか”とやわらかい髪を撫でてやる。
“うん!”
・・・・そうだよ、母さん。
オレだって、いつもいい子にしてたよ。
ずっといい子だったよね?
弟の面倒もよく見ていい子だねって、いつもみんなほめてくれたよね?
いつも、いつだって、あの子が泣いたりしないようにあやして、
あの子が欲しいというものは、何だってゆずってあげた。
“ありがとう。いい子ね、ヤマト”
いい子だって言ったじゃない!
そう言ってくれてたじゃない!
お母さんだって! ねえ、そうでしょう?
なのに、どうして? どうして、ねえ、どうして?
どうして、オレを置いていくの?
どうして、オレじゃなかったの?!
どうして、オレじゃなく、あの子を選んだの?
どうして、どうして、
どうして、オレのこと、
捨てていったりしたんだよ――!!
5日間、父とともにいたから、ずっと泣きたくても我慢していた涙が、もう止まらなくて、あとからあとから湧き出るようにヤマトの瞳から溢れてこぼれた。
頬を伝う涙を拭うこともせず、泣いても泣いても逃れられない痛みに、体中が震えて痛んで、苦しくてたまらない。
胸の奥は切り刻まれていくばかりで、もう息をするのも苦しいだけだ。
・・このまま、いっそ死んでしまえと思った。
うつぶせて泣き崩れるヤマトのズボンのポケットから、何かが落ちて、コロコロとその前に転がり出し、目の前でとまった。
大きな、深い蒼のビー玉。
涙を流しながら、はっとなってそれを見る。
公園の砂場で見つけて、あの子は、それはそれは大切にしていた。毎日洗って、磨いて、僕のたからものだよと言っていた。
別れる前の日、何も知らないあの子に、それをくれないかと言ってみた。
あんなに大事にしてるんだから、どうせくれるはずなんかない。
そう思っていたけれど、それならそれで、毟り取って泣かしてやったらいい。
おまえはどうせ、オレから母さんを奪っていくのだから。
なんでもおまえに譲ってきたオレに、それくらいされてもいいだろう・・?
そうしたら、あの子は笑って、それを小さな両手にのせて差し出した。
"はい!”
驚くオレに、嬉しそうに言った。
“おにいちゃんに、あげる!”
たからもの、だろ?と震える声で言うオレに、何のためらいもなく、惜しげもなく、一番のたからものを差し出すおまえ。
“だって、おにいちゃんが大好きだもん!”
何一つ、オレを疑うことをしないおまえが、憎くて、いじらしくて、腹立たしくて、いとおしくて・・・。
小さな手を握り締めて、唇を噛み締めて"ごめん”と言って泣いた。
ガラス玉をぎゅっと手のひらの中に握り締める。
あの子の手のあたたかさと、やわらかさを思い出した。
その途端、痛みはかなりやわらいで、苦しい息もましになった。
ヤマトは夕陽の差し込む部屋の中で、いつまでも、ぼんやりとそのガラス玉を見つめていた。
父はその日、約束通り、早い時間に帰宅した。
今まで一度もそんな時間に帰ってきた記憶がないから、ヤマトは少し心配になった。
一人で置いてる息子のことが気になって、仕事どころではなかったと言う。
「大丈夫なのに」
と笑っていうと、父は神妙な顔をして“俺たちはこれからウンメイキョウドウタイなんだから、遠慮や無理はしなくていい。なんでも父さんに話してくれよ。オレもおまえを一人のオトコとして見るし、何でも話すから”と言った。
何でも、というそれはウソだよと思いつつも、頭を撫でてくれる大きな手が嬉しくて、つい“うん”と言ってしまった。
“2人でうまくやってこうな?”と笑う父に、頷いて微笑んだ。
父のことは大好きだったから、助け合ってうまくやっていける、そのことはしっかり信じられたのだ。
夕食の片付けをしている父をおいてベランダに出ると、ヤマトは少し雲のかかった夜空を見上げた。
星が少ししか見えない空を、今頃あの子も見ているだろうか?
空よりも、むしろ地上の光の方が強くて勝ってる、そんな空だけど。いや、星は空よりも、もしかしたら地上の方に多くあるのかもしれない。
小さな星のような、あの子の微笑みが、ヤマトの胸の中で小さく瞬く。
見えているか・・?
オレのことも。
それとも、母さんの腕に抱かれて、そろそろ眠りにつく頃だろうか。
母さんに選ばれたあの子。
選ばれなかったオレ。
どうしてオレじゃなかったのかと、考えなくなる日はいつか来るだろうか・・?
許しておくれよ。
おまえが今は、憎くて憎くてたまらないんだ・・。
ねたましいよ、恨んでいるよ。
どうして母さんじゃなく、おまえを恨むのか、オレにもわからないけれど。
そんな想いばかりで、悔しくて、苦しい。
おまえなんか、いっそいなくなってしまえばいい。
そうしたら、母さんはオレを選ぶしかなくなるのに。
だけど、
だけど、
こんなに憎くらしくて、
こんなに憎んでいるのに、
おまえのことが嫌いになれないんだ・・。
おまえのこと、嫌いになんか、なれないよ。
好きだよ。
大好きだよ、大好きだよ、大好きだよ。
おまえのことが、大好きでたまらないよ・・!
――――タケル・・・・!
いつか、 この想いは、 おまえの心を、 殺すだろうか?
おまえの心を、 壊す だろうか?
カミサマ、どうか、強い心を、オレにください。
オレから、あの子を守れるくらい、強い想いを、オレに。
「ヤマトー! 風邪ひくぞー」
部屋の中から父の呼ぶ声がする。
それにゆっくりと振り返る、ヤマトの顔はどこか大人びて見えた。
手の中のガラス玉が、不思議な色にきらりと光る。
ベランダから部屋に戻り、キッチンで片付けをする父の背中に、何かを決意した声が言った。
「オレ、今日から父さんのこと、親父って呼ぶよ―」
END
以前からずっと書いてみたかった、父に引き取られたヤマトサイドからのお話です。
まだ小2くらいだったはずだから、きっと母を恋しく思うことはいくらでもあったと思うし、けど母を恨む事はどうしてもできなくて、心のどこかでタケルを憎んでいた部分があったんじゃ?とか思ってました。(そして例の『お台場メモリアル』の発言につながる・・と)それに勝るほどの愛情はあるけれど、好きだからこそ傷つけたい。幼い頃のトラウマから。
ナツコさんは、もちろん、ヤマトを父の手に託さねばならない自分の経済状況とかの事情を嘆いて苦しんだだろうし、振り返ることができなかった気持ちはすごくよくわかるけど、
それは子供にはどうしたって理解できないことだから。
負目を感じる母とヤマトの心の隙間ってのはきっと一生埋まらないだろうな・・。
というわけで、ちょっと痛いお話でしたが、書いてる方は楽しみました。
「憎みながらも愛してる」というのは、なかなか萌え、であります。(風太)