虫の音色を聞きながら、膝を抱える腕をぎゅっと握り締めた。
聞こえるのは虫の音色と、流れる水のせせらぎ、そして側の人の鼓動だけ。
小さく息を吐き出せば、それさえも辺りに響きまわるように感じられた。
見上げれば青白い宇宙に幾つもの星が瞬いている。
「静かだね」
「ああ……」
返ってくる声は深く、低く、心に響く。
この場所にたった二人で取り残されたようで、都会の喧騒と掛け離れたこの場所が、まるで異次元のようでもあった。
きっと宇宙の中心は、こんなところにあるんだ。
タケルは空を見上げて、もう一度静かに息を吐き出した。
「寒いか?」
ヤマトの問いかけに、タケルは思わず笑いかける。
「寒いって時期には、早いんじゃない?」
「そうか?でも、浴衣だしな」
「ん、大丈夫」
笑いを含んだタケルの声はどこか暖かかった。
夏休みには毎年のように島根に遊びに来ている2人だったが、今年は夏の初めに学校行事の予定が入ってしまい8月の中ほどまでなかなか休みの予定が合わなかった。それでも何とかして行こうと決めた2人は、宿題も学校の支度も終らせて、8月の末の強行軍で遊びに来ていた。
今日はもう8月の30日。そして明日、東京へと帰る。
本来ならこんな時期までのんびりと島根に滞在できないはずだが、9月1日が日曜日のために予定を延ばし伸ばしにして、いまだにここにいる。帰宅予定から2日ほど過ぎているが、信頼されているのか、それとも放任主義なのか、きちんと学校へ行けるのならかまわないと、両親の許しもあっさりとしたものだった。
明日のこの時間には、いつものように自分の家で、いつものように霞んだ空を眺めているのか。
最後の一日をそのまま布団に入って過ごすのは寂しくなって、祖父母が寝静まった今、川のほとりにいた。
岸辺に揃って、2人で座り込んでいる。
空にも星、川面にも星。
夏の名残を残した空気には、競うように鳴く虫の声が満ちている。
「もう、秋だね」
タケルの言葉に、ヤマトはふっと笑った。
「秋には早いな…まだ、夏の名残が残ってる」
「夏の名残か…」
夏の気配が側にあり、やがてやってくる秋の気配は少し遠くにいる。欠けた月が山の端に落ち、ただ星だけが明るかった。
「すごい星だね…」
「ああ」
既に帰宅の荷物は家に送ってしまい、後は家に帰るだけ。
祖母が作ってくれたと言う浴衣を、2人は大事に着ていた。
寝巻き代わりにというから、喜んだタケルがだったらもらってもいい?と聞けば、祖母は本当に嬉しそうに破顔した。いまどきの子供は、こんなものは要らないと言うのではないかと、心配していたらしい。そんなことないよと言えば、こんないい子は他にいないと喜ぶから、かえってはがゆい。これくらいでそこまで喜んでくれる祖父母のほうが、よほど人がいいと2人で顔を見合わせて苦笑した。
大切に大切に作られたそれは、すべて手縫いのものだった。
柔らかく、暖かい、木綿の浴衣。
タケルはそれにそっと頬を摺り寄せて、もう一度息を吐き出す。
ゆっくりと、溜息にならないように、そっと吐き出す。
「どうした?」
それでも気づいてしまうヤマトの問いかけに、いつものように笑ってみせる。
「こんな景色が、あるんだね?」
都会では決して見られない、空に近い場所。
「綺麗だな」
「綺麗だね」
川に映る星は、ひょっとしたら川底から光を放つ、鉱石なのかもしれない。風に揺れる木立に宿る光は、ひょっとしたら気に実った玉石なのかもしれない。
聞こえる虫の音は、大地の奏でる音楽で、川のせせらぎも、本当は巧みに弦を操って、誰かが奏でている曲なのかもしれない。
こんな景色があるなんて、誰も教えてはくれなかった。
ビルの谷間に生きる名もない草花も、とても美しいけれど、星の光に照らされたこの景色は、何にも変え難く感じる。
もう一度、もう一度だけと、タケルはそっと息を吐き出す。
「帰りたくないか?」
どうして分かったんだろう。
タケルは驚いて顔を上げた。
帰りたくない。帰ればいつもの日常が待っている。
「お兄ちゃん?」
「帰りたくないんだろう?俺も同じだよ」
同じだと言う言葉が、残酷に響く。
きっと同じじゃない。想いは同じじゃない。
それでもタケルは、にっこりと笑った。
「同じだね」
今度は僅かにヤマトの表情が歪んだ。しかし星明りに騙されて、タケルは気づかない。
2人とも、同じ思いを抱いているのに。
「でもきっと、ずっとは居られない」
「居られないか?」
「居られない」
きっぱりと告げるタケルの声は、大人じみて聞こえた。いつの間にか成長して、その精神は何者が阻んでも変わりなく育つ。
ヤマトは小さく笑った。自嘲に似たその表情は、どうやっても伝わらない。
伝わらないけれど、タケルの胸はツキンと痛んだ。
きっと永遠なんてないと、自分に言い聞かせているから。この世界が、永遠に続くなんてことはないと、知ってしまったから。
「でも俺は、忘れないぜ?」
「忘れないって?」
「星が綺麗だったこと、川のせせらぎが聞こえたこと、風が穏やかだったこと、夏がゆっくりと去っていくこと、そしてタケルが側に居ること。
きっと、ずっと忘れない」
「……忘れない…?」
忘れなければ。
この時この一瞬を、ずっと忘れなければ、死んでしまっても、この体が朽ちてしまっても、この星が終ってしまっても、それでも忘れなければ、その時は永遠と言えるのかもしれない。
タケルは立ち上がると、ゆっくりと川面に向かって歩き出した。
側の雑草をくすぐるように、川はゆっくりと流れていく。
不意に手の甲にポツリと水が滴った。
俯くタケルは、この晴天に雨でも降ってきたのかと、ぼんやりと考える。
季節はずれの雨、でもなんだかおかしい。視界までぼやけている。
「タケル…?」
呼ぶ声に振り向くことはできなかった。抑えきれない嗚咽が、噛みしめた唇の合間から漏れる。
永遠なんて信じていないのに。
ずっと一緒に居られないって分かっているのに。
ただの兄弟として、愛するしかないと分かっているのに。
一瞬でも永遠を信じさせてしまう相手を、苦しくなるほど想ってしまっているから。
噛みしめた唇から漏れる嗚咽をもてあまして、ぎゅっと握りしめた拳が白くなっている。
「タケル…」
泣くなと告げられないヤマトは、後ろからその体を抱きしめた。
大切に、大切にそっと。
いつか愛する人が現れて、その涙を拭ってくれるその時まででいいから、この存在を抱きしめていたいと、思いを告げる腕をもてあましながら、それでもそっと抱きしめた。
その小さな頭を右の腕で抱え込み、左の腕でその体を支える。
まだ、幼いその体。
きっと、恋も愛も、まだ知らない心。
幼い幼い、俺の弟。
永遠なんてないけれど、きっとこの瞬間だけは忘れない。
あなたを愛したことだけは忘れない。
その夏の名残にだけは、きっと永遠が見えるから。
Fine
Matuyuki Sou
夏の名残の永遠
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