□■ ロンリーバタフライ 2 □■



帰宅した時には、もう8時前だった。
母の帰宅予定時間より少し早かったけど、前の道から、マンションの自室に明かりがついていることを確認すると、タケルはほっとしたように溜息をついた。
明かりのついていない部屋に帰るなんてことは、そうめずらしくもないことなのだが、今はともかく、一人の空間や時間がこわかったから、母の帰宅はありがたかった。
「あ、おかえり。遅かったね? ごはんは?」
「大輔くんと食べた」
「あら、そうなの」
予定時間より、めずらしくかなり早くに帰宅できたらしい母は、今日に限って帰ってから料理の腕をふるってくれたらしい。
残念そうな顔に、ちょっと良心が痛む。
「明日、食べるよ。冷蔵庫入れといて」
ごめん、と言い残して、自分の部屋に入る。
母は、いいのよ、こっちこそ、早く帰れるって連絡すればよかったねーと、肩をすくめて微笑んだ。
鞄をベッドの上に投げ捨てるようにすると、財布を出した時にしっかり閉められていなかったのか、口が開いて中の教科書やらが溢れ出す。
その中に紛れるようにしている携帯電話に、タケルが重い溜息をついた。
電源は切られたまま。
母からもし連絡が入っていたとしても、確認のしようがなかったろう。
(兄さんに・・・電話・・・)
ベッドに腰掛け、それを手に取る。
電話が出来ない理由なんてない。
喧嘩なんか、もちろんしていない。
気まずいことも、何1つない。
兄の方はたぶん、かかってくるはずの弟の電話をきっと首を長くして待っていてくれるだろう。
部活忙しいから、こっちから連絡入れるね。
そう言ったから。
兄さんも忙しいだろうから、こっちから連絡するからと。
だから、待ってて。
・・・・待っててなんて、言うんじゃなかった。
8/1計画のことはとりあえず、あの大輔の態度からすると、本当に彼からは電話してくれることなんてないだろう。
別にいいじゃないか。
電話ぐらいしてくれたって。
べたべたしてる兄弟なんて気持ち悪いーって、前に言ってたじゃない。
こんなくらいが、さばさばしてていいんでしょう?
本当は兄弟で電話なんて、わざわざし合うものでもないんだし。
キミがしてくれりゃ、いいじゃない。
僕は・・。
だって・・・・・。
僕は。
今は、あの人の声なんか聞きたくないんだ。
ふいに顔を上げて、窓ガラスに映っている自分の顔にはっとする。
醜い顔をしている。
なんて、ひどい顔だ。
そう思うなり、携帯を持つ手の親指が素早く、ナンバーをたどる。
半ばヤケとも言えなくない、ためらって止まってしまわないような早い動きで。
メモリになんか入れておかない、短縮するのも嫌なくらい大好きなヒトの携帯番号を、祈るような気持ちで指がたどった。
数度コールされた後、けれどもタケルの祈りは空しく打ち砕かれた。
「はい? もしもし?」
まだ幼い男の子の声が、それに答える。
そのはずむような声に、タケルは微かに憎しみを覚え、同時に泣きたくなった。
それを隠して、おだやかな、やさしい声でそれに答える。
「あ、もしもし? タケル、だけど」
「あー、タケルさん! こんにちわー、じゃないや、こんばんわー」
「うん、こんばんわ。元気にしてるかい?」
「うん! もうすっかり! あ、今、ゴハンつくってるとこで、手が離せないからオレが出たの。ちょっと待ってて」
言って、タケルの返事も待たずにぱたぱたと駆けていく足音がする。
兄を呼ぶ声が、電話のこちらがわまで聞こえた。
「おにいちゃーん!」
一瞬、頭の中で何かが砕けたような衝撃が走った。
頭と心の中で同時に、星が砕け散った、ような。
「・・・・・!」
「まだ熱いから、さわんなよー。・・あ、タケル!」
「・・・・・っ」
「タケル?」
兄のやさしい声が耳元で聞こえる。
なのに、声が出ない。
「タケル? おい?」
いぶかしむように問いかけるあたたかい声に、唐突に涙が溢れた。
・・・だから、言ったじゃないか・・! 大輔くん! 
してよって!
電話くらいしてよって!!
「あ・・・・あの・・・」
「おう、どうした?」
微笑んでくれているのがわかる。
いつも、そうしてくれるように、目を伏せるようにして、やさしく。
「8月1日、今年も集まるって。大輔くんが今年は連絡係だから、兄さんに僕から連絡しておいてって言われたから」
泣きながらでも、普通に話すことができる自分の器用さに、心の中で感謝する。
変なとこに器用なんだ、僕は。
兄が笑う。
「ああ、そうか。もう1ケ月ちょっとだもんな」
「来られそう?」
「もちろん予定には入れてるんだけどな。ってことは、アイツ、誰かに頼まねーとな・・」
兄にアイツ、と呼ばれているその子がうらやましくて、返事に詰まる。
「うん・・」
「デジタルワールドの事なんか知らねえから、つれてくわけにもいかねえし。ちょっとオヤジにでも相談してみる。みんな久し振りだしな。会いてーし。あ、おまえは来れるんだろ?」
「え? あ、うん」
「だったら、なおさらな」
その一言に愛情を感じて、タケルが受話器を持ったまま甘えるように首を傾けた。
甘えられないのがわかっているのから、甘やかされると尚つらいのに。
「・・・な」
「なに?」
「週末、こっち来いよ」
「ん・・でも」
「遠慮してるなんて、変だぜ?」
「・・遠慮なんか、してないよ。変なこと言ってるのは兄さんの方だよ」
「なら」
「あ! でも日曜は大輔くんと約束しちゃったから! 今日、一緒にラ―メン食べに行ってさ」
「大輔と?」
「うん。めずらしいでしょ? それで・・・」
タケルが話し出そうとした途端、なんだか派手な音が電話の向こうで聞こえた。
おにいちゃあんと呼ぶ声と、兄がその音に、咄嗟に電話を置いて駆け寄っていくのがわかった。
馬鹿!火傷しなかったか!?と慌てる声がする。
ヤマトの手伝いでもしようとして、フライパンか鍋でも落としたのだろう。
昔、いや最近でもそうだったか?
意外にそそっかしいとこがあるタケルは、よくそんな同じようなドジを踏んで、兄に心配されていたから。
きっと兄は火傷した手を水で冷やして、ばっかだなあとか言いながら、薬を塗ってやるのだろう。
・・・・・苦しい。
兄に手当てをされている、まだ幼いあの子をうらやんでしまう醜い自分が嫌だ。
タケルは静かに目を伏せると唇を噛み締めて、これ以上自分の醜いところに気づきたくないと、まだすったもんだが続いている電話の向こう側の空間を遮断するかのように、ピッと電話を切った。
同時に、手の中から携帯が滑り落ち、ベッドの上を弾んで床に落ちた。
それを見るなり、また泣きたくなる。
無造作に床にたたきつけられた携帯は、まるで自分の心のようだ。
・・何、やってるんだろう。僕は。
ここんとこ、もう、ずっとこんなだ。
出口のない迷路にいるように、同じところを気持ちがグルグルと回っている。
そんな自分をふっきるように、勢いをつけてベッドから立ち上がると、タケルは着替えを出して部屋を出た。
一人、食事をとっている母に少しどきっとして、それを見ないようにしてリビングを横切り、バスルームの扉を開こうとしたところで母が言った。
「ねえ? ヤマトに連絡してる?」
「え?」
何度か家の方に電話がかかってきてるわよと言われ、タケルは苦笑した。
そうか、携帯の電源切ったままだったから、こっちの方にかけてくれてたのか。
・・・ってことは、携帯の電源切ってること、バレバレだ・・。
心で思い溜息をつきつつも、努めて明るく答える。
「今、電話してたとこ。なんだかごはんの支度してたみたいだけど、途中でフライパンひっくり返したみたいで」
「ええ?大丈夫なの?! あ。じゃあ、夕食残ってるの持って行ってあげたら?」
母の一言に、タケルの表情が強張る。
「え・・・っ」
「だってほら、タケルの分とっておいてもまだたくさん作りすぎちゃってて・・。持って行ってあげなさいよ。あの子の世話もあるし、ヤマト大変なんでしょ」
「あ、でも、僕、お風呂入るとこだし」
「すぐそこじゃないの。ちょっと行ってあげるくらい時間あるでしょ」
「うん。でも」
「ねえ、行ってあげて」
「いいよ」
「いいよって」
「そんなの、いいよ」
「タケル?」
「いいよ、そんなの! だいたい今更、こういう状況で急に母親ヅラされても、兄さんも困るだろうし・・!」
吐き捨てるように言いかけて、思わずハッと我に返って口を押さえた。
母は、一瞬こわばった表情をしたが、「そっか・・」と複雑に微笑んで、ふっとタケルから視線を反らせた。
それを見るのが堪えられなくて、タケルはバスルームの扉を開けると乱暴に服を脱ぎ捨て、中にはいるなり勢いよく水のままシャワーのコックを捻った。
ざあああ・・・という音ともに、喉の奥から苦しげな声が漏れる。
くそ・・・・!
畜生・・!
だから言ったじゃないか!
だから・・!
キミのせいだ。キミが悪いんだ。
本宮大輔! 
キミのせいだよ・・・・!
心の中で叫んで、ドン!と拳でバスルームの壁を叩く。
「ちがう・・・っ」
自分の問題だとわかってる。
でも、どうしようもない、どうすることもできない。
苦しい。
苦しいよ。
こんなに、苦しい思いをしなきゃならないなんて、想像もしていなかった自分が憎らしい。
2週間前、島根に行っていた父と兄が、あの子を連れ返った時も、いい子ぶって「僕もキミのおにいちゃんになるから」とやさしく、1年生にしては小柄なその肩に手を置いた。
力になるよと、そうも言った。
それが、このザマだ。
偽善もいいとこだ。
それでも、まさか、そんな小さな子に自分がこれほど嫉妬するなんて、思いもしなかったのだ。
そうだ、嫉妬してる。
兄を「おにいちゃん」と呼んで慕うあの子。
自分が小さかった頃のように手をつないでもらって、だっこされて、頭を撫でられ、甘やかされて。
兄が、自分じゃない誰かにそうすることが、こんなにつらいなんて、想像もしなかった。
兄はいつだって、自分だけの兄だと思っていたから。


小さい頃から、兄のことが大好きだった。
誰よりも多分、好きだった。
それは今でも少しも変わらない。
自分だけの兄でいてほしいと、心のどこかで思ってきた。
それでも、いつか自分より大切なヒトが兄にできて、それがコイビトだったりしても、それはそれでもいいんだと、堪えられると思っていた。そういう人が兄に出来たとしても、自分は兄にとって大切な弟であることに変わりはないと信じられたから。
だのに・・・。
だのに、足元からそれが崩れて行く。
心の平静が保てない。
微笑みを持続できない。
醜い本性がどんどんさらけ出されて行く。
やさしくておだやかだと言われていた、仮面が剥がれ落ちて行くように。

一番好きなヒトになれなくったってよかった。
弟でいられたら、それでよかった。
けど、それさえもなくなったら、僕は、もう、自分で自分がわからない。
どこへいけばいいのか、何を見ればいいのか、誰と話せばいいのかさえ。
そんなにも、自分のすべてだとは知らなかったんだ。

知らなかったんだよ・・・。
お兄ちゃん・・・!


息ができない。
あまりのカナシサに息がつまって、うまく呼吸ができない。
はぁ・・・・はぁ・・・・はぁ・・・っ・・・
プールの底に溺れていくように息が出来なくて、タケルは苦しさに咽喉を掻き毟るように喘ぎながら、瞳を見開いて必死に呼吸をしようと努めた。
水を浴びた身体は、死人のように冷たかった。



つづく・・。


オリキャラを使うのには抵抗があったのですが、まあ該当するキャラもいないし、いたしかたないかなあと。
なんだか暗くなってまいりましたね・・。はたして読み続けてくれるヒトはいるのでしょうか?
すさんでいくタケルを見たくないという方は、お読みにならない方がいいかも・・です。うう。
でもまあ、ハッピーエンドはまちがいないので(しょせん、ハッピーエンド至上主義私の書くモノですから・・)ご安心ください。またぼちぼち続き書いていきますねー。(風太)


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